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帰り火の洞窟 ~役立たずと追放された少女、拾った洞窟を仲間たちの帰る場所にします~  作者: Rastarock
帰り火の洞窟

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16/85

炉守りは食卓を広げます

 ベラがキュウ用の肉を受け取ったのは、荷ほどきが一段落し、夕食の支度を始めるころだった。


 レオンが買ってきた包みを石台へ置くと、ベラは自分の包丁を抜き、まず脂の多いところと筋の固いところを見分けた。赤褐色の髪を後ろで束ね直し、古い火傷跡の残る腕をまくる。その手つきは早いのに、刃先は肉の筋へ沿って迷わず進んだ。


 足元ではキュウが白い腹を床すれすれまで落とし、黄土色の鼻先を石台へ向けている。


「近いよ。切り終わる前に鼻を出したら、あんたの分が小さくなるからね」


「きゅう」


「返事ができるなら、一歩下がりな」


 キュウはベラを見上げた。左角の欠けた頭を少し傾け、それから本当に一歩だけ下がった。


 ミラは思わず目を丸くした。


「キュウ、初めて会った人の言うことも聞くんですね。私が肉を持っているときは、もう少し近くまで来ます」


「それはあんたなら押せば何とかなると思われてるんじゃないかい?」


「そうなんでしょうか」


「たぶんね。あたしは最初が肝心だから、食べ物の前では譲らないよ」


 ベラは味付けする分とキュウへ渡す分を分けた。キュウ用には塩も香辛料も付けず、厚めに切って別の皿へ寄せる。


「さて。こいつはこれでいいとして、人間の方は何を使って、どこで作ってたんだい?」


 ミラは帰り火の脇へベラを案内した。


 これまで食事を作るときは、炉の端へ鍋を掛け、石台へ食材と器を並べていた。水は水路から汲めるし、煙も洞窟の奥へ籠もるほどではない。ただし、料理をするために作られた場所ではないので、鍋を二つ使えば置き場が足りず、切ったものと洗ったものが同じ石台の上で渋滞する。


 ベラは火から水路までを歩き、鍋の置き場所を確かめると、腰へ手を当てた。


「思ってたより悪くない。でも、料理場じゃなくて、火のそばで何とか料理してる場所だね。石なのは助かるし、水も近い。あとは鍋を逃がす場所が欲しい」


「逃がす?」


「火から外した鍋を置く場所さ。あたしは弱い火を長く保つのが得意じゃないから、火に乗せっぱなしにするより、強く入れて外す方が失敗しにくい」


 レオンは壁際にあった鍋を一つ取り、底を確かめた。短い黒髪の下、右眉の古傷がわずかに寄る。


「この鍋は普通の鉄だ。前の宿より強く入れるなら、先に鍋の方が負ける。最初は様子を見ながらやってくれ」


「分かってるよ。だから最初は試す。いきなり白くなるまで焼いたりしない」


「頼むから、初日からそこまではやるなよ」


「料理に必要ならやるさ」


 ベラは平然と答え、ミラから火箸を借りた。


 その日の夕食は、豪華なものにはしなかった。レオンが買ってきた豆を水へ浸し、燻製肉を薄く切って、塩気を見ながら一緒に煮る。粉は水と塩だけで練り、平たく伸ばして熱した石へ置いた。


 問題が起きたのは、豆の鍋へ火を入れてしばらくしてからだった。


 ベラの掌から出た炎は、帰り火の橙色より白く、芯のあたりだけ青みがあった。炎そのものは小さいのに、鍋底へ触れた瞬間、鉄が低く鳴る。


 ベラは火を細めようとしたが、消える寸前まで落とした炎がまた少し強くなる。舌打ちして鍋をずらした、そのときだった。


「ベラ。その鍋、もう一度外した方がいいよ。さっきまでと音が違う」


 壁際でリュートの弦を確かめていたロアンが、手を止めずに言った。


 ベラは振り返る。


「何の音だい? 煮立ってる音なら聞こえてるよ」


「豆じゃない。鍋の方。火へ戻してから少しずつ高くなってる。僕なら、今は外す」


 レオンがすぐ火箸を取り、鍋を石の上へ移した。


 底の中央が、ほんのわずかに外へ膨らんでいた。


 ベラは鍋を傾け、指で縁を弾いた。低い金属音が返る。


「……本当だ。もう少しやったら底が歪んでたね。あんた、こんなのまで聞こえるのかい?」


「音が鳴ってるならね。鍋だから分かったというより、さっきと違ったから気になっただけだよ」


「鍋の異変まで聞こえるなら、十分役に立つじゃないか」


「たまにそう言われる。毎日期待されると困るけど」


 ロアンはまた弦を一つ鳴らした。


 ベラは呆れた顔をしたが、鍋を火へ戻すときには、今度は炎を弱く保とうとしなかった。短く強く入れて煮立ったら外し、少し温度が落ちればまた戻すという動きを何度か繰り返す。


 ミラは横で豆を混ぜながら、その動きを覚えた。


「火を小さくできなくても、鍋の方を動かせばいいんですね」


「そういうこと。できないことを根性でやり続けるより、鍋を動かした方が早いよ。問題は、毎日やるには置き場が狭いことだけどね」


 最初の夕食は、それでもミラが作っていたものとはずいぶん違った。


 燻製肉の塩気が豆へ移り、香辛料を少し加えただけで、湯気の匂いが濃くなる。平たいパンは端が焦げていたが、その焦げまで香ばしかった。キュウは自分の肉を食べ終えると、当然のように人間の卓へ鼻先を伸ばしたが、ベラに指を向けられて止まった。


「もう食べただろ。これは人間の分だよ」


「きゅう……」


「悲しそうな声を出しても増えない」


 キュウはしばらく粘ったあと、ミラの足元へ回った。


「私を見ても増えませんよ。今日はベラさんの言うことを聞きましょう」


 キュウは二人の顔を見比べ、最後にはレオンの方へ向かった。


「こっちを見ても増えない。今日はもう食っただろ」


「きゅう」


「全員に断られたなら、今日は諦めてくれ」


 ロアンがパンをちぎりながら笑った。


「四人もいると、キュウにとって交渉相手が増えて大変だね。誰か一人くらい落とせそうなのに」


「ロアンさんもあげないんですか?」


「僕は借金を増やしたばかりだから、食べ物を勝手に配る立場ではないと思っているよ」


「ずいぶんと常識的だね」


 ベラが言うと、ロアンは褒められたように頷いた。


     ◇


 二日目の朝、ミラが目を覚ましたときには、ベラはもう食料を並べ替えていた。


 寝具は中央広間から少し離れた乾いた場所へ二組敷いてある。個室のあるレオンとは違い、ベラとロアンはまだ客なので、夜はそこを使っていた。


 ベラは袋の口を一つずつ開け、匂いを嗅ぎ、指で量を確かめていた。レオンが前日に買ってきた粉や豆、補充した燻製肉、塩、それに小分けされた香辛料が石台へ並んでいる。


「レオン、これ、次にベルクへ行くときは葉物か根菜を少し入れてくれないかい? 保存の利くものはかなり揃ってるけど、毎日これだけだと味が重くなる。卵か乳が手に入るなら、それも値段を見てほしい」


 帳面を開いていたレオンが顔を上げた。


「分かった。次に行く時期はまだ決めてないが、生ものを買うなら《帰還》を使える日に合わせた方がいいな。値段と持ちを見て、難しそうなら近い村も当たってみる」


「それでいいよ。あと、昨日の香辛料は悪くなかった。高いのを山ほど買う必要はないけど、同じのが切れたら困るから包みの印だけ残しといて」


「店は覚えてる。使った量も見ておく」


 ミラは水を汲みながら、二人の話を聞いていた。


 ベラはまだ七日だけの客のはずなのに、「次にベルクへ行くとき」の話をしている。レオンも特にそこへ触れず、次の買い付けとして帳面へ書き込んだ。


 その日の昼、ロアンは洞窟の入口近くへ腰を下ろし、小ぶりのリュートを膝へ乗せていた。


 長い栗色の髪を革紐でゆるくまとめ、何度か同じ弦を鳴らしては糸巻きを少し回す。青緑の目は弦と洞窟の奥を交互に見ていた。


 ミラはバルトの水を替えたあと、その音を聞きながら白い鬣を手で梳いた。鹿毛の首筋を撫でるたび、バルトは気持ちよさそうにするでもなく、嫌がるでもなく、耳だけを少しこちらへ向ける。


「バルトさん、昨日から人が二人増えましたけど、気になりますか?」


 バルトは答えず、洞窟の入口から聞こえるリュートへ片耳を向けた。


「音は気になるんですね」


「バルトは騒がしい音は嫌うが、あれくらいなら平気だ」


 いつの間にか来ていたレオンが、荷車の車輪を確かめながら言った。


「ロアンさん、ずっと同じところを弾いています」


「調律してるんだろ。旅のあとだからな」


「弾いている曲ではないんですね。ずっと同じ音なので、何の曲かと思いました」


「気になるなら、あとで本人に聞いてみればいい」


 ミラは少し考えたが、その日は聞かなかった。


 ロアンが楽しそうに弦へ触れているのを、もう少し見ていたかった。


     ◇


 三日目には、ベラがキュウへ食事を出す順番まで決まっていた。


 人間の料理へ塩や香辛料を入れる前にキュウの分を取り分け、熱いときは皿を少し遠くへ置く。初日ならすぐ鼻先を伸ばしていたキュウも、ベラが指を一本立てると、その前で座るようになった。


「待ちな。まだ熱いよ」


「きゅう」


「よし、いい子だ。待てたね」


 キュウは長い尻尾だけを床へ打ちつけた。


 しばらくしてベラが皿を押し出すと、飛びつくように食べ始める。


「偉いね」


 褒められたキュウは、食べながら尻尾をさらに速く振った。


 ミラには、その変化が面白かった。


 キュウはレオンの言うことも聞くし、ミラが危ないと言えば止まる。それでも、食べ物の前だけは別だった。そこを三日で待たせるようになったベラは、たぶんキュウにとって「肉をくれる人」だけではなく、「肉をくれる順番を決める人」になったのだ。


 一方、ロアンには決まった仕事がなかった。


 朝が遅い日もあれば、ミラより先に起きて外へ出ている日もある。水汲みを頼めばやるし、荷物を運んでと言えば運ぶが、誰も何も言わなければリュートを弾き、洞窟の反響を試し、キュウが弦へ鼻を近づければ高いところへ持ち上げて逃げる。


 午後、ミラが乾いた布を畳んでいると、ロアンが入口から戻ってきた。


「ミラ、洞窟の少し外から声を出すと面白いよ。中で歌うより、入口の岩に一度当たってから戻ってくる音の方が柔らかい」


「そうなんですか。でも、何に使うんでしょう」


「何にも使わないよ。面白かったから言っただけ」


「何にも使わないんですね」


「使い道がないと、面白がったらいけないのかい?」


 そう聞かれて、ミラは手の中の布を見た。


「いえ。駄目ではないと思います。私が、そういうことをあまり考えたことがなかっただけです」


「じゃあ今度一緒に試そう。役に立たなければ、安心して忘れればいい」


 ロアンはそう言って、また入口の方へ行った。


 ミラは畳んだ布を重ねながら、少しだけ笑った。


     ◇


 四日目の朝、ベラは朝食の片づけが終わる前にレオンを呼び止めた。


 皿を水で流し、最後の一枚を伏せたところで、腰へ手を当てる。


「レオン。七日の話なんだけど、もういいよ」


 レオンは帳面から顔を上げた。


「今日でやめるなら、ベルクへ送る約束は守る。……何か、合わなかったか?」


「逆だよ。七日まで試さなくていいって言ってるんだ。あたし、ここでやる」


 ミラの手が止まった。


 ベラは照れた様子もなく、昨日までと同じ調子で続ける。


「不満がないわけじゃないよ。鍋を外す場所は狭いし、棚も足りないし、生の野菜もほとんどない。弱い火を長く使うなら、まだ工夫が要る。でも、そんなのは直せる。火を使うたび梁を見上げなくていいし、鍋を焦がしたら次を考えればいい。三日やって、明日も明後日も何を作るか考えてるなら、もう試してる意味がないだろ」


 レオンは少しだけ考え、帳面を閉じた。


「分かった。ただし、七日分の給金は俺が最初に約束した分だ。四日で決めたから残り三日を払わない、とはしない。七日目までは一日銅貨八十を俺が払う。その先をどうするかはミラも入れて決める」


「そこはきっちりしてるね。いいよ。あたしも、八日目から先まで今と同じ条件が当然だとは思ってない。住む場所と仕事の形が決まったら、ちゃんと話そう」


 ミラは二人を見比べた。


「ベラさん、本当にここにいてくださるんですか?」


「いるよ。少なくとも、今はここで料理を続けたい。七日目に急に気が変わる予定もないね」


「予定は立てない方がいいと思います。急に気が変わるのは、予定してすることではないので」


 ベラが目を瞬いたあと、吹き出した。


「そうだね。あんた、たまに変なところだけ正しいね」


「変でしたか?」


「褒めてるよ」


 ミラは少し迷ってから頷いた。


「では、私もベラさんにいてほしいです。ご飯がおいしいですし、それ以外のときも、ここにいると賑やかになります」


「料理の次に賑やかさが来るなら、悪くない評価だね」


 そこでベラは、石台に残っていた香辛料の包みへ目をやった。


「せっかくだ。今夜は、三日間あれこれ試した分をまとめて一度ちゃんと作るよ。ミラ、午後に少し手を貸してくれるかい? レオンは口を出さず腹を空かせときな。ロアンは……邪魔をしなければ好きにしてていい」


 入口近くでリュートを抱えていたロアンが顔を上げた。


「僕だけ役割がずいぶん自由だね」


「三日見て決めたんだよ。あんたは役割を決めると逃げるから、先に決めない方が使いやすい」


「それは僕への理解が深まったと受け取っておこう」


     ◇


 午後になると、ベラはまず燻製肉を厚めに切った。


 そのまま焼けば塩気と煙の香りが強すぎるので、いったん水へくぐらせ、表面の塩を落とす。脂の多い端は別に切り分け、熱した鍋へ入れた。


 じわり、と脂が透明になって底へ広がる。


 ベラは小さな包みから香辛料を二つ選び、一つは指で粗く潰し、もう一つは皿の底で細かく砕いた。


「同じ肉に両方入れるんですか?」


 ミラが聞くと、ベラは鍋を揺すりながら首を振った。


「最初に入れるのは香りを脂へ移す方。細かくしたのは最後だよ。どっちも最初から入れたら、強い火で焦げて苦くなる。匂いが変わったら教えて」


「私がですか? 匂いなら分かると思います」


「鼻はあるだろ。料理は手だけでやるもんじゃないよ」


 砕いた粒が脂へ落ちると、最初は鼻の奥へ刺さるような青い匂いだったものが、火へ触れて少しずつ丸くなった。煙のような香りの奥から、木の実を焼いたときに似た甘さが出てくる。


「今、匂いが変わりました。さっきより尖っていません」


「そこ。じゃあ肉を入れるよ」


 厚い燻製肉が鍋へ触れた瞬間、じゅっと大きな音が上がった。脂が弾け、白い湯気とともに表面の水分が一気に飛び、肉の縁から濃い焼き色が広がっていく。


 ベラは炎を弱めない。片面へ色が付いたらすぐ返し、もう片方も短く焼くと、鍋ごと火から外した。


「中まで火を通さないんですか?」


「燻してある肉だから、そのままでも食べられる。今日は表面だけ焼いて香りを足すんだ。中まで強火でやったら固くなる」


 焼いた肉は布を掛けた皿へ移し、休ませる。


 そのあいだに、昨日から水へ浸してあった豆が鍋へ入った。こちらは強火で一度だけしっかり沸かし、煮立ったところで火から外す。初日に鍋を歪ませかけた場所ではなく、横へ積んだ平たい石の上へ置き、温度が落ちればまた火へ戻す。


 ベラは三日間で、自分の火を弱くするより、料理の方を火へ近づけたり遠ざけたりするやり方へ変えていた。


「前より忙しくないですか?」


「火を弱くしようとして睨み合うより楽だよ。鍋の方は文句を言わないからね」


「初日は言っていました。ロアンさんが聞きました」


「金属の文句まで数えるなら、あたしの周りは口うるさいのばっかりだね」


 少し離れたところで、ロアンのリュートが短く鳴った。


「今のは聞こえたけど、今日は鍋の方は静かだよ」


「頼んでないのに答えるんじゃないよ」


「念のためさ。夕食前に鍋を一つ失うと、僕の取り分にも影響するからね」


 ベラは返事の代わりに木匙を向けたが、口元は少し笑っていた。


 豆が柔らかくなってくると、肉を焼いた鍋に残った脂と焦げを水でこそげ、その茶色い汁を豆へ加えた。さらに粉を少量だけ水で溶き、少しずつ流し入れる。


 さらさらだった煮汁が、木匙を動かすたびに重くなる。


 塩は最後まで足さなかった。燻製肉から抜けた塩気がすでに豆へ移っているからだ。


 ベラは一口だけ匙へ取り、舌へ乗せる。


「まだ少し煙が勝つね。さっきの細かい方をほんの少し。ミラ、そっちの包みから二つまみだけ頼むよ」


「二つまみですね。私の指の大きさで大丈夫ですか?」


「今日は大丈夫。次からはあたしの二つまみと比べよう」


 ミラは湯気で頬へ張りついた赤毛を耳へ掛けながら香辛料を加えた。煮汁の匂いがもう一度変わり、燻製の煙と豆の甘さの間へ、舌の奥を温める香りが入る。


 平焼きのパンには、肉から取った脂をほんの薄く塗った。


 粉と水と塩だけの生地を丸く伸ばし、十分に熱した石へ置く。生地の表面に小さな膨らみがいくつもでき、ひっくり返すと、その膨らみだけが濃く焼けていた。


 ベラはそこへ砕いた香辛料を指先で散らし、もう一度だけ石へ戻す。


 焼けた粉の香りに肉の脂が重なり、さっきまで豆の鍋を覗いていたキュウが、今度はパンの方へ鼻を向けた。


「これは駄目だよ。あんたのはもう用意してある」


 ベラはそう言って、キュウ用の包みから取り分け、塩も香辛料も付けず表面だけ火を通した肉の皿を示した。


 キュウはすぐそちらへ向かったが、まだ皿の前で止まる。


「待てって言ってないよ。今日は食べていい」


「きゅう!」


 ミラは笑いながら、その横を通ってバルトのところへ向かった。


 人間だけ先に夕食にするわけにはいかない。馬房の石水槽へ水を足し、飼葉を入れると、バルトは白い尾を一度振って食べ始めた。


「バルトさん、今日は洞窟の中がずっといい匂いです。すみません。バルトさんには香辛料を入れられないので、いつものご飯です」


 鹿毛の馬は特に不満を示さず、ミラの肩の向こうへ鼻を伸ばした。


「匂いだけは気になりますよね」


     ◇


 夕食ができたころには、洞窟の中へ、焼いた肉の煙と脂、豆を煮たやわらかな香り、熱い石で焼いた粉の香ばしさが重なっていた。


 ミラは食卓へ皿を並べた。


 厚く切った燻製肉は、表面だけが濃い茶色に焼けている。切り分けると、中には燻したときの赤みが残り、焼けた外側との境目から透明な脂がにじんだ。


 豆の煮込みは、匙を入れるとゆっくり跡が閉じるほど濃くなっている。形の崩れた豆が煮汁へ溶け、肉の焦げを溶かした汁で色は薄い褐色になっていた。


 平焼きのパンは、焼けたものから一枚ずつ卓へ置かれた。まだ表面がわずかに膨らんでいる。


 ベラは最後に自分の皿を置いた。


「できたよ。冷める前に食べな。感想は飲み込んでからでいい」


 ロアンが肉を見ながら両手を合わせるような仕草をした。


「僕はいま、ベルクで借金を増やしてきた人生にも意味があったと思い始めているよ。あそこでベラに会っていなければ、これを食べられなかった」


「そこまで遠回りしないと料理を褒められないのかい。さっさと食べな」


 ミラはまず豆を一口食べたが、思ったより熱く、慌てて口を閉じたまま息を吸った。ベラがすぐ水を寄せる。


「急がなくていいよ。煮込みは逃げないから」


 ミラは水を一口飲み、今度は少し冷ましてから食べた。豆そのものは昨日までと同じなのに、味はまるで違う。最初に燻製の煙が来て、次に豆の甘さが広がり、最後に香辛料の熱が舌の奥へ残った。辛いわけではないのに、飲み込んだあとまで口の中が温かい。


「これ、同じ豆ですよね。昨日も食べたのに、全然違います」


「同じだよ。肉を焼いたあとの鍋を洗わず、その味で豆を煮ただろ。捨てたらもったいないからね」


 レオンは何も言わず肉を一切れ食べ、しばらく噛んでからパンをちぎって豆の煮汁へ浸した。そのまま二口目へ行くのを、ベラが横目で見る。


「無言で食べ続けるのは、商人の評価としてどう受け取ればいいんだい?」


「先に食わせてくれ。冷める。ここへ来てから一番うまい。肉も固くなってないし、このパンなら豆の汁まで残らん」


「そういうことを一口目で言えばいいんだよ」


「一口で決める方が雑だろ」


「その辺は本当に商人だね」


 ロアンは肉を噛んだ瞬間、目を閉じた。


「外は香ばしくて、中は燻した匂いが残ってる。しかも豆を食べると、その肉をもう一度食べたみたいに味が戻ってくる。ベラ、僕はいままで君の料理をかなり食べてきたけど、今日のこれは上から数えた方が早い」


「上から何番目だい?」


「順位を付けたら、次からその順位を上げろと言われそうだから言わない」


「妙なところで賢いね」


 ミラはパンを手に取った。


 端を折ると、薄い生地がぱり、と鳴った。中央は少し柔らかく、肉の脂を塗った部分だけ表面が艶を持っている。


 そのまま食べると、粉と塩だけとは思えないほど香りが強い。豆の煮込みを載せると、柔らかな豆と薄いパンの端が一緒に崩れ、最後に焼けた香辛料が鼻へ抜けた。


 気づけば、ミラは一枚を食べ終える前に次のパンへ手を伸ばしていた。


 その手が自分でも少し早かったので、途中で止める。


「取っていいよ。まだ焼いてある」


 ベラが笑った。ベラはみなが食べるのを笑顔で見るだけで、自分の皿にはまだ手を付けていなかった。


「すみません。おいしくて、先に手が動きました」


「料理人には、その謝り方が一番嬉しいね」


 食卓の下から「きゅう……」と低い声がして、四人が同時に下を見た。キュウは自分の皿をきれいに空にし、白い腹を床へつけて、ミラの手にあるパンを見上げている。


「これは駄目です。香辛料が付いています」


 ミラが言うと、キュウはレオンを見る。


「俺も駄目だ」


 次にロアンへ顔を向けると、ロアンは肩をすくめた。


「僕を見ても、今日はベラが怖いから無理だね」


 最後にベラを見ると、そこには無言で腕を組んだ料理人がいた。


 キュウはしばらく全員を見回し、やがて諦めて食卓の横へ丸くなった。


「三日で学んだね」


「何をですか?」


「最後にあたしを見るくらいなら、最初から諦めた方が早いってことさ」


 ミラは笑いながら、もう一枚パンを取った。


 食事はいつもより長く続いた。誰かが急いで話を進めるでもなく、皿が空けば豆を足し、パンがなくなれば次をちぎる。レオンは途中で二度も肉を追加し、ロアンはさっき順位を言わなかったくせに、最後には「今日の一位はこの豆だ」と勝手に部門を作っていた。ベラは自分の皿を食べながら、ときどき全員の皿へ目を向けていて、ミラにはその目が厨房にいるときより穏やかに見えた。


     ◇


 食後、すぐには誰も立たなかった。


 腹がいっぱいになると、帰り火の近くは余計に動きたくなくなる。


 レオンは食卓から少し身を引き、ベラは腕を組んだまま食卓の端へ肘をついている。キュウは完全に丸くなり、尻尾の先だけがときどき床を撫でていた。


 ロアンが立ったのは、片づけを始めるためではなかった。


 壁際へ置いていたリュートを取り、革紐を外して膝へ載せる。


「これだけ食べたあとに働けと言われても、僕には無理だ。せめて食後に合うくらい静かな曲にしよう」


「誰も働けって言ってないよ。片づけはあとで頼むけどね」


「では、頼まれる前に一曲弾く権利はある」


 ロアンの指が弦へ触れると、最初の音は小さく、酒場で聞いたときより近く感じられた。洞窟の石壁へ当たって戻るせいか、一つ鳴らしただけなのに、少し遅れて別の場所から同じ音が返ってくる。


 ロアンはその返りを待つように間を置き、次の音を重ねた。


 速い曲ではなく、高い音を二つ、低い音を一つ、少し間を空けて今度は順番を変える。同じ音が何度か戻るうちに、洞窟の中に細い糸が何本も張られていくようだった。


 ミラは食器を重ねる手を止めた。


 ロアンの左手が短い棹の上を動き、右手の指が弦を一つずつ拾っていく。何をしているのかは分からない。ただ、さっきまで同じ場所にあったリュートが、ロアンの手へ入ると急に別のものになる。


 曲が終わっても、最後の音だけが岩壁の奥へ薄く残った。


「ロアンさん」


「うん?」


 ミラは一度リュートを見て、それからロアンの顔を見た。


「それ、私にも弾けますかね。すぐ上手にはできないと思いますけど、少し教えてもらえませんか?」


 ロアンの指が、弦の上で止まった。


「ミラが?」


「はい。聞いているだけでも好きですけど、自分で音を出せたら楽しそうだと思って。仕事に使うとかではないんですけど、それでも教えてもらっていいでしょうか」


 ロアンはしばらく何も言わなかった。いつもなら言葉が余るくらいなのに、珍しく黙っていたが、やがて青緑の目を細めて笑った。


「もちろん。仕事に使わないなら、なおさらいい。音楽は、必要だから始めなくてもいいんだよ」


 ロアンは椅子をミラの方へ寄せ、リュートの胴を両手で持って差し出した。


「まず持ってみよう。落とさなければ、それだけで今日は合格にする」


「そんなに簡単でいいんですか?」


「最初の日から難しくして、二日目に嫌になる方が困るからね。僕は教える相手を失いたくない」


 ミラは両手で受け取った。


 思ったより軽い。それでも胴の丸みが腕の間で落ち着かず、ロアンのように自然には抱えられない。


「ここを押さえるんですか?」


「今日は押さえなくていい。右手で、一番細い弦を一本だけ鳴らしてみて。爪を引っかけるんじゃなくて、指の腹で軽く払う」


 ミラは言われた通りに指を当てた。


 ぽん、と短い音が鳴った。


 ロアンがさっき鳴らした音よりずっと弱く、少し濁っている。それでも確かに、自分の指から音が出た。


 ミラは目を見開いた。


「鳴りました」


「鳴ったね。もう一度」


 今度は少し強く弾きすぎて、ぺちん、と情けない音になった。


 ベラが笑う。


「一回目の方が上手だったね」


「力を入れた方が大きな音になると思いました」


「大きくはなったよ。いい音かどうかは別だけど」


 ロアンは楽しそうに言い、ミラの手首の位置を少しだけ直した。


「腕で弾こうとしなくていい。指だけで十分。そう、それくらい」


 三度目は、一度目より長く音が残った。


 キュウが顔を上げ、欠けた左角をこちらへ向けた。


「キュウも聞いています」


「最初の観客だね。逃げなかったなら悪くない」


「きゅう」


「今のは褒めた返事でしょうか」


「そういうことにしておこう。音楽は解釈の自由も大事だからね」


 ミラはもう一度弦へ触れた。今度は少しだけ、自分から次の音を聞きたくなったところで、その横のロアンが急に立ち上がった。


「決めた」


 ベラが眉を上げる。


「何をだい。借金を返す方法なら歓迎するよ」


「それもいずれ考える。でも先に、僕もここに住もう」


 ミラはリュートを抱えたままロアンを見上げた。


 ロアンは胸へ手を当て、妙に堂々とした顔をしている。


「音楽を愛する者は僕の家族だ。家族のいる場所なら、僕の家でもいいだろう。ミラがここで弾くなら、僕は教えるし、僕もここで弾く。それなら出ていく理由があまりない」


 ベラが数呼吸だけ黙った。


「ずいぶん大きな話になったね。さっき弦を一本鳴らしただけだよ、この子」


「最初の一音を出した人間を軽く見ちゃいけない。始めなければ二音目は永遠に来ないんだから」


「それは少し格好いいけど、あんたが言うと借金から話を逸らしてるようにも聞こえるんだよね」


「借金は家族になっても消えない。そこは僕も理解しているよ」


「ならいいさ。住むのまで、あたしが止める理由はないね」


 ベラはそう言って、少し笑った。


 レオンは腕を組んだままロアンを見る。


「俺は反対しない。ミラもいいなら、残る話はこのあとちゃんと決めよう。ただ、雇ってるのはベラだけだ。給金まで同じ話にはしないぞ」


 ミラはリュートを抱えたまま頷いた。


「私は、ロアンさんにもいてほしいです。リュートを教えていただきたいですし、食事のときにお話するのも楽しいです」


「それなら十分だよ。僕は今日までだって給金をもらってないし、それでも思ったより困らなかった。飯と寝床があって、酒を勝手に買わなければ借金も増えない。かなり健全な生活だと思う」


「その最後の条件を守れるならな」


「努力はする」


「そこは断言しないんだね」


 ベラの声に、皆が笑った。


 ミラは膝の上のリュートへ目を落とした。


 三日前、同じ場所に増えたのは客用の寝具が二組だけだった。いまは石台の端にベラの包丁と砥石が置かれ、壁際にはロアンの荷物とリュートの革袋が並んでいる。


 ミラはもう一度、一番細い弦へ指を当てた。


 今度の音は、さっきより少しだけきれいに鳴った。

ベラの料理が増え、ロアンの音楽が増え、食卓に座る人も増えました。

「こんな場所ならちょっと住んでみたい」と思っていただけたら、評価をひとついただけると嬉しいです。

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