第055話:赤い扉の向こうで問われたもの
最後の挨拶先を出た時には、空の色がすでに夕方へ傾き始めていた。
朝のうちは薄く白んでいた街路も、今は建物の隙間へ長い影を落とし、屋根の縁には冷えた光が細く残っている。オルゼンは軽くなった木箱を持ち直しながら、閉じられた店先の扉へもう一度だけ頭を下げた。今日回った場所は、これで最後だった。
三日目までにほとんどの挨拶を終え、残っていた数件も今日一日で回り切った。仕入れ先では、新店舗が開けばこれまでより食材の量が増える可能性を話しつつ、すぐに無理を頼むつもりはないと伝えた。倉庫では保管場所の使い方を改めて確認し、工事に関わってくれた者には、完成した建物がどれほど助けになっているかを言葉へした。客を紹介してくれた者、初めての店がまだ不安定だった頃に信用だけで品を回してくれた者、料理を食べて率直な感想をくれた者、騒ぎが起きた際に近隣へ余計な話が広がらないよう動いてくれた者。
どこへ行っても、同じように瓶を渡し、同じように礼を言ったわけではなかった。
ボルガムに言われた通り、何を助けてもらったのかを一つずつ思い出し、その時のことを自分の言葉で伝えた。相手によっては、昔の話を今さら持ち出すなと照れくさそうに笑われた。逆に、よく覚えていたなと驚かれたこともある。中には瓶を受け取りながら、新店舗が落ち着いたら家族で食べに行くと約束してくれた者もいたし、無理をしすぎるなと店主であるオルゼンの体調を先に心配する者もいた。
一日ごとに木箱は軽くなっていったが、胸の内側には、店が自分たちだけで出来上がったのではないという実感が重く残っていった。
新店舗を持つということは、広い厨房と客席を得るだけではない。
これまで繋がってきた縁を、もう一度自分の手で確かめることでもある。
今日の最後に訪ねた相手は、古くから商業区の裏手で小さな運送業を続けている男だった。表通りに店を構えるほど大きな商会ではないが、急な荷や、普通の運送業者が嫌がる細かな時間指定にも応じてくれたことがある。最初の店を始めた頃、オルゼンがまだ荷の量も時間の読み方も分からず、必要な食材を夕刻近くになって頼んだ際、文句を言いながらも荷車を出してくれた相手だった。
男は限定そぼろ瓶を受け取ると、蓋の布を指で押しながら笑った。
「まさか、あの小さな店がこんなに早く大きくなるとは思わなかった。最初に会った時のお前は、店主というより、店へ置いていかれた客みたいな顔をしていたからな。荷の置き場所を聞いても、厨房の端でいいとか、空いているところでいいとか、そんな曖昧なことしか言わなかった」
「そこは今でも少し言われるけどな。何をどこへ置くかは、ほとんど周りが決めてくれている」
「それを笑って言えるようになったなら、前よりはましだ。全部を自分で決めることだけが店主の仕事じゃない。決められる奴へ任せて、最後に責任を持つのも仕事だ。ただし、任せた後で知らなかったとは言うなよ。広い店は、小さい店より見えない場所が増える。見えないから任せたつもりになると、そのうち誰も全体を見なくなる」
「分かってる。だから今回も、店の人間には休んでもらって、挨拶だけは俺一人で来たんだ」
「それでいい。隣に口の達者な奴がいたら、こういう話もそいつへ向けてしまうからな。今日のお前は、ちゃんと店主の顔をしている」
褒められたのか、昔よりましだと言われただけなのか分からず、オルゼンは苦笑した。それでも礼を言い、開店日が決まったら改めて知らせると約束して、店を出た。
扉が閉じる音を背に聞きながら、オルゼンは木箱の蓋を開けた。
中にはもう何も残っていない。
三十個用意していた限定そぼろ瓶は、すべて渡し終えた。木箱の底には、瓶が動かないよう詰めていた布だけが残っている。初日には肩へ食い込むほど重く感じた革紐も、今ではほとんど負担にならなかった。
「これで終わりか」
誰へ聞かせるでもなく呟くと、白い息がわずかに浮かび、すぐに消えた。
新店舗の設備搬入も、予定より順調に進んでいると昼頃に連絡が入っていた。大型の炉と保管庫はすでに入り、明日には棚と客席の配置へ移るという。クィナスからは、現場へ寄ろうとせず、そのまま休むよう念を押されている。ボルガムもおそらく店へ行きたいのを我慢しているだろうし、カイルは言葉通り昼まで寝ているか、結局どこかの食堂へ顔を出して料理を見ているかもしれない。レイシャとメルフィアは植物園へ行くと言っていた。ミレイユは茶葉を自分のために選ぶと話していたが、どれほど仕事を切り離せているかは分からない。クィナスについては、休むと宣言していたものの、本当に何もしていない姿が想像できなかった。
帰れば、自分も久しぶりに早く眠れる。
そう考えた時、オルゼンはふと、表通りへ戻る道から外れていることに気づいた。
最後の訪問先が商業区の裏手にあったため、来た道をそのまま戻れば大きな通りへ出られるはずだった。ところが考え事をしながら歩いていたせいか、見覚えの薄い細い路地へ入り込んでいる。両側には古い倉庫や、裏口だけを向けた商家が並び、頭上には洗濯物を干すための綱や、建物同士を繋ぐ細い橋が渡されていた。
人通りはほとんどない。
夕刻の鐘が遠くで鳴っているのに、この路地だけは音が壁へ吸われるように静かだった。表通りなら、荷車の軋みや客を呼ぶ声、店じまいのために木板を下ろす音が聞こえてくる時間である。だがここには風の音すら薄く、オルゼン自身の靴底が石畳へ触れる音だけが、不自然なほどはっきり響いていた。
「こんな道だったか」
足を止めて振り返る。
背後には、曲がってきたはずの角がある。戻ろうと思えば戻れる。迷ったといっても、街の中だ。少し歩けば知っている通りへ出るだろう。
それでもオルゼンは、なぜかその場で帰る気になれなかった。
路地のさらに奥、建物と建物の間へ挟まれた暗がりの中に、赤いものが見えたからである。
最初は、壁へ掛けられた古い布かと思った。
だが近づくにつれ、それが扉の形をしていることが分かった。
周囲の建物は灰色の石と褪せた木材ばかりで、窓枠も扉も長い年月に色を失っている。その中で、奥に立つ扉だけが、ひどく鮮やかな赤を保っていた。塗り直したばかりのような艶はない。むしろ何度も雨風へ晒されたように表面は落ち着いている。それでも色だけが褪せず、薄暗い路地の中で静かに浮かび上がっていた。
扉の左右に壁はある。
だが、おかしかった。
扉が取り付けられている場所には、本来なら建物が続いているはずだった。ところが上を見ても窓がなく、屋根らしい線も見えない。左右の石壁が狭く迫り、その隙間へ扉だけが立っているように見える。裏側へ回れそうな道もなく、建物の入口だと考えるにはあまりにも孤立していた。
オルゼンは木箱を足元へ置き、しばらくその赤い扉を眺めた。
「また、変なのを見つけたな」
口に出してみても、誰も答えない。
警戒すべきだと頭では分かっている。
見知らぬ扉へ近づく理由はない。ましてや、街の中で明らかに周囲から浮いたものだ。クィナスが一緒なら、触れる前に止めるだろう。ボルガムなら、正体が分かるまで余計なことをするなと長く説教するに違いない。レイシャは興味を持ちながらも周囲を調べ、ミレイユは所有者を探すべきだと言い、メルフィアは心配そうに後ろから見守るだろう。
だが今、ここにいるのはオルゼン一人だった。
そして、扉の中央より少し下にある鍵穴を見た瞬間、彼の意識は過去へ引かれた。
三叉の道。
あの時、どちらへ進むべきか迷い、選んだ先で拾った鍵。
使い道の分からないまま、何となく捨てる気にもなれず、ずっと持ち歩いていた鍵。
オルゼンは外套の内側へ手を入れた。普段使いの鍵束とは別の場所へしまってある。新店舗の鍵でも、倉庫の鍵でも、古い店の鍵でもない。何を開けるものか分からないため、必要になるはずがない。それなのに、荷物を整理するたび捨てずに戻してきた。
指先へ、冷たい感触が触れる。
取り出した鍵を見下ろし、それから赤い扉の鍵穴へ目を向ける。
大きさだけを見れば、合う可能性はあった。
「まさかな」
そう言いながら、心のどこかでは、最初からこのための鍵だったのではないかという考えが浮かんでいた。
なぜ三叉の道で拾ったのか。
誰が落としたのか。
なぜ今まで使い道がなかったのか。
答えは何一つ分からない。
オルゼンは扉の前まで歩いた。近くで見ると、赤い表面には細かな傷が幾つも走っていた。人の手が触れた跡にも見えるし、枝や獣の爪で引っかかれた跡にも見える。取っ手は冷たく、扉の向こうからは何の音も聞こえない。
鍵を差し込む。
驚くほど抵抗なく、奥まで入った。
オルゼンは息を止めた。
少し力を加えると、鍵は滑らかに回った。内部で重い金具が外れる音が一度だけ響き、その音は狭い路地ではなく、どこか広い空間の奥へ吸い込まれていったように聞こえた。
「本当に開くのかよ」
今さらになって、手を離すべきだと思った。
だが扉は、オルゼンが押す前に、ごくわずかに内側へ開いた。
隙間から漏れたのは、室内の灯りではなかった。
薄い青と、金色のような光。
それから、冷たいのか温かいのか判断できない風が頬を撫でた。冬の街の風とは違う。花のような甘い匂いと、雨上がりの土、乾いた紙、遠い海、燃え残った薪の煙、それらが同時に混ざったような、懐かしいのに思い出せない匂いだった。
扉の向こうには、壁も床も見えない。
ただ光だけが揺れている。
オルゼンは背後を振り返った。
路地は変わらずそこにある。木箱も足元へ置かれたままだ。戻ろうと思えば今すぐ戻れる。
普通なら、戻るべきだった。
見知らぬ場所へ一人で入る理由などない。
それでもオルゼンは、開いた隙間の奥へ一歩踏み出した。
足裏が何かへ触れる。
石ではない。土でも木でもない。柔らかいようで沈まず、硬いようで音がしない。二歩目を進めたところで、背後の扉が静かに閉じた。
オルゼンはすぐに振り返り、取っ手へ手を伸ばした。
だがそこにあったのは、赤い扉ではなかった。
彼の背後には、果ての見えない草原が広がっていた。
空は夜とも昼ともつかない色をしている。高いところでは濃い藍が渦を巻き、地平線へ近づくほど白金色に薄れていた。星のような光が浮かんでいるが、どれも瞬かず、ゆっくりと位置を変えている。大地には膝ほどの高さまで淡い草が生え、風が吹くたび、葉先から青い光の粒がこぼれた。
遠くには山があった。
いや、山に見えたものが、本当に山なのかは分からない。幾つもの巨大な影が重なり、その一部が時折、呼吸するように上下している。別の方角には湖らしい鏡面が見えたが、水面は空を映さず、こちらとは違う夜景を映していた。草原の上には細い道が一本だけ続き、白い石が一定の間隔で並んでいる。
オルゼンは立ち尽くした。
風はある。
匂いもある。
足元の草へ触れれば、確かな感触が返る。
夢にしては鮮明すぎる。
現実にしては、あまりにも現実から外れていた。
「扉はどこだ」
振り返っても何もない。
鍵はまだ手に握っている。
それだけが、ここへ来た証拠だった。
オルゼンはしばらく周囲を見回した後、白い石の並ぶ道へ足を向けた。ほかに目印がない以上、立ち止まっていても何も変わらない。道があるなら、どこかへ続いているはずだ。
歩き始めると、草は足へ触れる前に左右へ避けた。白い石は近くで見ると、それぞれ違う形をしている。丸いもの、細長いもの、割れた器のようなもの。その表面には文字に似た線が刻まれていたが、読もうとすると形が変わり、意味を掴む前にただの傷へ戻った。
道の先には、小さな丘があった。
その頂上へ、何かが座っている。
最初は、大きな袋か、丸まった獣かと思った。近づくにつれ、それが生き物であることが分かった。
身体は犬ほどの大きさで、全体を淡い灰色の毛が覆っている。だが頭には鹿のような短い角が三本あり、耳は兎のように長く、尾は魚のひれに似ていた。前脚は二本、後脚も二本あるものの、座り方は人間に近く、膝らしい部分へ前脚を置いている。
何より不思議なのは、顔だった。
目が一つしかない。
額の中央へ大きな目があり、その下に小さな口がある。鼻らしいものは見当たらない。その一つ目は、オルゼンが近づくにつれてゆっくり開き、深い緑色の瞳を覗かせた。
生き物は、オルゼンを見ても驚かなかった。
むしろ待っていたように、長い耳を一度だけ揺らした。
「遅かったね」
声は口から出たようにも、直接頭の中へ響いたようにも聞こえた。子供にも老人にも、男にも女にも感じられる声だった。
オルゼンは足を止める。
「俺を待っていたのか」
「君を待っていたのか、扉を開ける誰かを待っていたのか、それは同じようで少し違う。けれど、今ここにいるのが君なら、待っていたのは君ということになるのかもしれないね」
「分かるように話してくれないか」
「分かる話だけを聞きたいなら、ここまで来ない方がよかったよ」
生き物はそう言って、口元をわずかに曲げた。笑ったのかもしれない。
オルゼンは警戒しながらも、完全に敵意を向けることはできなかった。相手から危険な気配は感じない。もっとも、この世界そのものが普通ではない以上、自分の感覚が役に立つかどうかも分からない。
「ここはどこなんだ」
「名前を付ければ、そこへ固定されてしまう。だから名前はない。扉と扉の間でもあり、道から外れた者が一度だけ立ち止まる場所でもあり、拾われなかった選択が流れ着く岸でもある」
「余計に分からなくなった」
「分からないままでも困らないよ。君はここへ住みに来たわけではないから」
「戻れるのか」
「戻る場所を持っているなら」
生き物はそれだけ答え、丘の上から立ち上がった。立っても大きさはほとんど変わらない。尾のひれが風もないのにゆっくり揺れ、三本の角の先には淡い光が灯った。
「君は鍵を持ってきたね」
オルゼンは手の中の鍵を見た。
「三叉の道で拾った。これが何の鍵かは知らなかった」
「知らない鍵を捨てなかった」
「捨てる理由もなかったからな」
「使い道のないものを持ち続けるのは、理由がないだけでは難しいよ。人は荷物が増えると、役に立たないものから捨てたがる。君はそれを、役に立たないと決めなかった」
「ただ忘れていただけかもしれない」
「忘れていたものを、必要な時に取り出せる場所へ入れていた。それは本当に忘れていたと言えるのかな」
生き物の問いに、オルゼンは答えなかった。
確かに、鍵の存在を毎日意識していたわけではない。それでも荷物を整理する時には必ず目に入り、捨てるかどうかを一度考え、結局戻してきた。意味があると思っていたわけではない。ただ、まだ意味がないと決まったわけでもないと感じていた。
「お前は、この鍵が何を開くか知っていたのか」
「鍵は扉を開く。けれど、同じ鍵が同じ扉だけを開くとは限らない。君が開いたのは赤い扉だった。別の誰かなら、井戸の底かもしれないし、鏡の裏かもしれない。もしかすると、何も開かなかったかもしれない」
「じゃあ、俺がここへ来たのも偶然なのか」
「偶然という言葉は便利だね。理由が見つからない時、考えるのをやめるために使える。運命という言葉も便利だ。理由が多すぎる時、すべてを一つへまとめられる。君はどちらが好き?」
「どっちも、あまり信用していない」
「それはいい答えだ。でも正解ではない」
「答えがある質問だったのか」
「質問にはいつも答えがあるよ。ただし、正解があるとは限らない」
生き物は丘から下り、オルゼンの周囲をゆっくり歩いた。足元の草は避けず、その身体をすり抜けるように揺れている。実体があるのかないのかすら分からない。
オルゼンは目で追いながら尋ねた。
「俺をここへ呼んだのは、お前なのか」
「呼んだつもりはないよ。扉は、開けられる時に現れる。鍵は、使われる時まで鍵でいる。君が見つけ、君が開け、君が入った。それを誰かに呼ばれたことにするなら、君は自分で選んだ分まで他人へ渡すことになる」
「ずいぶん面倒な言い方をするな」
「簡単な言い方もできるよ。君は自分で来た」
「それだけでよかっただろ」
「それだけでは、君が納得しない顔をしていたからね」
生き物はオルゼンの正面へ戻り、一つ目を細めた。
「君は店を作っている」
「知っているのか」
「君が持っているものを見れば、少しは分かる。料理の匂い、木と石の粉、たくさんの人が触れた布、渡したものがなくなった箱。君は今日、誰かへ何かを渡してきた」
オルゼンは足元へ置いてきたはずの木箱を思い出した。ここへ入る前、路地に残したままだ。扉が消えた以上、戻った時にある保証もない。
「礼の品を渡してきた。新しい店を始める前に、世話になった人へ挨拶していたんだ」
「渡したのは瓶だけ?」
「瓶だけじゃない。今までの礼と、これからの話もした」
「では、受け取ったのは何?」
オルゼンは少し考えた。
相手から新しい品を受け取ったわけではない。
だが、言葉は受け取った。
店を続けるための忠告。
開店を待っているという約束。
昔の自分がどう見えていたかという話。
それぞれの場所で積み重なった信頼を、もう一度確認する時間。
「言葉と、これからも繋がっていられるっていう安心かもしれない」
「それは目に見えないね」
「見えないものの方が、商売には多い」
「面白いことを言う。商売は目に見えるものを渡して、見えないものを受け取るの?」
「金は見えるけど、それだけじゃない。物を売れば代金は受け取る。でも、次も来るか、誰かへ話してくれるか、困った時に助けてくれるか、逆にこっちが相手を助けたいと思うか。そういうのは形にならない」
「では、君は見えないものを数えられる?」
「正確には無理だな」
「それでも店を続ける?」
「続ける」
「なぜ?」
「数えられないから無いことにはならないからだ」
その答えを聞いた生き物は、しばらく黙った。
一つ目の奥で、深い緑の光が揺れている。風が止まり、草原全体がオルゼンの言葉を待っているように静かになった。
やがて生き物は、満足したのか失望したのか分からない調子で口を開いた。
「君は変な人だね」
「よく言われる」
「褒めてはいないよ」
「それもよくある」
生き物の口元が再びわずかに曲がった。
「では、君に一つ問いをあげよう」
「問いを、あげる?」
「持ち帰れるものが何もないと、君はここへ来たことを夢にしてしまう。だから答えではなく、問いを持ち帰るといい。問いは荷物にならないのに、長く残るから」
「難しいものはやめてくれ」
「簡単なものほど難しいよ」
生き物は丘の頂上へ戻り、三本の角を空へ向けた。その先の光が強くなり、藍色の空へ細い線が伸びる。周囲の星のような光が、その線へ引かれるように集まり始めた。
それから、静かに問うた。
「持っている時には渡せず、渡した後に初めて持っていたと分かるものは、何?」
オルゼンは眉を寄せた。
なぞなぞのような問いだった。
だが、すぐに答えが浮かぶほど単純ではない。
金や品物ではない。持っている間に渡せる。
言葉も違う。話せばその場で渡せる。
約束、信頼、時間、思い出。
どれも当てはまりそうで、完全には合わない。
「一つだけ答えがあるのか」
「君の答えが一つなら、一つ。いくつもあるなら、いくつも。けれど、何を答えても、その答えは君が持っているものを映す」
「今すぐ答えろってことか」
「今でも、ずっと後でもいい。ただし、答えを知った時には、もう渡した後かもしれない」
「随分不親切だな」
「問いは親切である必要がないよ。答えを急がせない方が、長く役に立つこともある」
オルゼンは黙った。
『持っている時には渡せず、渡した後に初めて持っていたと分かるもの』
頭の中へ、今日会った人々の顔が浮かぶ。
瓶を渡した時、相手から返ってきた言葉。
昔の小さな店。
今はまだ空の新店舗。
一緒に働く仲間たち。
それぞれが休みを過ごしている時間。
祖母のこと。
クィナスの言葉。
ボルガムの経験。
ミレイユの茶。
レイシャとメルフィアが見つけたもの。
カイルが少しずつ覚えていること。
何かが繋がりそうで、まだ形にならない。
「分からない」
正直にそう答えると、生き物は不思議そうに首を傾けた。
「分からないのに、困った顔をしていないね」
「今すぐ答えが必要な問いじゃないんだろ」
「そうだね」
「なら、持ち帰って考える」
「持ち帰れるなら」
その言葉と同時に、草原の光が大きく揺れた。
丘の背後に、赤い扉が現れた。
最初に見たものと同じようで、少し違う。扉は壁へ付いておらず、草原の中へ一枚だけ立っている。向こう側から光が漏れているわけでもないのに、輪郭だけが鮮明だった。
「帰る扉か」
「君がそう思うなら」
「鍵は必要なのか」
オルゼンは手の中を見た。
そこにあったはずの鍵が、いつの間にか消えていた。
指は握った形のままなのに、何もない。
「鍵がないぞ」
「使ったからね」
「一度使えばなくなるものだったのか」
「鍵は役目を終えた。なくなったのか、別の形になったのか、それは君が決めればいい」
「また分かりにくいことを言うな」
「分かりやすく言うなら、もう同じ扉は開けられない」
「ここへは二度と来られないのか」
「来たい?」
オルゼンはすぐには答えなかった。
不思議な場所だった。
危険を感じたわけではない。
だが、気軽に何度も訪れたい場所でもない。
ここは、何かを得るために来る場所ではなく、何かを持っていることへ気づかされる場所なのかもしれない。そう考えると、必要な時にしか現れないというのも、何となく理解できる気がした。
「今は、戻りたい」
「なら扉を開けるといい」
オルゼンは赤い扉へ近づいた。
取っ手へ手を掛ける前に、もう一度だけ生き物を振り返る。
「お前の名前は?」
「名前を聞くのは、また会いたい者か、忘れたくない者がすることだね」
「どっちかは分からない。ただ、何も知らないまま別れるのは落ち着かない」
生き物は一つ目を細め、長い耳を風へ揺らした。
「では、好きに呼べばいい。名前は呼ぶ側が必要とするものだから」
「自分の名前くらい、自分で持っていないのか」
「持っている時には渡せず、渡した後に初めて持っていたと分かるものかもしれないよ」
「それ、答えなのか」
「さあね」
生き物は笑った。
今度は、はっきり笑ったように見えた。
オルゼンはそれ以上聞くのを諦め、扉の取っ手を握った。
赤い扉は軽く開いた。
向こう側には暗い路地が見えた。
見覚えのある石壁。
冷たい夕方の空気。
足元へ置いた木箱。
オルゼンは一歩踏み出した。
次の瞬間、背後で扉が閉じる音がした。
すぐに振り返る。
赤い扉はなかった。
そこには古い石壁があるだけだった。
扉の痕跡も、枠も、鍵穴もない。壁は長い間そこにあったように煤け、細かな亀裂へ埃が溜まっている。オルゼンは手を伸ばして触れた。冷たく、硬い。押しても動かない。
「……消えた」
外套の内側へ手を入れる。
鍵もない。
しまっていた場所は空だった。
落とした可能性を考え、足元を探す。だが石畳には何もない。木箱の下、壁際の隙間、外套の内側、腰の袋。どこを探しても、三叉の道で拾った鍵は見つからなかった。
オルゼンは路地の中央へ立ったまま、しばらく動けなかった。
時間はどれほど経っているのか。
夕方だったはずの空は、まだ同じ色をしている。遠くでは、先ほど聞いたものと同じような鐘の余韻が残っていた。異界で長く話していた気もするし、扉へ入ってすぐ戻っただけのようにも感じる。
夢だったのか。
立ったまま、一瞬眠っていたのか。
挨拶回りの疲れで幻を見たのか。
そう考えれば、説明はつくのかもしれない。
だが鍵は消えている。
そして鼻の奥には、あの場所の匂いがまだ残っていた。花、雨上がりの土、乾いた紙、遠い海、燃え残った薪。それぞれが混ざった、懐かしいのに思い出せない匂い。
足元の木箱を持ち上げた時、底へ詰めていた布の上に、小さな青い光が一粒だけ落ちているのが見えた。
指を近づける。
触れる前に、光は消えた。
跡は残らない。
「夢、だったのか」
口に出してみる。
言葉にすれば、そうだったような気もする。
けれど、夢ではなかったようにも思える。
答えを決めるには、どちらの証拠も足りなかった。
オルゼンは石壁から離れ、路地を戻り始めた。今度は迷うことなく、少し歩いただけで表通りへ出た。人の声、荷車の軋み、店じまいの音、焼いた肉の匂い。さっきまでの静けさが嘘だったように、街はいつも通り動いている。
人々は誰も、オルゼンがどこから出てきたのか気にしていない。
赤い扉を見た者もいない。
不思議な生き物の声も聞いていない。
彼だけが、問いを持ち帰った。
『持っている時には渡せず、渡した後に初めて持っていたと分かるもの』は、何か。
帰り道、何度考えても答えは出なかった。
時間かもしれない。
心かもしれない。
信頼かもしれない。
別れかもしれない。
あるいは、もっと単純なものかもしれない。
オルゼンは空になった木箱を持ちながら、自分が今日渡したものを思い返した。そぼろ瓶、礼の言葉、新店舗の報告、今後も付き合っていきたいという意思。
それらを渡した後、自分が何を持っていたと知ったのか。
答えはまだ見えない。
だが、問いだけは妙に鮮明だった。
新店舗へ戻ると、建物は暗く、扉には搬入中を示す札が掛けられていた。中へ入らないという約束を守り、オルゼンは道の向かいからしばらく建物を眺めた。
壁の向こうには、今日までに運び込まれた炉や調理台がある。
数日後には仲間たちが戻り、また忙しい日々が始まる。
その時、自分は何を渡し、何を受け取るのだろう。
店を持つということは、何かを抱え込むことではなく、渡し続けることなのかもしれない。料理を渡し、場所を渡し、役目を渡し、信頼を渡す。そして渡して初めて、自分がそれを持っていたことへ気づく。
そこまで考えたところで、オルゼンは首を横へ振った。
「いや、まだ決めるのは早いな」
答えを急がない方がいい。
あの生き物も、そう言っていた。
オルゼンは空の木箱を抱え直し、自宅へ向かって歩き始めた。
背後の新店舗は何も言わない。
夜の街も、赤い扉のことを知らない。
そして、三叉の道で拾った鍵は、どこにもなかった。
残っているのは、夢だったのか現実だったのか分からない記憶と、一つの問いだけだった。
それでもオルゼンは、完全に何も持ち帰らなかったとは思えなかった。
見えないものは、数えられないからといって、無いことにはならない。
そう自分で答えたばかりなのだから。




