表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/27

第013話:二か月後の店と、六粒の種

 リゾートスパへ行ってから、二か月ほどが過ぎた。


 季節は少しだけ進み、朝の空気に混じる湿り気が変わった。

 通りを歩く人々の服も、薄手のものから少し落ち着いた色へ変わっている。


 その間に、オルゼンの店も少し変わった。


 大きくなったわけではない。


 建物は相変わらず、都市中心部の裏通りにある二階建ての小さな店だ。

 入口横には黒板が置かれ、棚には珍しい乾物や香辛料、旅人用の小物が並び、カウンターの奥からは包み料理の香りが漂っている。


 だが、客の流れが変わった。


 朝包みを目当てに来る常連。

 昼包みを買いに来る職人。

 夕方に甘味だけを買う老魔術師。

 青塩の小包みを求める料理人。

 夜そぼろ瓶が出るかどうか黒板を確認する者。


 そして時々、初めての客が黒板の前で足を止める。


「ここか。噂の瓶詰め肉の店って」


「今日はないみたいだぞ」


「良い肉が入った日だけ、だってさ」


「強気だな」


「でも、食った奴がうまいって言ってた」


 そんな会話が、店の外で聞こえるようになった。


 夜そぼろ瓶は、もはや一度きりの限定商品ではなくなっていた。


 ただし、毎日は出さない。


 良い端肉が入った日。

 ボルガムが納得した日。

 瓶の準備と冷蔵箱の空きがある日。


 その条件が揃った時だけ、黒板にこう書かれる。


『本日、夜そぼろ瓶あり。

 基本・甘め・辛め。

 数に限りがあります。』


 それが出た日は、夕方になる前から客が増える。


 ただ、そぼろ瓶だけが店の主役になったわけではない。


 オルゼンは意識して、他の商品も動かしていた。


 青塩は小包みで安定して売れている。

 白蜜プリンには季節の果実を合わせるようになった。

 ボルガムは昼包みに豆と燻製肉を使う日を作った。

 クィナスは物販棚の配置を変え、香草、保存瓶、乾燥果実をまとめた小さな棚を作った。


 その棚には、こう書かれている。


『保存食を少し楽しくする棚』


 旅人や一人暮らしの客に、地味に売れている。


「マスター、保存食棚の売上が伸びています」


 クィナスは帳簿を見ながら言った。


「そぼろ瓶から流れている客がいますね。瓶詰めを買いに来て、保存瓶や香草にも目が行っています」


「食品から物販に繋がったか」


「はい。良い流れです」


「そぼろが強すぎるかと思ったが」


「強い商品は入口になります。入口にだけすると店が偏りますが、奥に別の商品があれば回ります」


「なるほど」


「なので、販売側もそろそろ次を考えたいです」


 クィナスは帳簿の新しいページを開いた。


「保存食棚の強化。旅人向けの小瓶セット。青塩と香草の料理用小包み。甘味用の乾燥果実。あとは、朝昼夜の包み料理と連動した小さな調味料販売です」


「食べて気に入った味を、家でも使えるようにする?」


「はい」


「いいな」


 厨房からボルガムが顔を出す。


「調味料だけ売っても、俺の味にはならねえぞ!」


「それでいい」


 オルゼンが答える。


「家で真似できる程度に近づける。だが、完全には同じにならない。そうすれば、店にもまた来る」


 ボルガムは少し考えたあと、にやりと笑った。


「なるほどな! 真似したくなる味か!」


「そういうことだ」


 クィナスは帳簿に書く。


『家庭用調味小包み案。店の味を完全再現ではなく、近づける商品』


 店は少しずつ進んでいた。


 だが、ひとつだけ、まだ表に出していないものがある。


 リュナメル。


 南西高地で育つ、月蜜果とも呼ばれる果実。

 以前、南門の屋台親父から届いた三つの乾燥果実から、六粒の種が取れた。


 その六粒は、ボルガムの手で丁寧に処理され、店の裏で育てられている。


 最初の数日は何も起きなかった。


 ボルガムは毎朝、毎昼、毎晩と見に行き、クィナスに何度も言われた。


「まだ出ませんよ」


「分かってる!」


「水をやりすぎないでください」


「分かってる!」


「本当に?」


「たぶん!」


 それから二週間後。


 六粒のうち、二粒が割れた。


 小さな白い芽が出た時、ボルガムは厨房から店中に響く声で叫んだ。


「出たぞ!」


 その声で、甘味を買っていた老魔術師がプリンを落としかけた。


 現在、六粒のうち四粒が発芽している。


 悪くない結果だった。


 しかし、問題はそこからだった。


「このまま店の裏では無理だ」


 ある朝、ボルガムは小さな苗を見ながら言った。


「無理なのか?」


 オルゼンが聞く。


「芽は出た。だが、ここからが難しい。リュナメルは昼と夜の温度差がいる。湿気は必要だが、根は水に浸かるのを嫌う。風もいる。だが強すぎる風は駄目だ」


「面倒ですね」


 クィナスが言う。


「面倒だ。だが、面倒だから高い」


 ボルガムは真剣だった。


「店の裏庭じゃ、夏は蒸れすぎる。冬は冷えすぎる。鉢を工夫しても限界がある。育てるなら、ちゃんとした施設がいる」


「施設?」


「温室だ。ただの温室じゃねえ。夜に温度を落とせるやつ。湿気を調整できて、土も分けられる場所」


 クィナスが帳簿に書き始める。


「特殊栽培施設、必要。温度差、湿度、排水、風、土壌管理」


「そんな場所、この都市にあるのか?」


 オルゼンが聞く。


「あるにはある」


 クィナスが答えた。


「東区と北区の境に、魔術温室区画があります。薬草師、香料師、貴族家の庭師、研究者が使う施設です」


「借りられるのか?」


「誰でも、というわけではありません」


「だろうな」


「使用許可、紹介、保証金、栽培対象の申告が必要です。場合によっては、希少植物の取り扱い資格を持つ人の推薦がいります」


 ボルガムは腕を組む。


「面倒だな!」


「面倒だから高いんでしょう?」


 クィナスが返す。


「そうだ!」


「そこで納得しないでください」


 オルゼンは小さな苗を見た。


 細い茎。

 まだ頼りない葉。

 これがいつか、月蜜果になるかもしれない。


 もし育てられれば、店の価値は大きく変わる。


 ただ珍しい乾燥果実を仕入れた店ではなく、

 珍しい果実を育て、加工し、商品にできる店になる。


 だが、そのためには場所がいる。


 金もいる。

 紹介もいる。

 知識もいる。


「セリオラさんに聞いてみるか」


 オルゼンが呟くと、クィナスの耳が動いた。


「香料と保存加工を少し扱っている方ですね」


「その“少し”が信用できない人だな」


「はい。かなり詳しいと思います」


 ボルガムも頷いた。


「香りの立ち方が分かるやつなら、植物にも詳しいかもしれねえ」


「来た時に話してみる」


 オルゼンはそう言った。


 その日の昼過ぎ。


 まるで話を聞いていたかのように、セリオラが店に来た。


 灰紫の外套。

 静かな足取り。

 香りを扱う者なのに、自分にはほとんど香りを残していない。


 彼女はいつものように棚を一通り見たあと、青塩の小包みと香草瓶を一つ手に取った。


「こんにちは」


「いらっしゃいませ、セリオラさん」


 オルゼンが応じる。


「今日は珍しく、夜そぼろ瓶がない日ですね」


「良い肉待ちです」


「なるほど。ラグネルさんが少し楽しそうにしていました」


「何か言っていましたか?」


「面白い店は、待たせ方も商品にする、と」


 オルゼンは苦笑した。


「褒めているんですかね」


「ラグネルさんの場合、たぶん褒めています」


 セリオラは棚の保存食小包みを見た。


「こちらも増えましたね」


「そぼろ瓶ばかりになると、店が偏るので」


「良い判断です」


「実は、少し相談がありまして」


 セリオラの目が静かにオルゼンへ向く。


「相談ですか」


「リュナメルの種を育てています」


 セリオラの表情は大きく変わらなかった。


 だが、ほんのわずかに目が細くなった。


「リュナメルを?」


「はい。乾燥果実から取った種が六粒。そのうち四粒が発芽しました」


「四粒」


 セリオラは小さく繰り返した。


 それは驚きの声だった。


 静かすぎて、普通の者なら気づかない程度の。


「かなり良い発芽率です」


「ボルガムが管理しています」


 厨房からボルガムが顔を出した。


「芽は出した! だが、このままじゃ育たねえ!」


 セリオラはボルガムを見る。


「南西高地の果実ですよね」


「そうだ」


「温度差、湿度、排水、風。全部必要です」


「分かってるな!」


「少しだけ」


 ナギルカがいれば、また信用できないと言っただろう。


 オルゼンは続ける。


「特殊な温室を借りる必要があると思っています。ただ、誰にでも貸してもらえる場所ではなさそうで」


 セリオラは少し考えた。


「魔術温室区画ですね」


「やはり」


「紹介が必要です。特にリュナメルは食用でも香料用でも扱えますが、希少植物に近い。栽培目的をきちんと示さなければ、断られる可能性があります」


「店の新商品用、では弱いですか?」


「弱くはありません。ただ、商業目的だけだと使用料が高くなります。栽培記録を残し、香りや乾燥加工の研究にも協力する形なら、借りやすくなるかもしれません」


 クィナスが帳簿を開く。


「栽培記録ならあります」


「毎日つけていますか?」


「はい。発芽日、湿度、水やり、ボルガムの観察回数まで」


「最後は必要でしょうか?」


「店の記憶なので」


 セリオラは少しだけ笑った。


「それなら、交渉材料になります」


 ボルガムが真剣な声で言う。


「施設を借りられたら、育つか?」


 セリオラはすぐには答えなかった。


「育つ可能性は上がります。ただ、リュナメルは発芽してからが長いです。すぐに実はなりません」


「分かってる」


「最低でも数年は見た方がいいです」


「それも分かってる」


 ボルガムの答えは迷いがなかった。


 セリオラはその様子をじっと見た。


「ボルガムさんは、どこでリュナメルを?」


 店内の空気が、少しだけ変わった。


 クィナスの手が止まる。


 オルゼンもセリオラを見る。


 ボルガムは一瞬だけ黙った。


 だが、すぐにいつもの調子で答えた。


「昔、見た!」


「南西高地で?」


「似たような場所だ!」


 それ以上は言わない。


 セリオラも、それ以上は聞かなかった。


「そうですか」


 静かに頷くだけだった。


 オルゼンは話を戻す。


「紹介してもらえそうな相手はいますか?」


「私から直接紹介できるかは、少し確認が必要です」


 セリオラは言った。


「ですが、話してみる価値はあります」


「助かります」


「それと、ラグネルさんにも話してみます」


「ラグネルさんに?」


「ええ。あの方は食材だけでなく、栽培施設にも顔が利きます」


「やはり大物ですね」


「本人は小さな卸屋の顔をしていますが」


 セリオラは少しだけ楽しそうに言った。


「では、私から軽く話を通してみます。リュナメルを育てようとしている店がある、と」


「お願いします」


「ボルガムさんが育てていることも?」


 セリオラが聞くと、ボルガムは腕を組んだ。


「言ってもいい」


「分かりました」


 セリオラは香草瓶と青塩を買い、店を出ていった。


 入口の鈴が鳴る。


 その音が消えたあと、クィナスがぽつりと言った。


「ラグネルさん、食いつきそうですね」


「だろうな」


 オルゼンも同じことを思っていた。


 そして、その予想は当たった。


 その日の夕方。


 セリオラはラグネル食材卸の小さな店を訪れていた。


 表向きは、香草と乾燥保存用の油を確認するため。

 実際には、少し世間話をするためでもある。


 ラグネルは奥の保管室で、根菜の箱を確認していた。


「珍しいな、セリオラ」


「少し相談がありまして」


「香料か?」


「いえ。リュナメルです」


 ラグネルの手が止まった。


 それまで淡々としていた目が、わずかに鋭くなる。


「リュナメル?」


「オルゼンさんの店で、育てるそうです」


 ラグネルはゆっくりと振り返った。


「育てる?」


「はい。乾燥果実から取った種、六粒のうち四粒が発芽したそうです」


「四粒……」


 ラグネルの声が低くなる。


「誰が管理している」


「ボルガムさんです」


「熊族の料理人か」


「ええ」


 ラグネルはしばらく黙った。


 それから、少しだけ笑った。


「南西高地の農法を知っているのか」


「詳しくは聞いていません」


「だろうな」


「特殊温室を借りたいそうです。温度差、湿度、排水、風の管理が必要だと」


 ラグネルは根菜の箱を閉じた。


「ただの料理人ではないな」


「そう思います」


「リュナメルは、種があれば育つものではない。芽を出すだけでも難しい。まして乾燥果実から取った種で四粒とは」


「施設を紹介できますか?」


 ラグネルは少し考えた。


「できる」


「簡単に?」


「簡単ではない」


 ラグネルは言った。


「魔術温室区画は、金だけでは借りられん。何を育てるか。誰が管理するか。記録を出せるか。施設側に利益があるか。それがいる」


「クィナスさんが記録をつけています」


「あの猫族なら、記録は問題ないだろう」


「ボルガムさんも、かなり真剣でした」


「だろうな」


 ラグネルは小さく笑った。


「面白い。そぼろ瓶の次はリュナメルか」


「店を広げるつもりはないようですが、扱うものは広がっています」


「それが良い店だ」


 ラグネルは保管室の奥から、一枚の古い名刺のような木札を取り出した。


「温室区画に、古い知り合いがいる。偏屈だ。金持ち相手でも平気で断る」


「紹介状ですか?」


「紹介状ではない。入口だ」


 ラグネルは木札をセリオラへ渡した。


「これを渡せ。あとは、あの若造たちが話せるかどうかだ」


 セリオラは木札を受け取る。


「ラグネルさんは行かないのですか?」


「必要なら行く」


「興味があるんですね」


「ある」


 ラグネルは隠さなかった。


「リュナメルを育てられる料理人がいるなら、会う価値がある」


「もう会っていますよね」


「厨房で会っていない」


 セリオラは少し笑った。


「なるほど」


 その頃、オルゼンの店では、ボルガムが裏庭の小さな苗をじっと見ていた。


 クィナスがその様子を帳簿に書く。


『リュナメル栽培記録。発芽四粒。ボルガム、沈黙して観察。今日は水やりなし。土の湿り気良好』


 オルゼンは隣に立ち、苗を見る。


「育ちそうか?」


「育てる」


 ボルガムは短く言った。


 それは、いつもの大声ではなかった。


 だが、強い言葉だった。


「ここじゃ無理だと言っただろ」


「ああ。だから場所を探す」


「セリオラさんが動いてくれる」


「助かる」


「珍しいな。短いな」


 ボルガムは少しだけ笑った。


「こういう時は、喋りすぎると土が乾く気がする」


「関係あるのか?」


「気分だ」


 クィナスが帳簿に書き足す。


『ボルガム発言。喋りすぎると土が乾く気がする。根拠不明』


「それは書かなくていい!」


「店の記憶なので」


「便利すぎるぞ、その言葉!」


 オルゼンは笑いながら、まだ小さなリュナメルの芽を見た。


 夜そぼろ瓶は売れた。

 店の名前も少し広がった。

 だが、次はまた別の話だ。


 肉の瓶詰めではなく、六粒の種。


 今すぐ金になるものではない。

 むしろ、金も手間もかかる。


 それでも、育てる価値がある。


 商売とは、今日売れるものだけを見る仕事ではない。

 来年、数年後、いつか店の棚に並ぶかもしれないものに、今から手をかける仕事でもある。


 オルゼンは小さな芽を見ながら言った。


「温室、借りに行くか」


 クィナスの耳が立つ。


「交渉ですね」


「そうだ」


 ボルガムも頷いた。


「俺も行く」


「もちろんだ」


「リュナメルの話なら、俺が行かねえと駄目だ」


 その言葉に、オルゼンもクィナスも何も言わなかった。


 ただ、頷いた。


 店の裏庭に、四つの小さな芽がある。


 まだ頼りない。

 まだ商品にはならない。

 まだ客に見せることもできない。


 けれど、その芽は確かに、次の商売の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ