第013話:二か月後の店と、六粒の種
リゾートスパへ行ってから、二か月ほどが過ぎた。
季節は少しだけ進み、朝の空気に混じる湿り気が変わった。
通りを歩く人々の服も、薄手のものから少し落ち着いた色へ変わっている。
その間に、オルゼンの店も少し変わった。
大きくなったわけではない。
建物は相変わらず、都市中心部の裏通りにある二階建ての小さな店だ。
入口横には黒板が置かれ、棚には珍しい乾物や香辛料、旅人用の小物が並び、カウンターの奥からは包み料理の香りが漂っている。
だが、客の流れが変わった。
朝包みを目当てに来る常連。
昼包みを買いに来る職人。
夕方に甘味だけを買う老魔術師。
青塩の小包みを求める料理人。
夜そぼろ瓶が出るかどうか黒板を確認する者。
そして時々、初めての客が黒板の前で足を止める。
「ここか。噂の瓶詰め肉の店って」
「今日はないみたいだぞ」
「良い肉が入った日だけ、だってさ」
「強気だな」
「でも、食った奴がうまいって言ってた」
そんな会話が、店の外で聞こえるようになった。
夜そぼろ瓶は、もはや一度きりの限定商品ではなくなっていた。
ただし、毎日は出さない。
良い端肉が入った日。
ボルガムが納得した日。
瓶の準備と冷蔵箱の空きがある日。
その条件が揃った時だけ、黒板にこう書かれる。
『本日、夜そぼろ瓶あり。
基本・甘め・辛め。
数に限りがあります。』
それが出た日は、夕方になる前から客が増える。
ただ、そぼろ瓶だけが店の主役になったわけではない。
オルゼンは意識して、他の商品も動かしていた。
青塩は小包みで安定して売れている。
白蜜プリンには季節の果実を合わせるようになった。
ボルガムは昼包みに豆と燻製肉を使う日を作った。
クィナスは物販棚の配置を変え、香草、保存瓶、乾燥果実をまとめた小さな棚を作った。
その棚には、こう書かれている。
『保存食を少し楽しくする棚』
旅人や一人暮らしの客に、地味に売れている。
「マスター、保存食棚の売上が伸びています」
クィナスは帳簿を見ながら言った。
「そぼろ瓶から流れている客がいますね。瓶詰めを買いに来て、保存瓶や香草にも目が行っています」
「食品から物販に繋がったか」
「はい。良い流れです」
「そぼろが強すぎるかと思ったが」
「強い商品は入口になります。入口にだけすると店が偏りますが、奥に別の商品があれば回ります」
「なるほど」
「なので、販売側もそろそろ次を考えたいです」
クィナスは帳簿の新しいページを開いた。
「保存食棚の強化。旅人向けの小瓶セット。青塩と香草の料理用小包み。甘味用の乾燥果実。あとは、朝昼夜の包み料理と連動した小さな調味料販売です」
「食べて気に入った味を、家でも使えるようにする?」
「はい」
「いいな」
厨房からボルガムが顔を出す。
「調味料だけ売っても、俺の味にはならねえぞ!」
「それでいい」
オルゼンが答える。
「家で真似できる程度に近づける。だが、完全には同じにならない。そうすれば、店にもまた来る」
ボルガムは少し考えたあと、にやりと笑った。
「なるほどな! 真似したくなる味か!」
「そういうことだ」
クィナスは帳簿に書く。
『家庭用調味小包み案。店の味を完全再現ではなく、近づける商品』
店は少しずつ進んでいた。
だが、ひとつだけ、まだ表に出していないものがある。
リュナメル。
南西高地で育つ、月蜜果とも呼ばれる果実。
以前、南門の屋台親父から届いた三つの乾燥果実から、六粒の種が取れた。
その六粒は、ボルガムの手で丁寧に処理され、店の裏で育てられている。
最初の数日は何も起きなかった。
ボルガムは毎朝、毎昼、毎晩と見に行き、クィナスに何度も言われた。
「まだ出ませんよ」
「分かってる!」
「水をやりすぎないでください」
「分かってる!」
「本当に?」
「たぶん!」
それから二週間後。
六粒のうち、二粒が割れた。
小さな白い芽が出た時、ボルガムは厨房から店中に響く声で叫んだ。
「出たぞ!」
その声で、甘味を買っていた老魔術師がプリンを落としかけた。
現在、六粒のうち四粒が発芽している。
悪くない結果だった。
しかし、問題はそこからだった。
「このまま店の裏では無理だ」
ある朝、ボルガムは小さな苗を見ながら言った。
「無理なのか?」
オルゼンが聞く。
「芽は出た。だが、ここからが難しい。リュナメルは昼と夜の温度差がいる。湿気は必要だが、根は水に浸かるのを嫌う。風もいる。だが強すぎる風は駄目だ」
「面倒ですね」
クィナスが言う。
「面倒だ。だが、面倒だから高い」
ボルガムは真剣だった。
「店の裏庭じゃ、夏は蒸れすぎる。冬は冷えすぎる。鉢を工夫しても限界がある。育てるなら、ちゃんとした施設がいる」
「施設?」
「温室だ。ただの温室じゃねえ。夜に温度を落とせるやつ。湿気を調整できて、土も分けられる場所」
クィナスが帳簿に書き始める。
「特殊栽培施設、必要。温度差、湿度、排水、風、土壌管理」
「そんな場所、この都市にあるのか?」
オルゼンが聞く。
「あるにはある」
クィナスが答えた。
「東区と北区の境に、魔術温室区画があります。薬草師、香料師、貴族家の庭師、研究者が使う施設です」
「借りられるのか?」
「誰でも、というわけではありません」
「だろうな」
「使用許可、紹介、保証金、栽培対象の申告が必要です。場合によっては、希少植物の取り扱い資格を持つ人の推薦がいります」
ボルガムは腕を組む。
「面倒だな!」
「面倒だから高いんでしょう?」
クィナスが返す。
「そうだ!」
「そこで納得しないでください」
オルゼンは小さな苗を見た。
細い茎。
まだ頼りない葉。
これがいつか、月蜜果になるかもしれない。
もし育てられれば、店の価値は大きく変わる。
ただ珍しい乾燥果実を仕入れた店ではなく、
珍しい果実を育て、加工し、商品にできる店になる。
だが、そのためには場所がいる。
金もいる。
紹介もいる。
知識もいる。
「セリオラさんに聞いてみるか」
オルゼンが呟くと、クィナスの耳が動いた。
「香料と保存加工を少し扱っている方ですね」
「その“少し”が信用できない人だな」
「はい。かなり詳しいと思います」
ボルガムも頷いた。
「香りの立ち方が分かるやつなら、植物にも詳しいかもしれねえ」
「来た時に話してみる」
オルゼンはそう言った。
その日の昼過ぎ。
まるで話を聞いていたかのように、セリオラが店に来た。
灰紫の外套。
静かな足取り。
香りを扱う者なのに、自分にはほとんど香りを残していない。
彼女はいつものように棚を一通り見たあと、青塩の小包みと香草瓶を一つ手に取った。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ、セリオラさん」
オルゼンが応じる。
「今日は珍しく、夜そぼろ瓶がない日ですね」
「良い肉待ちです」
「なるほど。ラグネルさんが少し楽しそうにしていました」
「何か言っていましたか?」
「面白い店は、待たせ方も商品にする、と」
オルゼンは苦笑した。
「褒めているんですかね」
「ラグネルさんの場合、たぶん褒めています」
セリオラは棚の保存食小包みを見た。
「こちらも増えましたね」
「そぼろ瓶ばかりになると、店が偏るので」
「良い判断です」
「実は、少し相談がありまして」
セリオラの目が静かにオルゼンへ向く。
「相談ですか」
「リュナメルの種を育てています」
セリオラの表情は大きく変わらなかった。
だが、ほんのわずかに目が細くなった。
「リュナメルを?」
「はい。乾燥果実から取った種が六粒。そのうち四粒が発芽しました」
「四粒」
セリオラは小さく繰り返した。
それは驚きの声だった。
静かすぎて、普通の者なら気づかない程度の。
「かなり良い発芽率です」
「ボルガムが管理しています」
厨房からボルガムが顔を出した。
「芽は出した! だが、このままじゃ育たねえ!」
セリオラはボルガムを見る。
「南西高地の果実ですよね」
「そうだ」
「温度差、湿度、排水、風。全部必要です」
「分かってるな!」
「少しだけ」
ナギルカがいれば、また信用できないと言っただろう。
オルゼンは続ける。
「特殊な温室を借りる必要があると思っています。ただ、誰にでも貸してもらえる場所ではなさそうで」
セリオラは少し考えた。
「魔術温室区画ですね」
「やはり」
「紹介が必要です。特にリュナメルは食用でも香料用でも扱えますが、希少植物に近い。栽培目的をきちんと示さなければ、断られる可能性があります」
「店の新商品用、では弱いですか?」
「弱くはありません。ただ、商業目的だけだと使用料が高くなります。栽培記録を残し、香りや乾燥加工の研究にも協力する形なら、借りやすくなるかもしれません」
クィナスが帳簿を開く。
「栽培記録ならあります」
「毎日つけていますか?」
「はい。発芽日、湿度、水やり、ボルガムの観察回数まで」
「最後は必要でしょうか?」
「店の記憶なので」
セリオラは少しだけ笑った。
「それなら、交渉材料になります」
ボルガムが真剣な声で言う。
「施設を借りられたら、育つか?」
セリオラはすぐには答えなかった。
「育つ可能性は上がります。ただ、リュナメルは発芽してからが長いです。すぐに実はなりません」
「分かってる」
「最低でも数年は見た方がいいです」
「それも分かってる」
ボルガムの答えは迷いがなかった。
セリオラはその様子をじっと見た。
「ボルガムさんは、どこでリュナメルを?」
店内の空気が、少しだけ変わった。
クィナスの手が止まる。
オルゼンもセリオラを見る。
ボルガムは一瞬だけ黙った。
だが、すぐにいつもの調子で答えた。
「昔、見た!」
「南西高地で?」
「似たような場所だ!」
それ以上は言わない。
セリオラも、それ以上は聞かなかった。
「そうですか」
静かに頷くだけだった。
オルゼンは話を戻す。
「紹介してもらえそうな相手はいますか?」
「私から直接紹介できるかは、少し確認が必要です」
セリオラは言った。
「ですが、話してみる価値はあります」
「助かります」
「それと、ラグネルさんにも話してみます」
「ラグネルさんに?」
「ええ。あの方は食材だけでなく、栽培施設にも顔が利きます」
「やはり大物ですね」
「本人は小さな卸屋の顔をしていますが」
セリオラは少しだけ楽しそうに言った。
「では、私から軽く話を通してみます。リュナメルを育てようとしている店がある、と」
「お願いします」
「ボルガムさんが育てていることも?」
セリオラが聞くと、ボルガムは腕を組んだ。
「言ってもいい」
「分かりました」
セリオラは香草瓶と青塩を買い、店を出ていった。
入口の鈴が鳴る。
その音が消えたあと、クィナスがぽつりと言った。
「ラグネルさん、食いつきそうですね」
「だろうな」
オルゼンも同じことを思っていた。
そして、その予想は当たった。
その日の夕方。
セリオラはラグネル食材卸の小さな店を訪れていた。
表向きは、香草と乾燥保存用の油を確認するため。
実際には、少し世間話をするためでもある。
ラグネルは奥の保管室で、根菜の箱を確認していた。
「珍しいな、セリオラ」
「少し相談がありまして」
「香料か?」
「いえ。リュナメルです」
ラグネルの手が止まった。
それまで淡々としていた目が、わずかに鋭くなる。
「リュナメル?」
「オルゼンさんの店で、育てるそうです」
ラグネルはゆっくりと振り返った。
「育てる?」
「はい。乾燥果実から取った種、六粒のうち四粒が発芽したそうです」
「四粒……」
ラグネルの声が低くなる。
「誰が管理している」
「ボルガムさんです」
「熊族の料理人か」
「ええ」
ラグネルはしばらく黙った。
それから、少しだけ笑った。
「南西高地の農法を知っているのか」
「詳しくは聞いていません」
「だろうな」
「特殊温室を借りたいそうです。温度差、湿度、排水、風の管理が必要だと」
ラグネルは根菜の箱を閉じた。
「ただの料理人ではないな」
「そう思います」
「リュナメルは、種があれば育つものではない。芽を出すだけでも難しい。まして乾燥果実から取った種で四粒とは」
「施設を紹介できますか?」
ラグネルは少し考えた。
「できる」
「簡単に?」
「簡単ではない」
ラグネルは言った。
「魔術温室区画は、金だけでは借りられん。何を育てるか。誰が管理するか。記録を出せるか。施設側に利益があるか。それがいる」
「クィナスさんが記録をつけています」
「あの猫族なら、記録は問題ないだろう」
「ボルガムさんも、かなり真剣でした」
「だろうな」
ラグネルは小さく笑った。
「面白い。そぼろ瓶の次はリュナメルか」
「店を広げるつもりはないようですが、扱うものは広がっています」
「それが良い店だ」
ラグネルは保管室の奥から、一枚の古い名刺のような木札を取り出した。
「温室区画に、古い知り合いがいる。偏屈だ。金持ち相手でも平気で断る」
「紹介状ですか?」
「紹介状ではない。入口だ」
ラグネルは木札をセリオラへ渡した。
「これを渡せ。あとは、あの若造たちが話せるかどうかだ」
セリオラは木札を受け取る。
「ラグネルさんは行かないのですか?」
「必要なら行く」
「興味があるんですね」
「ある」
ラグネルは隠さなかった。
「リュナメルを育てられる料理人がいるなら、会う価値がある」
「もう会っていますよね」
「厨房で会っていない」
セリオラは少し笑った。
「なるほど」
その頃、オルゼンの店では、ボルガムが裏庭の小さな苗をじっと見ていた。
クィナスがその様子を帳簿に書く。
『リュナメル栽培記録。発芽四粒。ボルガム、沈黙して観察。今日は水やりなし。土の湿り気良好』
オルゼンは隣に立ち、苗を見る。
「育ちそうか?」
「育てる」
ボルガムは短く言った。
それは、いつもの大声ではなかった。
だが、強い言葉だった。
「ここじゃ無理だと言っただろ」
「ああ。だから場所を探す」
「セリオラさんが動いてくれる」
「助かる」
「珍しいな。短いな」
ボルガムは少しだけ笑った。
「こういう時は、喋りすぎると土が乾く気がする」
「関係あるのか?」
「気分だ」
クィナスが帳簿に書き足す。
『ボルガム発言。喋りすぎると土が乾く気がする。根拠不明』
「それは書かなくていい!」
「店の記憶なので」
「便利すぎるぞ、その言葉!」
オルゼンは笑いながら、まだ小さなリュナメルの芽を見た。
夜そぼろ瓶は売れた。
店の名前も少し広がった。
だが、次はまた別の話だ。
肉の瓶詰めではなく、六粒の種。
今すぐ金になるものではない。
むしろ、金も手間もかかる。
それでも、育てる価値がある。
商売とは、今日売れるものだけを見る仕事ではない。
来年、数年後、いつか店の棚に並ぶかもしれないものに、今から手をかける仕事でもある。
オルゼンは小さな芽を見ながら言った。
「温室、借りに行くか」
クィナスの耳が立つ。
「交渉ですね」
「そうだ」
ボルガムも頷いた。
「俺も行く」
「もちろんだ」
「リュナメルの話なら、俺が行かねえと駄目だ」
その言葉に、オルゼンもクィナスも何も言わなかった。
ただ、頷いた。
店の裏庭に、四つの小さな芽がある。
まだ頼りない。
まだ商品にはならない。
まだ客に見せることもできない。
けれど、その芽は確かに、次の商売の始まりだった。




