旅商人は帰り道を測ります
《帰還》で洞窟へ戻ってから二日後、レオンは自分の部屋の石床に帳面を広げていた。
左上腕にはまだ包帯が残り、脇腹には鎖帷子越しに受けた斬撃の痣がある。傷そのものより、以前角狼に噛まれた左肩へ痛みが戻っているのが厄介だった。腕を胸より高く上げようとすると、筋の奥が鈍く引きつる。
昼食の木椀を下げに来たミラは、入口をまたいだところで一度止まった。
床に置かれた剣帯が邪魔をしている。
「レオンさん、それ、昨日もそこにありましたよ」
「二日続いただけで習慣扱いか」
「私は二日続けてまたいでいます。キュウなら三日目には踏むと思います」
「それはありそうだな」
レオンは右手で剣帯を拾った。いま自分が寝起きしている部屋で、誰かが何度も避けて通る物を放っておく理由もない。
「悪かった。壁に掛ける木栓を作るまでは、寝具の脇に置く」
ミラが少しだけ目を丸くした。
「素直ですね」
「怪我人は抵抗する体力が少ないんだよ」
「では治ったら戻るんですね」
「そこまで期待するな」
ミラは笑いながら木椀を重ね直した。
部屋には寝具と木箱が一つ、帳面を置く低い板、それに壁へ立てかけた剣があるだけだった。帰り火が作ったのは石の空間までで、椅子も棚もなければ、旅装を掛ける場所もない。
入口脇には、ベルクから持ち帰った短い板が二枚置いてある。荷物をほどいた翌日、ミラが蜂蜜の瓶を見つけたときは、売り物を見るような顔ではなく、夕食へ何を足そうか考える顔をしていた。
「まだ宿屋より物が少ないですね」
「宿屋なら椅子くらいある。木栓を何本か打って、板を一枚棚にすれば十分だ」
「布を一枚掛けたら、もう少し部屋らしくなりますよ」
「布を掛けるなら無地でいい。柄を選ぶのは面倒だ」
「まだ買う話もしていません。選ぶのも少しは楽しいですよ」
「お前が選ぶ分には止めない。俺の分まで花柄にするなよ」
「花柄も似合うかもしれません」
「その顔で言うと本気か冗談か分からんな」
ミラは返事をせず、何もない壁を見上げた。
レオンは帳面の端へ木栓三本、棚板一枚と書き足した。旅では持ち物が少ないほど楽だった。寝場所へ物を増やすこと自体、長いあいだ自分とは縁のない話だった。
「旅商人って、みんなこんなに物が少ないんですか?」
「人による。馬車を家みたいにしてる奴もいるし、道具を増やしすぎて荷造りのたびに揉めてる夫婦もいた」
「夫婦で行商する人もいるんですね」
「俺が知ってるのは一組だけだ。二人とも荷物を減らす気がなくて、出発の朝は毎回ひどかった。鍋を一つ置いていくかどうかで半刻揉めて、それでも次の町には一緒に着く」
「喧嘩していても、一緒に旅をしているところはちょっと楽しそうです」
「俺は荷造りのたびに喧嘩するのは嫌だな。でも、あの二人はあれで続いてたから、本人たちには合ってたんだろう」
ミラが持っていた木椀を膝へ置く。
「そういえば、《旅商人》というのは仕事の呼び方ですか。それとも職名ですか?」
「職業札に出る方だ。仕事としては行商人と呼ばれることも多い」
「レオンさんの職業札、ちゃんと見たことがありません」
「素材鑑定だけは前に見せただろ」
「職名も技能も全部は見ていません。普通は見せないものなんですよね」
「ああ。必要もないのに他人へ全部見せる奴は少ない」
レオンは胸元の職業札へ指を掛けた。
二日前、《帰属》を選び、《帰還》を得た。どちらも、ベルクの組合にも旅先の冒険者にも話せる類のものではない。その一方で、ミラには取得の通知まで届いている。秘密にする相手を間違える方が不自然だった。
「ちょうどいい。俺の《帰還》と、お前の《欠け見》を一度比べたい。職名と技能を見せる。お前も、嫌じゃなければ同じ範囲を見せてくれ」
「嫌ではありません」
「なら、頼む」
レオンは開示範囲を選んだ。
《職名――旅商人》
《素材鑑定 Lv4》
《剣術 Lv4》
《騎乗 Lv4》
《野営 Lv4》
《解体 Lv3》
《商談 Lv4》
《危険察知 Lv3》
ミラは桃色の目を細め、上からゆっくり読み下した。
「四が多いですね。五まででしたよね?」
「五は珍しい。その道を長くやってても、誰でも届くわけじゃない。俺は一つを極めるより、旅先で必要なものを広く覚えた方だな。《旅商人》だから騎乗や野営、商売に関わる技能は伸びやすい。剣術はほとんど自前だ」
「自前で四まで上げたんですか?」
「街道じゃ必要になる」
「必要なものは、ほかにもたくさんありますよね」
レオンは一瞬だけ黙った。
「……まあ、剣は嫌いじゃなかった」
「職名は、最初から《旅商人》だったんですか?」
「十二歳の判定で札を受け取ったときからだ。北の鉱山町にいた頃は、これで何をしろって話だと思った」
「その頃から旅が好きだったわけではないんですね」
「子どもの頃から街道を見て胸を躍らせる性格なら、もう少し愛想のいい商人になってた」
ミラが笑った。
「今も、そんなに悪くないと思いますよ」
「評価が甘いな」
「ベルクの商人さんたちと話しているときは、ちゃんと商人の顔をしている気がします」
「普段と違うと思うか?」
「きっと違います。値段の話をしているときは、目が少しだけ細くなります」
「それは相手が嘘をついてないか見てるだけだ」
「今より怖そうです」
「それなら、普段は少し得してるらしいな」
ミラはまた笑った。
レオンはその顔を見てから、自分の札へ視線を戻す。
「《素材鑑定》が四なら、見ただけで何でも分かるんですか?」
「素材としての種類や状態、質、魔力の癖、何に向くか。その辺りはかなり分かる。だが鍛冶のやり方まで勝手に頭へ入るわけじゃないし、値段は市場を知らなきゃ付けられない。何でも分かるなら、帳面も相場も覚えずに済んでる」
「便利ですけど、教えてくれないことも多いんですね」
「普通の技能はそんなものだ。できることが深くなるだけで、別の技能まで食わない」
ミラも職業札を開いた。
《職名――無役》
《火起こし Lv1》
《野草知識 Lv2》
《応急手当 Lv1》
レオンは一度読み、もう一度最初から見直した。
「《欠け見》がないな」
「……本当ですね」
「使えなくなったわけじゃないだろ?」
ミラは膝の上の木椀を一枚持ち上げ、縁を指でなぞった。
「使えます。この椀、昨日はなかった細い割れがあります。ここです」
「なら技能そのものは残ってる。椀は今日で引退だな。熱い汁を入れて割れたら面倒だ」
「まだ使えそうなのに、少しもったいないです」
「匙でも置けばいい。捨てなくても用途はある」
「それなら、そうします」
ミラは割れた椀だけ別に重ねた。
「帰り火から《欠け見》をもらったとき、技能だと言われたので、札にもあるものだと思っていました」
「俺も同じだ」
レオンは自分の札を裏返し、もう一度表示させた。《帰還》はどこにもない。
「こっちもない。本人の中にはある。使い方も分かる。なのに札には出ない」
「固有技能でも出るんですよね?」
「ああ。本人にしか成立しない技能でも、世界側に登録されてるなら札には出る。宝珠で借りてる力は本人の技能じゃないから別だが、俺は《帰還》の宝珠なんか持ってない」
「魔法では?」
「空間を移す術や、それに近い宝珠の話は聞いたことがある。ただ、魔術なら術式と魔力を使う。《帰還》はそれと違う。帰る先を思えば、どう使うかだけ感覚で分かる」
ミラは二枚の職業札を並べて眺めた。
「《欠け見》と似ていますね。帰り火は技能と言うし、本人は使える。でも札にはない」
「炉に聞けるところだけ聞いてみるか」
レオンは立ち上がろうとして、左肩へ力が入ったところで動きを止めた。
ミラの視線がすぐそこへ落ちる。
「先にお椀を置いてきます。戻るまで一人で立たないでください」
「炉まで歩くだけだぞ」
「二日前は洞窟の入口から部屋まで歩くだけでも、壁を使っていました」
「分かった。待つ」
ミラは木椀を抱えたまま少しだけ目を丸くしたが、何も言わず部屋を出た。
◇
主洞へ出ると、キュウが通路の真ん中で腹を床につけて寝ていた。前脚の下には、見覚えのある布が敷かれている。
「それ、俺の手拭いじゃないか」
レオンが声を掛けると、黄土色の幼竜は片目だけ開けた。
「きゅう」
「返事になってないな」
取り返そうと手を伸ばすと、キュウは布の上へ顎まで乗せた。
後ろから戻ってきたミラが笑う。
「かなり気に入ったみたいですね。もう一枚あるなら、今日は貸してあげたらどうです?」
「俺の物を勝手に寝床へするのは違うだろ」
「では、あとでキュウ用の布を一枚作りましょう」
「それならいい」
「返してもらう代わりに、新しいのを渡すんですね」
「盗られ続けるより安い」
結局、手拭いはその場では取り返さず、二人はキュウをまたいだ。
主洞は二日前までと空気が違っていた。穀物箱は岩壁の近くへ寄せられ、敷物の端は乾いている。水場と魔力泉には変化がないのに、人が暮らす範囲だけ冷たい湿り気が薄れていた。
帰り火の前まで来ると、レオンは石台へ腰を下ろした。平常時、炉の文字はミラにしか見えない。レオンが聞きたいことを言い、ミラが帰り火へ問い直す。
「まず、《欠け見》と《帰還》が本当に技能なのか」
「帰り火。《欠け見》は技能ですか。それから、《帰還》も技能ですか?」
金色の火は、レオンから見ればいつも通り揺れている。
「どちらも技能だそうです」
「じゃあ、なぜ職業札に出ない」
ミラが問い、すぐに眉を下げた。
「《回答できません》です」
「そこは駄目か。なら《帰還》についてだけ聞こう。帰り火へ戻るための技能なのか」
ミラが訊き直す。
「《はい》です」
「炉縁者じゃなくても持てるのか?」
今度は少し間があった。
「《帰還》は、炉縁者でないと持てないそうです」
「そこは答えるんだな」
「でも、どうしてレオンさんに発生したのかは《回答できません》です」
「まあ、そこまで親切なら昨日のうちに説明してるか」
距離、随伴人数、触れている必要があるか、荷物がどう扱われるか。実用上知りたいところへ踏み込むと、返るのは全部《回答できません》だった。
レオンは分かったことだけ帳面へ書く。
「帰り火は技能だと言う。本人も使える。それでも札には出ない。普通の技能と同じだと思い込まない方がよさそうだ」
「《欠け見》も同じですね」
「ああ。分からないものを、分かったことにしない。それで十分だろ」
ミラは金色の火を見ながら、しばらく考えていた。
やがて炉の横に置いた小鍋の蓋を開ける。
「お湯、まだ温かいです。飲みますか?」
「もらう」
「今日は薄いですよ。朝に一度使った葉なので」
「薄い方がいい」
「私は濃い方が好きです」
「じゃあ一番はお前が飲め。俺は二番でいい」
「毎回ですか?」
「濃い方を欲しがる奴がいるなら、取り合う理由がないだろ」
「なんだか得した気がします」
「蜂蜜は入れすぎるなよ。あれは次に買えるとは限らん」
「昨日は小匙一杯だけです。今日は半分にしますか?」
「それでいい。次に買えると分かるまでは節約する」
「そこは変わりませんね」
「そこが変わったら商人として終わりだ」
ミラが二つの椀へ湯を注ぐ。片方へだけ蜂蜜をほんの少し落とした。
話がそこで切れたので、二人はしばらく黙って飲んだ。
湯を半分ほど飲んだところで、レオンは《帰還》へ意識を向けた。
発動の仕方は覚えている。盗賊に囲まれた場所でも、取得した瞬間にはどう使えばいいかだけは感覚として掴めた。
だが今は、そこへ手を伸ばしても開かない。
「今は使えないな」
「怪我のせいでしょうか?」
「分からん。傷が原因なら治れば戻る。やり方を忘れた感じじゃない。技能はあるのに、今は使えないと最初から分かる」
「では毎日一回だけ確かめましょう。傷も一緒に見ます」
「そっちが本命だろ」
「両方です」
「分かった。両方でいい」
◇
それからの数日は、《帰還》を待つためだけには使わなかった。
左上腕の包帯は二日で外れ、脇腹の痣も紫から黄色へ変わっていった。古傷を重ねて痛めた肩だけは遅かったが、ミラに止められなくても腕を胸の高さまでなら上げられるようになる。バルトの右後ろ脚の裂け傷も乾き、歩かせても庇う様子がなくなった。
動ける範囲が増えると、まず馬房へ手を入れた。
ベルクから持ち帰った板を切り、壁へ木栓を打って、鞍と手綱を掛ける。バルトの飼葉入れも、石床へ直接置くより高さを出した方が食べやすいように作り直した。
帰り火が作ったのは石の空間と水槽、排水まで。その中を馬が暮らす場所にするのは、自分たちの仕事だった。
「バルトさん、名前を呼ぶと耳だけこちらへ向けますね」
飼葉を足していたミラが言う。
「聞いてる。返事をしないだけだ」
「キュウは返事をするので、つい比べてしまいます」
「比べる相手が悪いな。バルトは口数が少ない」
「レオンさんと似ています」
「俺は名前を呼ばれたら返事くらいする」
「それなら、バルトさんより少しお喋りですね」
「比較相手が馬なら勝てるな」
バルトは二人の会話など関係なく、飼葉を噛み続けていた。
別の日には、レオンの部屋の壁へ木栓を三本打った。一本には外套、一本には剣帯を掛け、三本目は空けておく。
「三本目、何を掛けるんですか?」
「まだ決めてない。二本だけだと間が悪かった」
「決めていないのに増やしたんですか。……でも、確かに三本の方がきれいです」
「なら、それでいい。空いてるからって何か掛けなくていいぞ」
「見ると掛けたくなりますけど、しばらく我慢します」
翌朝、空いた木栓にはキュウがどこかから運んできた長い草が一本引っ掛かっていた。
「お前か?」
「きゅう」
「聞いても無駄か」
抜こうとして、レオンは手を止めた。
別に邪魔ではない。
「それ、取らないんですか?」
「二日くらい置いとく。飽きたら本人が持っていくだろ」
「キュウ、飾ったつもりかもしれませんよ」
「そうなら、なおさらすぐ取るのも悪いだろ」
言ってから、自分でも少し可笑しくなった。
六日目の夜、左肩を大きく回しても痛みはかなり減っていた。それでも《帰還》へ意識を向ければ、昨日までと同じ閉じた感触がある。
七日目の朝も変わらない。
昼を過ぎ、最初に《帰還》した頃の日の傾きへ近づいたとき、レオンは馬房の前で手綱の革を拭いていた。ミラは少し離れた場所で、干していた布を取り込んでいる。
何気なく《帰還》へ意識を向けた瞬間、昨日までとの違いが分かった。
「ミラ」
「今、両手が塞がっています」
「手伝えって話じゃない。《帰還》が使えそうだ」
ミラが布の山から顔だけ出した。
「七日目です」
「数えてたのか」
「数えています。ちょっと待ってください」
「布は先に置いてこい。落とすぞ」
「そうします」
洞窟へ入り、しばらくして小さな帳面だけ持って戻ってくる。
「最初に帰ってきた時刻と、だいたい同じ頃です。六日間は使えず、七日目に変化。一回目、と書いておきます」
「一回で七日固定とは書くなよ」
「書いていません。レオンさんが言いそうなので」
「ならいい」
初回の帰還で分かっているのは、バルトを一緒に連れてこられ、鞍と荷も来たこと。そのときレオンは手綱を握っていたこと。そして、当時のバルトはまだ炉縁者ではなかったことだった。
「今日は二つだけ見る。キュウとバルトを同時に連れて帰れるか。もう一つは、触れてなくてもいけるかだ。距離まで広げると、失敗したとき何が悪いか分からなくなる」
「私は一緒に行かなくていいですか?」
「お前はここで待っててくれ。人間を連れて帰れるかはまだ一度も試してない。調べるためだけに、お前を最初の一人にする理由もない」
「分かりました。夕食までには戻ってきてください」
「帰還できなくても歩いて戻れる距離にする」
「では、少し遅れても取っておきます」
「冷める前には帰るよ」
ミラが一瞬だけこちらを見た。
「……はい」
◇
その日の午後、レオンはキュウとバルトを連れて洞窟から半刻ほど歩き、街道にも旧道にも出ない林の開けた場所を選んだ。
見通しはあるが、遠くから人目に触れない。もし技能が使えなくても、日が落ちる前には歩いて戻れる距離だった。
バルトの手綱を枝へ緩く結び、キュウには少し離れた場所で待たせる。どちらもレオンから十歩ほどの範囲にいるが、身体にも装具にも触れてはいない。
「キュウ、そこにいろ。バルトも動くな」
「きゅう」
バルトが鼻を鳴らした。
「返事だけならキュウの方が優秀だな」
帰すつもりのない木や石は意識から外す。対象は自分とキュウとバルトだけ。三者を一まとまりとして《帰還》へ意識を向ける。
閉じる感触はなかった。
「いけそうだ。帰るぞ」
発動すると、足元から橙色の光が広がった。少し離れたキュウの輪郭へ光が走り、続いてバルトの蹄から白い鬣まで薄く染まる。
林の土と青い匂いが途切れた。
次に足裏へ感じたのは、洞窟前の乾いた窪地だった。
バルトが大きく首を振る。キュウは一度だけ周囲を見回し、何事もなかったように尻尾を揺らした。
二頭ともいる。
レオン自身も前回と同じ窪地へ出ていた。馬が立てるだけの広さがあり、すぐ横にはバルト用の坂が延びている。
洞窟の入口では、ミラが敷物を二枚重ねて叩いていた。
橙色の光に気づいて振り返り、舞い上がった埃をまともに吸い込む。
「けほっ……けほっ」
「悪い。驚かせたな。大丈夫か?」
「帰還より、こっちの方がびっくりしました」
「俺も帰った最初の仕事が埃の心配になるとは思わなかった」
ミラは咳を収め、キュウとバルトを順に確認する。
「二人ともいます。触っていなくても大丈夫だったんですね」
「ああ。十歩くらい離れていても二頭に同時で通った。少なくとも今日の条件ではな」
「帰ってきた場所も、前と同じです」
「バルトがいるから広い方へ出してるのかもしれん。そこはまだ決めない」
レオンは試しにもう一度《帰還》へ意識を向ける。
技能自体はあると分かるのに、発動へ進めない。喉が渇きすぎて、唾が飲み込めない感覚に近いかもしれないとレオンは思った。
「また使えなくなってる。次は今から数える」
「帳面を取ってきます」
「夕食のあとでいい。先にその敷物を何とかしよう。俺も片方持つ」
「肩、大丈夫ですか?」
「右手ならな。端くらい持たせろ」
二人で敷物を洞窟へ運ぶ間、キュウは先に主洞へ走り、バルトだけがゆっくり坂の方へ首を向けた。
◇
二度目の《帰還》から次に使えるようになるまでの一週間は、一度目より早く過ぎた。
レオンはバルトを近くの林まで歩かせ、戻れば鞍を乾かした。ミラは薬草を干し、食事を作り、キュウが窪地へ掘った浅い穴へ文句を言いながら土を戻した。
《帰還》のことを話さない日もあった。
ある夕方、レオンが自分の部屋へ戻ると、キュウが寝具の上で丸くなっていた。
「お前、自分の寝床があるだろ」
「きゅう」
目を閉じたまま動かない。
後ろから覗いたミラが、小さく笑った。
「レオンさんの部屋、落ち着くんじゃないですか?」
「主洞と大して変わらん。敷物が気に入っただけだろ」
「半分くらい空いていますよ」
「自分の部屋ができた最初の週から、キュウと相部屋に戻すな」
「では、キュウが自分で出ていくまで貸すだけで」
「……今日だけだぞ」
結局、その日はキュウが寝返りを打ってさらに中央へ寄ったため、レオンは主洞で帳面をつけた。
別の日、夕食の途中でミラが唐突に聞いた。
「バルトさんって、立ったまま寝ることがあるんですか?」
「ある。横になることもあるし、立ったまま休むこともある」
「私は立ったまま寝たことがありません」
「人間が普通にやり始めたら、そっちの方が心配だな」
「壁にもたれれば、少しくらいならできそうですけど」
「試さなくていい。倒れたら痛い。それに、寝具があるんだから使えばいい」
ミラは少し考えてから頷いた。
「そうですね。今は寝る場所があります」
レオンは木匙を止めたが、何も言わず食事へ戻った。
二度目の帰還から六日目まで、《帰還》はやはり使えなかった。七日目の朝も同じで、前回と似た頃合いになると、閉じていた感触が消えた。
「二回続いたな」
レオンが言うと、ミラは夕食用の燻製肉を切る手を止めずに答えた。
「今のところ、使ったあと七日くらいで戻ると考えてよさそうです」
「ああ。絶対七日と決めるにはまだ早い。条件が違えば変わるかもしれん」
「帳面には『二回確認』と書いておきます」
「それでいい」
「ところで、これ、もう少し薄く切った方がいいですか?」
レオンは切られた肉を見た。厚い方が噛み応えはあるが、ミラは薄く切った方を好むらしい。
「俺は厚い方が好きだ。半分は厚く、半分は薄くすればいいだろ。お前の分まで俺に合わせる必要はない」
「では、そうします」
「それと蜂蜜は、今日は使わなくていい。昨日の根菜はうまかったが、残りを一度数えたい」
「燻製肉には最初から入れるつもりはありません。蜂蜜は明日にします」
《帰還》の話は、そこで終わった。
◇
翌朝、二人は物を対象にした検証をすることにした。
洞窟の外から薪束、空の木箱、石を詰めた袋、使っていない樽を集める。荷車そのものはないので、レオンが見て小さな荷車一台へ載せられる程度に量を揃えた。
実験用とはいえ、ただ運んで戻すだけでは馬鹿らしい。薪は燃やせるし、石袋は坂脇の補修に使える。木箱と樽も、いずれ食料か道具を入れられる。
「全部、あとで使う物なんですね」
「捨てる物をわざわざ運ぶ方が面倒だ」
「実験だけなら、その辺の石でもいいのに」
「石一台分を運んだあと、また戻すのは俺とお前だ。使える物にしといた方が二度手間にならない」
「では、そうしましょう」
バルトの背へ分けて積み、何度か林まで運ぶ。途中で休憩を入れ、ミラは木陰へ座って水を飲んだ。キュウは二人のそばで小さな虫を追い、やがて飽きてバルトの影へ潜り込む。
レオンも水筒を傾けた。
「肩、痛くありませんか?」
「今の荷なら平気だ。お前の方こそ、石袋を持ちすぎるな」
「半分しか持っていません」
「半分でも重い。帰りに腰を痛めたら実験どころじゃない」
「では木箱にします」
「それがいい」
荷を全部運び終えると、まずレオンから三十歩ほど離れた位置へまとめた。荷の脇には、炭で太い線を引いた拳大の白い石を一つ置く。
「その石は帰さないんですよね?」
「ああ。近くにあるだけの物まで勝手に付いてくるのか見たい」
「なくさないように、帰りに拾いましょう」
「ただの石だぞ」
「でも印を付けたので、もう見分けがつきます」
「そうなると惜しくなるのか。相変わらず分からんな」
レオンは薪束、木箱、石袋、樽だけを帰す対象として意識し、白い石は含めない。
《帰還》へ触れた瞬間、使える感触が消えた。
「駄目だ。この配置だと使えない」
「レオンさん一人なら?」
荷を対象から外す。
すぐに使える感触が戻った。
「俺だけならいける。荷を含めると駄目だな」
「量と距離、どちらでしょう」
「量はそのままで近づける。十歩くらいまで寄せて通れば、少なくとも距離が条件の一つだと分かる」
二人で同じ荷を運び直す。
途中、キュウが薪束の縄をくわえて逆方向へ引き始めた。
「キュウ、そちらではありません」
「きゅう」
「手伝うなら方向を合わせろ」
キュウは縄をくわえたままレオンを見上げる。
「……分かった。気持ちだけもらう。離せ」
縄を受け取ると、キュウは満足そうに尻尾を振った。
半径十歩ほどへ同じ量をまとめ、白い石も荷のすぐ脇へ置いたままにする。
今度は、白い石だけを除いて荷を帰還対象にしても、使える感触が消えなかった。
「通るな。三十歩では駄目で、十歩くらいなら同じ量でもいける」
「もっと細かく測りますか?」
「いらん。十五か二十かを知るためだけに全部動かしても、今の使い道は変わらない。荷車一台分くらいを俺の周りへまとめれば通る。それで十分だ」
「さっき失敗したのに、今すぐ使えるんですね」
「あれは発動してない。条件が合わなくて、最初から使えなかっただけらしい。少なくとも今回は待機も消えてない」
レオンは荷を見回した。
「最後は俺だけで戻る。お前はキュウとバルトを連れて先に歩いて帰ってくれ。人間まで混ぜたら、今日は何を見てるのか分からなくなる」
「分かりました。白い石はここですね」
「ああ。荷に付いてこなければ成功だ」
「昼までには戻ってください」
「失敗しても歩けば間に合う。ちゃんと帰るよ」
ミラが頷き、キュウを呼んだ。
バルトの手綱を引いて林の奥へ消えるまで、レオンはその背を見送った。
半刻ほど待ち、周囲に人の気配がないことを確かめる。
自分と薪束、木箱、石袋、樽だけを対象にし、炭で印を付けた白い石は置いていく。
《帰還》を発動した。
橙色の光が足元から広がり、十歩ほどに集めた荷を包む。
林の景色が途切れ、次に見えたのは洞窟前の窪地だった。
薪束も木箱も石袋も樽も揃っている。白い石だけがない。
「指定した物だけ、か」
近くの物を無差別に巻き込むのではなく、一緒に帰すと決めた物が対象になるらしい。少なくとも今回の条件では、小さな荷車一台分ほどの量までまとめて運べる。
それ以上に、レオンの頭へ浮かんだのは帰路の日数だった。
ベルクへ向かう往路は今までと変わらない。《帰還》がベルクから直接届くかも確かめていない。ただ、盗賊に襲われた岩場から洞窟まで戻れたのは事実だ。少なくとも、あの地点より洞窟側の帰路は飛ばせる。
バルトの飼料、自分の旅糧、宿代。帰路で魔物や盗賊に遭う危険。ベルク周辺からでも届くなら、仕入れの量だけでなく、売買の組み立てそのものが変わる。
「ベルクからでも届くなら、ずいぶん楽になるな」
口に出してから、レオンは少し考え直した。
「……楽になるだけじゃないか。帰りの荷を増やせる」
洞窟からミラが出てきた。
「全部来ましたか?」
「白い石以外は揃ってる。あれは置いてくるつもりだった」
「では、あとで確認しに行きましょう」
「昼飯のあとでいいだろ」
「なくなったら困ります」
「だから、ただの石だって」
「印を付けたので、もうただの石ではありません」
レオンはため息をついた。
「分かった。食ってから一緒に見に行こう」
◇
昼食のあと、二人はキュウも連れて林へ戻った。
炭で線を引いた白い石は、荷を置いていた場所へそのまま残っていた。
ミラはそれを拾い、土を払う。
「持って帰るのか?」
「せっかく二回も見に来たので。何かに使いたくなっています」
「使い道が決まってないなら、俺の部屋には置くなよ」
「レオンさんの部屋には置きません」
「そこだけ即答なんだな」
洞窟へ戻ると、ミラは帳面の未確認欄へ「人間」「人数」「長距離」「帰還地点」と書き足した。
レオンはその横へベルクまでの道程と、これまで復路に必要だった旅糧、バルトの飼料を書き込む。
「次にベルクへ行くとき、帰り道で距離を試す。荷は今まで自分で運べる量にしておく」
「帰還できるなら、最初から増やした方が得では?」
「ベルクから使えると分かる前に仕入れだけ増やして、失敗したら全部歩いて運ぶことになる。そういう賭け方はしない」
「では、帰れると分かってから増やすんですね」
「ああ。分かったことだけ使う。分からないところへ金と荷は預けない」
ミラは頷いて帳面を閉じた。
「レオンさん。夕飯、できていますよ」
顔を上げたレオンは、そこで初めて主洞に漂う燻製肉と根菜の匂いに気づいた。
「……もうそんな時間か」
「少し前にできていたんですけど、ずっと帳面を見ていたので」
「声をかけてくれてよかったんだぞ」
「きりのいいところまで待とうと思っていました」
レオンは帳面へ目を落とした。書きかけの行を見て、それから閉じる。
「悪い。待たせたな」
「まだ冷めていません」
「なら、今のうちに食うか」
窪地ではバルトが水槽へ鼻を沈め、キュウは炉の近くで腹を床につけている。
ミラが食卓へ向かう。
レオンは帳面を閉じ、今度はその場へ置きっぱなしにせず木箱の上へ載せてから、あとを追った。
瞬間移動できる力を手に入れたので、まず条件を一つずつ検証します。
派手な能力も、生活と商売に使えるところまで調べるのがレオン流です。
こういう少し堅実な異世界生活が好みに合ったら、評価で教えていただけると嬉しいです。




