第010話:仕入れた肉と、仕掛けられた期待
ラグネル食材卸との仮契約を終えた翌朝。
店の黒板には、いつもよりさらに目立つ文字が書かれていた。
『明日、包み料理の調査販売を行います。
朝・昼・夜、それぞれ通常より多めに用意します。
味が落ちる前に終了します。
夜そぼろ瓶 三種予定
基本/甘め/辛め』
開店前から、黒板を読む者は多かった。
「明日か」
「三種類って何だ?」
「辛め、あるのか」
「甘めなら子供でもいけるかしら」
「いつも十個だから買えないんだよな。明日ならいけるか?」
人が立ち止まる。
誰かが読む。
その隣の誰かが聞く。
話がまた別の人間へ流れていく。
中心通りから少し入った場所とはいえ、都市の朝は人が多い。
口コミは、看板より速いことがある。
クィナスは入口の内側からその様子を見て、帳簿に書き込んだ。
『調査販売前日。黒板反応、開店前二十三件。辛め反応、冒険者・職人。甘め反応、女性客・子供連れ。基本反応、前回購入者中心』
「二十三件か」
オルゼンはカウンターで小銭を整えながら言った。
「実際の来店数はそれ以上でしょうね」
クィナスは帳簿を閉じる。
「昨日までの反応、今日の黒板前の足止め、前回の夜そぼろ瓶完売速度を考えると、夜そぼろ瓶は最低でも六十は見込めます」
「六十か」
「三種類に分けるなら、基本二十五、甘め二十、辛め十五が安全です」
厨房で仕込み道具を並べていたボルガムが顔を出した。
「辛めが少なくないか!」
「辛めは声が大きい客に刺さりますが、全体数は基本と甘めの方が出ると思います」
「声が大きい客……」
「冒険者と職人です」
「俺も好きだぞ!」
「知っています」
オルゼンは考えた。
「基本三十、甘め二十五、辛め二十は?」
クィナスの耳が動く。
「多めに見ますか」
「明日は調査販売だ。少し攻めてもいい」
「合計七十五」
ボルガムは腕を組んだ。
「瓶詰め七十五か。仕込みを分ければいける。だが、朝昼夜の包みも増やすなら、俺一人ではかなりきつい」
「どこまでなら味が落ちない?」
オルゼンが聞くと、ボルガムは即答しなかった。
作業台の上には、朝包み用の薄パン、昼包み用の根菜、夜用の香草が並んでいる。
さらに、明日用の瓶も積まれていた。
「朝包みは三十」
ボルガムはゆっくり言った。
「昼包みも三十。夜包みは二十だ。夜はそぼろ瓶もあるからな。全部合わせると、かなり重い」
「通常の三倍近いですね」
クィナスが書き込む。
「そうだ。できる。だが、明日だけだ。毎日は無理だ」
「それでいい」
オルゼンは頷いた。
「明日は限界を見る日だ。続ける形は、その後で決める」
「基本そぼろ瓶は?」
クィナスが聞く。
「冷蔵保存できる魔道箱に入れれば、一週間くらいは味が落ちません。甘めと辛めは香りの変化を見ないと分かりませんが、基本は安定しそうです」
ボルガムも頷く。
「基本は一週間いける。青塩をほんの少し入れるし、脂の処理もする。だが、開けたら早めに食え、と書いておけ」
「当然です」
クィナスは帳簿に記した。
『基本そぼろ瓶、冷蔵保存一週間目安。開封後早め。甘め・辛めは試験後確認』
その時、裏口の鈴が鳴った。
表の入口ではない。
納品用の裏口だ。
ボルガムの耳がぴくりと動いた。
「来たか」
オルゼンが裏口へ向かう。
扉を開けると、そこには一台の小さな荷車が停まっていた。
荷車は派手ではない。
だが、手入れが行き届いている。
積まれた木箱には、ラグネル食材卸の小さな焼印が押されていた。
荷車の横に立っていたのは、若い男だった。
年は三十前後。
人族。
焦げ茶色の髪を後ろで結び、灰色の作業着を着ている。
体格は細身だが、姿勢が良い。
荷運びの者に見えるが、目つきは単なる使い走りではない。
男は丁寧に頭を下げた。
「ラグネル様より、食材をお届けに参りました」
様。
その言い方に、オルゼンは少しだけ引っかかった。
店の者が店主を様付けで呼ぶことはある。
だが、この男の声には、それだけではない敬意があった。
「ありがとうございます。オルゼンです」
「承知しております。私はエインと申します。本日は納品と確認を任されております」
「確認?」
「数量、状態、保管方法です。ラグネル様より、最初の納品なので必ず店側と確認するようにと」
クィナスが奥から出てきた。
「クィナスです。帳簿を担当しています」
エインは彼女にも丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
ボルガムも厨房から出てきた。
「肉か!」
エインは一瞬だけ目を上げたが、すぐに落ち着いた表情へ戻る。
「はい。肉、根菜、香草、卵、乳製品です。肉は用途別に分けてあります」
「用途別!」
ボルガムの声が大きくなる。
「見せてくれ!」
「もちろんです」
エインは木箱を一つずつ下ろした。
その動きは無駄がない。
荷運びに慣れているだけではない。
どの箱に何が入っているか、重さで分かっている。
最初の箱には、朝包み用の肉。
次に、昼用。
そして夜そぼろ瓶用の肉が三種類。
基本用。
甘め用。
辛め用。
それぞれに小さな札がついている。
ボルガムは基本用の包みを開いた。
その瞬間、表情が変わった。
「……おい」
「どうした?」
オルゼンが聞く。
ボルガムは肉を持ち上げた。
端肉だ。
形は不揃い。
塊肉としては売りにくい。
だが、色が良い。
脂の入り方が綺麗だ。
筋に近い部分もあるが、硬すぎない。
香りも嫌なところがない。
「これは、端肉じゃねえ」
ボルガムが低く言った。
エインは静かに答える。
「端肉です」
「形だけだろうが」
「はい。形は端肉です」
ボルガムは目を細めた。
「何の肉だ?」
エインは少しだけ間を置いた。
「一般には流通しない肉です」
クィナスの耳が止まる。
「一般には?」
「ええ。大きな市場には出ません。特定の料理店や契約先にのみ回るものです」
「それを、この値段で?」
クィナスの声が少しだけ鋭くなった。
仮契約の時に決めた価格は、決して安すぎるわけではない。
だが、この肉質なら話が違う。
明らかに、値段以上だ。
エインは淡々と答えた。
「ラグネル様からは、仮契約時の価格で納めるようにと」
「……」
オルゼンは肉を見た。
これは単なる好意ではない。
期待だ。
あるいは、さらに一段深い試し。
良い食材を出す。
その食材に見合うものを作れるか。
値段以上の肉を渡された時、店がどう扱うか。
ラグネルは、そこを見ている。
クィナスも同じことに気づいたらしい。
「マスター」
「分かってる」
オルゼンは短く答えた。
ボルガムは肉を見つめたまま、ゆっくり笑った。
いつもの豪快な笑いではない。
料理人の顔だった。
「そういう思惑で来るなら」
彼は大きな手で肉を丁寧に包み直した。
「最高のものを作ってやる」
エインの表情が、ほんの少しだけ動いた。
「ラグネル様も、それを望んでいると思います」
「だろうな!」
ボルガムの声が戻った。
「基本、甘め、辛め! 全部、肉に合わせて少し変える! 昨日の試作とは別物にするぞ!」
クィナスが慌てて帳簿を開く。
「配合変更ですか?」
「する! この肉なら、基本は少し塩を抑える。甘めは果実酢を減らす。肉の甘みがある。辛めは辛味を立てすぎるな。肉の香りを殺す!」
「はい、はい、はい」
クィナスの筆が走る。
エインはそれを見ていた。
帳簿をつける猫族。
肉を見て即座に配合を変える熊族。
それを黙って許す店主。
彼は何も言わない。
だが、視線は細かく動いている。
右腕。
オルゼンはそう思った。
ただの使いではない。
ラグネルの判断を補佐する者。
この店の反応を見て帰るために送られてきた人物。
「エインさん」
オルゼンが声をかける。
「はい」
「ラグネルさんには、肉質に合わせて配合を変えると伝えてください」
「承知しました」
「それと、販売結果は約束通り共有します。食材に関わる範囲で」
「ラグネル様にお伝えします」
エインは再び丁寧に頭を下げた。
「ただ、一つだけ確認を」
「何でしょう」
「この肉で、販売価格は変えますか?」
クィナスの耳が動いた。
オルゼンは少し考えた。
肉質は明らかに上がっている。
だが、今回の仕入れ価格は仮契約通り。
なら、販売価格を上げる必要はない。
ただし、これを通常価格と思われると困る。
「今回は変えません」
オルゼンは答えた。
「調査販売なので」
エインは静かに頷く。
「次回以降は?」
「継続してこの肉質なら、価格を見直します」
「安く出し続けるつもりはないと」
「はい。食材の価値を下げる売り方はしません」
エインの目に、ほんのわずかに満足の色が浮かんだ。
「承知しました」
クィナスはその反応も見逃していない。
帳簿の端に小さく書く。
『エインさん、価格確認。食材価値への反応を見る意図あり』
エインはすべての木箱を確認し終えると、納品書を差し出した。
クィナスが数量と状態を照合する。
「問題ありません。むしろ、想定以上です」
「ありがとうございます」
「こちらが受領印です」
クィナスが印を押す。
エインはそれを受け取ると、最後に厨房の方を一度見た。
ボルガムはすでに肉を分け始めている。
「ボルガム様」
「俺か?」
「ラグネル様より伝言です」
「何だ!」
「端肉を端で終わらせるな、とのことです」
ボルガムは一瞬だけ黙った。
それから、歯を見せて笑った。
「言われなくてもだ!」
エインは深く頭を下げ、荷車と共に去っていった。
裏口が閉まる。
店内には、上質な肉と香草の匂いが残った。
「右腕ですね」
クィナスがぽつりと言った。
「だな」
オルゼンも頷く。
「使いの者に見せているが、見ていた」
「こちらの反応、価格判断、肉の扱い、全部ですね」
「ああ」
「ラグネルさん、なかなか性格が悪いです」
「商人だからな」
「便利ですね、その言葉」
厨房では、ボルガムがすでに火を入れ始めていた。
「マスター!」
「なんだ?」
「俺は仕込みに入る! 今日の昼は少し簡単にするぞ! だが手は抜かん!」
「分かった」
「クィナス! 瓶の数、もう一度確認してくれ! この肉なら、無駄にできねえ!」
「はい」
「あと、三種の札も書き直せ! 基本は『旨み』だ! 甘めは『やわらか』! 辛めは『後引き』!」
「分かりました」
ボルガムの声は大きい。
だが、動きは慎重だった。
良い食材を前にした料理人は、浮かれるだけではない。
緊張もする。
オルゼンはそれを見て、カウンター側へ戻った。
「クィナス、俺は表を見る」
「はい。こちらは任せてください」
「何かあったら呼んでくれ」
「マスターこそ」
クィナスは少しだけ笑った。
「変なお客様を拾わないでくださいね」
「客を拾うって何だ」
「マスターはよく拾います」
「否定しづらいな」
オルゼンは表の売り場へ出た。
朝の混雑は一度落ち着いている。
だが、黒板の効果か、今日は客足が途切れにくい。
棚には青塩の小包み。
乾燥果実の小瓶。
小人族の細工針。
防水布。
そして、夜そぼろ瓶の告知札。
オルゼンが棚を整えていると、入口の鈴が鳴った。
入ってきたのは、まだ見たことのない客だった。
年齢は三十代半ばほどの女。
人族ではない。
尖った耳と、淡い灰色の肌。
背は高く、細身。
旅装に近い服を着ているが、布地は上等だ。
腰には短い杖のようなものを差している。
魔術師か、薬師か。
彼女は店内を静かに見回した。
食品カウンターではなく、物販棚の方へ向かう。
そして、青塩でも乾燥果実でもなく、古い保存瓶の前で足を止めた。
オルゼンは声をかける。
「何かお探しですか?」
女は保存瓶から目を離さずに答えた。
「密閉できる瓶を探しています」
「保存用ですか?」
「ええ。香りが逃げないものを」
オルゼンは棚の下段から、二種類の瓶を出した。
「こちらは一般的な保存瓶です。乾物や香草向け。こちらは少し高いですが、蓋の内側に魔封蝋が使われています。香りや魔力を含む素材向けです」
女は高い方の瓶を手に取った。
その手つきは慣れていた。
「分かっている店ですね」
「少し変わった品を扱うので」
「この店、明日、食品を多く売ると聞きました」
「調査販売です」
女はそこで初めてオルゼンを見た。
瞳は薄い紫色だった。
「そぼろ瓶も?」
「はい。三種類を予定しています」
「保存性は?」
「基本のものは冷蔵保存で一週間ほど。甘めと辛めは、明日の販売後に確認します」
「正直ですね」
「調査販売なので」
女は小さく笑った。
「私はセリオラといいます。香料と保存加工を少し扱っています」
「オルゼンです」
「あなたの店の瓶詰め食品に興味があります」
これは、ただの客ではない。
オルゼンはそう判断した。
香料と保存加工。
密閉瓶。
香りが逃げない容器。
そして、夜そぼろ瓶への関心。
「購入希望ですか?」
「それもあります」
「それ以外も?」
「保存性を伸ばす相談ができるかと思いまして」
オルゼンは少しだけ目を細めた。
話が、思わぬ方向へ広がり始めている。
セリオラは保存瓶をカウンターに置いた。
「瓶詰めの肉料理は、扱いを間違えると香りが濁ります。ですが、うまく処理すれば一週間ではなく、もっと長く持たせられる」
「魔術加工ですか?」
「半分は技術、半分は香料です」
厨房の奥から、ボルガムの包丁の音が響いている。
クィナスが帳簿をめくる音も聞こえる。
店は調査販売の準備で忙しい。
だが、目の前には次の可能性が来ていた。
高級志向。
長期保存。
遠方への販売。
瓶詰め商品の派生。
さっきまで話していた未来の一つが、客の姿をして店に入ってきたようだった。
オルゼンは保存瓶を手に取り、静かに言った。
「詳しく聞かせてもらえますか」
セリオラは薄く笑った。
「もちろん。ただし、今日は買い物からで」
「何を?」
「その高い保存瓶を三つ。それから、明日の夜そぼろ瓶を三種類、一つずつ。予約はできますか?」
オルゼンは少し考えた。
調査販売は店頭販売が基本。
予約を受けすぎると、数の調査が崩れる。
だが、彼女のような客の反応は、今後の派生に関わる。
「三種類一つずつなら、試験用として取り置きます」
「ありがとうございます」
「ただし、感想をいただきます」
セリオラは楽しそうに目を細めた。
「商人ですね」
「小さい店なので」
「その返し、気に入りました」
オルゼンはクィナスを呼ぼうとして、やめた。
今、彼女は厨房側でボルガムの仕込み記録を取っている。
この客は、ひとまず自分が受ける。
カウンターの帳面に、オルゼン自身で記録した。
『セリオラ。香料・保存加工。魔封蝋瓶三つ購入。明日、夜そぼろ瓶三種取り置き。保存性について相談余地あり』
書き終えたところで、厨房からボルガムの声が響いた。
「マスター! この肉、やっぱりすげえぞ! 味を決めるのに気を抜けねえ!」
セリオラがそちらへ視線を向ける。
「良い料理人がいるようですね」
「ええ」
オルゼンは答えた。
「うちの自慢です」
厨房の奥で、ボルガムの手が一瞬だけ止まった気配がした。
聞こえていたらしい。
すぐに、いつもより大きな包丁の音が鳴り始めた。
クィナスの声も聞こえる。
「ボルガム、今の反応は帳簿に書きます」
「書くな!」
「書きます」
店の中に、いつもの空気が戻る。
だが、明日の調査販売は、もうただ数を売るだけの日ではなくなっていた。
ラグネルから届いた、予想以上の肉。
それを最高に仕上げようとするボルガム。
三種類のそぼろ瓶。
保存加工に詳しい新しい客、セリオラ。
商売は、一つの商品から枝分かれしていく。
オルゼンは黒板を見た。
『味が落ちる前に終了します』
明日は忙しくなる。
そしておそらく、その忙しさの中で、この店の次の形が見えてくる。




