旅商人は角狼を仕入れます
洞窟を出て二日目の午後、レオンは南橋の手前でバルトの足を止めた。
ラトスの冒険者組合で見た掲示どおり、南橋はまだ荷駄馬を通せる状態ではなかった。川は濁った水を速く流し、増水で外れた橋板の代わりには細い作業板が渡されている。傾いた中央の橋脚には太い縄が何本も掛けられ、対岸へ歩いて渡る者はいても、荷車は橋の手前で止められ、積み荷を小分けにした人足だけが行き来していた。
バルトを連れたまま進もうとすると、作業場の脇にいた年嵩の男が片手を上げた。
「荷駄馬を渡すつもりならやめておけ。人ひとりなら通せるが、その荷を載せた馬まで保証できる橋じゃない」
「いつ頃までかかる?」
「橋脚を起こしてから板を戻す。早くても数日は無理だし、荷車を通せるのはその後だ。急ぐなら東へ回った方がいい」
男はそう言って、バルトの左右へ振り分けた厚布の包みを見た。中身まで尋ねる気はないらしく、すぐに橋脚へ視線を戻す。
レオンも無理に食い下がらなかった。川へ落とせば、青魔鉄も岩針蜥蜴の素材も商売どころではない。バルトの首を東へ向けると、馬は濁流から離れる道をためらわず歩き出した。
「お前も泳ぐ気はないか」
耳が片方だけ後ろへ向いた。
「それでいい。俺もない」
南橋を使えればベルクまであと二日ほどだが、迂回すれば一日余計にかかる。最初から五日を見込んで旅糧を積んでいるので、日程が延びても食料には余裕があった。
東回りは街道と呼ぶには狭く、森の縁を大きく東へ回って別の渡りを越え、南橋の向こう側の街道へ戻る。橋を避ける商人が集中したせいで、道の柔らかいところには新しい轍が重なり、深い場所ではバルトの蹄が半分ほど沈んだ。向こうから来る荷車とすれ違うたび、どちらかが草地へ寄って道を譲らなければならない。
その日の夕方、レオンは同じ迂回路を使う二台の荷車と火を分けた。香辛料を運んでいるという年配の商人は、橋の様子を聞くと顔をしかめた。
「まだ駄目か。帰りまでには直ると思っていたんだが、この道をもう一度通るなら日程を組み直さないとな」
「荷車まで通すには時間がかかるそうだ。帰りも東回りになるつもりでいた方がいい」
「この道は車輪より人間が先に参る。今日だけで二度、泥から荷車を押し出した」
男が泥のついた長靴を火へ向けると、隣にいた御者が「三度だ」と訂正した。二度目は自分が押したから数えていないらしい。
「帰りは四度にならないといいな」
「縁起でもないことを言うな。あんたは馬一頭で身軽そうで羨ましいよ」
「荷が軽いとは言ってない」
レオンがバルトの左右へ積んだ包みを見ると、商人はそれ以上は中身を尋ねなかった。互いに売り物へ踏み込みすぎないのも商人同士の礼儀らしく、そのあとは暗くなる前にそれぞれの馬へ飼料をやった。
翌朝、レオンは左肩を確かめてから出発した。歩いているだけなら痛みはない。昨日一日、バルトの手綱を引き、荷を積み直したあとも、夜になって傷が熱を持つことはなかった。
ただ、腕を後ろへ大きく回すと、肩の奥にまだ硬いところが残っている。
治ったわけではない。その感覚だけは忘れず、剣の柄へ右手が届く位置を確かめて歩いた。
三日目は、泥へ沈んだ荷車を避けたり、狭い場所で行き違いを待ったりしながら東回りを進んだ。大きな問題は起きず、日が落ちる前には道から少し離れた空き地を見つけて、バルトの脚と荷紐を確かめてから一夜を明かした。
◇
洞窟を出て四日目の昼前、バルトが道の途中で止まった。
急に止まったのではない。前脚を一歩だけ短く置き、次の一歩を出さずに耳を立てたので、レオンもそこで足を止めた。
少し前まで鳴いていた鳥の声が、道の先だけ抜け落ちている。風は右手の森から吹いていたが、バルトの鼻孔は左へ向いて大きく開いていた。
「何かいるな」
バルトの耳が前へ揃った。
レオンは手綱を短く持ち、道の端へ寄った。泥の上には人の靴、馬の蹄、荷車の轍が幾重にも重なっている。その上を横切るように、爪の深い足跡があった。
犬より大きい。前脚の跡だけでもレオンの掌ほどあり、二つは道を横切って左の藪へ消えている。少し離れたところには、同じ向きへ入った別の跡もあった。
さらに十数歩進むと、若い木の幹が胸の高さで抉られていた。樹皮の傷は縦ではなく、斜め上へ深く走っている。溝には灰色の毛が数本残っていた。
「角狼か」
ラトスの冒険者組合で見た赤札には、北側の街道で三頭以上の群れが確認されたとあった。
南橋を避ける荷車と馬が東へ回れば、角狼にとっても獲物の多い場所が移る。北からここまで来たのが同じ群れかどうかは分からないが、橋の不通が続く間、この道を狩場に選ぶ理由は十分にあった。
レオンは周囲を見回した。道の右には腰ほどの倒木があり、その先は地面が少し高い。左には人の背丈より大きな岩があり、岩と道の間にはバルト一頭が入れるだけの幅がある。
「バルト。岩を左にして、ここにいろ。荷を木へぶつけるなよ」
手綱を岩際の太い根へ一巻きだけ掛け、強く結ばずに余裕を残す。逃げる必要が出れば外せるし、バルトも半身ほどは向きを変えられる。
馬は鼻を鳴らし、後ろ脚で一度だけ地面を掻いた。
「蹴るなら狼だけにしろ。俺まで巻き込むな」
レオンは外套の前を開き、右手で剣を抜いた。左手には鞘を残すが、肩から持ち上げるのではなく、肘を身体の近くへ置いて腰の高さで構える。
一頭ならE級。三頭以上で役割を分ける群れならD級になり、六頭に群れ長まで混じれば全体ではC級相当になる。剣を振れるだけの冒険者が正面から相手にする群れではない。
藪の葉が揺れ、灰色の背が一つ現れた。正面の倒木の向こうにも一頭おり、右の森では二頭分の気配が動いている。左後方からも低い唸り声が聞こえ、見えているだけで五頭いた。
それでも誰も飛び込んでこない。最初に姿を見せた個体は頭を低くしながら、レオンの剣ではなく、その後ろのバルトへ時々視線を送っていた。右の二頭も一定以上は近づかず、道の外から位置を変えている。
何かの合図を待っているように見えた。レオンが倒木の奥へ目を移すと、太い灰色の首がゆっくり持ち上がった。
最後の一頭は、ほかより頭一つ大きかった。額の一本角は乳白色で長く、先だけが後ろへ緩く反っている。右の口元には古い傷が走り、唇の外へ一本の牙が覗いていた。
群れ長の目が、まっすぐレオンへ向いた。
「六頭か」
この道で背中を向ければ、泥と轍の中を荷を積んだバルトごと追われることになる。走って振り切れる相手ではないし、群れはすでに左右へ回っていた。
左肩の奥が、傷とは別の理由でわずかに強張った。
レオンは一度だけ腕を落とし、鞘の持ち方を直した。左で止めるな。触れて、向きを変えるだけでいい。
群れ長が低く喉を鳴らすと、正面の一頭が地面を蹴った。
角を前へ伏せた灰色の身体が、道の中央を一直線に詰めてくる。角狼の突進は速いが、直前で大きく向きを変えられない。レオンは剣を下げたまま待ち、乳白色の角が胸へ届く寸前に右足を半歩だけ外へ置いた。
身体が線から外れたところで、右手の剣を首筋へ走らせる。
深く追わない。刃が通った感触だけで手首を返し、すぐに剣先を次へ向けた。
一頭目が地面へ崩れるより早く、右の藪から二頭目が飛び出した。
狙いはレオンではなくバルトだった。
「バルト、右だ」
バルトは白い鬣を振って、手綱が張る手前まで鹿毛の身体を回した。飛び込んできた角狼の横顔へ、後ろ脚が真横から叩き込まれる。
硬いものが割れる音がし、狼が道の中央へ転がった。額の角が根元近くで折れ、泥の上を跳ねる。
「商品を壊すな」
言いながらレオンは倒れた狼の喉へ剣を落とした。
その瞬間、左後方で枝が弾けた。
三頭目が低い姿勢から跳び込み、角をレオンの脇腹へ突き上げる。
左腕を大きく振れば間に合う。しかし、レオンは肘を上げなかった。鞘の腹を角の側面へ添え、右足を引くと同時に腰を回す。
受け止めず、流す。
角が鞘を擦って外へ滑り、その衝撃が左腕を伝った。肩の奥に細い痛みが走り、傷がまだ残っていることだけははっきり分かった。
痛みを確かめる暇はない。逸れた頭の内側へ踏み込み、右手の剣を顎の下から突き上げる。三頭目の身体が一度強く跳ね、前脚から力を失った。鞘を持つ左手が反射的に少し下がり、その向こうで群れ長の目が一瞬だけ動いた。
レオンが剣を引こうとしたところで刃が骨の間に止まり、同時に右側の草が伏せられた。四頭目が来る。
レオンは剣を引き抜くことを諦め、その場で柄を手放した。
武器を失ったと見た角狼が速度を上げる。レオンは腰の解体用短刀を右手で抜き、左手の鞘は低く保ったまま、踏み込んでくる角の外側へ差し出した。
今度は肩を使わない。鞘の先を角の根元へ引っ掛けるように当て、身体ごと半歩ずれる。狼自身の勢いで頭が外へ向き、胸と首の境が開いた。
レオンは短刀を耳の後ろへ差し込み、そのまま獣の進む方向へ刃を引いた。
四頭目は二歩ほど走ってから脚をもつれさせ、道端へ倒れた。
残っているのは二頭だった。レオンは短刀を右手に残したまま、三頭目の顎へ刺さった剣を見た。引き抜くには、一度視線を落とす必要がある。
若い方の角狼が低く身を伏せ、その後ろで群れ長が動きを止めていた。四頭を倒されてもすぐには来ないところを見ると、若い一頭を前へ出してレオンを動かすつもりらしい。若い狼の耳は正面へ揃っているのに、群れ長の右耳だけが森の方へ向いていた。
レオンは短刀を鞘へ戻し、三頭目の頭を靴底で押さえながら剣を引き抜いた。
その動きを見て若い狼が一歩詰めたが、群れ長はまだ動かなかった。
レオンは剣先を若い狼へ向けたまま、右へ二歩進んだ。群れ長が森へ回り込むなら、その進路を塞げる位置だ。
代わりに、レオンの左側が大きく開いた。若い狼はそこへ食いつき、左脇へ向かって地面を蹴る。
群れ長も見ていた。三頭目を流したあとに左手が落ちたのを見逃していなかったのなら、左側を弱いと見ていてもおかしくない。
見られていたなら、それでいい。レオンは左を閉じなかった。
若い狼との距離が三歩になり、二歩になる。レオンは右へもう一歩逃げるように身体を傾けたが、足は踏み出さなかった。
狼が開いた左脇へ飛んだ瞬間、レオンは右足を軸に腰だけを返した。
低く構え直した剣先へ、角狼の胸が自分から飛び込んでくる。切っ先が毛皮を抜け、肋の間へ深く沈んだ。
勢いを殺しきれず、狼の肩がレオンの左腕へぶつかった。
肩の傷が鈍く疼いたが、腕は上げない。右手で柄を押さえたまま半歩下がると、若い狼は剣から抜け落ちるように地面へ転がった。
残った群れ長が、低い声で吠えた。
森の空気が震え、近くの枝から小鳥が一斉に飛び立つ。
レオンは左腕を一度だけ身体へ寄せた。痛みはあるが、指は動く。鞘も握れる。悪化させるほど使わなければいい。
群れ長は仲間の死体を避けながら、道の中央へ出てきた。
頭を低く見せているが、角先は腹ではなく胸の上を向いている。正面から突き上げれば、レオンが左へ逃げると読んでいるのかもしれない。
レオンは剣を右手に下げ、左の鞘を腰より少し高いところまで上げた。
群れ長の視線が、ほんの一度だけその左手へ動く。
「そこを見てるなら、来い」
群れ長は後ろ脚へ大きく力を溜めなかった。一歩目から速く、灰色の身体が地面を滑るように距離を消して、角先がレオンの左胸へ向かう。
レオンは右へ逃げず、左側を半歩だけ開けたまま待った。群れ長も狙いを変えず、その隙へ踏み込んでくる。
角が届く直前、レオンは右足を斜め前へ入れた。身体を半身にして突進の線へ近づき、左手の鞘を角の先ではなく、その根元に近い頬へ添える。止めるのではなく、頭の向きだけをずらす。
腰を回すと、群れ長の頭がほんのわずか外へ向いた。衝撃が鞘を伝い、左肩へ熱い痛みが刺さったが、それ以上は押さない。角先が胸の横を抜ける。
レオンは右手の剣を低く返し、群れ長の顎の下へ刃を置いた。斬り抜こうと腕を振る必要はなかった。
全速で走る群れ長自身が刃の上を通り、喉から胸元へ深い裂け目を作る。
群れ長はレオンの横を数歩抜けたところで前脚を折り、勢いのまま泥を削って倒れた。
立ち上がろうと一度だけ脚が動く。
レオンは近づき、首の下へ剣先を沈めて動きが止まるまで待った。
森に鳥の声が戻るまで、少し時間がかかった。
◇
レオンは剣についた血を草で拭い、鞘へ戻す前に刃こぼれを確かめた。
大きく欠けたところはない。外套は三頭目の爪で裾を一本裂かれていたが、身体には届いていなかった。
左肩は、腕を前へ上げるぶんには動いた。横へ開くと洞窟を出た朝より明らかに痛むものの、傷口が開いた感触はない。三頭目と群れ長を流したときに負荷を掛けた分だけ、奥が熱を持っているらしい。
「やっぱり治りきってはいないな」
バルトが岩際から首を伸ばし、レオンの左肩を嗅ごうとした。
「血は出てない。お前の方はどうだ」
馬は答える代わりに、自分が蹴った角狼の方へ鼻先を向けた。
折れた角が泥の中に転がっている。
「……一頭倒したのは認める」
バルトの耳が前へ向いた。
「ただし、次は角を折るな。商品を壊すなと言っただろ」
耳が後ろへ倒れた。
「分かった。今のは俺が悪い。助かった」
今度は片方だけが前へ戻った。
レオンは笑うほどではない息を鼻から抜き、解体道具を取り出した。
六頭を丸ごと運ぶ余地はない。バルトにはすでに青魔鉄二袋と岩針蜥蜴の魔石、毒袋、旅道具が載っている。角狼の肉や骨まで積めば、ベルクへ着く前に馬を潰す。
まず六つの魔石を抜き、角と牙を外した。折れた二頭目の角は先端まで細かく割れていたので、形の残った根元側だけを取る。毛皮は傷と重さを見ながら選んだ。
一頭目は首の切り口が大きく、運ぶならほかを優先した方がいい。二頭目は蹴られた頭側が傷んでいる。三頭目と四頭目は胴に大きな傷がなく、若い五頭目も胸の一点を刺しただけで皮が残っていた。
群れ長の毛皮は大きく、口元の古傷以外は状態がいい。乳白色の角も折れずに残っている。
「こいつは持っていくか」
レオンは群れ長の角を持ち上げ、表面にひびがないことを確かめた。普通の角狼より長く生きた個体の角と毛皮を、ここへ置いていく理由はなかった。
レオンは群れ長を含む四枚の毛皮を選び、裏へ残った脂をできるだけ削った。角と牙は布で包み、魔石は岩針蜥蜴のものと混ざらないよう別袋へ入れる。
作業を終えるころには、陽がかなり西へ寄っていた。
バルトの荷をいったん全部ほどき、左右の重さを合わせ直す。青魔鉄は下へ、角狼の毛皮は折り癖がつきにくいよう外側へ丸め、群れ長の角だけはほかの角とぶつからない位置へ固定した。
積み終えたバルトは一度身体を揺すったが、腹帯がずれることも、片側へ荷が傾くこともなかった。
「歩けるな」
レオンが手綱を引くと、バルトは数歩進み、いつも通りの歩幅で止まった。
「よし。肉まで欲張らなくて正解だ」
残した肉は道から見えない森側へ寄せ、血の濃い場所から離れる。ここで夜を明かせば別の魔物を呼び寄せるので、レオンは疲れの残る左肩を気にしながらも、その場から一刻ほど進んでから野営場所を探した。
火を起こし、バルトへ飼料をやったあと、レオンは自分の左肩へ巻いた布を緩めた。
傷口は開いていない。少し腫れが戻った程度だった。
レオンは布を巻き直し、水袋を取った。今ここで痛みの理由を細かく考えても、肩が軽くなるわけではない。
水を飲み、遅い夕食を済ませる。昼からほとんど休まず動いたせいで、横になると左肩だけでなく背中まで重かった。
バルトは飼料を食べ終えると、火の向こうで静かに草を噛んでいた。
「明日は戦うなよ。荷が増えた」
馬は耳だけを動かした。
「俺にも言ってる」
返事はなかった。
◇
翌日は、角狼の気配に出会わなかった。
迂回路を抜けるころには道幅も広がり、踏み固められた街道へ合流した。レオンが以前通ったときより荷車は少なく、ベルクへ向かう荷も小さな荷駄馬や人足へ分けて運ばれているものが目立った。南橋を荷車で抜けられない影響は、こちら側まで続いているらしい。
レオンは昼休みのたびにバルトの荷紐と左肩を確かめた。肩の痛みは朝より少し引いたが、洞窟にいたときのような戻り方ではない。前日の戦闘で悪くした分が、普通の速さで落ち着いているように感じた。
夕方、西日が道の先を照らす頃、森の向こうに灰色の線が見えた。
最初は低い雲のようだったものが、進むにつれて角ばった輪郭へ変わる。大人三人分ほどの高さを持つベルクの城壁が、畑と街道の向こうに長く続いていた。
門まではまだ少し距離がある。レオンはバルトの歩調を落とさず、外側へ丸めた四枚の毛皮と、その下に積んだ青魔鉄の包みを一度だけ見た。洞窟を出たときより、荷は明らかに増えている。
「もう少しだ。今日はあの壁まで行くぞ」
バルトは疲れた様子も見せず、夕日に照らされた城壁へ続く街道を歩いていった。
売りに行く途中で襲われ、結果として荷物が増えました。
旅商人にとっては角狼まで「仕入れ」になるようです。
今回のような冒険+交易の組み合わせを面白いと思っていただけたら、評価をいただけると励みになります。




