第009話:三種類にする理由
翌朝、店の黒板はいつもより文字が多かった。
『三日後、包み料理の調査販売を行います。
いつもの十個限定を、一日だけ増量します。
今後の販売数を決めるための試験販売です。
味が落ちる前に終了します。』
その下に、クィナスがさらに小さく書き足していた。
『夜そぼろ瓶も試験的に三種販売予定。
詳細は後日。』
開店前から、黒板の前で足を止める者がいた。
役所勤めらしい人族の男。
獣人の配達人。
近くの職人。
朝市へ向かう主婦らしい女性。
冒険者の二人組。
まだ店は開いていない。
それなのに、黒板を読むためだけに人が止まる。
中心通りから少し入った場所にある店とはいえ、この辺りは人通りが多い。
朝は役所と市場へ向かう者が流れ、昼は買い物客が増え、夕方は仕事帰りの客が通る。
最初は「十個限定の変わった包み料理を出す店」だった。
それが少しずつ、口コミで広がっている。
青塩魚包み。
夜そぼろ瓶。
白蜜プリン。
珍しい乾物。
妙に帳簿の細かい猫族。
声の大きい熊族。
そして、少し変わった品を扱う若い店主。
客は、味だけで来るわけではない。
話題も、店の空気も、次に何が出るか分からない期待も、商売の一部だった。
「マスター、黒板への反応、朝だけで十二件です」
クィナスが帳簿を見ながら言った。
「まだ開店前だろ」
「開店前です。ですが、通りすがりが足を止めています。これは大事です。黒板は無言の呼び込みですから」
厨房からボルガムの声が飛ぶ。
「無言じゃねえぞ! 俺の字なら叫んでる!」
「あなたの字は読みにくいので、叫ぶ前に転びます」
「ひどい!」
ボルガムは朝包みの仕込みをしながら、端肉の入った皿も並べていた。
今はまだ、夜そぼろ瓶用の試作段階だ。
昨日までは一種類だけだった。
甘辛く煮た、基本のそぼろ。
だが、今日からは違う。
オルゼンは作業台の上に置かれた三つの小皿を見た。
一つ目は、前回と同じ基本の味。
甘辛く、飯にもパンにも酒にも合う。
これが土台。
二つ目は、少し甘めで香りを柔らかくしたもの。
辛味を抑え、根菜の甘さと少しの果実酢で丸みを出している。
子供や女性客、辛味が苦手な者にも食べやすい。
三つ目は、辛め。
黒胡椒に似た香辛料と、赤い辛味油を少し使う。
冒険者、職人、酒飲み向け。
「三種類か」
オルゼンが言うと、ボルガムは腕を組んだ。
「やるなら半端にしたくねえ。だが三つが限界だ。五つは無理だ。味が散る」
「三つでいい」
「本当にか?」
「ああ」
オルゼンは頷いた。
「ベーシック、甘め、辛め。この三つなら客層が分かれる」
クィナスが帳簿を開く。
「基本そぼろは前回購入者の再購入用。甘めは子供連れ、女性客、辛味が苦手な客。辛めは冒険者、職人、酒場帰り。売れ方を見れば、夜の客層も分かります」
「そういうことだ」
ボルガムは少しだけ嬉しそうに笑う。
「俺は辛めが一番好きだ!」
「それは予想できる」
クィナスが言う。
「でも、売れるのは基本か甘めかもしれませんね」
「む。そうか?」
「辛めは強い反応を取れますが、全員向けではありません。甘めは広く売れる可能性があります」
「なるほど……」
ボルガムは真剣な顔で三つの皿を見比べた。
「甘めを甘くしすぎると、肉が負ける」
「そこは任せる」
オルゼンが言うと、ボルガムは即座に頷いた。
「任された!」
「今日は俺とクィナスで仕入れ先へ行く。留守は頼む」
「おう。朝の販売が終わったら仕込みに入る。端肉の条件も書いたな?」
クィナスは帳簿を軽く掲げる。
「書きました。脂と赤身の割合、筋に近い部位の必要量、古い肉は不可、形が悪いだけの肉を希望、香草は若すぎないもの」
「よし!」
「あと、あなたの『安い肉ではなく、安く見られている良い肉』という発言も」
「それは残せ!」
「残しています」
ボルガムは満足そうに頷いた。
開店後、朝包みはいつもより早く売り切れた。
黒板の調査販売告知を見た客が、ついでに朝包みを買っていく。
中には、三日後の販売について質問する者もいた。
「本当に十個以上出るのか?」
「はい。一日だけの調査販売です」
クィナスが答える。
「何個くらい?」
「味が落ちる前までです」
「分かるようで分からないな」
「当日のお楽しみです」
「夜そぼろ瓶も三種類って?」
「詳細は後日ですが、基本、甘め、辛めの予定です」
「辛めあるのか。買う」
その客は冒険者らしく、即決だった。
別の女性客は甘めに反応した。
「子供でも食べられる?」
「その予定です。味見の結果次第ですが、辛味はかなり抑えます」
「じゃあ、三日後に来るわ」
また一人、予定が増える。
クィナスはすべて記録していく。
『調査販売告知、反応良好。辛め、冒険者反応強。甘め、子供連れ女性客反応あり。販売数予測、要上方修正』
朝の営業が落ち着いたあと、オルゼンとクィナスは店を出た。
ボルガムは厨房に残る。
「ラグネルのところだな!」
「ああ」
「変な肉を出されたら断れよ!」
「分かってる」
「安いだけならいらん!」
「それも分かってる」
「あと、香草は若すぎるな!」
クィナスが少し笑う。
「全部書いてあります」
「ならよし!」
オルゼンとクィナスは店を出た。
通りは昼前の賑わいに向かっている。
朝の急ぎ足とは違い、少し余裕のある客が増えていた。
買い物かごを持った者。
屋台を覗く者。
荷車を引く小人族。
獣人の親子。
背の高い蜥蜴族の商人。
クィナスは帳簿を抱えながら、隣を歩く。
「マスター」
「ん?」
「三種類にする理由ですが、もう少し聞いてもいいですか?」
「帳簿用か?」
「帳簿用でもありますし、私が聞きたいだけでもあります」
オルゼンは少しだけ笑った。
「前の味を出すだけでも、しばらくは売れる」
「はい」
「だが、いつか飽きられる」
クィナスの耳が少し動く。
「早いですね。もう飽きる先を見ているんですか?」
「売れた時ほど見ないと駄目だろ」
オルゼンは通りの先を見ながら続けた。
「夜そぼろ瓶が売れた。なら、誰かが真似る。保存食屋か、酒場か、惣菜屋か。肉を甘辛く煮て瓶に詰めるだけなら、できる店はある」
「真似されるのは嫌ですか?」
「嫌じゃない」
クィナスは少し意外そうに彼を見た。
オルゼンは続ける。
「むしろ、真似てもらっていい。市場に似た商品が増えれば、客は『瓶詰めそぼろ』というものを覚える。そうなれば、うちの商品も説明しやすくなる」
「独占しないんですね」
「独占できるほど大きい店じゃない。そもそも独占するつもりもない」
「でも、負けるつもりはない」
クィナスが言うと、オルゼンは笑った。
「そういうことだ」
クィナスの尻尾が、少し楽しそうに揺れた。
「競争相手はいた方がいいんですか?」
「いた方がいい。相手がいると、客の目が育つ。客の目が育てば、違いが分かる。違いが分かる客は、良いものに金を払う」
「なるほど」
「ただし、負ける試合をする気はない。だから、先に三種類を出す」
「味の幅を先に見せる」
「ああ。基本だけじゃなく、甘め、辛め。客層ごとに刺さる味を出す。そうすれば、ただの真似では追いつきにくい」
クィナスは帳簿を開きたそうにしたが、歩きながらなので我慢した。
代わりに、小さく頷く。
「市場への起爆剤ですね」
「そんな大げさなものになるかは分からない」
「でも、狙ってはいますよね?」
オルゼンは少しだけ黙った。
それから、正直に答えた。
「狙ってる」
クィナスの口元がわずかに緩む。
「マスター、そういうところはちゃんと商人ですね」
「普段は違うみたいに言うな」
「普段は少し面倒な人です」
「ひどいな」
「褒めています」
「便利な言葉だ」
少し歩くと、中央市場へ続く石橋が見えてきた。
橋の上には荷車が多く、川沿いには魚屋が並んでいる。
風に乗って水と魚と香草の匂いが混じる。
オルゼンは橋の手前で足を少し緩めた。
「それに、三種類で終わりじゃない」
「まだ考えているんですか?」
「ああ」
クィナスの耳がぴんと立つ。
「聞きたいです」
「高級志向の客は必ずいる」
「いますね」
「なら、高価なそぼろ瓶も作れる。良い肉、良い香草、リュナメルの果肉を少し使ったもの。贈答用でもいい」
「リュナメル入りの高級夜そぼろ瓶……」
クィナスは想像したのか、少し目を細めた。
「名前だけで高そうです」
「高くする」
「正直ですね」
「高い材料を使うなら、高く売る。そこは誤魔化さない」
オルゼンはさらに続けた。
「それから、冷凍保存できる魔道箱を使えば長期保存もできる。遠方へ持っていく旅人向け、冒険者向け、役所の夜勤向け、貴族の厨房向け。分けられる」
「派生商品ですね」
「そうだ。今は小瓶で二十個だが、先はもっとある」
クィナスは少しの間、黙って歩いた。
その横顔は、どこか嬉しそうだった。
「マスターは、ボルガムをかなり信用していますね」
「ああ」
オルゼンは迷わず答えた。
「あいつが味を守るなら、俺は売り方を考えられる」
「なるほど」
「クィナスも同じだ」
クィナスの足が、ほんの少し遅くなった。
「私も?」
「当たり前だろ」
オルゼンは横を見る。
「俺がこうやって先の話を考えられるのは、店の帳簿と販売を任せられるからだ。俺がいない時も、クィナスが見てくれている。客の反応も、売れ残りも、文句も、全部拾ってくれる」
「……」
「自分のいないところで、ちゃんと頑張ってくれている奴がいる。だから俺も、外で頑張れる」
クィナスは耳を少し伏せた。
怒った時とは違う。
照れている時の仕草だ。
「マスター」
「ん?」
「そういうことを、急に言わないでください」
「急だったか?」
「急です。帳簿に書く心の準備がありません」
「書くのか」
「書きますよ。大事なので」
クィナスは咳払いをした。
それから、いつもの調子を取り戻すように言う。
「でも、ありがとうございます」
「ああ」
「私も、マスターが外で変なものを拾ってくるから、帳簿が退屈しません」
「褒めてるのか?」
「もちろんです」
「便利だな、その言葉」
クィナスは少し笑った。
二人は橋を渡り、中央市場の外れへ向かった。
ラグネル食材卸は、市場の中心にはなかった。
むしろ、少し外れた路地に入った先にある。
大きな看板もない。
派手な荷馬車もない。
店先に大量の商品を並べてもいない。
古い石造りの小さな店。
木の扉には、控えめにこう書かれている。
『ラグネル食材卸』
見た目だけなら、街の小さな食品店と変わらない。
だが、その前に停まっている荷車は違った。
車輪の手入れが行き届いている。
荷台の布も清潔。
木箱の角には、見覚えのある紋が小さく入っていた。
中央の高級料理店で使われる食材商の印。
それも、一つではない。
「小さい店ですね」
クィナスが呟く。
「小さいな」
オルゼンは扉を見る。
「だが、荷車が小さな店のものじゃない」
「はい」
クィナスの目も、すでにそれを見ていた。
ラグネル食材卸。
手広く卸していない。
信用した店にだけ売る。
取引を断ることも多い。
そう聞いていたが、実際はそれだけではなさそうだった。
「マスター」
「分かってる」
オルゼンは小さく答えた。
「ここ、表の顔ですね」
「ああ」
ラグネルは、おそらく大きな食材流通にも関わっている。
もしかすると、別名義の大きな店や卸元を持っている。
この小さな店は、ただの窓口ではない。
出発点か、選別所か、本人の趣味か。
いずれにしても、軽い相手ではない。
扉の前に立つと、中から乾いた声がした。
「入っていい」
まだ叩いていない。
クィナスの尻尾が止まった。
オルゼンは少しだけ笑い、扉を開けた。
店内は狭かった。
棚には、野菜、香草、干し肉、卵、乳製品の小さな瓶が並んでいる。
どれも量は少ない。
だが、状態が良い。
香草は乾きすぎていない。
根菜は土付きだが、傷んでいない。
肉は包まれているが、保存の仕方が丁寧だ。
奥のカウンターには、年配の男が座っていた。
白髪交じりの短い髪。
深い皺。
細い目。
服は質素だが、生地は良い。
指は太く、爪は短く整えられている。
商人というより、料理人か農場主にも見える男だった。
「オルゼン商店だな」
男が言った。
「はい。オルゼンです」
「クィナスです」
クィナスが軽く頭を下げる。
男は二人を順に見た。
「ラグネルだ」
その名を聞いて、クィナスがわずかに耳を動かした。
約束は取ってある。
だが、本人がいること自体が珍しいと聞いていた。
ラグネルは、この小さな卸店にいつもいるわけではない。
むしろ忙しく、普段は代理が対応することが多いらしい。
今日、本人がいた。
それは偶然ではない。
オルゼンはそう思った。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「時間は少ない」
ラグネルは淡々と言った。
「だが、夜そぼろ瓶の店だと聞いた。少し興味がある」
クィナスが小さく帳簿を抱え直す。
「ご存じでしたか」
「街で売れた食い物の話は、食材屋に入ってくる」
「それは心強いです」
「心強いかどうかは、まだ分からん」
ラグネルは立ち上がり、奥の棚から包みを一つ取り出した。
「端肉が欲しいそうだな」
「はい」
オルゼンが答える。
「良い端肉を」
ラグネルの目が少し細くなる。
「端肉に良いも悪いもあるか」
「あります」
「安く買えればいいんじゃないのか」
「違います」
オルゼンは即答した。
クィナスは横で静かにしている。
ラグネルは包みを開いた。
中には、赤身の端、脂の多い欠片、筋に近い部位が混ざっている。
「たとえばこれは安く出せる」
ラグネルは言った。
「少し日が経っている。濃い味で煮れば分からん。そぼろ瓶なら十分だろう」
クィナスの耳が、ほんの少しだけ動いた。
だが、オルゼンはその前に口を開いた。
「いりません」
ラグネルの視線がオルゼンへ向く。
「早いな」
「古い肉を濃い味で隠すなら、次に繋がりません」
「客は分からんかもしれんぞ」
「一度は分からないかもしれない。ですが、二度目はありません」
店内の空気が少し変わった。
クィナスは、ここで確信した。
ラグネルは試している。
安さに食いつくか。
味を誤魔化す提案に乗るか。
端肉をただの安い材料と見るか。
それを見ている。
そしてオルゼンは、クィナスより先に気づいていた。
ラグネルは包みを閉じた。
「では、どういう端肉が欲しい」
オルゼンはクィナスへ視線を向けた。
クィナスはすぐに帳簿を開き、ボルガムが出した条件を読み上げる。
「古い肉ではなく、形が悪いだけの肉。脂が多すぎず、少なすぎないもの。赤身だけではなく、筋に近い部位を少量含むこと。煮た時に旨みが出るもの。朝包み用とは別に、夜そぼろ瓶用として分けられるもの」
ラグネルは黙って聞いている。
クィナスは続けた。
「また、香草は若すぎないものを希望します。冷めた状態だけでなく、温かい飯やパンに合わせた時に香りが立ちすぎないもの」
ラグネルの口元が、わずかに動いた。
「誰の条件だ」
「うちの料理担当、ボルガムです」
「熊族か」
「はい」
「端肉を分かっているらしい」
オルゼンは頷く。
「俺もそう思っています」
ラグネルはしばらく二人を見ていた。
それから、店の奥へ向かう。
「ついてこい」
奥の扉の先には、小さな保管室があった。
外の店構えからは想像できないほど、温度と湿度が整えられている。
肉、香草、根菜、卵、乳製品が、種類ごとに丁寧に分けられていた。
クィナスが小さく息を呑む。
「表の店より、こちらが本体ですね」
ラグネルが振り返る。
「気づいたか」
「荷車を見れば」
「猫族は目がいいな」
「帳簿も見ます」
「だろうな」
ラグネルは棚から別の包みを出した。
「これは今朝捌いたものだ。形は悪い。塊肉には向かん。だが、叩いて煮るなら悪くない」
包みを開く。
先ほどの肉とは、見た目の力が違った。
不揃いではある。
だが、色が良い。
脂も綺麗で、嫌な匂いがない。
オルゼンの指先に、かすかな感覚が残る。
夜。
温かい飯。
酒場帰りの手。
子供がパンに挟んで食べる姿。
そして、店の前で立ち止まる客の列。
これは、使える。
「これです」
オルゼンは言った。
ラグネルは少し目を細めた。
「値は安くない」
「安さだけを求めていません」
「だが、塊肉よりは安い」
「それで十分です」
クィナスはすぐに数字を頭の中で組んでいるようだった。
「二日置きに二十から三十瓶分。調査販売日には多めに必要です。継続取引が可能なら、仕入れ量は段階的に増やせます」
「いきなり大きく出ないのか」
ラグネルが聞く。
「出ません」
クィナスは答えた。
「売れる見込みはありますが、厨房の限界を確認していません。味を落とす量は仕入れません」
ラグネルは今度こそ、はっきりと笑った。
「面白い店だ」
その言葉は、試験の一つを通った合図のように聞こえた。
「だが、うちと取引したい店は多い」
「でしょうね」
オルゼンは言う。
「この小さな店だけで、それだけの食材を動かしているとは思えません」
ラグネルの目が鋭くなる。
クィナスも静かにラグネルを見た。
オルゼンは続ける。
「別の名前の大きな卸をお持ちですね。ここは、ラグネルさんが相手を見る場所ですか」
ラグネルはしばらく黙っていた。
保管室の冷たい空気の中で、沈黙が落ちる。
やがて、彼は低く笑った。
「若いわりに、よく見る」
「小さい店なので。見落とすとすぐ潰れます」
「その通りだ」
ラグネルは棚に手を置いた。
「この店は、俺が最初に賄いを作っていた場所だ」
「賄い?」
「昔は食材を運ぶだけの小僧だった。売れ残りの野菜や肉の端をもらって、ここで飯を作っていた。捨てられるはずのものを、どう食わせるか。それが俺の始まりだ」
ボルガムが聞いたら、何か言いそうだとオルゼンは思った。
安く見られている良い肉。
それは、ラグネル自身の始まりにも近いのかもしれない。
「今は別の名で大きくやっている」
ラグネルは淡々と言った。
「だが、この小さな店は残している。ここに来る相手は、だいたい食材をどう見ているか分かる」
「今日は、なぜご本人が?」
クィナスが聞いた。
「夜そぼろ瓶の話を聞いた」
ラグネルは答える。
「端肉を瓶詰めで売った店がある。しかも、古い肉ではなく、形の悪い良い肉を使ったらしい。興味が湧いた」
「それで試した」
オルゼンが言う。
「試した」
ラグネルは悪びれずに答えた。
「古い肉を出して、濃い味で誤魔化せると言った時に頷くなら、取引はしなかった」
「でしょうね」
「だが、断った」
ラグネルは肉の包みをもう一度示す。
「三日後の調査販売だったな」
「はい」
「必要量を書け。今日明日で揃える。だが条件がある」
クィナスの耳が動く。
「条件とは?」
「売れた数だけではなく、残った数も教えろ。どの味がどの客に売れたかもだ。基本、甘め、辛め。三種類をやるなら、その反応が知りたい」
「帳簿情報を共有するということですか?」
クィナスの声が少しだけ慎重になる。
ラグネルは頷いた。
「全部ではない。食材に関わる部分だけでいい。俺も、どの部位を回すべきか判断したい」
クィナスはオルゼンを見る。
オルゼンは少し考えた。
帳簿は店の内側だ。
すべてを見せるわけにはいかない。
だが、仕入れ先と情報を共有することで、食材の質が上がるなら価値はある。
「食材に関する販売結果だけなら」
オルゼンは言った。
「客の名前や細かい売上全体は出せません」
「それでいい」
ラグネルは満足そうに頷いた。
「こちらも、どの肉がどの味に向くか提案する。基本、甘め、辛めで使う部位を少し変えるといい」
クィナスがすぐに帳簿を開いた。
「詳しくお願いします」
ラグネルは保管室の棚から三つの包みを出した。
「基本は、赤身と脂の均等な端肉。甘めは脂が少しある方がいい。甘みが肉に乗る。辛めは赤身を強くしろ。脂が多いと辛味が鈍る」
クィナスが書く。
オルゼンも聞く。
ここからは、試験ではなく商談だった。
ラグネルは実力者だった。
ただ食材を売るだけではない。
料理の出口を見て、どの部位をどの品に回すか考えている。
だから、大きな店を持てるのだろう。
表の小さな店は、彼の始まりであり、相手を見るための場所。
そして、今日はそこでオルゼンたちが見られている。
しばらく話したあと、仮契約が決まった。
三日後の調査販売分として、端肉三種、香草、根菜、卵を必要量だけ卸す。
その後、販売結果をもとに二日置きの夜そぼろ瓶用の仕入れ量を調整する。
正式な継続契約は、調査販売後。
「まずは一度、売ってみろ」
ラグネルは言った。
「売れた数より、どう売ったかを見る」
「分かりました」
「それと、熊族の料理人に伝えろ」
「何をですか?」
ラグネルは少しだけ笑った。
「端肉を馬鹿にしない料理人なら、一度会ってみたい」
オルゼンは頷いた。
「喜ぶと思います」
「大声でか?」
「たぶん」
「なら、耳の準備をしておく」
クィナスが小さく笑った。
商談を終え、二人は店を出た。
外の通りに戻ると、市場の音が一気に耳へ入ってくる。
荷車の音。
商人の呼び声。
鳥人族の羽音。
川沿いの魚屋の声。
クィナスは帳簿を胸に抱えたまま、しばらく黙って歩いていた。
「どうした?」
オルゼンが聞く。
「いえ」
クィナスは少しだけ嬉しそうに言った。
「良い仕入れ先になりそうだと思って」
「そうだな」
「それと」
「ん?」
「マスターが、ちゃんと相手の試しに気づいていて安心しました」
「俺を何だと思ってるんだ」
「少し面倒な店主です」
「それはもう聞いた」
「でも、頼りになる店主です」
オルゼンは少しだけ目を瞬かせた。
クィナスは前を向いたまま続ける。
「私も、外で頑張れそうです」
「そうか」
「はい。帳簿に書くことが増えましたから」
「そこか」
「そこです」
二人は店へ戻る。
三日後の調査販売へ向けて、準備は始まったばかりだ。
だが、食材の道は見えた。
三種類の夜そぼろ瓶。
一日だけの増量販売。
客の数。
厨房の限界。
仕入れ先との仮契約。
小さな店は、少しだけ大きな商売の入口に立った。
ただし、やることは変わらない。
良いものを仕入れ、良い形にして、必要な客に売る。
それだけだ。
店に戻ると、厨房からボルガムの声が響いた。
「どうだった!」
オルゼンは答えた。
「良い肉が入る」
ボルガムの顔が、ぱっと明るくなった。
「おお!」
クィナスが続ける。
「ただし、三種類で部位を変える必要があります。基本、甘め、辛め。それぞれ向く肉が違うそうです」
ボルガムの目が真剣になる。
「詳しく聞こう」
「帳簿に全部書きました」
「さすがだ!」
オルゼンはカウンターに手を置き、黒板を見た。
三日後。
店は、これまでで一番忙しい一日になるかもしれない。
そしてその日、三人は知ることになる。
この店が今、どれだけの客を受け止められるのか。
どこまでなら味を守れるのか。
そして、どこから先に進むには、何が必要なのか。




