第012話:売れたあとに残るもの
調査販売の翌朝。
店はいつも通りの形に戻っていた。
入口横の黒板には、昨日のような大きな告知はない。
『本日の朝包み、十個限定』
その下に、小さく一文。
『夜そぼろ瓶、次回未定。良い肉が入った日に作ります。』
店内も普段通りだ。
物販棚には布が外され、青塩の小包み、乾燥果実、小人族の細工針、香草瓶、旅人用の保存瓶が並んでいる。
テイクアウト用の食品カウンターには、朝包みが十個だけ置かれる予定だ。
昨日の混雑が嘘のように、朝の店は静かだった。
ただし、それは開店前だけの話だった。
「マスター、黒板前で止まる人が昨日より多いです」
クィナスが帳簿を抱えたまま、入口の外を確認して言った。
「そぼろ瓶か?」
「はい。今のところ、通りがかりの反応が七件。うち二件は『昨日買えなかった』です」
厨房からボルガムの声が飛んでくる。
「昨日で終わりじゃねえぞ! また作る!」
「それを外に向かって叫ばないでください」
「叫んでねえ! 店内向けだ!」
「声量は外向きです」
ボルガムは少しだけ声を落とした。
「……また作る」
「急に寂しいですね」
オルゼンは苦笑しながら、カウンターに朝包み用の紙を並べた。
昨日の調査販売で、店の体力はかなり削られた。
朝、昼、夜、すべて増量。
夜そぼろ瓶は三種完売。
最後にはボルガムが隠して作っていた予備まで出した。
成功だった。
ただし、毎日できるものではない。
それは三人とも分かっていた。
「今日は十個だけだ」
オルゼンが言う。
「はい。通常営業です」
クィナスは黒板の横に、小さな札を追加した。
『本日は通常販売です。
朝包み、十個限定。
夜そぼろ瓶はありません。』
その潔さが、かえって客の足を止めた。
開店すると、すぐに常連が入ってきた。
「昨日すごかったなあ」
「ありがとうございます」
クィナスがいつもの笑顔で応じる。
「今日はそぼろないのか?」
「ありません」
「残念だ。また楽しみにしてるよ」
「良い肉が入りましたら」
次の客も似たようなことを言う。
「昨日、甘め買ったんだが、子供が全部食べちまってな。俺の分がなかった」
「それは大変でしたね」
「次は二瓶買う」
「購入制限があるかもしれません」
「そこをなんとか」
「なんともなりません」
さらに別の客。
「辛め、酒に合いすぎた。あれは危ない」
「危ない、いただきました」
「帳簿に書くのか?」
「書きます」
「なら、辛めは危ないって書いといてくれ」
「はい」
クィナスは本当に書いた。
『辛め、酒に合いすぎて危ないとの感想』
朝包みは、いつも通りすぐに売り切れた。
昨日より数は少ない。
だが、客の反応は明らかに変わっている。
昨日来た客が、また来ている。
昨日買えなかった客が、様子を見に来ている。
そして、噂を聞いた客が、店の場所を確かめに来ている。
店の外で、二人組の職人が話していた。
「ここのそぼろ、そんなに違うのか?」
「違う。今朝、別の店で似たやつ買ったけど、全然違った」
「別の店ももう真似してるのか」
「してるしてる。肉そぼろ瓶、甘辛瓶、職人飯瓶とか、名前だけは増えてる」
「味は?」
「普通」
「普通か」
「普通にうまい。でも、昨日のとは違う」
その会話は店内にも届いていた。
ボルガムの手が、厨房で一瞬だけ止まる。
「マスター」
クィナスが小声で言う。
「もう他店が出しています」
「早いな」
「でも、想定通りですね」
「ああ」
オルゼンは驚かなかった。
むしろ、早い方がいい。
瓶詰めそぼろという商品が、街に広がる。
客が比べる。
比べるから、違いが分かる。
それは悪いことではない。
「怒らないんですね」
クィナスが言う。
「真似されるとは思ってた」
「でも、同じものではありません」
「当然だ」
厨房からボルガムの声が低く響いた。
「同じなわけねえ」
怒っているわけではない。
誇っている声だった。
「肉が違う。火が違う。刻み方が違う。冷ます時間も、瓶に詰める時の見方も違う。そぼろは肉を細かくして煮れば終わりじゃねえ」
オルゼンは頷く。
「そうだな」
「俺は昨日、あの肉に恥をかかせねえように作った。真似されるのは構わねえ。だが、簡単に同じになると思われるのは困る」
クィナスは帳簿にその言葉を書いた。
『ボルガム発言。真似は構わない。ただし簡単に同じになると思われるのは困る』
「そこ、書くのか」
ボルガムが言う。
「書きます。大事なので」
「なら、こうも書け。料理人が本気で作ったものは、形だけ真似ても届かねえ」
クィナスは少し笑った。
「はい」
オルゼンは店の外を見た。
別の店が真似をする。
それは市場が動いた証だ。
だが、こちらが負けたわけではない。
材料が違う。
料理人の判断が違う。
客の反応を帳簿に残して、次へ繋げる仕組みが違う。
商売は、商品だけで勝つものではない。
店ごと勝つものだ。
その日は、通常営業で終わった。
客の数は多かったが、昨日のような激動ではない。
それでも、来る客の多くが夜そぼろ瓶の話をした。
「次はいつ?」
「甘めをまた食べたい」
「辛めはもっと辛くできる?」
「基本を大瓶で売らないのか?」
「保存がきくなら遠征に持っていきたい」
クィナスの帳簿は、また厚くなった。
閉店後。
ボルガムは厨房で片づけを終え、クィナスは帳簿を閉じた。
オルゼンは入口の札を『閉店』に変えたあと、二人を見た。
「少し話がある」
クィナスの耳が動く。
「次の販売計画ですか?」
「違う」
ボルガムが腕を組む。
「仕入れか?」
「それも違う」
「では、何でしょう?」
クィナスが首を傾げる。
オルゼンは少しだけ間を置いて言った。
「数日後、臨時休業にする」
クィナスとボルガムが同時に固まった。
「臨時休業?」
「おう?」
「店の修繕ですか?」
「違う」
「仕入れ遠征ですか?」
「違う」
「では?」
オルゼンは淡々と言った。
「三人で休みに行く」
沈黙。
それから、ボルガムが大声を出した。
「休みに行く!?」
クィナスも珍しく目を丸くしている。
「マスター、熱がありますか?」
「ない」
「帳簿を見すぎて、売上と休業日を間違えましたか?」
「間違えてない」
「では、なぜ?」
オルゼンは二人を見た。
「成功の報酬だ」
二人は黙った。
「調査販売は成功した。朝昼夜、全部回した。そぼろ瓶も売れた。客も増えた。課題も見えた」
オルゼンは続ける。
「だが、あれを続けるには体がもたない。だから一度、ちゃんと休む」
「休む……」
クィナスが少し不思議そうに呟く。
ボルガムも腕を組んだまま難しい顔をしている。
「休むって、何をするんだ?」
「リゾートスパに行く」
また沈黙。
「リゾート……?」
「スパ……?」
二人とも、普段の店の空気から遠い単語に戸惑っている。
オルゼンは頷いた。
「都市の東区にある。少し高いが、湯、蒸し風呂、鉱泉、食事、休憩室があるらしい」
クィナスの耳がゆっくり立っていく。
「高い、というのは?」
「それなりに」
「経費ですか?」
「報酬だ」
「帳簿処理は?」
「福利厚生でどうだ?」
「ふくり……?」
「店主判断だ」
クィナスは一瞬、帳簿上の分類に悩んだようだった。
だが、やがて小さく笑った。
「では、店主判断費として記録します」
「そんな項目あるのか?」
「作ります」
ボルガムはまだ難しい顔をしていた。
「俺たちが、そんなところに行っていいのか?」
「いい」
「客は?」
「一日くらい待ってもらう」
「仕込みは?」
「前日に調整する」
「店は?」
「閉める」
ボルガムはしばらく黙っていた。
それから、少し照れたように鼻を鳴らした。
「……なら、行く」
「決まりだな」
クィナスも頷いた。
「臨時休業の黒板、書いておきます」
「頼む」
「理由は?」
「成功報酬のため」
「正直すぎます」
「じゃあ、店主体調管理のため」
「不穏です」
「仕入れ研修」
「嘘です」
クィナスは白墨を手に取り、少し考えてから書いた。
『数日後、臨時休業いたします。
店主・店員の休養日です。
次の商売のため、しっかり休んできます。』
ボルガムが黒板を見て、大きく笑った。
「いいじゃねえか!」
「本当に出すのか?」
オルゼンが聞く。
「出します。正直な休業は、次の期待になります」
「最近そればかりだな」
「うちの店らしいので」
数日後。
店は本当に臨時休業した。
朝から黒板には、休養日の文字が出ている。
常連客の何人かはそれを見て笑った。
「昨日まであれだけ働いてたしな」
「休んでこい」
「次のそぼろ、期待してるぞ」
「休んだら味が良くなるなら、しっかり休め」
そんな声に見送られ、三人は東区へ向かった。
都市の東区は、中央通りとはまた違う雰囲気だった。
道幅が広く、建物も白い石造りが多い。
香水店や高級菓子店、仕立て屋、魔道具付きの宿泊施設が並んでいる。
その一角に、リゾートスパはあった。
大きな門。
磨かれた石床。
庭には温水を引いた小さな水路が流れ、湯気がふわりと立っている。
入口には、清潔な服を着た受付係が立っていた。
「……場違いでは?」
クィナスが小声で言った。
「気のせいだ」
オルゼンも少しだけそう思ったが、言わなかった。
ボルガムは門を見上げている。
「でけえ風呂屋だな!」
「その言い方はやめろ」
中へ入ると、三人はそれぞれ更衣室へ案内された。
この施設では、水着に近い湯浴み着を着て、鉱泉や蒸し風呂、温水庭園を楽しむらしい。
しばらくして、集合場所の温水庭園にオルゼンが出ると、まずボルガムが現れた。
湯浴み用の短い衣を身につけているが、隠しきれないほど体が大きい。
筋肉質な腕。
厚い胸板。
背中に混じる青白い毛並み。
普段は厨房着で隠れている体格が、はっきり分かる。
周囲にいた女性客の何人かが、ちらりと見た。
いや、ちらりではない。
かなり見ていた。
ボルガムは気づいていない。
「マスター! 湯が広いぞ!」
「声を落とせ」
「おう!」
声はあまり落ちていなかった。
次に、クィナスが現れた。
黒毛を基調に、胸元と耳先の白が湯気の中でやけに映える。
湯浴み着は施設で用意されたものだが、彼女のすらりとした体つきにはよく似合っていた。
普段から姿勢も動きも綺麗だが、今日は店の制服ではない。
そのせいで、周囲の男客の視線が一斉に動いた。
クィナスはそれに気づいて、少しだけ耳を動かした。
「……マスター」
「なんだ」
「見られています」
「そうだな」
「どうしましょう」
「堂々としてればいい」
「そうします」
クィナスは背筋を伸ばした。
すると、余計に視線を集めた。
ボルガムが周囲を見回す。
「なんだ? 何かあったか?」
「何もありません」
クィナスが即答する。
オルゼンは自分の湯浴み着を見下ろした。
普通だった。
体格も普通。
見た目も普通。
どこにでもいる若い店主である。
周囲の視線も、ほとんど来ない。
「マスター」
クィナスが言う。
「少し安心した顔をしましたね」
「してない」
「しました」
「帳簿に書くなよ」
「今日は帳簿を持ってきていません」
「珍しい」
「休養日ですので」
そう言いながら、クィナスの指先が少しそわそわしている。
たぶん、書きたいのだろう。
三人はまず、温かい鉱泉に入った。
湯は柔らかく、少し甘い鉱物の匂いがする。
肩まで沈むと、体の奥から疲れがほどけていくようだった。
ボルガムが深く息を吐く。
「……これは、すごいな」
珍しく声が小さい。
クィナスも目を細めている。
「体が軽くなりますね」
「たまにはこういうのもいいだろ」
オルゼンが言うと、二人はしばらく黙っていた。
やがて、ボルガムがぽつりと言った。
「マスター、ありがとな」
「報酬だ」
「それでもだ」
クィナスも静かに頷く。
「私も、ありがとうございます」
「二人が頑張ったからだ」
湯気が立ち上る。
いつもの店とは違う場所。
包丁の音も、客の声も、帳簿の紙音もない。
ただ、湯の音だけがある。
しばらく湯に浸かったあと、三人は休憩室へ移動した。
そこでは、果実水や軽い菓子、蒸した野菜、薄切りの肉料理などが出されていた。
ボルガムは料理を見るなり、目つきが変わる。
「休みに来たんだぞ」
オルゼンが言う。
「分かってる! だが、見る!」
「料理人ですね」
クィナスが笑う。
ボルガムは一皿ずつ観察し、少しずつ味を見る。
「蒸し野菜は火がいい。塩は弱い。果実水は香りが上品だが、甘みが少し遠い。肉は薄いが、脂の切り方がうまい」
「完全に仕事ですね」
「休みながら見てる!」
「便利な言葉です」
クィナスも果実水を飲んだ。
「これはリュナメルとは違う甘さですね」
「そうだな」
オルゼンも飲んでみる。
軽く、上品で、後味が短い。
店で出すには少し物足りないが、こういう場所には合っている。
普段なら使わない味。
普段なら見ない客層。
普段なら考えない価格帯。
リゾートスパは、ただ休む場所ではなかった。
高めの金を払う客が、何に満足するのか。
どういう空気を求めるのか。
どんな量で、どんな味を上品と感じるのか。
それを感じる場所でもある。
クィナスが小声で言った。
「マスター」
「ん?」
「これ、休養でもありますけど、勉強にもなりますね」
「そうだな」
「高級志向の客向けの商品、考えやすくなりそうです」
「やっぱり帳簿を持ってくればよかったか?」
「……少しだけ」
オルゼンは笑った。
「覚えておけばいい」
「はい」
ボルガムが肉料理を食べながら言う。
「高級そぼろ瓶を作るなら、量を増やしちゃ駄目だな」
「どうしてです?」
クィナスが聞く。
「こういうところの客は、腹いっぱいだけじゃねえ。少ない量で、ちゃんと満足したいんだ。なら、瓶も小さくていい。肉は良くする。香りも残す。値は高くする」
オルゼンは頷いた。
「リュナメル入りか」
「合う。だが入れすぎると下品になる。少しだけだ」
「高級品は少しだけ、ですね」
クィナスが呟く。
「覚えておきます」
「帳簿なしで?」
「心に書きます」
三人はその後、蒸し風呂、冷水の足湯、香草湯、温石休憩室を回った。
クィナスは香草湯で目を細め、ボルガムは温石の上で本気で寝かけた。
オルゼンは普段使わない筋肉がほどけていくのを感じながら、少しだけ考える。
店は忙しくなる。
客も増える。
商品も増える。
真似する店も出る。
仕入れ先との関係も深まる。
いずれ人を雇うことも考えなければならない。
だが、その前に三人が潰れては意味がない。
店は、三人で作っている。
オルゼン一人の商売ではない。
夕方近く。
帰る前に、三人は施設内の小さな庭に出た。
湯上がりの風が心地いい。
ボルガムはまだ名残惜しそうに建物を見ている。
「また来るか?」
オルゼンが聞くと、ボルガムは即答した。
「来る!」
クィナスも頷いた。
「次は帳簿を……いえ、持ってきません。たぶん」
「たぶんか」
「休養と記録の両立は難しいですね」
「休養を優先しろ」
「努力します」
ボルガムが大きく伸びをした。
「よし! 休んだ! 明日からまた作れる!」
「明日は通常営業だ」
オルゼンが言う。
「夜そぼろ瓶は?」
「まだ出さない」
ボルガムは少し残念そうだったが、すぐに頷いた。
「分かった。焦らす!」
「焦らすんじゃない。良い肉を待つんだ」
「そうだった!」
クィナスが笑う。
「黒板にはこう書きましょう」
「何を?」
クィナスは指で空中に文字を書くようにした。
『休養してきました。
次の商売も、味が落ちる前に頑張ります。』
オルゼンは少し考えてから言った。
「悪くないな」
「出します?」
「少しだけ直して出そう」
「はい」
帰り道。
三人はいつもより少しゆっくり歩いた。
店に戻れば、また商売が始まる。
朝包み、昼包み、夜の商品。
青塩。
リュナメルの種。
夜そぼろ瓶。
ラグネルとの契約。
増えた客。
そして、まだ見ぬ次の商品。
やることは多い。
だが、今日だけはそれでよかった。
小さな店の三人は、少しだけ高い湯に入り、少しだけ良い料理を食べ、少しだけ普段と違う客の視線を浴びて、また明日へ戻っていく。
そして翌朝、店の黒板にはこう書かれることになる。
『休養してきました。
本日より通常営業です。
良い品と良い味を、味が落ちる前にお届けします。』




