69.3章-第13話 ”冥府の洞窟-ニベヘリィルの異変 #2/2”
誰も触れていないにもかかわらず、バタン。開かれる小領域の主の広間、奥の扉。
うっすらと血の匂いが混ざる、爛れた果実のような甘い匂いのする空気。
どこかで嗅いだことがあるようなその、微かなにおい。
きゅっと、摘まれたドレスの袖。
かすかに青ざめた表情で、ルナリスがちょんっと、指先でつまんでいました。
「あの……くすり……の匂い、です」
思わず眉をしかめたのは仕方がないでしょう。ルナリスが囚われていた塔の中。あの空間を満たし、また上階層の部屋ではおそらく精製と、乱用がなされていた魔薬。
悍ましい快楽と飢餓感を植え付けてくる、あれ……。
「また、あれ。ですか」
「かなり良くない気配ですね」
紗雪も顔をしかめて奥を見据えます。
と、開いたままになっていた鍵付きの掲示板に、急に投稿が……
ぁhっはああhhhhっはああははははああはぁああぁ
いはいひゃいいぃぃxはいひぃあいあいいいぃぃ
うへぅっへへえぇえhhhhぇへぇぇへへへhhぇぇえ
無秩序に垂れ流される続ける不気味な書き込み。
甘い腐臭がさらに強く、強く、鼻につき、脳髄へと侵食がはじまり
腰に下げた”原初の魔書”。その表紙に飾られた、複雑な文様が加えられた銀の五角形が強い輝きを放つ。
目に焼き付いた、光る図形。
あまりに強い閃光に、何事かとこちらを見たみんなの視界にも、その図形は焼き付き。
開きっぱなしになっていた掲示板の表示が消え。匂いと、そして脳髄への侵食が止まりました。
「守られた……のでしょうね」
魔本を手に取り、そっと表紙を撫でますが、そこには温度も光も、何も残ってはいません。
ただ、銀の鎖に戒められた漆黒の本が静かに在るだけ。
「どれだけ効果があるかはわかりませんが、浄化魔術の領域は展開したまま進みましょう」
アクロイトの進言に、うなづく一同。
ルナリスを連れてこの先へ進むことに、強い忌避感を覚えるのですが……狂愛の絆の効果もあり、離れる事はできないのですよね……。
袖を摘んでいた彼女の手を、そっと握りしめます。恋人つなぎにしたまま、全体の進行に合わせ、空を滑り進む私達。
反対側を見れば、ルナリスの左手を紗雪が握ってくれています。
「これ以上無理と思ったら、遠慮なく言ってくださいね。引き返して、悠久の楽園に引きこもりますから」
「だい……じょうぶ、です」
にぎにぎと、手にゆるく力をこめ、励ますようにしながら進みます。
領域外の空気は見るからに霞がかって澱みはじめ。あたりを伝う、さらに太くなった木の根はもはや肉の触手のような外観に変じ。どくどくと脈打つたび、魔薬なのでしょう、霧を吐き出しています。が、先ほどの魔本が放った五角形の紋様の効果か、あるいは浄化の領域が効果を発揮してくれているのか。領域内は清浄とはいいがたいものの、耐えられる程度に抑えられています。
いよいよ木の根であった物が、ほとんど完全な、蠢く肉の触手と化し。あたりに充満する魔薬の靄が濃くなってきた頃。モンスターとの遭遇もなくなった洞窟の奥底から、獣のうめき声のような、音が聞こえてきはじめました。
目の前に広がったのは、洞窟の中とは到底思えない広大な空間。
本来は、この冥府の洞窟ダンジョンの主が待ち構える領域であったのであろうそこは、しかし、もはや冒涜の坩堝と化していました。
腐肉のスライムに満たされた、血の池地獄のような床。
その上に並べられた男女の死体。この情景にあって不自然なほど美しく保たれたそれらにまたがり、腰をふるう男女。
聞くに堪えない獣のような嬌声を上げる彼ら。屍喰鬼に変じているのでしょう、綺麗に保たれた外皮の奥が裂け、濁った血を滴らせる。すると、腰をふるっている死体に、やおら覆いかぶさり、顎が外れていなければあり得ないほどに開いた口腔でかぶりつき、柔らかな肉を喰いちぎる。
ぐちゃり、ぐちゃりと醜く咀嚼するや、再生しはじめる屍喰鬼の損傷。
喰われ、醜くえぐられた死体の損壊。それが今度は、まぐわう屍喰鬼に傷が生まれ始めるとともに徐々に回復し。再び、死体とは思えない美しい状態へと復元される。
屍喰鬼と死体、まぐわいの間で交わされる悍ましく濁った魔力の循環。
澱んだ官能に満ちた嬌声の中、ひたすら繰り返される、破滅と再生。
互いを血肉と肉欲、両面で食らい合う循環。
薄暗がりの奥、赤い靄に満たされた広大な空間の最奥。
そこにうずくまる巨大な黒い影。
腐肉の池に半ば浸かったそれは、有翼の黒竜の死骸。
本来のこの領域の主。仮初めの、偽の器とはいえ、その名に”ニーズヘッグ”、かの北欧神話に名を連ねる偉大な竜の名を冠する、写し身の顕現。
しかし、今やその死骸は、雄々しき翼を広げることなく、情欲と腐乱に穢され、侵され、冒涜にさらされるのみ。
汚辱に沈むその頭上にはさらに一つの男女の影。
「ぉお゛ま゛えぇ゛、おまえ゛が。おま゛えが裏切った。あいじで、愛しでいたのに。おで、おれを゛、だま、だま゛じだ」
暗く濁っただみ声でがなり立てる、騎士鎧の残骸をぶら下げた男。
もはや屍喰鬼となり果て、黄色く濁った瞳を、昏く輝かせるその男。
ぎゅっと。ルナリスの手が強く強く握られる。こわばるその手をただ受け入れ、優しく解きほぐさんと指先で撫でさする。
「ま、まマ、マリ゛ーナ゛、オデの、マリーナぁ、あいじで、愛愛愛゛しでるのにぃぃ。ぅぅっ」
かつて……かつて、SEO最初期。
アレイスター王国、王城内で……隠れた逢瀬を楽しんでいる、ただの男女と思い。
覗き見たあの時の情景のように。
栗色のウェーブロングがふわふわと柔らかそうな、メイドであった彼女の頭に、ぁぁ。醜く開ききった顎を開き。
かつて愛おし気に匂いを嗅いでいた、頭を頭蓋ごとえぐりとった……かつて兵士長であった、男、チャール。
組み敷かれる……亡骸。
躯となってなお、辱められる、彼女。
「マリーナ……」
ルナリスの、頬を伝う一筋の涙。
拭うことなく、ただ、ただ、流れ落ちる涙。
愛ゆえであったかもしれない。けれど、広い広い王城の、片隅。日の当たる塔の最上階に幽閉された孤独な銀の姫。
その孤独にわずかな慰めであろうとも、娯楽と愛を教え。愛される時を待ち望む心を、姫の身分では触れる事もなかったであろう俗世の書物を密かに共有し。
最後の刹那まで、姫のため、敵を欺き、身を尽くした両手の指にも満たない忠臣が一人。
新人メイドとしての表の顔に隠された。マリーナ、その真の姿は、第4王女付き専属メイドが一人。
麗しの銀の姫の、激情は、私の想い。
空へ飛び立つ彼女を止めるまでもなく、むしろ先導するように飛び立つ、黒と銀……そして灰銀色。異なる3色の髪をなびかせる、3つの影。
経験は異なれど、互いに結んだ絆が伝える思いは一つ。
「失せろ、ド外道畜生が!!」
漆黒の斧槍が放つ剛撃が。残骸と化した騎士鎧をぶら下げる、屍喰鬼となった元兵士長の身を、縦に裂き。
銀の姫が振るう月の宮の名を冠する刀の一閃が、腰を両断し。侍る2振りの剣が、首を断つ。
宙に飛ぶ頭、醜い喘ぎを上げる男の生首の額を、重低音を伴う魔弾が撃ち抜き、消し飛ばす。
のしかからんと倒れる男の下半身を払い除け、妖しいまでに美しいままの、かつて心のよすがをくれたメイドの1人。マリーナの亡骸を抱きしめ、すすり泣く銀の姫。
声を殺すこともできず、むせび泣く彼女の声が、魔薬に侵された空間の邪気をも切り裂き、響き渡る。
嬌声を上げていた屍喰鬼共が、その悍ましい腰の動きを止め、静寂があたりを支配する。
ただただ、銀の姫の嘆きだけが、うつろな空間に、こだまする。
遅れる事わずか数秒。私たちの周りを囲み、守りについた少女人形達の布陣。
頽れた(くずおれた)黒竜の死骸の頭上に展開した、有翼の少女人形達の集団。
銀の姫の、かつて自信を支えてくれた忠臣の一人への葬送に伏せる静寂は、しかし、破られる。
ルナリスの腕に抱かれた、栗色のロングウェーブヘアが艶を失う。萎れるように、干からび。刹那の間に白い粒子となり霧散する、マリーナの亡骸。
「いあ……いやぁ……ま、マリーナ……おいて、かない、で」
痛々しいほどに弱弱しく、手を伸ばし、天に散った粉をかき集めようとあがく銀の姫。
あの脱出の日。彼女を慕い想ってくれた者たちは、自ら邪毒をあおり、己に課した使命を果たし、絶えた。
邪毒とは魔術をもってしても治療不能の猛毒。己の身体の致命的損耗と引き換えに、限界を超える薬。
そのことは頭ではわかっている。ここに在るのは、悍ましき何らかの計画のために持ち込まれた、魂の抜けた亡骸。
見るに堪えず、視界をふさぐように抱きしめる。
むづがるように弱々しく暴れる彼女をただただ、胸にかき抱き、見つめる先。
銀の姫の背の先。
黒竜の背の上に集まる、赤い瘴気。気が付けば足元にあったはずの、元兵士長チャールの下半身も消え失せている。
渦巻く瘴気の中心に一際、悍ましい気配が膨れ上がる。
再び背後で、空間中から広がり始める、屍喰鬼共のまぐわいの嬌声。
屍姦と共食いの連鎖が広がる背徳の空洞。
この伽藍に満たされた濃密な、禁忌が。目の前の靄、その中核を成すものへ凝縮されていく。
一冊の本。
それは一冊の魔書であった。
【エリアアナウンス:☆8禁忌級魔導書 - “屍食教典儀” が顕現しました】
【エリアアナウンス:“屍食教典儀” が、儀式遂行者の手に委ねられます】
黒い闇のベール。見通す事のできない、裂け目のような深淵。その奥から一本の手が、魔書へと伸ばされる。
枯れ木のように細い老婆の手。みずみずしく若い男の手。幾重にも像が重なり、その実態はようとして知れない。
身じろぎすらできず固まった私たちの前。
裂け目の奥から、手の持ち主の声が轟く。
魂を押し流されそうな、圧。
膝を突き、ひれ伏したくなる、神憑り的な存在感。
「堕天使が見守る中とは、愉快。実に愉快。贄をさらった女……否、これはまた愉快。何と背徳的な存在よ。雌であり、同時に、雄である。まさに、ケダモノではないか」
周りを取り囲んでいたうちの子達。魔導人形達が、紗雪を除き、飛翔の力を失い。地へ、竜の頭の上へと落下する。
「人形共に囲まれた、背徳の天使。贄とまぐわい、情を交わすか。滑稽、実に滑稽ではないか」
私に向けられた言葉。存在を探るような、それでいて断定の言葉。
抱きしめた銀の姫の温もりを、ひたすらに感じ取りながら、深淵の奥に在るモノを見透かそうと見つめる。
「どれ、儀に水を差さされた様子、ちと業腹よな。そこで、舞いなど見せてみよ」
意識を刈り取られそうな濃密な甘い匂いに包まれる。
「ひぅ……」
その声は私が漏らしたものだったのか、銀の姫の喉が漏らした喘ぎであったのか。
瞬間的に高ぶらされた身体。圧倒的な快感の波。
かき抱いた銀の姫の柔らかな身体、こすれ合う胸、さらさらと肌を撫でる髪の感触が細胞の一つ一つまで撫でさすり、快楽を引き出す。
まるで溶け合ってしまったように境界を見失い、魂の奥底まで融け合い、貪り合い、穢し尽くし合いたい。
獣のような欲望が、子宮の底から湧き上がってくる。マグマのような情欲が、際限なく、吐き出されそうに腰元からせりあがってくる。
こらえることができない。
銀の姫もまた、よだれを垂れ流し、恍惚とした瞳で見つめてきている。
あぁ……あぁ、このまま互いを、蕩けて無くなるまでしゃぶり尽くして……!!
2つは同時だった。
「属性混沌……魔力擾乱……弾体形成、縛鎖展開……発射!!」
重低音とともに吐き出される弾丸が、裂け目をさらす深淵に、吸い込まれる。
ただ一人、地に伏せるを拒否し、黒と白。二色の翼とヘイローを堂々と輝かせ。周囲を己の領域と規定する、魔力の鎖を展開する、少女人形。その領域に、身内を囲み、守る。最上級の呼び名にたがわぬ古代魔導人形、古代魔導の英知の再現が強気な笑みを浮かべる。
腰に下げていた黒き”原初の魔本”が銀の鎖の頸木を引き連れ、宙に浮く。
凄絶な光を発し、複雑に装飾された五角形を魂の奥まで刻み付けよと、しろしめす。
深淵が輪郭を失い、拡散を始める。
相対する魔本、“屍食教典儀”が発する忌まわしき気配が瞬時、薄らぐ。
身をさいなみ、凌駕していた劣情が、霧散する。ただ温かな愛おしさだけが残る。
過度な精神的負担の連続に、くたりと、力を失った銀の姫の身体を抱きとめる。
辛うじて意識はあるのを見てとり、安堵する。
2重の反攻に、忌々し気に、姿見えぬ声が舌打ちする。
「旧き原典、最も古き魔書を、なぜ貴様ごときが……まあ、良い。目的は達した。魔書が1つは再び我らが手に」
するすると、薄れかけ始めている深淵へと引き戻される、腕。手にした“屍食教典儀”が飲み込まれる寸前。
「さあ、存分に穢れよ、堕ちよ! 旧神に連なる者共よ、内から腐り落ちて逝け!」
魔書から解き放たれる解放される悍、ましい気配。
「存分に宴を愉しむとよいぞ?」
狂おしいまでの圧迫感と言葉を残し、腕と魔書は、ひと時開かれていた深淵へと通じる亀裂とともに、消えた。




