役立たずはいりません
鍛冶場では、朝から鉄を打つ音が続いていた。
レオンが作業台へ二つの革袋を置くと、親方は手を止め、袋の口から覗く青みがかった鉱石を見た。
「お前が俺に鉱石を売るのか。珍しいな」
「質は自分で見ろ」
「北の鉱山町育ちのお前が持ってくるんだ。屑鉱ってことはないだろうよ」
「その思い込みに銀貨を足してくれ」
親方は鼻を鳴らし、袋から石を三つ選んだ。一つを小槌で割り、断面へ灯りを近づける。青い筋の入り方を確かめ、二つ目も同じように割った。
レオンは割られた鉱石を見た。
「青魔鉄が四割近い。混じりはあるが、試しに精錬するには悪くないな」
「選別したのは誰だ?」
「素人だ。ただし、迷った石を捨てずに残すくらいには目がいい」
「素人にしちゃ、ずいぶん目がいいな。誰だ?」
「仕入れ先だ。名前まで売る気はない」
親方はそれ以上聞かなかった。
レオンも、ミラの名前をここで出すつもりはなかった。
鉱石を掘った場所も、選別した少女がどこにいるのかも、売り物ではない。
親方は二袋を秤へ載せた。
「銀貨四枚と銅貨四十」
「六枚と八十」
「その量で六枚はない。精錬すれば半分近く滓になる」
「四割近いって自分で言っただろ。試す価値まで含めろ」
「銀貨五枚。それ以上ならベルクへ持っていけ」
「五枚と銅貨六十。袋は返せ。それなら今ここで置いていく」
親方は舌打ちした。
「昔から可愛げがないな、お前は」
「可愛げで鉱石の値段が上がるなら、練習する」
「やめろ。気持ち悪い」
銀貨五枚と銅貨六十枚が秤の脇へ置かれた。
レオンは銀貨を一枚ずつ確かめてから代金を受け取り、空になった革袋を回収した。
次に入った穀物商では、小麦粉と大麦粉、乾燥豆、塩、油を買った。
ミラから預かった銀貨一枚では、一月分には足りない。不足分は青魔鉄の売上から払い、使った額を帳面へ記しておく。
それとは別に、自分の財布から銅貨を出した。
「干した玉葱もくれ。それと、固いのでいいからチーズ」
「肉は?」
店主が天井から吊るした燻製肉を指した。
レオンは並んだ肉を見て、端に寄せられていた小さな切れ端を選んだ。
「それでいい」
「ずいぶん半端なのを選ぶな」
「食うやつが小さい」
店主は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
買った物をまとめて外へ出る。
さっきまで二つの革袋に入っていた青魔鉄は、小麦粉と豆と塩と油に変わり、荷へ積まれていた。
まだ買う物は残っている。
縄。毛布。道具。女物の着替え。
そして全部揃ったら、持って帰る。
あの妙な洞窟へ。
◇
その少し前。
ミラには、一月分の食料を頼める相手どころか、今夜眠る場所さえなかった。
「役立たずはいりません」
城塞都市ベルク東共同寮の寮長ハンナは、朝の作業を割り振るときと同じ調子でそう言った。
ミラは叱られているとき、相手の顔を見るのが苦手だった。顎のあたりで切り揃えた赤毛を耳に掛けながら窓際へ視線を逃がすと、丸く大きな桃色の目が、植木鉢の乾いた土から少し垂れた葉先へ移った。昨日の水やり当番は忘れているらしい。
「聞いているのかい、ミラ。今月だけで朝の集合に九回遅刻、厨房の配膳を七回遅らせた。洗濯物の取り違えが四回。薪運びも、頼んだ数を一度も運び終えていない」
「聞いています。洗濯物の二回は布札が外れていて、持ち主を探していました。薪は虫食いを見つけたので、同じ束の残りも確認した方がいいと思ったんです。配膳が遅れたことは、私が悪いです」
ハンナは机の帳面から顔を上げた。
「そこまで覚えているなら、何が困るのかも覚えておくれ。虫食いを見つけたことは助かったし、布札が外れていたのに気づいたのもあんただった。だけど薪を三十本運べと言われて一本目に虫を見つけたら、残りの二十九本が頭から消える。布札一枚の持ち主を探している間、濡れた洗濯物は誰かが代わりに干してるんだよ」
言われて、ミラは薪運びの日を思い出した。夕方、厨房のベッタが残りを倉庫へ運んでいた。
「見つけても、先に頼まれた仕事を終えた方がいいのでしょうか」
「全部放っておけとは言ってない。危ないものなら知らせる。急がないなら覚えておいて、頼まれた仕事へ戻る。三十二人で暮らしているんだから、一人の気になることに全員の手を止めるわけにはいかないんだ」
「分かりました。すみません」
「あんたは、分かるとすぐ謝るね。謝ったあと、別の気になるものを見つけるとまた止まるから、こっちも困ってるんだけどさ」
ハンナの声に怒鳴る勢いはなかった。疲れているのだと、ミラにも分かった。
東共同寮では、家族や仕事を失った者が食事と寝床を与えられる代わりに、厨房、洗濯、清掃、縫製、薪運びなどを分担している。食料にも薪にも余裕はなく、一人が終えられなかった仕事は別の誰かへ回る。
半年のあいだ、ミラの残した仕事を代わりにこなすのは、たいていベッタか洗濯場の年長者だった。
ハンナは帳面を閉じた。
「入ったときに、職業札を見せてもらったね。職名は《無役》。技能は《火起こし》と《野草知識》、それから《応急手当》だった」
「はい。十二歳で札を受け取ったときから、職名は変わっていません」
「職業は変わるもんじゃないからね。何か職がついていれば、その職に近い技能は伸びやすいし、雇う側も何を覚えさせればいいか見当がつく。でも《無役》には、その後押しがない。だからこの半年、厨房も洗濯も薪も、実際にやらせてみるしかなかった」
「技能があっても、《無役》だと仕事は見つけにくいですか」
「見つけにくいね。職名を見れば、その人が何を覚えやすいか分かるから、雇う方だってそっちを選ぶ。あんたに何もできないと言ってるんじゃないよ。でも冬までに備えなきゃならないことは多い。これ以上、他の者にあんたの分まで働かせるわけにはいかない」
ハンナは小さな革袋を机へ置いた。
「今日で共同寮を出てもらう。最後の七日分と退去手当で銀貨三枚だ。西のラトス村で冬支度の人手を募集してる。職業不問だから、少なくとも《無役》だというだけで断られることはない」
「ラトス村では、どんな仕事をするのでしょうか」
「畑の片づけ、薪割り、家畜小屋の補修あたりだろうね。あんたに合うとは約束できない。ただ、ベルクで職名を見て人を選ぶところを回るよりは、試させてもらえる可能性がある」
慰めではなかった。その方がミラには分かりやすかった。
「分かりました。日暮れまでに出ます。それと、今夜の豆はもう水に浸してあります。夕方の鐘より前に上げないと、皮が割れると思います」
ハンナは数秒黙った。
「追い出される話をした直後に、夕飯の豆が気になるのかい」
「長く浸しすぎると、煮たときに崩れます」
「そういうところなんだよ、本当に。豆はベッタに言っておくから、あんたは自分の支度をしな」
ミラは首から下げた職業札に指を触れた。共同寮へ入った日も、ここを出る今日も、そこにある職名は《無役》のままだ。寮長にも雇い主にも、その文字を変える権限はない。
札を首へ戻して部屋を出ようとしたところで、ハンナに呼び止められた。
「ミラ。嫌いで追い出すんじゃないよ。それだけは、間違えないでおくれ」
ミラは少し考えた。嫌われていないことと、ここでは働けないことは、同時に成立するらしい。
「はい。今度は分かりました」
「ならいい。外へ出たら、分からないことを自分一人で確かめ切ろうとするんじゃないよ。あんたは納得するまで止まれなくなるから、困ったら誰かに聞きな」
「はい。聞ける人がいるうちに聞きます」
寮長室を出たミラは五歩ほど進み、また戻った。窓際の植木鉢へ水をやり、土へ染み込むのを確かめてから、今度こそ厨房へ向かった。
◇
厨房では、ベッタが古い小鍋を布で拭いていた。縁の一部が欠け、片方の取っ手も少し曲がっている。
「これ、持っていきな。今日捨てることになったから、あんたが拾ってもあたしは知らない」
「先週から捨てるか相談していた鍋ですよね。欠けの横に細いひびもあります」
「知ってるよ。だから捨てるんだよ。強い火には掛けず、ひびが伸びたら本当に捨てな」
ベッタは小鍋の中へ黒パンを二つ、しなびた玉葱、乾燥豆の袋、固くなったチーズの端を入れ、最後に古い木匙まで押し込んだ。
「これも捨てる物ですか?」
「そういうことにしときな。共同寮の食料を勝手に持たせたってハンナに言われたら、あたしまで外へ出される」
「ありがとうございます。大事に使います」
「壊れたら捨てるんだよ。物にまで義理立てするんじゃない」
ベッタは鍋を渡したあと、ミラの外套の前を閉じた。ミラが自分で留めると、一番上のボタンを忘れることが多い。
「半年いて、料理は最後まで速くならなかったね。芋を切らせりゃ大きさは揃うし、粉袋が湿ってたのも薬草棚に虫が入ったのも、最初に見つけたのはあんただった。けど昼の鐘を過ぎてから飯が出たら、芋がきれいでも腹は膨れない」
「では、棚や袋を調べる仕事ならできたのでしょうか」
「一日中、棚の前に立って虫と湿気だけ探す仕事があるならね。あたしは聞いたことないけど」
ベッタはそう言ってから、小鍋を見た。
「ただ、場所が悪かったで全部済ませるんじゃないよ。あんたが厨房に向かなかったのは本当だし、他の人に仕事を残したのも本当だ。次の場所でも、自分だけで抱え込んで仕事を止めたら同じことになる」
「はい。気になるものを見つけたら、先に急ぐかどうか考えます」
「それができりゃ、ハンナも半年苦労してないさ。まあ、覚えてるだけでも前よりましだよ」
ベッタは笑い、外套の襟を直した。
「西へ行くなら、夜は道から外れない。角兎ならともかく、角狼に会ったらその鍋じゃ勝てないからね」
「鍋で戦う予定はありません」
「そこは安心したよ。豆はあたしが上げるから、行ってきな」
「行ってきます」
口にしてから、ミラは少しだけ変だと思った。共同寮へ戻ってくる予定はない。
こうしてミラは、ベッタにもらった小鍋と食べ物、それに着替えや毛布などの身の回りの物を布袋へまとめ、共同寮を出た。
◇
ベルクの西門へ向かう途中、屋台から焼いた腸詰めの匂いが流れてきた。銀貨三枚のうち一枚は枯木宿までの荷車代に消え、残りから宿代と食料も払わなければならないので、買わないと決めた。
見なければ諦められると思ったが、匂いまでは目を閉じても消えなかった。
西門前には、ラトス村の募集札がまだ貼られていた。
《冬支度の人夫を求む。経験、職業を問わず。食事と寝床あり》
御者へ銀貨一枚を払い、塩樽と空の酒瓶が積まれた荷台の隅へ乗せてもらう。他の客は行商人が一人と、祖母を訪ねるという少年だけだった。
荷車が西街道へ出てしばらくすると、御者が前を向いたまま声をかけてきた。
「ラトスの募集を見た口か。冬前は人手が要るから、畑仕事の経験がなくても使ってもらえるかもしれんが、朝は早いぞ」
「朝は苦手です。ただ、字は読めますし、書くのも遅いですができます。厨房でも半年働きました」
「料理ができるなら、そっちで売り込めばいいじゃないか」
「昼食を夕方に出したことがあります。芋の大きさは揃っていました」
御者が肩越しにミラを見た。
「それを料理ができる方へ数えていいのか?」
「共同寮では、数えてもらえませんでした」
御者は声を出して笑った。
「村へ着くまでに、もう少しましな売り込み方を考えとけ。職業不問ってのは、何もできなくていいって意味じゃない」
「はい。何なら役に立つのか考えてみます」
一日目の午後、道は長い下り坂へ入ろうとしていた。
ミラはその少し前から、左後輪を見ていた。車輪が回るたび、留め具の端に見える金属の位置が少しずつ変わっている。見間違いかもしれないと思い、何度か回転を数えた。それでも、やはり外側へ動いていた。
「すみません。左の後ろの車輪ですが、留め具が少しずつ外へ出ています」
御者はすぐに手綱を引いた。
荷車を道端へ止め、左後輪の金具を確かめた途端、顔色が変わった。留め具は半分以上抜け、指で触れるだけでも少し動く。
「おいおい……」
御者は荷台を振り返り、それからすぐ先の下り坂を見た。
「嬢ちゃん、いつから気づいてた?」
「少し前です。見間違いかもしれないので、何回か見ていました」
「次からは、違うと思ったところで言え。見間違いなら俺が笑えば済む。これ、このまま坂へ入ったら左輪が抜けてたぞ」
御者は金具を槌で打ち込みながら、荷台の塩樽を顎で示した。
「荷だけひっくり返るならまだいい。これだけ積んで坂で片輪を失ったら、馬ごと横へ持っていかれる。俺たちも無事じゃ済まん」
祖母を訪ねるという少年が、荷台の縁から坂を覗き、慌てて座り直した。
金具を打ち終えた御者は、もう一度強く車輪を揺すった。それから立ち上がると、今度は笑うのではなく、真っ直ぐミラを見た。
「よく見つけたな。ほんとに助かった。畑の腕は知らんが、嬢ちゃんのその目は役に立つぞ。今日ここに乗ってた全員、あんたに助けられたと思っていい」
ミラは何と答えればいいのか分からず、左後輪を見た。
「でも、もっと早く言った方がよかったです」
「そこはそうだ。だから次は早く言え。それと、助かったことは別だ」
御者はそう言って御者台へ戻った。
荷車は翌日の夕方に枯木宿へ着いた。ミラが布袋を抱えて降りると、御者が呼び止め、銅貨を何枚か手のひらへ押し戻した。
「車輪を見つけた分だ。取っとけ」
「でも、仕事として頼まれたわけではありません」
「頼む前に壊れるのを見つけたんだろ。あの車輪を壊しただけでも、修理にこれじゃ足りん。坂で荷車まで潰したら話にならない」
ミラは銅貨と御者を見比べた。
「お金を払う方が、仕事だったか決めてもいいんですか?」
「少なくとも今日は俺が払う側だ。だから仕事だ。胸張ってもらっとけ」
ミラは銅貨を握った。
「ありがとうございます」
「村で何ができるか聞かれたら、芋の話より先にこっちを言えよ」
「はい。そうします」
何かの違いを見ていただけで、誰かが大きく喜び、それにお金まで払った。
そんなことは、生まれて初めてだった。
◇
夕食を取ろうとして布袋を開いたものの、ミラは黒パンを一つ取り出して、また戻した。
ラトス村までは、少し歩くはずだった。けれど道を間違えたり、雨で足止めされたりすることもある。食べ物は少し残しておいた方がいい。
枯木宿を出る前に食べた薄い粥も、まだ腹のどこかに残っている気がした。
そう考えて、水を飲んで毛布へくるまった。
横になると腹が一度だけ鳴ったが、眠ってしまえば気にならなくなった。
枯木宿で一泊した翌朝、ミラはラトス村へ向かった。
宿の主人から、村までは徒歩で二日ほど、山へ入った先の分かれ道では新しい木製の案内板に従えと教えられた。
昼を過ぎた頃、道が二つに分かれた。
右へ続く道は人一人が通れるほど細く、草に半分覆われている。道端には新しそうな木の板が倒れていたが、先端が折れ、泥をかぶって文字の一部しか読めない。
左の道は幅が広く、雨水の溜まった轍の跡まで残っていた。脇に立つ古い石の道標から苔を払うと、《銀鉱山経由 ラトス村》と読めた。
少なくとも、左にはラトス村と書かれている。
ミラは左へ進んだ。
夕方まで歩くと、石造りの待避小屋が見つかった。屋根も壁も残り、古い炉まであったので、ミラはそこで夜を明かした。
翌日は朝から雲が低かった。
道の左右には朽ちた木の柵や、文字の読めなくなった注意札が残っている。人や荷車とすれ違わないことは気になったが、幅の広い道と石の道標を信じて歩き続けた。
昼を過ぎる頃には風が強くなり、雨も降り始めた。
ベルクを出て四日目だった。
外套の内側まで濡れ、靴にも水が入った頃には、足の指の感覚が鈍くなっていた。濡れた革靴で長く歩けば、こうなるものなのだろうとミラは思った。
布袋の紐が緩んでいるのに気づいて結び直そうとしたが、指がうまく曲がらない。二度やり直して、三度目でようやく結べた。
「雨の日は、紐も結びにくいんですね」
誰もいないので、返事はなかった。
昼食を取っていないことには、そのとき気づかなかった。
ミラは土砂を見上げ、それから来た道を振り返った。
「こっちは、今は使わない道だったんですね」
道標の文字が間違っていたわけではない。ただ、いつまで使える道なのかまでは書かれていなかった。
待避小屋まで戻れば半日はかかる。雨脚も強くなっていたので、まず雨を避けられる場所を探そうと岩壁沿いに戻り始めた。
靴の下で泥が動いた。
足を引くより早く、斜面の土ごと崩れる。灌木へ手を伸ばしたが、濡れた枝は簡単に折れた。
ミラは尻から斜面を滑り、倒木の下をくぐり抜け、最後は落ち葉の積もった地面へ転がった。
「いたい……」
しばらくそのまま呼吸を整えてから手足を動かした。肘と腰は痛むが、骨が折れた感じはない。
見上げると、滑り落ちてきた場所は倒木と灌木に隠れている。ミラが落ちたのは、三方を岩壁に囲まれた窪地だった。
斜面へ二度取りついてみたものの、水を吸った土が足の下から崩れ、途中までしか登れない。二度目に右の手のひらを擦りむいたところで、三度目は怪我を増やすだけだと諦めた。
雨宿りできる場所を探して岩壁に沿うと、根を上にした大木が倒れている。その裏側に黒い隙間があり、周囲の土は新しく、折れた根もまだ白かった。昨夜からの雨で岩壁の一部が崩れ、塞がれていた穴が現れたらしい。
中を覗いても獣の臭いはせず、足跡もない。奥からはわずかに風が流れてくる。
「一晩だけ、お借りします」
誰に断ったのかは分からなかったが、何も言わずに入るよりはいい気がした。
布袋と小鍋を先に押し込み、小柄な身体を横にして岩の隙間を抜ける。三歩ほど進むと、急に空間が広がった。
そこで足から力が抜けた。
岩壁へ手をついたが、冷え切った指には力が入らない。遠くで続いていた雨音が急に小さくなり、足元が傾いたところまでは覚えていた。
次に気づいたとき、頬が冷たい岩床についていた。
入口から差す灰色の光は、さっきより薄くなっている。どれくらい横になっていたのかは分からなかった。
「……寝ていたのでしょうか」
身体を起こすと頭が重く、滑り落ちたときに打った肘と腰も痛んだ。濡れた外套が肩へ張りつき、袖口から水を絞れるほどだった。指先は白く冷え、曲げると遅れて鈍い痛みが返ってくる。
外はもう夕方に近い。入口の光が消えれば、洞窟の中には月明かりすら入らないだろう。
そのことを考えた途端、奥の暗がりが急に近く感じられた。
少し安心したが、見えない場所に何もいないことと、何も見えないことは別だった。
ミラは火口袋を出し、入口近くに落ちていた枝の皮を削った。《火起こし》は持っている。乾いてさえいれば、共同寮でも火をつけることはできた。
けれど今日は、枝の芯まで雨を吸っていた。
火打ち石の火花を火口へ移し、小さな炎を作っても、細枝へ移した途端に水気が音を立てて消してしまう。三度目には火口そのものが減ってきたので、ミラは手を止めた。
今夜ぶんを全部使い切って、それでも火がつかなければもっと困る。
「暗くなる前に、乾いているものを探さないと……」
自分の声が岩壁へ返り、思ったより遠くまで響いた。
布袋から毛布を出して肩へ重ねる。乾いていた内側まで濡らさないようにしたが、震えはなかなか止まらない。
薄暗い入口の光を頼りに周囲を見ると、少し奥の岩壁だけが丸く組まれていた。煤で黒くなった石組みと、そのそばに壊れた棚、灰をかぶった石台がある。以前ここを使った者が残した炉らしい。
ミラは炉の前へしゃがんだ。
灰は冷たく、指を入れても熱はない。棚の木も湿気を吸い、すぐ燃えそうには見えなかった。
入口の光が、また少し弱くなった。
共同寮なら、そろそろ夕方の鐘が鳴る頃だ。厨房ではベッタが豆を鍋へ移し、誰かが食堂の灯りをつけている。
今夜、そこへ戻ることはない。
ラトス村にも辿り着いていない。
ミラは冷たい炉へ両手をかざした。もちろん何も暖かくはならなかった。
「明日の朝まで、ここにいてもいいでしょうか」
返事はなかった。
代わりに、首から下げた職業札が淡く温かくなった。
《古代炉との接続を確認しました》
《炉守り候補――ミラ》
ミラは職業札を手に取った。
「炉守りって、何をするんでしょう」
《炉守りは、帰り火が新たに定義した職業・技能候補を確認し、対象への提示を仲介します》
ミラは顔を上げた。
いまのは、こちらの言葉へ返ってきた。
「新たに定義するというのは、今まで世界になかったものも作れるんですか?」
《可能です》
《既存技能体系に存在しない技能、および既存職業体系に存在しない職業を新規に定義できます》
「職業まで……?」
職業は生まれたときに与えられ、その後は変わらない。それが常識だった。
《帰り火は、本人の承認により職業を変更できます》
「本人が嫌だと言ったら?」
《変更しません》
白い文字が切り替わった。
《炉守りを引き受けますか?》
《はい》
《いいえ》
洞窟には古い炉と壊れた棚しかなく、管理すると言われても何をすればいいのか分からない。
それでも、勝手に何かを押しつけられるわけではないらしい。
「引き受けたあとで、分からないことを質問してもいいですか?」
《可能な範囲で回答します》
何でも答えられる、とは書かなかった。
その方が、ミラには少し信用できた。
もう一度、冷たい炉へ目を落とす。
外は暗くなりかけていた。濡れた外套は重く、毛布を巻いていても指の震えは止まっていない。
「では、やります」
《はい》へ指を触れた。
《炉守り――ミラ》
《登録しました》
炉の奥で、乾いた音がした。
灰の底から金色の火が立ち上がる。
ミラは反射的に身を引いたが、炎は噴き上がらず、石組みの中で静かに燃え始めた。
最初に感じたのは明るさだった。
さっきまで一つにつながっていた洞窟の暗がりから、炉の周りの岩床と石台が切り出される。次に、頬へ熱が届いた。両手を近づけると、冷えていた指先がじんじんと痛み、その痛みまで少し嬉しかった。
濡れた袖から細い湯気が上がる。
「……暖かいです」
声にすると、肩から力が抜けた。
火がある。
少なくとも今は、真っ暗な洞窟で震えている必要はない。
薪を足していないことに気づいたのは、そのあとだった。
ミラは暖まった手を膝へ置き、炉の石組みを見た。左上だけ煤の色が薄い。炎が近くを通るたび、ほんのわずかに石が鳴っている。
気になって顔を近づける。
「ここだけ、少し動いています。上に物を置くなら、その前に直した方がよさそうです」
指先で触れると、石と石の間から細かな灰が落ちた。
《炉守りの観測行動を照合します》
《既存技能体系――該当なし》
《未定義特性を確認しました》
《新規技能候補《欠け見》を定義しました》
ミラは文字と、自分が触れている石を交互に見た。
「今のが、技能になるんですか?」
《候補です》
「《欠け見》というのは?」
《目立たない差異、欠損、既知の分類に収まりきらない特徴を捉える技能です》
ミラは少し考えた。
虫食いの薪、外れた布札、湿った粉袋、それから車輪の留め具まで、どれも同じように気になって目が止まった。
「これまでしていたことに、名前がつくんですね」
《《欠け見》を取得しますか?》
《はい》
《いいえ》
「これも、私が決めていいんですよね」
《はい》
今度は迷わず《はい》へ触れた。
《新規技能《欠け見》を取得しました》
ミラはすぐ職業札を開いた。
《職名》には《無役》。技能には《火起こし》《野草知識》《応急手当》。何度見ても、それだけだった。
「……《欠け見》がありません」
《世界未登録技能は、職業札の技能欄へ表示されません》
「世界未登録?」
《既存技能体系に《欠け見》は登録されていません》
ミラは職業札から顔を上げた。
「では、世界にはまだない技能なんですね」
《はい》
「同じ技能を持っている人は、ほかにいますか?」
《帰り火が定義した《欠け見》の取得者は、現在ミラのみです》
ミラは返事をせず、しばらく職業札を握っていた。
共同寮では、気になるものを見つけるたび仕事を止めた。荷車では、その同じ目を御者が役に立つと言って、銅貨まで払った。
布袋の中で、その銅貨が小さく触れ合った。
「変なところを見る目でも、技能になるんですね」
《はい》
ミラの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「では、覚えておきます。職業札には出ないなら、忘れないようにしないといけません」
帰り火は何も表示しなかった。
ミラはもう一度炉へ手をかざした。金色の火は変わらず暖かい。
◇
身体が暖まると、今度は空腹がはっきりしてきた。
ミラは小鍋を出し、岩の割れ目から落ちる水を少しずつ溜めた。薄く切った玉葱と黒パンを入れ、チーズの固いところを削って塩を加える。
帰り火へ鍋を掛けても、炎は消えず、強くもならなかった。ただ、鍋底へきちんと熱は伝わった。
湯気に玉葱の甘い匂いが混じる。
濡れた外套は石台へ広げておいた。袖から落ちていた水は止まり、炉に近いところから少しずつ乾き始めている。
固かったパンが汁を吸い、木匙で押すと崩れた。鍋底へ張りついたチーズをこそげると少し焦げていたが、雨の中を歩き続けたあとの身体には、その塩気もありがたかった。
半分ほど食べた頃には、指先の震えもほとんど治まっていた。
共同寮を出るとき、今夜どこで眠ることになるのか分からなかった。
今は少なくとも、火のそばに座っている。
ミラが小鍋を膝へ置いたところで、洞窟の奥から岩を引っかく音がした。
木匙を持つ手が止まる。
火の届かない暗がりに、二つの目が光っている。
土に汚れた黄土色の鱗、白い腹、短い角。片方の角は途中で欠け、ずんぐりした身体は子供ほどの大きさしかない。それでも口を開けば細かな牙が見えた。
魔物は、こちらを見ていた。
正確にはミラではなく、膝の上の小鍋を見ていた。
ミラも小鍋を見る。
煮込みは半分しか残っていない。
「二人分には少ないですね」
暗がりから、きゅう、と小さな声が返ってきた。
ミラは追い出されましたが、この物語まで追い出さずにいてくださる方は、ブックマークに設定していただけると嬉しいです。




