表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/25

第008話:売り切れたあとに決めること

 閉店後の店は、昼間とはまるで違う顔をしている。


 入口の札は『閉店』に裏返され、黒板は店内へ下げられている。

 棚の商品には布がかけられ、甘味の冷蔵箱も静かに魔力の音を立てていた。


 厨房からは、まだ少しだけ香草と肉の匂いが残っている。


 夜そぼろ瓶は、今日も出していない。

 それでも夕方には、何人かの客が聞きに来た。


 今日はないのか。

 次はいつか。

 予約はできないのか。

 二瓶以上買えないのか。


 クィナスはそのすべてを帳簿に記録していた。


 そして今、その帳簿がカウンターの上に開かれている。


「マスター」


 クィナスは真面目な顔で言った。


「夜そぼろ瓶について、少し決めた方がいいです」


 オルゼンは棚の整理を終え、カウンターの向かいに座った。


「客が焦り始めてるか?」


「はい」


 クィナスは帳簿の一行を指でなぞる。


「昨日完売。今日問い合わせ八件。うち三件は購入希望。二件は予約希望。一件は『いつ来れば買えるのか分からない』という不満です」


 厨房からボルガムが顔を出した。


「不満か!」


「不満です」


「味への不満か!」


「買えないことへの不満です」


「ならよし!」


「よくはありません」


 クィナスはぴしゃりと言った。


 ボルガムは少しだけ肩をすくめる。


「む」


「限定品は、出会えないから記憶に残ります。でも、出会えなさすぎると諦められます」


「なるほど」


 オルゼンは頷いた。


 これは大事な点だった。


 品薄は価値になる。

 だが、品薄が続きすぎると客は離れる。


 期待が不満に変わる前に、形を決める必要がある。


「どうしたい?」


 オルゼンが聞くと、クィナスはすでに用意していたように答えた。


「肉の仕入れが可能なら、二日置きが良いと思います」


「二日置き」


「はい。毎日ではありません。けれど、完全な不定期でもない。客は『明後日ならあるかもしれない』と予想できます」


「あるかもしれない、でいいのか?」


「はい。完全予約制にすると、店頭の動きが鈍ります。ですが、ある程度の周期があれば、客は来店する理由を作れます」


 ボルガムは腕を組んだ。


「二日置きなら、肉を選ぶ時間もある。仕込みも間に合う。だが、毎回同じ量の端肉が入るとは限らねえ」


「そこが問題です」


 クィナスは帳簿をめくる。


「今の仕入れ先だけでは安定しません。二日置きにするなら、定期的に端肉や加工向けの肉を回してくれる相手が必要です」


「定期卸か」


 オルゼンは考えた。


 今までは、必要な時に市場で買っていた。

 珍品や少量商品が中心だったから、それでよかった。


 だが、夜そぼろ瓶のように繰り返し売る商品が出るなら、仕入れの形も変えなければならない。


「もう一つ、提案があります」


 クィナスが言った。


「まだあるのか」


「あります。販売側の調査です」


「調査?」


「朝昼夜の十個限定商品ですが、一度だけ、数量制限なしで売ってみたいです」


 ボルガムの丸い耳がぴくりと動いた。


「無制限?」


「はい。一日だけです。朝包み、昼包み、夜包み。できる範囲で数を増やして、実際にどれくらい売れるのか調べます」


 オルゼンは黙ってクィナスを見た。


 彼女は続ける。


「今の十個限定は、売り切れることが価値になっています。でも、本当の需要が分かりません。十個だから売れているのか、二十個でも売れるのか、三十個で止まるのか。それを一度確認したいです」


「客の数を見るためか」


「はい。それと、厨房の限界も」


 ボルガムが腕を組んだまま唸る。


「味を落とすなら反対だ」


「分かっています」


 クィナスは即答した。


「だから、判断はボルガムに任せます」


 ボルガムは少し驚いた顔をした。


「俺に?」


「はい。どこまでなら味が落ちないか。どこから先はただの大量調理になるか。それは厨房の判断です」


 オルゼンも頷く。


「俺も同じだ。売れるからといって、味が落ちるならやらない」


 ボルガムはしばらく黙っていた。


 普段ならすぐに大声で返す。

 だが、料理の話になると、彼は時々こうして真剣に考える。


「……準備なしなら無理だ」


 やがて、低い声で言った。


「朝包みだけなら増やせる。二十くらいまではいける。だが朝昼夜全部を増やすなら、仕込みが足りねえ。肉、野菜、火口、包み紙、冷ます場所、全部必要だ」


「準備期間を取るなら?」


 オルゼンが聞く。


「三日くれ」


 ボルガムは即答した。


「三日あれば、仕込みの流れを組める。朝用、昼用、夜用で具を分ける。下味をつける時間も取れる。だが、それでも一人で全部は厳しい」


 クィナスが帳簿に書き込む手を止めた。


「一人では、ですか」


「ああ」


 ボルガムは少し悔しそうに言った。


「俺は自分の腕を疑ってねえ。だが、手は二本だ。火口も限りがある。味を落とさず数を増やすなら、いつかもう一人いる」


 店内が少し静かになった。


 もう一人。


 今までは、三人で店が回っていた。


 オルゼンが仕入れと判断。

 クィナスが帳簿と販売。

 ボルガムが厨房。


 小さい店なら、それで十分だった。


 だが、商品が増え、客が増え、限定販売を広げるなら、いずれ限界が来る。


「すぐに雇う必要はない」


 ボルガムは続けた。


「だが、無制限販売をやれば分かる。俺一人でどこまでできるか。どこから先は無理か」


「つまり、調査販売は客の需要だけじゃなく、店の限界を見る日でもある」


 オルゼンが言うと、ボルガムは頷いた。


「そうだ」


 クィナスは静かに帳簿へ書いた。


『調査販売案。目的、需要確認・厨房限界確認・追加人員必要性判断』


 それから顔を上げる。


「マスター、どうしますか?」


 オルゼンはしばらく考えた。


 限定十個という形は、この店の顔になりつつある。

 それを崩すのは少し怖い。


 だが、ずっと同じ形でいる必要もない。


 商売は、試してみなければ分からないことがある。


「やろう」


 オルゼンは言った。


「一日だけ、数量制限なしの調査販売をする。ただし、条件をつける」


 クィナスの耳が立つ。


「条件とは?」


「まず、準備期間は三日。無理に明日やらない」


「はい」


「次に、味の最終判断はボルガム。数を増やしても味が落ちると思った時点で止める」


「当然だ!」


 ボルガムが力強く頷く。


「最後に、客には調査販売だと明記する。これが今後ずっと続くと思われると困る」


「黒板に書きます」


 クィナスはすぐに案を口にした。


「『三日後、包み料理調査販売。いつもの十個限定を一日だけ増量します。今後の販売数を決めるための試験です。味が落ちる前に終了します』」


「最後の一文がいいな」


 ボルガムが笑う。


「味が落ちる前に終了! 潔い!」


「正直すぎないか?」


 オルゼンが言うと、クィナスは首を振った。


「正直な方が良いです。うちの店らしいので」


「そうか」


「はい。限定品も、調査販売も、嘘を混ぜるとあとで帳簿が汚れます」


 オルゼンは少し笑った。


「帳簿基準か」


「帳簿は店の記憶なので」


 その言葉に、ボルガムも笑った。


「じゃあ、三日後だな!」


「その前に仕入れだ」


 オルゼンは言った。


「今の仕入れ先だけでは足りない。定期的に食材を卸してくれる相手を探す必要がある」


 クィナスが帳簿をめくる。


「候補はいくつかあります。中央市場の肉屋、南門の荷受け、北裏の保存食店、それから……」


 そこで彼女は一つの名前に指を止めた。


「ラグネル食材卸」


「聞いたことがあるな」


 オルゼンは眉を寄せた。


「手広くはやっていません。大きな商会ではなく、信用した店にだけ卸す小規模の卸業者です。肉、野菜、香草、乳製品を扱っています」


「評判は?」


「良いです。ただし、取引を断られることも多いようです」


「理由は?」


「店を見るから、だそうです」


 ボルガムが鼻を鳴らした。


「面白えな」


「面白いか?」


「食材を誰に渡すか選ぶやつは、だいたい食い物を大事にしてる」


 オルゼンは頷いた。


「明日、行ってみるか」


「私も行きます」


 クィナスが言った。


「交渉ですから」


「店は?」


「午前中は通常営業。午後に短く閉めます。黒板には仕入れ交渉のため、と書きます」


「正直だな」


「最近、それが売りになりつつあります」


 ボルガムは腕を組む。


「俺も行きたいが、仕込みがあるな」


「必要な条件をまとめてくれ」


 オルゼンが言う。


「肉の質、端肉の種類、脂の割合、納品時間、野菜の鮮度、青塩と合わせるなら香草もいる」


「おう! 書くぞ!」


「ボルガムが?」


「口で言う! クィナスが書く!」


「でしょうね」


 クィナスは新しいページを開いた。


 ボルガムは厨房から次々に条件を出した。


「端肉は、古い肉じゃ駄目だ。形が悪いだけの肉がいい。脂は多すぎるとくどい。少なすぎるとそぼろが乾く。赤身だけでも駄目だ。筋に近い部分は少し欲しい。煮た時に味が出る」


「はい」


「朝包み用の肉は、厚すぎると駄目だ。火が通るのが遅い。薄すぎると食った気がしねえ。根菜は甘みがあるやつ。水っぽいのはいらん」


「はい」


「香草は若すぎると立ちすぎる。ヘルマ婆さんの言う通りだ。少し落ち着いた香りのやつが欲しい」


「はい」


「卵があるなら、夜用の包みに使える。だが殻が薄いのは駄目だ。割れる」


「はい」


「あと、安いだけの肉を出す相手なら断れ」


 クィナスの手が止まる。


 ボルガムは真剣な顔で言った。


「安い肉が欲しいんじゃねえ。安く見られてる、いい肉が欲しいんだ」


 オルゼンはその言葉を聞いて、静かに頷いた。


「分かった」


 クィナスも帳簿にそのまま書き込んだ。


『安い肉ではなく、安く見られている良い肉』


 ボルガムは少し照れたように鼻を鳴らした。


「そこは大事だ」


「ああ」


 方針は決まった。


 三日後、調査販売を行う。

 夜そぼろ瓶は、可能なら二日置き。

 ただし良い肉が入った時のみ。

 仕入れのため、ラグネル食材卸へ交渉に行く。

 店の限界も見る。

 場合によっては、将来的にもう一人雇うことも考える。


 小さな店としては、大きな決定だった。


 クィナスは帳簿を閉じる。


「では、明日の黒板に書きます」


「頼む」


「文面はどうします?」


 オルゼンは少し考えた。


「こうだな」


 クィナスが白墨を用意する。


 オルゼンはゆっくり言った。


「三日後、包み料理の調査販売を行います。

 いつもの十個限定を、一日だけ増量します。

 今後の販売数を決めるための試験販売です。

 味が落ちる前に終了します」


 クィナスは書きながら、少し笑った。


「いいですね。最後が強いです」


 ボルガムも大きく頷く。


「俺も気に入った!」


「責任重大だぞ」


 オルゼンが言うと、ボルガムは胸を張った。


「任せろ! 俺の腕は信じていい!」


「信じてる」


 その言葉に、ボルガムは一瞬だけ黙った。


 それから、いつものように大きく笑った。


「おう!」


 閉店後の店に、三人の声が残る。


 棚には布がかかっている。

 厨房の火は落ちている。

 外の通りも静かだ。


 だが、帳簿には新しい予定が書き込まれた。


 三日後。

 調査販売。


 小さな店が、自分たちの限界を知るための日。


 そして、その準備は明日から始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ