179.7章 - 第20話 ”帝都観光 – 帝都歌劇場(テアトロ・レアル) ”
ゴシック様式の歌劇場――高いリブ・ヴォールト(ゴシック建築の天井様式)が天へと伸びる厳粛な空間に、チェロとコントラバスによる深い重厚な低音が徐々に大きく、鳴り響き始める。それは体の芯を揺さぶる生命の胎動のようで、これからの展開への畏怖にも似た期待を昂らせる。
滑らかな温かさを纏い、ヴィオラが中音域の和声を重ね。さらに華やかで優雅なヴァイオリンの旋律が、尖塔から差し込む月の光のように、軽やかな風となって滑らかに、英雄たちの彫刻が並ぶ回廊を駆け抜ける。
低音の深い響き、中音の柔らかな層、そして高音の煌めく糸が織りなす音の絨毯。
うっとりと、銀の姫と灰銀髪の人形少女は、その音色に身をゆだねる。二人を間に挟むように座る二つの私の身体。空気そのものを震わせる生々しい振動が肌を通して伝わってくる。まるで魔法を行使するための聖域に抱かれるように、音に包み込まれる、まさにそんな感覚。
一瞬の静寂の後、フルートの透き通った高音が星のようにまたたき、それを合図に、金管楽器が一斉に、荘厳で輝かしい調べを解き放つ。歌劇場のステンドグラスが、その光の爆発を映して虹色に瞬く。それは、世界の始まりと終わりを告げるような、圧倒的な音の奔流。
『夢のような……ひと時です』
『それも、こんな特別な席で。ちょっとこれは、普通じゃ味わえない、夢の経験ですよ』
そっと小さく念話で伝えられる2人の感激の言葉。
『私もちょっと気圧されていますが』 『2人とこんなにも素敵な夜を過ごせるのは、もう、悔いは何もないと思えそうです』
と、言うのも、荘厳なオーケストラに聞き惚れる。ただそれだけではなく。今私達のいる場所がまたあり得ない場所なのです。
皇帝陛下とその賓客のために、正面最上階の中央に切り取られた特別な観覧席。それは、ただの座席ではなく、歌劇場全体の壮麗な権威を象徴する玉座にも等しい空間。
四方を深いベルベットのカーテンと、金色の組み紐のタッセルで囲われ、外界から切り離された聖域。席の背面には、深く彫り込まれた帝国の、ドラゴンとグリフォンをあしらった紋章が微かな燭台の光を浴びて、荘厳な輝きを放っている。
座面には、上質な深紅のクッションが敷かれ、座る者に最高の安楽を与える。手すりは艶やかな黒檀で象られ、その先には磨き抜かれたオリハルコンの装飾までもが施されている。
ここからは、オーケストラ全体が俯瞰でき、音の奔流がどこから湧き上がり、どのように観客席へと流れ込んでいくのかが、視覚的にも手に取るようにわかるように感じられる。まるで本当に、こんな壮大な音楽を捧げられる神聖な存在にでもなったような錯覚を覚える……いえ、神翼種という存在はそうである。と繰り返し説明されてはいるのですが。
ゆったりと流れる、贅沢な時間。
やがて小休止となり、せっかくなのでと、専用のラウンジへと向かう私達。
いつもの防具でもあるドレスの上に、日中とはまた別のドレスをそれぞれに魔法のクローゼットでアバターとして重ねています。現実でもこれ、欲しいですよね。防具の性能はそのままに、見た目だけ変えられるの、便利すぎて。
でも、残念ながらマテリアライズの対象にはなっていないのですよね。もしかしたらいつかできるのかなと、わくわくしながら待っています。
「皆様、本当にお美しいですわ」
移動する私達に、随行するアメティスタが一言。
「アメティスタのお陰ですよ」 「これなら式典の晩餐会にもぴったりです」
そうなのです、一度『星の家』に戻り、小休憩を兼ねて着替えてきた私達は、装いも新たに。今回の式典のためにアメティスタが仕立ててくれたドレスを着ているのです。
私の天使の身体を包む、清らかさと優雅さを際立たせる、純白と淡い桜色のドレス。豊満な胸を包み込むのは、きめ細やかな白いレースと、光を透過する柔らかなシフォン。デコルテには、薄赤色の真珠が散りばめられ、薄赤色の瞳と響き合い、神聖な輝きを放つ。スカートは、幾重にも重なる純白のオーガンジーと、内側から覗く淡い桜色のシルクが、まるで天界の雲のようにふわりと広がる。その間には、金色の糸で織りなされた桜の花の刺繍が、控えめながらも気品を添える。
裾元には、微細な金のラメが施され、天使の羽毛が舞い散るように煌めく。ウエストには、白いサテンのリボンが優雅に結ばれ、その中心には、桜色のクリスタルが輝くブローチが配されている。
背中には、透明なベールのような薄羽衣が、優しさと純粋さを象徴するように広がっている。清純でありながら慈愛に満ちた、天上の調べを奏でるまさに天使の一着。
対して堕天使の身を包むのは、深淵と情熱が交錯する、黒と深紅のゴシックドレス。姫カットの艶やかな黒髪に映えるのは、デコルテを大胆に彩るレースとビロードの組み合わせ。豊満な胸元は、深紅のサテンに黒いレースが複雑に重ねられ、禁断の果実を包みこむ官能的な美しさを醸し出す。
スカートは、幾重にも重なる黒いオーガンジーと深紅のサテンが織りなすドレープが、階段を流れ落ちる血の瀑布のように広がる。裾には、漆黒の羽根を象った刺繍が施され、歩くたびに微かに揺れ動き、復讐の属性を宿した昏い深淵を想わせる。
ウエストは、黒いコルセットでしっかりと締め上げられ、その上に煌めく金色のバックルが、瞳の色と呼応し、強烈な輝きを放つ。背中には黒いレースとビロードで象られた、翼の文様が施され。妖艶で威厳に満ちた、夜に舞う堕天使の一着。
「ナオさん、また配信とかで表に出る事もありますし現実にもマテリアライズして、着れるようにしたいですね」
と、大変に気に入った様子で、ひらりと裾を揺らし、堕天使ボディの傍をふわりふわりと舞い歩く紗雪。
彼女の精巧で儚げな魅力を際立たせる、薄灰色の生地に銀色の光沢を帯びた、まるで月の繭のような一着。ツーサイドアップに結い上げた灰銀色の髪に合わせ、ドレスのネックラインは優美なハートシェイプにカットされ、首元には白いレースのフリルが品良くあしらわれている。
スカートは、幾重にも重ねられたシフォンとチュールが、ふわりと広がるベルライン。その層の間には、夜露に濡れた蜘蛛の糸のように繊細な銀色の刺繍で、忘れな草の小花が散りばめられている。光を浴びるたびに、刺繍は微かに輝き、紗雪の翡翠色の瞳を思わせる淡いグリーンのビーズが、控えめながらも神秘的な輝きを放つ。ウエストには、サテンのリボンが結ばれ、その先には小さな蝶のチャームが揺れる。繊細で可憐、そしてどこか守ってあげたくなるような、夢幻の舞踏会に現れた妖精のようなドレス。
「確かに……今夜の想い出ととも……に、あちらでも、楽しみたい……です」
そっと手を重ね合うルナリス。歌劇場の厳かな空気の中、銀の姫が纏うのは夜の帳が降りた湖面のように深遠なミッドナイトブルーのドレス。上半身は、月光を宿した銀糸で繊細に刺繍された蔓草模様が、柔らかな曲線を描きながら、彼女の華奢な肩から胸元へと流れる。胸元には、凍てついた雫のような蒼銀色の宝石が一つ、星辰のように輝き、彼女の蒼銀色の瞳と響き合う。
スカート部分は、何層にも重ねられた薄絹が、はらりと揺れるたび内側から虹色の光沢を放つ。それは彼女の虹色に輝く銀の髪が放つ神秘的な輝きを映し出したかのよう。裾元には微細な銀のビーズが散りばめられ、まるで夜空の星々がドレスの裾に舞い降りたかのように煌めく。背中には透明なオーガンジーで仕立てられた、蝶の羽のようなケープが優雅に広がり、その端には銀のラメが施され、微かな光を捉えては繊細に輝く。純粋で幻想的な彼女の魅力を最大限に引き出す、夜空と月光を纏ったかのような一着。
「お持ちしました、なの」
サフィーロがグラスを乗せたトレイを浮かせ、持って来てくれる。きらきらと、泡が煌めくスカイブルーのカクテル。
「アルティザンの細道で見た水路を流れるのと同じ、マナを含んだ特別な地下水で作られたソーダだそうです、なの」
「ありがとう。皆もせっかくなんだし、遠慮なく同じのをいただいてね」
「はいです、なの」
「飲料用に……も、使えるのです……ね」
「言うなれば天然のポーションみたいなものですからね。ただ、かなり貴重な資源でしょうから、さすがに提供されているのはこの貴賓席用のラウンジだけではないかと」
そうなのです。休憩時間にすごせるラウンジもいくつかのグレードに分かれていて、今日この貴賓席用のラウンジは私達の貸し切り。
「ん~しかし何というかこう、すごくさっぱりとした、レモンジュースのような爽やかさと」 「濃厚な……お砂糖とも違う、後に残らない抜けるような甘味」
「不思議な……味わい、です。マナの濃度……で、想像する、ポーションとも違い……ますし」
「悠久の楽園の水でも、似た特別な飲料が作れそうですね。これは、後でアメティスタにお願いしてみてもいいかも」
と、チャイムの優しい音色が響き、休憩時間の終わりを告げます。
それぞれの手を取り、席へと戻る私達。
下に見える他の階や、ボックス席も徐々にざわめきが戻り、後半の開幕を今や遅しと、待っていますね。
――金管楽器が解き放った荘厳な調べは、舞台の指揮者が振り下ろした最後のタクトと共に、空気を一瞬で静止させた。
最後の音は、巨大なゴシックの空間の奥深く、天井の遥か彼方へと昇り、そしてゆっくりと、しかし確実に、溶けて消えた。
直後、歌劇場は深淵のような圧倒的な静寂に包まれた。それは音の洪水が去った後に残された、耳鳴りにも似た神聖な静けさ。人々はまるで息をするのを忘れたかのように、一斉に動きを止めている。私達もまた、貴賓席の中でその余韻に身を委ね、言葉を交わすこともなく、ただ鼓動だけが響くような沈黙の中にいる。
単なる無音ではない、静寂。直前まで浴びていた生々しい音の振動が、まだ肌に、魂に、深く刻み込まれて残っていることを証明するかのような、張り詰めた時間。
しかし、永遠に続くかと思われた沈黙は、やがて熱を帯び始める。
客席の最前列から、一筋の拍手が、乾いた木霊のように響き始める。それが張り詰めた緊張の糸を断ち切る合図となり、堰を切ったように爆発的な拍手が歌劇場を満たし始める。
観客たちの熱狂的な声が、ゴシック調の壁に反響し、歓喜の波となって貴賓席まで押し寄せる。指揮者は、まるでその熱い要望に応えることが至上の喜びであるかのように、静かに笑みを浮かべ。再びタクトを構えるために、ゆっくりと身体を舞台に向けた。
「素晴らしい演奏でしたね。それに、事前の見学だけではなく、実際にこんな特別な席で皆で鑑賞できるなんて」
「本当、式典のお誘いを断らなくてよかったですね」
まだ体の芯を揺さぶる、壮大な演奏の余韻を感じながら、喜びを分かち合う私達。
「ナオ……様、このような時に。申し訳……ありません」
「どうしました?」
深刻な表情と声音を上げるルナリス。見納めとばかりに、貴賓席から音楽堂内を見渡していた私達の隣で彼女が見つめるのは舞台に近いボックス席の方角。
「あちら……や、他いくつか……の席の方々、から感じる、魂魄の反応……に、微かな違和感、が」
「何ですって。今はリリエラさんもいませんし……アクロイト、場所を覚えておいて、護衛の騎士達に伝えてもらえる?」
「承知しました」
頼れる悠久の楽園の第1部隊を管轄する、副統括が即座に反応し、ルナリスが指さす席を記憶していく。
すでに帰路につくため席を立っているものも多く、そもそも中が覗き込みづらいように工夫されたボックス席の構造。どんな人がそれぞれの場所にいるのかはわかりませんが、上流階級や、商売などそれぞれの分野で成功した方達がいるであろうことは想像に難くない座席。
ルナリスの感じた違和感の意味するところは未確定ながらも、指示したボックスは優に10を上回り、不安を覚えるには十分な数です。
「何事もないといいのですが……」
「竜の背骨山脈全域の怪しい予兆と言い、タイミングは別として、何もイベントごとがないとは思えないかもしれませんね。クエストも開始フラグがたってますし」
確かに、紗雪が言う通り。どの範囲、どの程度の規模かは別としても、現在の主要2クエスト両方が”進行中”になった以上、私達に関係してくることは間違いないのでしょうね。
「彷徨いの樹海から遠く離れたこの帝都で、ユゴス コンコードの方のクエストが進行開始されたという時点で、嫌な予感の塊ですね」 「気を抜かず、しっかり警戒していきましょう……」
「はい……また気が付く、事……があれば、ご報告します」




