炉守りは洞窟の先客に出会います
「食べますか?」
ミラが木匙を持ち上げると、暗がりに浮かぶ二つの目も一緒に動いた。小鍋へ近づきたいらしいが、魔物は炉の明かりが届くところまで出てくると、そこで身体を止める。右の前脚だけは床につけず、三本の脚で身体を支えていた。鱗の下へ肋骨の形が浮くほど痩せている。ミラが前脚を見ようと少し身を傾けると、喉から低い音が鳴り、口の端から細かな牙が覗いた。
「分かりました。見ません。怪我をしているところを見られるのが嫌なのは、分かります」
身体を戻すと唸り声も止まった。ミラは小鍋へ目を落とす。黒パンと玉葱、チーズを煮たものが半分ほど残っている。布袋には黒パンがもう一つと、乾燥豆が二度ほど鍋にできる量、固いチーズの欠片が少しある。今夜の残りを全部渡しても朝までは困らないが、その先は斜面を登れるかどうかすら分からない。
「これは全部あげます。その代わり、布袋の方は明日の分なので駄目です。私も食べないと困りますから」
理解した様子はなかったが、視線だけは小鍋から離れない。ミラは木匙を抜いて鍋を炉の横へ置き、毛布と布袋を持って入口側まで下がった。
「まだ熱いので、少し待ってください」
魔物はミラと鍋を何度か見比べてから、腹を低くして近づいた。鼻先で匂いを確かめ、すぐに煮込みへ舌を伸ばす。
次の瞬間、頭を激しく振って二歩ほど飛び退いた。
「熱いと言いました」
恨めしそうな目が向いたので、ミラは毛布の中から小鍋を指す。
「私もさっき食べたので、嘘ではありません。少し待てば食べられます」
魔物は不満そうに鼻を鳴らしたものの、今度は鍋の前へ座った。湯気が細くなるまで待ってから恐る恐る舐め、熱くないと分かると、黒パンも玉葱もほとんど噛まずに飲み込んでいく。鍋底へ張りついていたチーズまできれいになくなる頃には、鼻先が次の食料を探すようにミラの布袋へ向いていた。
「そちらは駄目です。全部食べたら、明日は二人とも何も食べられません」
低い唸り声が返ってきた。
「唸っても増えません」
それでも袋の中身が増えないと分かったのか、魔物はやがて炉の反対側へ回り、腹を岩床へつけた。
ミラは空になった小鍋を拾った。焦げつきまで舐め取られているが、洗ったことにはならない。入口近くの岩の割れ目から落ちる水を少しずつ受け、木匙で底をこすってすすいだあと、乾燥豆を入れて朝まで水へ浸しておく。共同寮では三十二人分の豆を大鍋へ仕込んでいたので、水を吸ってどれくらい膨らむかを見誤ると翌朝ひどいことになった。いまの小鍋なら、その心配だけはない。
作業が終わっても魔物はこちらを見ていたので、ミラは布袋の口を閉じながら声をかけた。
「私はミラです。あなたにも名前はありますか?」
長い尻尾の先が一度だけ岩床を叩いた。
「今のは返事でしょうか。もう一度お願いします」
待ってみたが、今度は動かない。
「では、分からないので、呼び方はまた今度にします。勝手につけるのも良くないと思いますから」
炉を挟んで、入口側にミラ、奥側に魔物という距離で夜を過ごすことにした。濡れていた外套は石台へ広げてあり、炉に近い側はもうほとんど乾いている。
毛布へくるまる前に、ミラはもう一度だけ右前脚へ目をやった。足首に近いところが左より太く、鱗の隙間には乾いた血が残っている。違っている場所にはすぐ目が止まるが、《欠け見》が分からせてくれるのはそこまでで、腫れの原因や骨の状態、治し方まで答えてくれるわけではない。
ミラが身体を起こしただけで、魔物もすぐ頭を上げて牙を見せた。
「今日はやめておきます。手当てが必要でも、触られる方が嫌なら無理にすることではありません」
毛布へ戻ると、向こうも顎を床へ下ろした。
帰り火は薪を足していないのに、昨夜と変わらない大きさで燃えている。岩壁を揺れる金色の光を眺めていると、共同寮の寝室の音が思い出された。あそこでは誰かが寝返りを打つたび寝台が軋み、冬には咳やいびきまで重なって、夜が静かなことの方が少ない。
ここで聞こえるのは、水滴が岩へ落ちる音と炉がときどき小さく鳴る音だけだった。その向こうへ、魔物の爪が岩を擦る音がたまに混じる。
ミラもすぐには眠れず、爪の音が途切れるまでしばらく金色の火を見ていた。
◇
翌朝、足元に触れる妙な温かさで目を覚ました。毛布から顔を出すと、魔物の背中の端がミラの靴先へ触れている。夜のうちに炉を回り込んできたらしいが、毛布へ入り込んだわけでも、身体を寄せてきたわけでもない。靴一足ぶんほどの距離だけを残して、そこへ丸くなっていた。
ミラが足を少し動かすと、魔物はすぐに目を開いた。
「あ、おはようございます」
大きく開いた口に牙が並び、ミラは一瞬身を固くしたが、そのまま目を細めて顎を伸ばしたので、威嚇ではなく欠伸らしい。
「朝から驚くので、できれば口は小さめに開けてください」
聞いている様子もなく身体を起こしたので、ミラも毛布を畳んだ。昨夜から浸しておいた豆は水を吸って膨らんでいる。煮るための水を足そうと小鍋を持ち上げると、魔物が右前脚を浮かせたまま洞窟の奥へ歩き始めた。
「そちらに何かあるんですか?」
振り返りもしないので、小鍋を持ったまま追いかけることにした。古い炉の左には人一人が通れるほどの細い通路があり、昨日は暗くて奥まで確かめていない。帰り火から細い枝へ火を移し、頼りない橙色の明かりを前へ差し出す。
「脚が痛いなら急がなくていいですよ。その歩き方で急がれると、見ている方が気になります」
返事の代わりなのか、尻尾が一度だけ岩壁へ当たった。通路の先には小さな空洞があり、岩壁の割れ目から澄んだ水が絶えず流れ出していた。足元の窪みに溜まった水は底の丸石まで見え、溢れた分が反対側の割れ目から地下へ落ちていく。魔物は迷わずそこへ近づき、舌で水を飲み始めた。
「知っていたんですね。昨日、私は一滴ずつ鍋へ受けていました」
水を飲む方が忙しいらしく、返事はない。
「最初から教えてほしかったですが、まだ名前も教えてくれない相手にそこまで頼むのは欲張りかもしれません」
ミラも水辺へしゃがんだ。手ですくうと冷たく、嫌な臭いはないが、見た目だけで飲めると決めるのは怖いので、小鍋へ汲んだ分は一度沸かすことにする。
これだけあれば、飲み水だけでなく鍋や衣服まで洗える。昨夜まで惜しんでいたものが、岩の中からずっと流れ続けているのを見ているだけで、肩の力が少し抜けた。
水場の脇には腐って崩れた木箱と割れた壺が残っていた。壺は空で、木箱も板を持ち上げただけで端が崩れたが、その下から赤錆に覆われた細長い鉄棒が一本出てくる。先が鉤のように曲がっていた。
「火掻き棒でしょうか。灰を寄せるくらいなら使えそうです」
持ち帰ることにして通路を戻る途中、左右に浅い横穴が二つあるのにも気づいた。形は似ているのに、片方の床には細い水筋が走って岩肌まで黒く濡れ、もう片方は奥へ行くほど色が薄い。乾いた方へ手をつくと、指先にほとんど湿り気が残らなかった。
天井は低いが、尖った小石と古い泥を退ければ毛布を敷けそうだった。隣より乾いていると分かれば、どちらで眠りたいかはミラにも決められる。
主洞へ戻る手前で、もう一つ違いが目についた。炉のある方から天井へ続く岩肌だけ煤が濃く、枝の煙も細い穴へゆっくり吸い込まれていく。
「昨夜、煙がこもらなかったのは、ここから抜けているからでしょうか」
穴の先が外へ続いているかまでは分からない。ただ、古い炉のそばには煙の逃げ道があるらしいことだけは分かった。
主洞へ戻ると、炉の前では魔物が先に座って待っていた。
「朝ご飯のことだけは忘れないんですね」
◇
豆へ汲んできた水を足し、帰り火の炉へ小鍋を掛けた。灰汁を取り、赤錆を軽く落とした火掻き棒で灰を寄せながら柔らかくなるのを待つ。昨日使った玉葱はもうなく、塩だけを少し入れた豆は共同寮の朝食よりずっと薄い味になった。
それでも湯気の立つものを腹へ入れれば身体は暖まる。ミラは魔物の分を平たい石へ取り分けた。
「今日は、熱いのを覚えていますか?」
魔物はすぐには口をつけず、湯気が弱くなるまで石の前で待っていた。
「覚えていたんですね。それなら今日は頭を振らなくて済みます」
豆へ舌を伸ばし始めたのを見て、ミラも小鍋から自分の分を食べる。水の残りを気にしなくていいだけで、同じ塩味の豆でも昨日より落ち着いて口へ運べた。
食べ終えると、小鍋を水場でしっかり洗い、乾いた横穴を寝床にする作業へ取りかかった。古い泥を木片ですくい、尖った石を一つずつ主洞の端へ運ぶ。腰を下ろしそうな場所は手のひらで何度も撫で、毛布を破りそうな出っ張りがないか確かめた。
魔物は入口へ座り、右前脚を浮かせたまま作業を眺めている。
「見ているだけなら、石を一つくらい運んでくれてもいいんですよ」
尻尾が岩床を一度叩いたので、ミラは一番小さな石を入口のそばへ置いてみた。
「これなら運べます」
もう一度尻尾が鳴ったが、石はそのままだった。
床を均して毛布を広げると、主洞の岩へ直接敷いた昨夜より冷たさが遠い。布袋は床へ直置きせず、壊れた棚から外したまだ固い板を二枚重ねてその上へ置き、外套も横穴の入口側へ広げた。食料へ湿気が移らず、寝るときに荷物を抱えていなくていいだけで、狭い横穴にも使い道ができる。
片づけを終えてミラが腰を伸ばすと、入口にいた魔物も立ち上がって主洞へ戻っていった。
「手伝ってはいませんが、見張りだったことにしておきます」
◇
昼前には雨がほとんど止み、窪地へ薄い日が差した。ミラは外へ出て、滑り落ちてきた斜面を明るいうちに確かめた。三方を囲む岩壁のうち、登れそうなのは倒木と灌木が重なったその場所だけで、上の旧道そのものはここから見えない。ラトス村へ向かうなら、まず斜面を越える必要がある。
土の表面は昨日より乾いて見える。
「一度だけ試します」
後ろから魔物がついてきたので、言葉の相手には困らなかった。太い根を両手でつかみ、右足を岩の出っ張りへ掛ける。昨日より高いところまで身体を上げられたので、次の根へ手を伸ばした瞬間、靴の下の土がまとまって剥がれた。
「わっ」
尻から滑り、落ち葉の中へ座り込む。少し離れたところで魔物が鼻を鳴らした。
「まだ中が濡れていたんです。今のは私が下手だったというより、土の問題です」
もう一度、少し右へ移って土より岩の出ている場所を選ぶ。三歩ほど登り、倒木から伸びた根へ体重を掛けたところで、今度は根元が土ごと抜けた。横向きに滑り落ち、外套へ泥をつけて戻ってくると、また鼻を鳴らす音がした。
ミラは斜面を見上げたまま、しばらく座っていた。右手の擦り傷は開いていないが、次も同じように済むとは限らない。
「分かりました。今日は登りません」
魔物は先に洞窟へ向かって歩き始めた。
「勝ったような顔をしないでください」
振り返った顔つきは最初から何も変わっていなかったので、ミラも立ち上がって泥を払った。
少なくとも洞窟には火と水があり、雨を避けられる寝床もできた。無理に斜面へ取りついて怪我を増やすより、乾くのを待ちながら次の一日を過ごせるだけのものを探した方がいい。
◇
黒パンは一つ、固いチーズが少し。乾燥豆は今夜の鍋へ入れればなくなる。斜面が明日までに乾く保証もないので、午後は窪地で食べられるものと使える薬草を探すことにした。
共同寮では薬草干しを手伝うことがあり、《野草知識》があれば、身近な食用草と毒草、簡単な薬に使う植物くらいは見分けられる。
雨に濡れた岩のそばには山葱が固まって生えていた。葉を一本ちぎると、指先へ強い葱の匂いが残る。夕食に使う分を根元から採り、泥を払って布へ包んだ。
少し離れた湿地には水玉草もある。丸い葉を乾かして煮出せば、熱が出たときに使う。今すぐ必要なものではないが、何日ここに留まるか分からない以上、場所を覚えておくだけより少し持ち帰る方がいい。
岩陰で血止め苔を見つけたとき、ミラは自分の右手ではなく、後ろからついてきた魔物の前脚を見た。まだ床へつけていない。
「これは使えるかもしれませんね」
苔を必要な分だけ剥がしていると、そのすぐ脇に細い草が何株も生えていた。似た草の中で一株だけ葉の縁がわずかに白く、裏返すと粉を吹いたような色をしている。
白い縁が気になって葉を少し潰し、匂いを確かめると、共同寮の薬草庫で何度も嗅いだ、青臭さの奥に強い苦みを感じさせる匂いがした。
「白苦草ですね」
軽い毒や腹痛のときに煎じる薬草で、名前の通りひどく苦い。病人へ飲ませると、蜂蜜を入れても恨まれるとベッタが笑っていた。
いま必要ではない。それでも、必要になってから雨上がりの窪地を探し回るより、目についたうちに少し乾かしておく方がいい。ミラは数株だけ摘み、水玉草とは別の布へ包んだ。
山葱は夕食用、水玉草と白苦草は薬用。血止め苔はすぐ使う分を持ち帰る。用途の違うものが布袋の中で混ざらないよう分けると、魔物もそれを確かめるように鼻を近づけてきた。
「山葱は食べられますが、今は駄目です。夕方まで待ってください」
◇
水場で血止め苔の汚れを落とし、平たい石の上で木匙の背を使って潰した。少量の水を加えると緑色の柔らかな塊になり、青い草の匂いが指先へ残る。
魔物は少し離れたところから、作業のあいだずっとこちらを見ている。ミラは石ごと近くへ置いた。
「脚に塗りたいのですが、触ったら噛みますか?」
魔物は苔の匂いを嗅ぎ、それから右の前脚を腹の下へ隠した。
「まだ嫌なんですね。分かりました」
手を伸ばさず、その場へしゃがんだまま少し待つ。共同寮でも、嫌がる相手へ無理に手当てをしようとすれば、腕を振り払われることはあった。目の前の相手には牙まであるので、なおさら押さえつける理由はない。
「自分で使えるなら、ここへ置いておきます。食べ物ではないので、全部舐めないでくださいね」
苔を載せた石を残し、採った草を抱えて主洞へ戻った。山葱は水で洗って石台へ置き、水玉草と白苦草は葉が重ならないよう別々に広げる。濡れたまま束にすると傷みやすいので、乾いてからまとめればいい。
そのまま横穴の掃除へ戻り、残っていた小石や土を運んでいると、背後から爪の擦れる音がした。振り返ると入口に魔物が立っており、右の前脚の鱗には緑色の血止め苔がべったりついていた。
「使えたんですね」
魔物は答える代わりに、石台の山葱へ鼻先を伸ばした。
「そちらは夕食です。怪我が治ったら、自分の食べ物も探してください。私の残りだけでは、ずっと二人分は作れませんから」
不満そうに鼻を鳴らす。
「今日は怪我をしているので、多めにします」
尻尾が一度だけ床を叩いた。
「そこはよく分かるんですね」
◇
夕方、残っていた乾燥豆を小鍋へ全部入れ、朝より少し多めの水で煮た。昼に採った山葱を刻んで加えると、塩だけだった朝の豆へ青い香りが混じる。黒パンとチーズは明日のために残した。
魔物は炉の向こう側、それも昨夜よりずっと近い場所へ座っていた。ミラが平たい石へ豆を取り分けても、すぐには鼻先を寄せず、湯気が弱くなるまでじっと待っている。
「もう熱いものは覚えましたね」
「きゅう」
ミラは木匙を止めた。
「それ、昨日も聞きました。名前ですか?」
「きゅう」
魔物はもう鳴かず、冷めた豆を食べ始めた。
「違うようですね。では、また今度にします」
ミラも小鍋から自分の分をすくった。朝と同じ豆でも山葱が入ると味が変わり、昨日一滴ずつ集めていた水はもう惜しまなくていい。火掻き棒は炉の横へ立て、薬草は石台の上で乾き始め、乾いた横穴には毛布と布袋が置いてある。
もう一口食べようとしたところで、魔物が突然顔を上げた。
石の上にはまだ豆が残っているのに、食事から完全に目を離し、鼻先を洞窟の入口へ向けている。身体が低くなり、背中の鱗がわずかに逆立った。昨夜、鍋を欲しがったときとは違う低い唸り声が、喉の奥から途切れず続く。
「どうしました?」
ミラも木匙を置き、耳を澄ませた。水が岩を伝う音と、帰り火の小さな燃える音しか聞こえない。
魔物は動かなかった。
その視線の先を追って、ミラも洞窟の外を見る。
次の瞬間、岩壁の向こうで激しい羽音が一斉に上がり、何羽もの黒い鳥影が窪地を囲む木々の上へ飛び出していった。
幼竜にごはんを半分あげられる方は、たぶんミラと気が合います。
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