第007話:古い商人と、古い商人
その日の黒板には、朝から少しだけ客の足を止める文が書かれていた。
『夜そぼろ瓶
本日はありません。
良い端肉が入った日にだけ作ります。
次回未定。』
朝包みを買いに来た常連の何人かが、それを見て残念そうな顔をした。
「昨日買えなかったんだよな」
「次はいつだ?」
「未定って本当に未定か?」
クィナスは笑顔で答える。
「本当に未定です。良い端肉が入った日だけですので」
「毎日作ってくれよ」
「毎日作ると、ただの商品になります」
「ただの商品でいいんだが」
「こちらがよくないんです」
そう言い切るあたりが、クィナスだった。
ボルガムは厨房で朝包みを焼きながら、外の声を聞いて満足そうにしている。
「ふふん。昨日の夜そぼろ瓶、効いてるな!」
「効くって言い方はどうなんだ」
オルゼンがカウンターで小銭を整えながら言う。
「うまいものは効く!」
「薬みたいに言うな」
「腹に効く!」
「それはまあ、そうかもしれない」
クィナスは帳簿に小さく書き込んだ。
『夜そぼろ瓶、翌日問い合わせ五件。再販希望強め。希少性維持』
「希少性維持って書かれると、少し悪い商売みたいだな」
オルゼンが言うと、クィナスは耳を揺らした。
「希少性は悪ではありません。嘘の希少性が悪です」
「いいこと言うな」
「帳簿に書いておきます?」
「いや、いい」
「では心に書いておきます」
そんな会話をしていると、入口の鈴が鳴った。
入ってきたのは、年配の男だった。
背はあまり高くない。
だが、腹は少し出ていて、顎には白い髭がある。
上着は上等だが、流行遅れの型だ。
手には古い革手袋。
靴は磨かれているが、歩き方にはどこか偉そうな癖があった。
男は店内を見回した。
商品棚。
食品カウンター。
黒板。
厨房。
クィナス。
ボルガム。
そして最後に、オルゼンを見た。
「ここが、最近妙な売り方をしている店か」
第一声から、ずいぶんと失礼だった。
クィナスの耳がぴくりと動く。
ボルガムの包み焼きを返す手が、少しだけ止まった。
オルゼンは変わらない顔で言った。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
男は鼻を鳴らした。
「探すほどのものがあるか見に来ただけだ」
クィナスがにこりと笑う。
「見学でしたら、棚の商品にはお手を触れずにお願いします」
「触らなければ品の良し悪しが分からんだろう」
「購入を検討される品でしたら、もちろんどうぞ。ただ、品定めではなく粗探しでしたら、目だけでお願いします」
男の眉が動いた。
「口の達者な猫だな」
「帳簿も達者です」
「聞いておらん」
男は棚の前へ移動した。
手に取ったのは、青塩の小包みだった。
「これが噂の青塩か」
「料理用の小包みです」
オルゼンが答える。
「こんな少量でこの値か。ずいぶん強気だな」
「少量で足りる品ですので」
「塩は塩だろう」
「使えば違いが分かります」
男は小さく笑った。
「若い商人は、すぐに違いだの価値だのと言う。客は腹が膨れればいい。安い方を選ぶものだ」
厨房からボルガムの声が飛んできた。
「腹は膨れても、舌は覚えるぞ!」
男は厨房を見た。
「熊族の料理人か。珍しいな」
「おう! 珍しいだけじゃなくうまいぞ!」
「自分で言うか」
「言う! 言わなきゃ伝わらん!」
クィナスが横から穏やかに言う。
「お客様、お名前を伺っても?」
男は少しだけ胸を張った。
「ガルドスだ。南寄りの市場で保存食と雑貨の店をやっている。三十年以上な」
「ガルドスさんですね」
クィナスは帳簿にさらりと書く。
「同業の方ですか」
「同業というほどではない。そちらは、珍品を並べて客を煽っているだけだろう」
「煽る?」
オルゼンが聞き返す。
ガルドスは黒板を指した。
「十個限定。次回未定。良い端肉が入った日だけ。こういう書き方だ。客を焦らせて買わせる」
「焦らせるつもりはありません」
「なら毎日作ればいい」
「材料がないので」
「材料なら仕入れればいいだろう」
ボルガムが厨房から顔を出した。
「違うぞ、爺さん!」
「爺さん?」
「良い端肉は、ただの余り肉じゃねえ! 脂と赤身と筋の具合が大事だ! 安けりゃ何でもいいわけじゃねえ!」
ガルドスは不快そうに顔をしかめた。
「肉の端でそこまで偉そうに語るか」
「語る! 端肉にも端肉の誇りがある!」
「肉に誇りはない」
「ある!」
「ない」
「ある!」
「ボルガム」
オルゼンが止めると、ボルガムは不満そうに厨房へ戻った。
クィナスは笑顔のままだったが、口数が少しだけ減っていた。
それを見て、オルゼンは思う。
怒っている。
ガルドスはそれに気づいていない。
「まあいい」
ガルドスは青塩の小包みを棚に戻した。
「若い店が妙な売り方で少し客を集めたところで、長くは続かん。商売は安定だ。毎日同じ品を同じ値で売る。客はそれを信用する」
「それも商売です」
オルゼンは答えた。
「うちは、そうでない品も扱うだけです」
「そういう店は、飽きられたら終わりだ」
「飽きられないように考えます」
「考えてどうにかなるほど商売は甘くない」
ガルドスはそう言って、何も買わずに店を出ようとした。
その時、入口の鈴が鳴った。
外から入ってきたのは、年配の女性だった。
白髪を後ろでまとめ、落ち着いた濃紺の服を着ている。
背筋は伸びているが、動きは急がない。
手には布の買い物袋。
目元には細かな皺があり、その皺がよく笑う人間のものだと分かる。
女性はガルドスを見て、少しだけ眉を上げた。
「あら、ガルドス。あんた、また若い店に説教してるのかい」
ガルドスの顔が露骨にしかめられる。
「ヘルマ」
「久しぶりだね。まだ口だけは元気そうで何より」
「相変わらず失礼な婆さんだ」
「先に爺さんになったのはあんただろう」
二人は知り合いらしい。
クィナスが小さく耳を動かす。
オルゼンも少しだけ興味を持った。
ヘルマと呼ばれた女性は、オルゼンへ向き直った。
「店主さんかい?」
「はい。オルゼンです」
「ヘルマだよ。北裏通りで、漬物と保存食を少し売ってる。昔は惣菜屋もやってた」
「いらっしゃいませ」
「昨日の夜そぼろ瓶、うちの隣の鍛冶屋が買ってきてね。少し味見させてもらったんだ」
ボルガムが厨房から勢いよく顔を出した。
「どうだった!」
ヘルマは目を細めた。
「うまかったよ」
ボルガムの顔がぱっと明るくなる。
「だろう!」
「ただ、少しだけ香草が若いね」
「む」
ボルガムの耳、ではなく丸い熊の耳がぴくりと動いた。
「若い?」
「香りが前に出すぎてる。冷めるとちょうどいいが、飯に乗せて温まった時に少し立ちすぎる。もう半歩だけ後ろでいい」
店内が静かになった。
ガルドスが少し鼻で笑う。
「ほら見ろ。年寄りには分かる。若い店の味は浅い」
しかし、ボルガムは怒らなかった。
むしろ真剣な顔になった。
「温まった時か」
「そうさ。冷めた瓶の状態だけなら悪くない。だが客は飯に乗せる。温かい粥に入れる。パンに挟んで焼くかもしれない。そこで香りがもう一度立つ」
ボルガムは腕を組んだ。
「なるほど」
ヘルマは続ける。
「でも肉の扱いはいい。端肉を細かくしすぎてない。あれは分かってる者の仕事だ」
「おお……」
ボルガムの表情が、今度は分かりやすく誇らしげになった。
クィナスはすぐに帳簿を開いている。
『ヘルマさん。北裏通り保存食店。夜そぼろ瓶評価、香草やや前。温め直し時に強い。肉の扱い高評価』
「書くのかい?」
ヘルマが笑う。
「はい。貴重なご意見です」
「いい猫さんだね」
「ありがとうございます」
ガルドスは面白くなさそうに言った。
「客の言うことをいちいち書いていたら、商売にならんぞ」
ヘルマは呆れたように彼を見た。
「だからあんたの店は、三十年前と同じものしか売れないんだよ」
「安定していると言え」
「安定と停滞は違う」
ガルドスの顔が赤くなった。
オルゼンはそのやり取りを黙って見ていた。
二人とも年配の商人だ。
長く商売をしている。
だが、向いている方向が違う。
ガルドスは、過去のやり方を守っている。
ヘルマは、過去の経験を使って今の品を見ている。
同じ古さでも、まるで違う。
「それで、店主さん」
ヘルマはオルゼンを見た。
「夜そぼろ瓶、今日はないのかい?」
「今日はありません」
「正直でいいね」
「良い端肉が入った日だけにしています」
「それがいい。毎日作ろうとすると、味が落ちる。味が落ちた限定品ほど、みっともないものはない」
ガルドスが口を挟む。
「客が欲しがるなら出せばいいだろう」
「だからあんたは駄目なんだよ」
「何だと」
「客が欲しがるものを出すのは商売だ。けど、出せない時に出さないのも商売だよ」
ヘルマは棚の青塩を見た。
「これは?」
「青塩です。料理用の小包みです」
「少しだけでいい品だね」
「ご存じですか?」
「昔、魚の保存に使ったことがある。たくさん使うと台無しになる。少しだけ使うと、後味が締まる」
ボルガムが大きく頷いた。
「分かってるな、婆さん!」
「婆さんでいいよ。あんたは良い舌をしてる」
「おう!」
「ただし声が大きい」
「すまん!」
「謝る声も大きい」
「すまん……」
ボルガムが珍しく声を落とした。
クィナスは少し笑いそうになりながら帳簿に書く。
『ヘルマさん、ボルガムの声量を指摘。本人、改善努力あり』
「それも書くのかい?」
「店の記憶なので」
「いいねえ」
ヘルマは青塩の小包みを二つ手に取った。
「これをもらうよ。あと、何か甘いものはあるかい?」
「白蜜プリンと、黒糖ナッツの焼き菓子があります」
「焼き菓子を二つ。年を取るとね、硬すぎる菓子は困るんだ。これは?」
「少し柔らかめです」
「ならそれで」
ガルドスが横で腕を組む。
「買うのか」
「店に来たら買う。当たり前だろう」
「様子を見に来ただけではないのか」
「様子を見るにも、金を落とさなきゃ失礼だよ」
ヘルマはさらりと言った。
その一言で、店内の空気が少し変わった。
クィナスの耳が軽く揺れる。
ボルガムは厨房で満足そうに鼻を鳴らす。
オルゼンはヘルマの商品を包みながら、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。若い店を見るのは楽しいよ」
「若い店など、危なっかしいだけだ」
ガルドスが言う。
ヘルマは彼を見た。
「ガルドス、あんた本当は気になってるんだろう?」
「何がだ」
「この店が」
「馬鹿を言うな」
「じゃなきゃ、わざわざ来ないよ。しかも何も買わずに帰ろうとして。怖いんだね」
「怖い?」
「自分の知らない売り方で、客が動いているのが」
ガルドスの口が閉じた。
ヘルマの声は優しかった。
だが、甘くはない。
「長く商売をしているとね、自分の棚が正しいと思いたくなる。毎日同じ場所に同じ品を並べて、同じ客が同じものを買う。それは良い商売だよ。けど、外の店が違うやり方を始めた時、全部を間違いだと思ったら終わりだ」
ガルドスは何も言わない。
ヘルマは続けた。
「若い店には若い店の無茶がある。古い店には古い店の知恵がある。どっちも使えばいいじゃないか」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから、商売なんだろう」
店内に、しばらく静かな時間が流れた。
外では馬車が通り過ぎる音がする。
厨房では、小さく火が鳴っている。
ガルドスは棚に目を向けた。
青塩。
乾燥果実。
小人族の細工針。
香草。
旅人用の保存瓶。
それから、黒板。
『夜そぼろ瓶 本日はありません』
彼は眉間に皺を寄せたまま、低い声で言った。
「……夜そぼろ瓶は、本当に今日はないのか」
ボルガムが即答した。
「ない!」
「少しも?」
「ない! 試食分もない!」
「昨日の残りは」
「売らん! 味を見るための記録用はあるが、売り物じゃねえ!」
クィナスが補足する。
「翌日品質確認用です。販売対象外です」
「ずいぶん徹底しているな」
オルゼンは答えた。
「一度売った商品の印象は、次の商売に残りますから」
ガルドスはオルゼンを見た。
「若いのに、面倒なことを言う」
「よく言われます」
「褒めてはいない」
「分かっています」
ヘルマが笑う。
「今のは半分褒めてるよ」
「褒めておらん」
ガルドスはしばらく迷ったあと、青塩の小包みを一つ手に取った。
「これを一つ」
クィナスの耳がぴんと立つ。
「ありがとうございます」
「試すだけだ」
「はい。試し使いにちょうど良い量です」
「あと、その焼き菓子を一つ」
「ありがとうございます」
「食うわけではない。店の品として見るだけだ」
ヘルマが横から言う。
「食べずに菓子の何を見るんだい」
「うるさい」
ガルドスは代金を置いた。
支払いは正確だった。
そこは長く商売をしている者らしい。
クィナスは帳簿に記録する。
『ガルドスさん。南寄り市場、保存食雑貨店。初来店。発言に難あり。青塩小包み一、焼き菓子一購入。試すだけとのこと』
ガルドスが目を細める。
「今、何を書いた」
「購入記録です」
「余計なことも書いていないか」
「補足です」
「消せ」
「帳簿は改ざんできません」
ヘルマが声を出して笑った。
「いいねえ、その猫さん」
「笑い事ではない」
「いや、笑い事だよ」
ガルドスは不機嫌そうに商品を受け取った。
「若い店のやり方など、すぐに飽きられる」
そう言いながらも、彼は青塩の小包みを丁寧に懐へ入れた。
オルゼンはそれを見ていた。
嫌味を言う。
見下す。
認めようとしない。
けれど、本当に価値がないと思っているなら買わない。
ガルドスもまた、商人なのだ。
口では否定しても、気になるものには金を払う。
その一点だけは、信用できるかもしれない。
「またのお越しを」
オルゼンが言うと、ガルドスは鼻を鳴らした。
「気が向けばな」
「気が向くでしょうよ」
ヘルマが言う。
「うるさい」
ガルドスは店を出ていった。
入口の鈴が鳴る。
その背中が通りに消えるまで、誰も少しだけ黙っていた。
ヘルマは肩をすくめる。
「悪い人間じゃないんだけどね。口と腰が硬い」
「腰もですか」
クィナスが聞く。
「年だからね」
「なるほど」
「ただ、ああいう男は扱いを間違えると面倒だよ。認めたいのに認められない。だから嫌味になる」
オルゼンは頷いた。
「同業者として見ておきます」
「それがいい。敵にするほどじゃない。味方にするほどでもない。たまに買いに来て、文句を言って帰るくらいがちょうどいい」
「厄介な常連候補ですね」
クィナスが言うと、ヘルマは楽しそうに笑った。
「商売にはそういう客も必要だよ。褒める客ばかりだと、棚が甘くなる」
ボルガムが厨房から言う。
「ヘルマ婆さんはまた来るか?」
「夜そぼろ瓶がある日にね」
「次は香草を半歩下げる!」
「そうしな。温め直しまで考えたら、もっと良くなる」
「おう!」
ヘルマは青塩と焼き菓子の包みを受け取った。
「店主さん」
「はい」
「良い店だね。品が多いのに、無理に売ろうとしていない」
「そう見えますか?」
「見えるよ。売りたい品と、売ってはいけない時を分けている。若いのに珍しい」
「ありがとうございます」
「ただし」
ヘルマの目が少し鋭くなる。
「限定品は、客の期待を裏切ると一気に嫌われる。出さない日は出さない。出す日は必ず良いものを出す。そこだけは間違えない方がいい」
「覚えておきます」
「帳簿にも書いておきな」
クィナスはすでに書いていた。
『ヘルマさん助言。限定品は期待を裏切らない。出さない日は出さない。出す日は良いものを出す』
ヘルマはそれを見て、満足そうに頷いた。
「本当に良い猫さんだ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、また来るよ」
ヘルマも店を出ていった。
入口の鈴が鳴り、店内に静けさが戻る。
ボルガムは厨房から出てきて、腕を組んだ。
「香草、半歩下げるか」
「半歩って便利な単位ですね」
クィナスが言う。
「お前が棚で使ってたからな!」
「料理にまで応用されるとは思いませんでした」
オルゼンは黒板を見た。
夜そぼろ瓶は今日もない。
それでも、それを見に来る客がいる。
文句を言う客もいる。
助言をくれる客もいる。
商売は品だけではない。
品を見た人間が、何を言うか。
買うか、買わないか。
文句を言いながら買うか。
褒めながら厳しいことを言うか。
それも全部、店に残る。
「クィナス」
「はい、マスター」
「今日の帳簿、長くなりそうだな」
「かなり」
クィナスは嬉しそうに帳簿を抱えた。
「ガルドスさんとヘルマさん。どちらも記録しがいがあります」
「ガルドスは悪い客か?」
オルゼンが何気なく聞くと、クィナスは少し考えた。
「嫌な客ではあります」
「そうだな」
「でも、悪い客かはまだ分かりません」
ボルガムが意外そうにクィナスを見る。
「お前、結構怒ってなかったか?」
「怒っていましたよ」
「なら悪い客じゃねえのか?」
「いえ」
クィナスは帳簿に視線を落とした。
「悪い客は、店を壊します。嫌な客は、店を試します」
オルゼンは少しだけ目を細めた。
「いい言葉だな」
「帳簿に書きます」
「自分で?」
「はい」
クィナスはさらさらと書き込んだ。
『嫌な客は店を試す。悪い客は店を壊す。ガルドスさんは現時点では前者』
ボルガムが笑った。
「現時点では、ってのが怖いな!」
「帳簿は正直なので」
「なら俺の声量の記録も少し優しくしてくれ!」
「それは無理です」
「なぜだ!」
「帳簿は正直なので」
オルゼンは笑いながら、棚に青塩を補充した。
ガルドスが買ったことで、青塩の小包みはひとつ減った。
ヘルマも二つ買った。
年配の同業者が三つ買った。
それは小さなことだ。
だが、商売では小さなことがあとで効いてくる。
南寄り市場の保存食雑貨店。
北裏通りの保存食と漬物の店。
この二つの店が、今後どう関わるかは分からない。
文句になるかもしれない。
助言になるかもしれない。
取引になるかもしれない。
だが、今日のところはそれでいい。
小さな店に、新しい名前が二つ増えた。
その夜、閉店後。
クィナスは帳簿を開いたまま、カウンターで書き続けていた。
オルゼンは棚を整え、ボルガムは厨房で香草の配合を試している。
「半歩下げるって、どれくらいだ?」
「知りませんよ」
「おい!」
「香草の半歩はボルガムが決めてください」
「むう……」
ボルガムは真剣に香草をつまみ、少しずつ量を変えている。
その様子を見ながら、クィナスは最後の一行を書いた。
『古い商人が二人来店。
一人は嫌味を置いていった。
一人は助言を置いていった。
どちらも代金は置いていった。
商売としては、どちらも記録する価値あり。』
クィナスは帳簿を閉じた。
「マスター」
「ん?」
「次に夜そぼろ瓶を出す時は、ヘルマさんの意見を反映します」
「そうだな」
「ガルドスさんの意見は?」
「何かあったか?」
「塩は塩だろう、と」
「それは参考にしなくていい」
「ですよね」
ボルガムが厨房から言う。
「塩は塩だが、塩じゃねえ!」
「分かるようで分からないですね」
「料理すれば分かる!」
店の中に、いつもの声が戻る。
嫌な客が来ても、良い客が来ても、店は店だ。
品を並べ、料理を作り、帳簿をつける。
そして、また次の客を迎える。
入口の黒板には、明日のための空白が残っていた。




