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第011話:味が落ちる前に終了します

 調査販売当日の朝。


 店の入口横には、いつもより大きな黒板が出されていた。


『本日、包み料理調査販売日。

 朝・昼・夜、それぞれ数量増量。

 夜そぼろ瓶、三種販売。

 基本・甘め・辛め。

 味が落ちる前に終了します。』


 その下に、クィナスの字で小さく書かれている。


『本日はテイクアウト販売を中心に営業します。

 物販棚は一部のみ対応。

 混雑時はお並びください。』


 いつもの店とは少し違う。


 右側の物販棚には布がかけられ、すぐに売れる青塩や焼き菓子、保存瓶だけが小さく並んでいる。

 本日は珍品販売よりも、食品販売が主役だった。


 カウンターの前には、待ち列用の細い縄が張られている。

 入口の外にも、クィナスが白墨で足元に印をつけていた。


「マスター、列はこの位置まで。ここを超えたら、一度声をかけます」


「分かった」


「割り込み対策は?」


「声をかける」


「弱いです」


「じゃあ、ボルガムに声をかけてもらう」


「強すぎます」


 厨房からボルガムの声が飛ぶ。


「俺は普通に声をかけるぞ!」


「普通の声量でお願いします」


「努力する!」


「不安ですね」


 それでも、三人の動きはいつもより鋭かった。


 オルゼンは会計と全体の判断。

 クィナスは列整理、販売説明、個数管理。

 ボルガムは厨房と最終品質確認。


 今日は三人全員で販売に入る。


 朝包みは、いつもの十個ではない。

 倍以上の数を用意している。


 だが、無制限ではない。


 ボルガムが味を見て、これ以上は落ちると判断した時点で終了。

 その方針だけは、黒板通りだった。


「そろそろです」


 クィナスが入口の外を見た。


 開店前から、すでに人がいる。


 役所へ向かう者。

 近所の職人。

 配達人。

 冒険者。

 子供連れの母親。

 昨日から黒板を見ていた者たち。


 裏通りの小さな店としては、かなり多い。


 中心通りから少し入った場所にあるため、偶然通りかかった客も足を止めている。

 口コミの力は、思っていたより強かった。


「始めるぞ」


 オルゼンは入口の札を裏返した。


『開店』


 鈴が鳴る前に、最初の客が入ってきた。


「朝包み、二つ!」


「お一人様二つまでです。種類は本日の香草肉包みのみとなります」


 クィナスが即座に答える。


「じゃあ二つ」


「ありがとうございます。次の方」


「朝包み一つ。あと、夜そぼろ瓶って朝から買えないのか?」


「夜販売です。保存処理の都合で、夕方からになります」


「予約は?」


「本日は予約不可です」


「厳しいな」


「公平のためです」


 クィナスは笑顔で言い切った。


 朝の販売は、予想より早く進んだ。


 いつもは十個で終わる朝包みが、今日は次々に紙包みにされていく。

 ボルガムは厨房で焼き続け、オルゼンは会計をさばき、クィナスは列を整える。


「次の方、二つですね。はい、熱いのでお気をつけください」


「おいしいって聞いたんだけど」


「ありがとうございます。今日は調査販売なので、食べた感想を一言いただけると帳簿が喜びます」


「帳簿が?」


「はい。私も喜びます」


「じゃあ、食べたら言うよ」


 朝の分は、予定数をすべて売り切った。


 追加はしなかった。


 列の後ろにいた数人が残念そうにしたが、クィナスが黒板にすぐ札を掛ける。


『朝包み 完売』


「申し訳ありません。昼の販売は少し量を増やします」


 オルゼンが頭を下げると、客の一人が笑った。


「いや、今日は調査なんだろ? また昼に来るよ」


「ありがとうございます」


 朝の山を越えた時、三人は一度だけ息をついた。


「朝だけで、いつもの三日分くらい喋りました」


 クィナスが帳簿に書き込みながら言う。


「お前はいつも喋ってるだろ」


 ボルガムが言う。


「今日は仕事として喋っています」


「いつもは?」


「魅力として喋っています」


「そうか!」


 オルゼンは水を一口飲んだ。


「朝の感触は?」


「完売。待ち列あり。二個購入率高め。昼も増える可能性があります」


「ボルガム、昼は?」


「いける。だが昼は具を変える。朝と同じ流れでは飽きる」


「任せる」


「任された!」


 昼の販売は、朝よりさらに慌ただしかった。


 職人や市場帰りの客に加え、朝に買えなかった者が戻ってきた。

 さらに、噂を聞いたらしい冒険者の一団まで来る。


「昼包み、まだあるか?」


「あります。お一人様二つまでです」


「四人いる。八つ買えるか?」


「買えます。ただし後ろにもお客様がいますので、持ち帰り用の袋はまとめます」


 クィナスは素早く判断し、手元の札で数を管理していく。


 昼包みは、少し辛味を入れた肉と根菜の包みだった。

 朝よりも腹にたまる味。

 仕事中の者にはよく刺さった。


 昼も完売した。


 黒板に二つ目の札が掛かる。


『昼包み 完売』


 外にいた客から、小さなどよめきが起きた。


「夜はそぼろ瓶だよな?」


「三種だって」


「辛めを買う」


「甘めも気になる」


「全部買えばいいだろ」


「一人何個までだ?」


 その声を聞きながら、オルゼンは店内に戻った。


 厨房では、ボルガムがすでに夜そぼろ瓶の最終確認に入っていた。


 三種の瓶が、木箱に分けられて並んでいる。


 基本。

 甘め。

 辛め。


 瓶の蓋には、それぞれ違う色の紐が結ばれていた。


 基本は白。

 甘めは薄い黄。

 辛めは赤。


 クィナスの案だった。


「文字が読めないお客様でも分かりやすいです」


「いい判断だ」


 オルゼンが言うと、クィナスは少し得意げに耳を動かした。


「私は優秀なので」


「知ってる」


 夕方。


 店の前には、この日一番の列ができていた。


 裏通りの小さな店としては、十分すぎるほどの数だ。


 ただし、中心大通りの大店のような混雑ではない。

 あくまで、小さな店が受け止められる限界に近い賑わい。


 それでも三人には、かなりの圧だった。


 列の後ろには、目立たない外套を着た男が一人立っていた。


 年齢は四十前後に見える。

 髪は地味な茶色。

 顔には薄い無精髭。

 服も安物ではないが、特に目を引かない。


 ただ、目だけが違った。


 店に並ぶ客を見る。

 黒板を見る。

 瓶の色分けを見る。

 厨房から漏れる香りを読むように、わずかに鼻を動かす。


 普通の客に見える。


 だが、普通の客ではなかった。


 彼は巷で密かに知られる美食家だった。


 食べ歩きの記録を匿名で流し、時には店の評判を一夜で変える男。

 ただし、その顔を知る者は少ない。

 食べに行く時は必ず姿を変えるからだ。


 本人は、ただ静かに列に並んでいた。


 そのさらに向こう。


 通りの角に、ラグネルが立っていた。


 隣にはセイドがいる。


 二人とも店には入らない。

 ただ、列の動きと客の反応を見ている。


「予想より並んでいますね」


 セイドが静かに言う。


「裏通りの小店にしては上出来だ」


 ラグネルは腕を組んだまま答えた。


「だが、売れるかどうかより、捌けるかどうかだ」


「味を落とさずに、ですね」


「そこを見る」


 ラグネルの目は、店の奥の厨房へ向いていた。


 店内では、夜そぼろ瓶の販売が始まっていた。


「夜そぼろ瓶です。基本、甘め、辛めの三種類です。未開封で冷蔵保存一週間目安。開封後は早めにお召し上がりください」


 クィナスの説明は淀みない。


「三種全部ください」


「ありがとうございます。本日はお一人様、各種一瓶ずつまでです」


「全部一個ずつなら買える?」


「はい」


「じゃあそれで」


 基本、甘め、辛め。

 三本が袋に入る。


 次の客は甘めだけを二本希望した。


「申し訳ありません。本日は各種一瓶ずつまでです」


「子供用に二つ欲しいんだけど」


「本日は調査販売のため、できるだけ多くのお客様に回したいのです」


「そういうことなら、甘め一つと基本一つで」


「ありがとうございます」


 その次は、辛めだけを欲しがる冒険者。


「辛め二つ!」


「本日は各種一瓶ずつまでです」


「くっ、なら辛めと基本」


「ありがとうございます」


 オルゼンは会計をしながら、瓶の減り方を見る。


 予想通り、三種すべて買う客が多い。


 だが、単品では甘めが強い。

 子供連れ、役所帰り、女性客だけではなく、年配の客も甘めを選んでいる。


 辛めは冒険者と職人に強い。

 基本は、前回買った客が迷わず選ぶ。


「クィナス」


「はい」


「甘めの減りが早い」


「記録済みです。次回は甘め多めも検討します」


「辛めは?」


「反応は強いですが、購入者層がはっきりしています」


「基本は安定か」


「はい。名前通りです」


 厨房からボルガムが声を出す。


「三つとも味は崩れてねえ!」


「それが一番大事だ」


 オルゼンが答える。


 列はなかなか途切れない。


 途中、ナギルカも店に来た。


 仕事帰りらしく、少し疲れた顔をしている。


「まだありますか?」


「ありますが、残り少ないです」


 クィナスが言う。


「三種全部ですか?」


 ナギルカは少し迷ったあと、真面目な顔で頷いた。


「三種全部でお願いします。役所の夜勤組に見つかる前に買います」


「すでに何人か来ましたよ」


「やっぱり……」


 ナギルカは三本を受け取る。


 その時、列の中にいた地味な外套の男が、ほんの少しだけ彼女を見た。


 役所関係者の反応も見る。


 味だけでなく、客層も見る。


 それが彼の癖だった。


 やがて、その男の番が来た。


「三種を一つずつ」


 声は低く、穏やかだった。


「ありがとうございます」


 クィナスはいつも通り説明する。


「基本、甘め、辛め。未開封で冷蔵保存一週間目安。開封後は早めにお召し上がりください。温かい飯、パン、酒の供におすすめです」


 男は瓶を見た。


 蓋の紐。

 中の肉の粒。

 脂の浮き方。

 香りの漏れ方。


 そして、値段を見た。


「安すぎない」


 ぽつりと呟く。


 オルゼンはそれを聞き逃さなかった。


「高いと思われますか?」


 男は首を横に振った。


「いいや。安売りではない。だが、手を出せない値でもない。試すにはちょうどいい」


「ありがとうございます」


「食べてから、また来る」


 男は代金を置き、三本を受け取った。


 その手つきは、やけに丁寧だった。


 クィナスの耳が小さく動く。


 男が店を出てから、彼女は帳簿に短く書いた。


『地味な外套の男性。三種購入。観察深い。価格反応、試すにはちょうどいい』


 オルゼンも少しだけその背中を見た。


 普通の客ではない。


 だが、悪い気配でもない。


 今はそれでいい。


 販売は続いた。


 瓶は次々に減っていく。


 基本、残り六。

 甘め、残り三。

 辛め、残り五。


 クィナスの声が少しだけ鋭くなる。


「甘め、残りわずかです」


「甘め狙いの客には説明を」


 オルゼンが言う。


「はい」


 列の後ろから、ざわめきが起きる。


「甘め、もうないのか?」


「まだ三つあるって」


「三つか……」


 その後、甘めはすぐに完売した。


『甘め 完売』


 札が掛けられる。


 それでも基本と辛めを買う客は続いた。


 そして、ついに基本も売り切れる。


『基本 完売』


 残るは辛めだけ。


 だが、辛めを求める客はまだいる。

 むしろ、職人や冒険者はそれを見て急ぎ始めた。


「辛め、まだあるか!」


「残り二つです」


「一つくれ!」


「俺も!」


 最後の二つが売れた。


 クィナスは赤い紐の空箱を確認し、黒板に最後の札を掛けた。


『夜そぼろ瓶 三種完売』


 店の前に、落胆の声が広がった。


「終わったのか……」


「間に合わなかった」


「甘めだけでも欲しかった」


「仕事が長引いたんだよ……」


 列には、まだ十人近い客が残っていた。


 裏通りの小さな店としては、十分すぎるほどの結果。

 だが、残った客にとっては関係ない。


 買えなかったという事実だけが残る。


 オルゼンはカウンターから出た。


「申し訳ありません」


 彼は店の前に立ち、頭を下げようとした。


「本日の夜そぼろ瓶は、すべて――」


 その時、厨房の奥から、低い声が飛んだ。


「マスター、待て」


 ボルガムだった。


 オルゼンが振り返る。


「何だ?」


 ボルガムは厨房から木箱を一つ抱えて出てきた。


 クィナスの目が丸くなる。


「ボルガム、それは?」


「予備だ」


「予備?」


「作っておいた」


「聞いてませんよ」


「言ってねえからな!」


 ボルガムは堂々と言った。


 木箱の中には、夜そぼろ瓶が並んでいた。


 基本、甘め、辛め。


 数は多くない。


 だが、今残っている客に行き渡るだけはある。


「味は?」


 オルゼンが聞く。


 ボルガムは真っ直ぐ答えた。


「落ちてねえ。俺が見た。売れる」


 その一言で十分だった。


 オルゼンは小さく息を吐き、客へ向き直る。


「失礼しました。追加分があります。ただし、本当にこれで最後です。お一人様一瓶ずつでお願いします」


 残っていた客たちから、安堵の声が上がった。


「助かった!」


「待っててよかった」


「甘めはあるか?」


「少量ですがあります」


 クィナスはすぐに販売へ戻った。


 驚きはしたが、手は止まらない。


「追加分です。本当に最後です。お一人様一瓶ずつ。保存説明は先ほどと同じです」


 オルゼンは会計に戻る。

 ボルガムは厨房から瓶を補充する。


 最後の販売は、静かだった。


 客も分かっていた。


 これは予定外の分だ。

 それでも、店が出してくれた。


 だから文句は出ない。


 最後の一瓶を買ったのは、年配の女性だった。


「ありがとうね。孫に食べさせたかったんだよ」


「ありがとうございます」


 オルゼンが言うと、女性は笑って店を出ていった。


 今度こそ、箱は空になった。


 クィナスは黒板に最後の札を掛ける。


『本日分、すべて完売』


 その文字を見て、店の前にいた客たちは少しずつ散っていった。


 遠くの角で、ラグネルが小さく笑った。


「隠し玉を持っていたか」


 セイドが静かに答える。


「熊族の料理人の判断でしょうか」


「だろうな」


「味が落ちていないなら、良い判断です」


「落ちていたら最悪だ。だが、あの顔なら落としていない」


 ラグネルは店の方を見た。


 オルゼンが客に頭を下げ、クィナスが帳簿を書き、ボルガムが空の箱を抱えている。


「面白い若造どもだ」


 ラグネルはそう言って、通りの影へ歩き出した。


 店内では、三人がしばらく黙っていた。


 朝、昼、夜。

 すべて完売。


 予備まで使い切った。


 忙しさで、床には紙包みの紐が落ち、カウンターの横には空箱が積まれ、厨房には甘辛い香りが濃く残っている。


 クィナスが帳簿を開いた。


 しかし、すぐには書けなかった。


「……多すぎます」


「何が?」


 オルゼンが聞く。


「書くことが」


 ボルガムが大きく笑った。


「なら全部書け!」


「書きますよ。朝完売、昼完売、夜そぼろ三種完売、追加分完売。甘め反応強。辛め客層明確。基本安定。マスター謝罪未遂。ボルガム予備を隠していた」


「そこも書くのか!」


「書きます」


「なら、味は落ちていなかったと書け!」


「それも書きます」


 オルゼンはカウンターに手を置き、深く息を吐いた。


 疲れた。


 だが、悪い疲れではない。


 今日、店の限界が少し見えた。


 朝昼夜をすべて増やすと、三人ではぎりぎりだ。

 販売数は伸びる。

 客も来る。

 三種のそぼろ瓶は、十分に商品になる。


 だが、続けるなら工夫が必要だ。


 厨房の手。

 販売の列整理。

 保存場所。

 瓶の数。

 仕入れ。


 そして、いずれ人手。


「ボルガム」


「なんだ」


「予備、助かった」


 ボルガムは少しだけ鼻を鳴らした。


「客が残ると思った」


「読んでたのか?」


「料理人の勘だ!」


 クィナスが横から言う。


「帳簿的にも、残る可能性はありました」


「なら言ってくれ」


「マスターが止めると思ったんじゃないですか?」


 ボルガムは黙った。


 オルゼンは苦笑した。


「味が落ちないなら止めない」


「……そうか」


「ただし、次からは言え」


「分かった!」


「本当に?」


 クィナスが聞く。


「たぶん!」


「不安ですね」


 店の中に笑いが戻った。


 その数日後。


 中央通りの掲示板や酒場の壁、食通たちが集まる小さな茶房で、一枚の短い食評が話題になった。


 署名はない。


 だが、食に詳しい者なら、その文体だけで誰が書いたか分かる。


 そこには、こう書かれていた。


『裏通りの小店にて、肉の瓶詰め三種を食す。

 基本は飽きず、甘めは広く、辛めは強い。

 端肉と呼ぶには惜しい肉を、端肉として正しく扱っている。

 保存食でありながら、食卓の主役にも脇役にもなれる。

 至高、とまでは軽々しく言わぬ主義だが――これは至高に近い。』


 その最後の一文のせいで、数日後、オルゼンの店の黒板前にはまた人が増えることになる。


 ただし、その時の三人はまだ知らない。


 今はただ、激動の一日を終えた店内で、帳簿と空瓶と甘辛い香りに囲まれていた。


 クィナスは最後に一行を書き加える。


『調査販売日。

 店は回った。

 ただし、今のままでは毎日は無理。

 次に進むための課題、多数。』


 そして少し考えて、もう一行。


『でも、売れた。とても売れた。』


 帳簿を閉じる音が、閉店後の店に小さく響いた。

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