第008話:売り切れたあとに決めること
閉店後の店は、昼間とはまるで違う顔をしている。
入口の札は『閉店』に裏返され、黒板は店内へ下げられている。
棚の商品には布がかけられ、甘味の冷蔵箱も静かに魔力の音を立てていた。
厨房からは、まだ少しだけ香草と肉の匂いが残っている。
夜そぼろ瓶は、今日も出していない。
それでも夕方には、何人かの客が聞きに来た。
今日はないのか。
次はいつか。
予約はできないのか。
二瓶以上買えないのか。
クィナスはそのすべてを帳簿に記録していた。
そして今、その帳簿がカウンターの上に開かれている。
「マスター」
クィナスは真面目な顔で言った。
「夜そぼろ瓶について、少し決めた方がいいです」
オルゼンは棚の整理を終え、カウンターの向かいに座った。
「客が焦り始めてるか?」
「はい」
クィナスは帳簿の一行を指でなぞる。
「昨日完売。今日問い合わせ八件。うち三件は購入希望。二件は予約希望。一件は『いつ来れば買えるのか分からない』という不満です」
厨房からボルガムが顔を出した。
「不満か!」
「不満です」
「味への不満か!」
「買えないことへの不満です」
「ならよし!」
「よくはありません」
クィナスはぴしゃりと言った。
ボルガムは少しだけ肩をすくめる。
「む」
「限定品は、出会えないから記憶に残ります。でも、出会えなさすぎると諦められます」
「なるほど」
オルゼンは頷いた。
これは大事な点だった。
品薄は価値になる。
だが、品薄が続きすぎると客は離れる。
期待が不満に変わる前に、形を決める必要がある。
「どうしたい?」
オルゼンが聞くと、クィナスはすでに用意していたように答えた。
「肉の仕入れが可能なら、二日置きが良いと思います」
「二日置き」
「はい。毎日ではありません。けれど、完全な不定期でもない。客は『明後日ならあるかもしれない』と予想できます」
「あるかもしれない、でいいのか?」
「はい。完全予約制にすると、店頭の動きが鈍ります。ですが、ある程度の周期があれば、客は来店する理由を作れます」
ボルガムは腕を組んだ。
「二日置きなら、肉を選ぶ時間もある。仕込みも間に合う。だが、毎回同じ量の端肉が入るとは限らねえ」
「そこが問題です」
クィナスは帳簿をめくる。
「今の仕入れ先だけでは安定しません。二日置きにするなら、定期的に端肉や加工向けの肉を回してくれる相手が必要です」
「定期卸か」
オルゼンは考えた。
今までは、必要な時に市場で買っていた。
珍品や少量商品が中心だったから、それでよかった。
だが、夜そぼろ瓶のように繰り返し売る商品が出るなら、仕入れの形も変えなければならない。
「もう一つ、提案があります」
クィナスが言った。
「まだあるのか」
「あります。販売側の調査です」
「調査?」
「朝昼夜の十個限定商品ですが、一度だけ、数量制限なしで売ってみたいです」
ボルガムの丸い耳がぴくりと動いた。
「無制限?」
「はい。一日だけです。朝包み、昼包み、夜包み。できる範囲で数を増やして、実際にどれくらい売れるのか調べます」
オルゼンは黙ってクィナスを見た。
彼女は続ける。
「今の十個限定は、売り切れることが価値になっています。でも、本当の需要が分かりません。十個だから売れているのか、二十個でも売れるのか、三十個で止まるのか。それを一度確認したいです」
「客の数を見るためか」
「はい。それと、厨房の限界も」
ボルガムが腕を組んだまま唸る。
「味を落とすなら反対だ」
「分かっています」
クィナスは即答した。
「だから、判断はボルガムに任せます」
ボルガムは少し驚いた顔をした。
「俺に?」
「はい。どこまでなら味が落ちないか。どこから先はただの大量調理になるか。それは厨房の判断です」
オルゼンも頷く。
「俺も同じだ。売れるからといって、味が落ちるならやらない」
ボルガムはしばらく黙っていた。
普段ならすぐに大声で返す。
だが、料理の話になると、彼は時々こうして真剣に考える。
「……準備なしなら無理だ」
やがて、低い声で言った。
「朝包みだけなら増やせる。二十くらいまではいける。だが朝昼夜全部を増やすなら、仕込みが足りねえ。肉、野菜、火口、包み紙、冷ます場所、全部必要だ」
「準備期間を取るなら?」
オルゼンが聞く。
「三日くれ」
ボルガムは即答した。
「三日あれば、仕込みの流れを組める。朝用、昼用、夜用で具を分ける。下味をつける時間も取れる。だが、それでも一人で全部は厳しい」
クィナスが帳簿に書き込む手を止めた。
「一人では、ですか」
「ああ」
ボルガムは少し悔しそうに言った。
「俺は自分の腕を疑ってねえ。だが、手は二本だ。火口も限りがある。味を落とさず数を増やすなら、いつかもう一人いる」
店内が少し静かになった。
もう一人。
今までは、三人で店が回っていた。
オルゼンが仕入れと判断。
クィナスが帳簿と販売。
ボルガムが厨房。
小さい店なら、それで十分だった。
だが、商品が増え、客が増え、限定販売を広げるなら、いずれ限界が来る。
「すぐに雇う必要はない」
ボルガムは続けた。
「だが、無制限販売をやれば分かる。俺一人でどこまでできるか。どこから先は無理か」
「つまり、調査販売は客の需要だけじゃなく、店の限界を見る日でもある」
オルゼンが言うと、ボルガムは頷いた。
「そうだ」
クィナスは静かに帳簿へ書いた。
『調査販売案。目的、需要確認・厨房限界確認・追加人員必要性判断』
それから顔を上げる。
「マスター、どうしますか?」
オルゼンはしばらく考えた。
限定十個という形は、この店の顔になりつつある。
それを崩すのは少し怖い。
だが、ずっと同じ形でいる必要もない。
商売は、試してみなければ分からないことがある。
「やろう」
オルゼンは言った。
「一日だけ、数量制限なしの調査販売をする。ただし、条件をつける」
クィナスの耳が立つ。
「条件とは?」
「まず、準備期間は三日。無理に明日やらない」
「はい」
「次に、味の最終判断はボルガム。数を増やしても味が落ちると思った時点で止める」
「当然だ!」
ボルガムが力強く頷く。
「最後に、客には調査販売だと明記する。これが今後ずっと続くと思われると困る」
「黒板に書きます」
クィナスはすぐに案を口にした。
「『三日後、包み料理調査販売。いつもの十個限定を一日だけ増量します。今後の販売数を決めるための試験です。味が落ちる前に終了します』」
「最後の一文がいいな」
ボルガムが笑う。
「味が落ちる前に終了! 潔い!」
「正直すぎないか?」
オルゼンが言うと、クィナスは首を振った。
「正直な方が良いです。うちの店らしいので」
「そうか」
「はい。限定品も、調査販売も、嘘を混ぜるとあとで帳簿が汚れます」
オルゼンは少し笑った。
「帳簿基準か」
「帳簿は店の記憶なので」
その言葉に、ボルガムも笑った。
「じゃあ、三日後だな!」
「その前に仕入れだ」
オルゼンは言った。
「今の仕入れ先だけでは足りない。定期的に食材を卸してくれる相手を探す必要がある」
クィナスが帳簿をめくる。
「候補はいくつかあります。中央市場の肉屋、南門の荷受け、北裏の保存食店、それから……」
そこで彼女は一つの名前に指を止めた。
「ラグネル食材卸」
「聞いたことがあるな」
オルゼンは眉を寄せた。
「手広くはやっていません。大きな商会ではなく、信用した店にだけ卸す小規模の卸業者です。肉、野菜、香草、乳製品を扱っています」
「評判は?」
「良いです。ただし、取引を断られることも多いようです」
「理由は?」
「店を見るから、だそうです」
ボルガムが鼻を鳴らした。
「面白えな」
「面白いか?」
「食材を誰に渡すか選ぶやつは、だいたい食い物を大事にしてる」
オルゼンは頷いた。
「明日、行ってみるか」
「私も行きます」
クィナスが言った。
「交渉ですから」
「店は?」
「午前中は通常営業。午後に短く閉めます。黒板には仕入れ交渉のため、と書きます」
「正直だな」
「最近、それが売りになりつつあります」
ボルガムは腕を組む。
「俺も行きたいが、仕込みがあるな」
「必要な条件をまとめてくれ」
オルゼンが言う。
「肉の質、端肉の種類、脂の割合、納品時間、野菜の鮮度、青塩と合わせるなら香草もいる」
「おう! 書くぞ!」
「ボルガムが?」
「口で言う! クィナスが書く!」
「でしょうね」
クィナスは新しいページを開いた。
ボルガムは厨房から次々に条件を出した。
「端肉は、古い肉じゃ駄目だ。形が悪いだけの肉がいい。脂は多すぎるとくどい。少なすぎるとそぼろが乾く。赤身だけでも駄目だ。筋に近い部分は少し欲しい。煮た時に味が出る」
「はい」
「朝包み用の肉は、厚すぎると駄目だ。火が通るのが遅い。薄すぎると食った気がしねえ。根菜は甘みがあるやつ。水っぽいのはいらん」
「はい」
「香草は若すぎると立ちすぎる。ヘルマ婆さんの言う通りだ。少し落ち着いた香りのやつが欲しい」
「はい」
「卵があるなら、夜用の包みに使える。だが殻が薄いのは駄目だ。割れる」
「はい」
「あと、安いだけの肉を出す相手なら断れ」
クィナスの手が止まる。
ボルガムは真剣な顔で言った。
「安い肉が欲しいんじゃねえ。安く見られてる、いい肉が欲しいんだ」
オルゼンはその言葉を聞いて、静かに頷いた。
「分かった」
クィナスも帳簿にそのまま書き込んだ。
『安い肉ではなく、安く見られている良い肉』
ボルガムは少し照れたように鼻を鳴らした。
「そこは大事だ」
「ああ」
方針は決まった。
三日後、調査販売を行う。
夜そぼろ瓶は、可能なら二日置き。
ただし良い肉が入った時のみ。
仕入れのため、ラグネル食材卸へ交渉に行く。
店の限界も見る。
場合によっては、将来的にもう一人雇うことも考える。
小さな店としては、大きな決定だった。
クィナスは帳簿を閉じる。
「では、明日の黒板に書きます」
「頼む」
「文面はどうします?」
オルゼンは少し考えた。
「こうだな」
クィナスが白墨を用意する。
オルゼンはゆっくり言った。
「三日後、包み料理の調査販売を行います。
いつもの十個限定を、一日だけ増量します。
今後の販売数を決めるための試験販売です。
味が落ちる前に終了します」
クィナスは書きながら、少し笑った。
「いいですね。最後が強いです」
ボルガムも大きく頷く。
「俺も気に入った!」
「責任重大だぞ」
オルゼンが言うと、ボルガムは胸を張った。
「任せろ! 俺の腕は信じていい!」
「信じてる」
その言葉に、ボルガムは一瞬だけ黙った。
それから、いつものように大きく笑った。
「おう!」
閉店後の店に、三人の声が残る。
棚には布がかかっている。
厨房の火は落ちている。
外の通りも静かだ。
だが、帳簿には新しい予定が書き込まれた。
三日後。
調査販売。
小さな店が、自分たちの限界を知るための日。
そして、その準備は明日から始まる。




