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第006話:帳簿には、数字以外も残る

 朝包みが売り切れたあと、クィナスは帳簿を三冊抱えて店の入口に立っていた。


 一冊は売上帳。

 一冊は仕入れ帳。

 もう一冊は、本人いわく「補足帳」である。


 オルゼンはカウンターの内側から、その三冊を見た。


「三冊もいるのか?」


「いります」


 クィナスは即答した。


「申告に必要なのは売上帳と仕入れ帳です。ですが、補足帳がないと説明に困るところがあります」


「補足帳って、客の反応を書いてるやつだろ?」


「客の反応、商品の動き、天気、時間帯、売れ残りの理由、マスターの妙な値付け、ボルガムの大声による客足への影響などです」


 厨房からボルガムが顔を出した。


「俺の大声は売上に影響してるのか!」


「しています」


「良い方か!」


「日によります」


「日によるのか!」


 クィナスは帳簿を胸に抱え直した。


 今日は、都市役所の商業管理局へ行く日だった。


 店の売上、仕入れ、税の申告。

 小さな店とはいえ、都市の中心で商売をする以上、定期的な申告は必要になる。


 こういう仕事は、ほとんどクィナスが担当していた。


 数字が強い。

 記録が細かい。

 そして何より、本人がそれを嫌がっていない。


「では、行ってきます」


「気をつけてな」


 オルゼンが言うと、クィナスは尻尾を揺らした。


「役所で帳簿を広げるだけです。危険はありませんよ」


「役所の書類は人を食うらしいぞ」


「ナギルカさんの言葉ですね。大丈夫です。私は食われる前に綴じます」


 ボルガムが厨房から大きく手を振る。


「クィナス! 役所の連中に、夜そぼろ瓶の税率を間違えられるなよ!」


「間違えるのはあなたの説明の方です。端肉を『安くていい肉』だけで押し通すと、分類が面倒になります」


「安くていい肉だぞ!」


「はいはい」


 クィナスは笑いながら店を出た。


 都市の中心通りは、昼前でも人が多い。


 行商人、役人、冒険者、職人、配達人。

 その間を、クィナスは軽やかに歩いていく。


 帳簿三冊を抱えているとは思えない足取りだった。


 役所の商業管理局は、中央広場の東側にある石造りの建物だった。

 窓は多いが、どこか重たい雰囲気がある。

 入口には、申告や許可を待つ商人たちが列を作っていた。


 大商会の代理人。

 露店商。

 職人。

 香辛料屋。

 雑貨屋。

 荷運び組合の代表。


 商売をする者は、どこかで必ず帳簿と向き合う。


 クィナスは受付で名前を告げ、番号札を受け取った。


「中央通りの小店、オルゼン商店の代理、クィナスです」


 受付の若い職員は帳簿の厚みを見て、一瞬だけ目を丸くした。


「三冊ですか?」


「はい」


「すべて申告用ですか?」


「二冊が申告用、一冊が説明用です」


「説明用……」


 職員は少し困った顔をしたが、すぐに番号札を差し出した。


「では、お待ちください」


 待合室には、すでに数人の商人が座っていた。


 クィナスは空いている長椅子に腰を下ろす。

 その隣には、小さな革鞄を抱えた女性がいた。


 人族の女性。

 年は二十代後半ほど。

 淡い緑の服を着ており、髪には小さな木の飾りを挿している。

 香草か茶葉を扱う者なのだろう。

 近くにいるだけで、乾いた葉の柔らかな香りがした。


 ただ、その表情はかなり暗かった。


 膝の上には帳簿が一冊。


 しかし、その帳簿は開かれたまま固まっている。


 クィナスは横目でそれを見た。


 見ようとしたわけではない。

 だが、帳簿を持つ者として、自然と目が行った。


 売上の欄。

 仕入れの欄。

 値引きの欄。


 線は引かれている。

 数字も書いてある。

 ただ、ところどころに空白がある。

 日付が飛び、売れた数と残った数が合っていない。


 女性は小さく息を吐いた。


「……どうして合わないの」


 クィナスは少しだけ耳を動かした。


 声をかけるべきか迷った。


 役所の待合室で、他人の帳簿に口を出すのは少し失礼だ。

 帳簿は店の内側だ。

 売上も仕入れも、店主の癖も全部出る。


 だが、隣の女性は今にも帳簿に負けそうな顔をしている。


 クィナスはにこりと笑った。


「数字に食べられそうですか?」


 女性はびくりと顔を上げた。


「えっ?」


「すみません。うちの常連さんが、役所の書類に食べられそうだとよく言うので」


「あ、いえ……」


 女性は困ったように笑った。


「食べられそう、というか、もう半分くらい食べられています」


「それは大変です」


 クィナスは帳簿三冊を膝に置いた。


「私はクィナスです。中央通りで小さな店の帳簿を見ています」


「ミレイユです。茶葉と香草を少し扱っている店をしています。店というより、半分露店みたいなものですが」


「茶葉と香草ですか。良い香りだと思いました」


「ありがとうございます」


 ミレイユは少しだけ表情を和らげた。


 だが、すぐに帳簿へ視線を落とす。


「商売は好きなんです。でも、帳簿が本当に苦手で。売れたものは覚えているつもりなんですが、あとで数字にすると合わなくなって」


「よくあります」


「ありますか?」


「あります。特に、少量の商品をたくさん扱う店ほど」


 ミレイユは驚いたようにクィナスを見た。


「そうなんです。茶葉って、量り売りもあるし、試飲に使う分もあるし、常連さんに少しおまけすることもあって」


「仕入れた量、売った量、試飲分、おまけ分、廃棄分が混ざるんですね」


「そうです!」


 ミレイユの声が少し大きくなった。


 周囲の商人がちらりと見る。


 彼女は慌てて声を落とした。


「すみません。でも、本当にその通りで」


 クィナスは自分の補足帳を軽く叩いた。


「そういう時は、売上帳だけで全部を処理しようとしない方がいいです」


「どういうことですか?」


「売上帳は、お金が動いた記録です。でも、商品はお金にならずに動くことがあります」


「お金にならずに動く……」


「試飲、おまけ、味見、破損、湿気で駄目になった分。これを売上帳に混ぜると、数字が濁ります」


 ミレイユは帳簿に目を落とした。


「たしかに……私は全部同じところに書こうとしていました」


「別に小さな欄を作るといいです」


 クィナスは自分の補足帳を開いた。


 そこには、細かな字でびっしりと記録があった。


『青塩魚包み、十個完売。八個目の冒険者、夏遠征向きと評価』

『白蜜プリン、老魔術師一個。二個目希望、却下。悲しそう』

『夜そぼろ瓶、犬族配達人二瓶。匂い反応強』

『ナギルカさん、夜そぼろ評価。危ない。表情は控えめに記録』

『ボルガムの大声、夕方客一名を呼び込む。別客一名は驚いて後退』


 ミレイユはそれを見て、目を瞬かせた。


「これ……帳簿ですか?」


「補足帳です」


「売上以外のことが、たくさん書いてありますね」


「はい。数字だけだと、なぜ売れたのか分からないので」


 クィナスは少し懐かしそうに帳簿を撫でた。


「この店に来たばかりの頃は、私も数字だけを合わせようとしていました。売上、仕入れ、残数。それだけで十分だと思っていたんです」


「違ったんですか?」


「数字は合います。でも、店のことは分かりません」


 クィナスはページをめくる。


 そこには古い記録があった。


『雨。朝客少なし。ボルガム、扉前で大声を出しすぎ、鳥人族の客が驚く』

『マスター、赤塩を高く値付け。理由、北区で需要あり。三日後完売』

『ナギルカさん初来店。警戒強め。朝包み購入。店内を三回見る』


 クィナスはその記録を見て、少しだけ笑った。


「懐かしいですね。ナギルカさん、最初は本当に警戒していました」


「常連さんですか?」


「今ではほぼ毎朝来ます」


「すごいですね」


「おいしいものは、人を慣れさせます」


 ミレイユは小さく笑った。


 クィナスは補足帳を閉じた。


「数字は役所に出すために必要です。でも、コメントは自分の店に返ってきます」


「店に返る?」


「はい。どの商品が、どんな日に、どんな人に売れたのか。なぜ残ったのか。お客さんがどう反応したのか。それを書いておくと、次に迷った時に助けてくれます」


 ミレイユは自分の帳簿を見た。


 そこには、ただ数字だけが並んでいる。

 しかも、その数字はところどころ合っていない。


「でも、全部書くのは大変そうです」


「全部書こうとすると大変です。だから、まず三つだけでいいと思います」


 クィナスは指を三本立てた。


「売れた数。売れなかった理由。お金にならずに減った分」


 ミレイユは真剣な顔になる。


「売れた数。売れなかった理由。お金にならずに減った分」


「そうです。たとえば茶葉なら、試飲に使った分は『試飲』。常連に渡した分は『おまけ』。湿気で香りが落ちた分は『廃棄』。そう書くだけで、売上と在庫の差が分かりやすくなります」


「なるほど……」


「あと、値引きした時は理由も一言だけ書くといいです」


「理由ですか?」


「雨で客が少なかったから。香りが落ちる前に売り切りたかったから。常連への礼だから。理由が残っていれば、あとで見た時に失敗か判断できます」


 ミレイユはしばらく黙っていた。


 それから、革鞄から小さな紙片を出し、慌てて書き始めた。


「売れた数、売れなかった理由、お金にならずに減った分……値引き理由……」


 クィナスはその様子を見て、尻尾をゆっくり揺らした。


 教えるつもりで話したわけではない。


 ただ、少し前の自分を思い出しただけだ。


 帳簿の数字を合わせることだけに必死だった頃。

 オルゼンが妙な値段をつけるたび、理由を聞いても「売れそうだから」としか答えず、困ったこと。

 ボルガムが料理を少し変えただけで売れ行きが変わり、数字の裏に理由があると知ったこと。


 そして、客の反応を書き始めた日。


 帳簿は、ただの義務ではなくなった。


 店が少しずつ形になっていく記録になった。


「番号二十七番、オルゼン商店代理の方」


 受付から呼ばれた。


 クィナスは耳を立てた。


「私ですね」


「あ、すみません。長く話してしまって」


 ミレイユが慌てる。


「いいえ。帳簿の話は好きなので」


 クィナスは立ち上がった。


「申告、うまくいくといいですね」


「はい。あの、クィナスさん」


「はい?」


「今度、お店に伺ってもいいですか? その、帳簿の付け方をもう少し見せてもらえたら……もちろん、お客として行きます」


 クィナスは笑った。


「ぜひ。朝包みは十個限定なので、早めがおすすめです」


「十個限定……覚えました」


 クィナスは帳簿三冊を抱え、申告窓口へ向かった。


 窓口にいたのは、中年の男性職員だった。

 眼鏡をかけ、いかにも数字に厳しそうな顔をしている。


「オルゼン商店ですね。売上帳と仕入れ帳を」


「はい」


 クィナスは二冊を差し出した。


 職員は帳簿を開き、数字を追っていく。


 しばらく、紙をめくる音だけが続いた。


「……相変わらず、綺麗ですね」


 職員がぽつりと言った。


「ありがとうございます」


「売上、仕入れ、廃棄、試供、値引き。分類も問題ありません。青塩の扱いも、少量販売として記録されていますね」


「はい。瓶売りは用途記録を残しています」


「夜そぼろ瓶……これは惣菜扱いでいいでしょう。保存品としては期間が短いので、加工保存食品には入りません」


「想定通りです」


「リュナメル……これは?」


 職員の指が止まった。


 クィナスはすぐに答える。


「試食品扱いです。販売はしていません。種は栽培記録に移しています」


「栽培?」


「まだ発芽前です。販売物ではありません」


「なるほど」


 職員は少しだけ疲れたように眼鏡を押し上げた。


「あなたの帳簿は、時々、申告書というより店の日誌ですね」


「補足帳もあります」


「見せなくていいです」


「そうですか?」


「数字は十分です」


 職員は淡々と言ったが、少しだけ口元が緩んでいた。


「ただし、補足帳があるから数字が崩れないのでしょうね」


 クィナスは少し誇らしげに耳を動かした。


「はい」


 職員は申告書に印を押した。


「問題ありません。今回の申告は受理します」


「ありがとうございます」


「それと、青塩の件ですが」


 職員は声を少し落とした。


「商業管理局でも、少量販売と大量搬入の区別をつける方針になりました。あなたの店の記録は参考になりました」


「商売上、必要でしたので」


「そうでしょうね」


 職員は書類をまとめる。


「小さな店ほど、扱う品の記録は大切です。今後もその調子でお願いします」


「はい」


 クィナスは帳簿を受け取り、窓口を離れた。


 待合室へ戻ると、ミレイユがまだ帳簿と向き合っていた。


 ただ、先ほどより表情は明るい。


 帳簿の端に、新しく小さな欄を作っている。


『試飲』

『おまけ』

『湿気』

『値引き理由』


 クィナスはそれを見て、少し嬉しくなった。


 ミレイユも顔を上げる。


「受理されましたか?」


「はい」


「すごいですね。私はこれからです」


「大丈夫です。数字が合わない理由が見えていれば、説明できます」


「説明……」


「帳簿は、間違えないためだけのものではありません。間違えた場所を見つけるためのものでもあります」


 ミレイユはその言葉を、ゆっくり噛みしめるように頷いた。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 クィナスは役所を出た。


 外に出ると、昼の光が石畳に反射していた。

 役所の中にいたせいか、通りのざわめきが少し懐かしく感じる。


 店へ戻る途中、クィナスは自分の補足帳を開いた。


 今日の欄に、新しく書き加える。


『商業管理局にて申告完了。問題なし。

 ミレイユさん、茶葉と香草の小商い。帳簿に苦戦。

 助言、売れた数・売れなかった理由・お金にならず減った分。

 後日来店予定。朝包みを勧める。』


 少し考えてから、もう一行足す。


『帳簿は数字だけではなく、店の記憶でもある。』


 書いてから、クィナスは少しだけ恥ずかしくなった。


「……まあ、補足帳ですし」


 誰に言い訳するでもなく呟き、帳簿を閉じる。


 店に戻ると、入口の鈴が鳴った。


「ただいま戻りました」


「おかえり」


 オルゼンがカウンターから顔を上げる。


「どうだった?」


「問題なく受理されました」


「さすがだな」


「私は優秀なので」


「知ってる」


 厨房からボルガムが大声で聞く。


「夜そぼろ瓶の税率はどうだった!」


「惣菜扱いで問題ありませんでした」


「よし! 俺のそぼろは役所にも認められた!」


「認められたのは分類です」


「細かいな!」


「帳簿なので」


 オルゼンはクィナスが抱えている帳簿を見た。


「何か面白いことはあったか?」


「新しい方と知り合いました」


「役所で?」


「はい。茶葉と香草を扱っているミレイユさんという方です。帳簿が少し苦手なようでした」


「助けたのか?」


「少しだけです」


 クィナスは補足帳をカウンターに置いた。


「そのうち店に来るかもしれません。朝包みを勧めておきました」


「商売もしてきたわけだ」


「当然です。役所へ行く道も、帰る道も、商売の外ではありません」


 ボルガムが厨房から笑う。


「クィナスらしいな!」


 その時、裏の作業台の方から、ぽたり、と小さな音がした。


 ボルガムが真っ先に反応する。


「種か!」


「まだ早いですよ」


 クィナスが言う。


「分からんだろ!」


 ボルガムは厨房から飛び出すように裏へ向かった。


 オルゼンとクィナスも続く。


 裏の作業台には、リュナメルの種が置かれている。

 蜂蜜水に浸された小さな種。


 芽は、まだ出ていなかった。


 ただ、器の横に置かれていた布が少しずれて、水滴が落ちただけだった。


「なんだ……」


 ボルガムは少し残念そうに肩を落とす。


 クィナスは帳簿を開いた。


「リュナメル栽培記録、二日目。ボルガム、水音に反応。芽はまだ」


「それを書くのか!」


「書きます」


「なぜだ!」


「店の記憶なので」


 オルゼンは思わず笑った。


 帳簿には、売上が残る。

 仕入れが残る。

 税のための数字が残る。


 だが、クィナスの帳簿にはそれだけではない。


 青塩を買った客の視線。

 夜そぼろ瓶を食べたナギルカの感想。

 白蜜プリンを一つしか買えなかった老魔術師の悲しみ。

 リュナメルの種を何度も見に行くボルガム。


 そして今日、帳簿に悩む茶葉屋のミレイユが加わった。


 数字は店を守る。


 けれど、コメントは店を育てる。


 クィナスは帳簿を閉じ、満足そうに言った。


「さて、マスター。今日の夕方販売ですが、昨日の夜そぼろ瓶を聞いて来るお客様がいると思います」


「今日はないぞ」


「だからこそ、黒板に書きます」


「何を?」


 クィナスは白墨を手に取った。


 そして入口横の黒板に、さらさらと書いた。


『夜そぼろ瓶

 本日はありません。

 良い端肉が入った日にだけ作ります。

 次回未定。』


 ボルガムが腕を組んで頷く。


「いいな! 正直だ!」


「正直な品切れは、次の期待になります」


 クィナスが言う。


 オルゼンは黒板を見て、小さく笑った。


 今日も店は、少しだけ前に進んだ。


 新しい品ではなく、新しい客でもなく、帳簿の一行によって。


 そして、その一行はいつかまた、別の話に繋がる。

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