第056話:特殊温室で実り始めた三つの月
設備の搬入を任せている業者から、予定よりあと二日ほど納期を延ばしたいという連絡が届いたのは、オルゼンが挨拶回りを終えてから一晩明けた朝のことだった。
大型炉と保管庫の固定までは終わっているものの、客席側へ入れる照明用魔道具の一部に調整が必要となり、それに合わせて壁沿いの棚と茶を扱う区画の給湯管も、最終位置をわずかに変えた方が安全だという。工事責任者の説明によれば、無理に当初の予定へ収めることも不可能ではないが、作業を急げば床材へ傷を付ける可能性があり、配管と照明の点検も十分にできなくなる。新店舗を長く使うことを考えれば、二日という遅れを受け入れた方がよいとの判断だった。
オルゼンも、その提案に異論はなかった。
開店前の二日を惜しんで、使い始めてから何度も修理を入れる方が困る。ましてや湯を扱う場所と照明用の魔道具が近い区画なら、見た目以上に安全を優先する必要がある。クィナスへ連絡を回したところ、返ってきたのは「納期より完成状態を優先してください。追加費用が発生する場合は内訳を確認しますが、作業を急がせる理由はありません」という、いかにも彼女らしい迷いのない返答だった。
これで、完全な休日は当初の三日から、結果として五日ほどに延びることになった。
もっとも、オルゼンにとって最初の三日は挨拶回りでほとんど終わっている。ようやく予定のない時間ができたとも言えるが、いざ何もすることがなくなると、それはそれで落ち着かなかった。
自宅の居間で、業者から届いた連絡紙を机の上へ置き、空になった贈答用の木箱を壁際へ寄せた後も、オルゼンはしばらく椅子へ座ったまま動けずにいた。窓の外には穏やかな朝の光が差し込み、通りを行き交う人の声も遠く聞こえてくる。新店舗へ顔を出すことは禁止されている。倉庫の整理も、仕込みも、販売の準備も必要ない。クィナスからは、休みの間に仕事を探すなとまで言われている。
ならば、残りの二日をどう過ごすべきか。
久しぶりに何も考えず眠るのもいい。
街を歩くのもいい。
どこかで食事を取り、他の店の料理を客として楽しむのも悪くない。
しかし頭の中へ浮かぶのは、設備が入った後の厨房のことや、持ち帰り商品の置き場所、ミレイユの茶をどの位置へ並べるか、客席と会計の流れをどう分けるかといったことばかりだった。休むために仕事を忘れようとすると、かえって普段より鮮明に思い出してしまう。
「二日って、意外と長いな」
独り言が静かな部屋へ落ちた。
つい昨日まで、時間はいくらあっても足りないと感じていたはずなのに、いざ自由に使ってよいと言われれば持て余す。店を始める前は、一日をどう過ごしていたのか。それすら少し思い出しにくくなっている。
オルゼンは椅子の背へ身体を預け、天井を見上げた。
その時、玄関の扉を叩く音がした。
一度ではない。間を置きながら、重くはっきりと三度。急かすような叩き方ではないが、聞き逃すはずもない力が込められている。
この叩き方には覚えがあった。
「開いてるぞ、ボルガム」
扉の向こうへ声を掛けると、すぐに取っ手が動いた。入ってきたボルガムは外套の肩へ朝の冷気を残し、片手には折り畳んだ連絡紙を持っていた。休日らしく厨房用の前掛けは着けていないものの、腕や肩の厚みは普段と変わらず、狭い玄関に立つだけで空間が一段小さくなったように見える。
「マスター、勝手に入っていいと言われたから入ったが、今の声だけで本当に開いてるか分かるのは、俺くらいじゃねぇのか。誰にでも同じことを言うなよ。店ならともかく、自宅まで出入り自由にしてたら、いつか要らねぇ面倒を呼び込む」
「お前だと思ったから言ったんだよ。その叩き方をする奴、他にいないだろ」
「そういうことならいいが、聞き分けられるって自信も当てにしすぎるな。人間は慣れた音ほど確認しなくなる。厨房でも、いつもの足音だと思って振り返らずに包丁を渡したら、別の奴だったなんてことがある。顔を見る、声を聞く、相手が誰か確かめる。面倒でも、怪我や盗難を防ぐ基本は大抵そういう小さい確認だ」
「朝から長いな。まだ茶も淹れてないぞ」
「茶を飲ませてもらうつもりで来たわけじゃねぇ。だが、あるなら断らねぇ」
ボルガムはそう言いながら、すでに居間へ入っていた。
オルゼンは苦笑しつつ湯を沸かし、手元にあった簡素な茶葉を二人分淹れた。ミレイユが選ぶ茶のように香りが幾重にも広がるものではないが、朝の冷えた身体を温めるには十分である。木の杯を机へ置くと、ボルガムは礼を言い、すぐには飲まず、まず持ってきた連絡紙を広げた。
「休みの最中に悪いが、これは放っておくより、見に行った方がいい話だ。特殊温室を管理しているイェルミナから連絡が来た。リュナメルの実が実り始めたらしい」
オルゼンは、杯へ伸ばしかけていた手を止めた。
「もうか?」
「俺も最初はそう思った。普通のリュナメルなら、枝が安定してから実が揃うまで、もう少し時間がかかる。育て方や土の状態によって前後するが、少なくとも、植えて間もない温室で全体の実が同じように育ち始めるのは早い。だが今回は普通の株だけじゃねぇ。白月種と緋月種を一緒に育ててる。イェルミナも、その二種が周囲へ何らかの影響を与えている可能性を考えてるらしい」
白月種。
種の色が白銀がかり、果実は淡い乳白色から薄い金色へ育つ特殊なリュナメル。甘さそのものは控えめだが、一般種より香りが強く、菓子や香料への利用が期待されている。果肉を加熱した際に香りがどれほど残るか、皮や種に使い道があるかは、まだ十分に調べられていない。だが香りを重視するセリオラなら、特に強い関心を示すだろうと以前から話に出ていた。
緋月種。
赤褐色の種から育ち、実は赤みを帯びた橙色になる。一般種より酸味が強く、甘味は奥へ引く。生食よりも肉料理や酒、保存加工へ向き、火を通した時に酸味がどう変化するかによっては、ボルガムが作る高級そぼろ瓶や肉料理にも使える可能性がある。
二種とも、同じリュナメルでありながら性質は大きく異なる。
特殊温室で育て始めた当初から、普通の株へ何らかの影響が出る可能性は考えていた。だが病気や生育の偏りではなく、実りの時期や果実の大きさへ影響するとは、まだ誰も予想していなかった。
オルゼンは連絡紙を引き寄せた。
そこにはイェルミナの簡潔な筆跡で、一般種を含む複数の株に実がつき始めたこと、実の成長速度が従来の記録より揃っていること、一部の株では花の咲く間隔に明確な波が見られることが記されていた。収穫直前ではない。まだ実り始めた段階だ。それでも、今後を左右する変化としては十分に大きい。
「花の咲く間隔に波があるっていうのは、どういうことだ」
「俺も直接見たわけじゃねぇから断定はできないが、イェルミナの書き方を見る限り、一本の枝で一斉に花が咲いて全部終わるんじゃなく、一定の間隔を置いて次の花がついてるらしい。普通の果樹でも、気候や枝の状態で開花がずれることはある。だが今回は、そのずれ方が乱れてるんじゃなく、整ってる。最初の実がある程度育った頃に次の花が開き、その次も同じ程度の間隔で続くなら、一度収穫して終わりじゃなく、定期的に実が取れる可能性がある」
ボルガムは杯を手へ取り、一口だけ茶を飲んでから続けた。
「料理人の側から見ると、これは味より先に供給の話になる。珍しい実が一度だけ大量に取れるより、少量でも一定の間隔で入ってくる方が料理へ組み込みやすい。特に新店舗で常設の料理や瓶詰めへ使うなら、収穫時期にしか作れねぇ品にするのか、それとも一年の中で何度か仕込める品にするのかで、客への伝え方も保存の考え方も変わる。緋月種が肉料理へ使えるとしても、一度しか実らねぇなら季節限定にするしかない。だが定期的に入るなら、量を見ながら高級そぼろ瓶の一部へ使える。香りの強い白月種も同じだ。セリオラが菓子や香料へ使うにしても、最初に多く取れて後が続かないなら試作で終わる。逆に少しずつでも周期が読めるなら、商品として育てられる」
「普通のリュナメルまで一定の大きさで揃っているっていうのも、二種の影響かもしれないんだよな」
「そこが一番気になる。果実の大きさが揃うってのは、見た目がいいだけじゃない。火の入り方、切り分けた時の歩留まり、瓶へ詰める量、乾燥させる時間、その全部が揃いやすくなる。料理人からすれば扱いやすい。だが自然に育つ実が揃いすぎる時は、喜ぶ前に理由を見た方がいい。栄養が均等に回ってるのか、花粉の影響なのか、特殊種の根や香りが周りへ作用してるのか。揃ってるから優良とは限らねぇ。見た目は同じでも、中の種が弱くなってることもあるし、実へ栄養を寄せすぎて木が消耗してる可能性もある。最初の収穫だけ良くて、次の季節に枝が枯れるなら、定期的どころか一度きりだ」
「だから、確認に行くんだな」
「そういうことだ。イェルミナ一人でも観察はできるが、育てる側と使う側では見る場所が違う。あいつは枝、葉、根、土の状態を見る。俺は実を切った時の密度や香り、皮の厚さ、酸味の出方を考える。マスターは全体を見て、今後どこまで店へ関わらせるか判断する。今すぐ収穫するわけじゃないが、実り始めの段階だからこそ見えることもある。完成した実だけ見ても、どう育ったかは後から分からねぇからな」
オルゼンは連絡紙をもう一度読んだ。
残り二日をどう過ごすか考えていたところへ届いた話としては、あまりにも都合がよい。休日らしさは薄れるが、新店舗の工事へ立ち会うわけではない。特殊温室の状況確認は急を要する可能性があり、何より、以前から関わってきたリュナメルが新たな段階へ進んだのなら、自分の目で見ておきたかった。
「行こう。今日はイェルミナのところへ行って、実際に見た方がいい」
「そう言うと思った。ただし、先に言っておくぞ。見に行ったその場で、全部を料理へ使う話まで進めるなよ。マスターは珍しいものを見ると、どう売るかより、誰と何を作れるかを先に考える。それ自体は悪くねぇ。だが果実は、実ったから完成じゃない。木が次も実らせられるか、収穫してからどれだけ持つか、切った後に香りや色がどう変わるか。最低でもそこまで見ないと、定番へするか限定へするかも決められねぇ」
「分かってるよ。今日は確認だけだ」
「その言葉を、イェルミナの前でも覚えておけ。あいつは研究の話になると止まらねぇし、マスターは面白そうだと思うと聞き続ける。二人で話を広げすぎると、俺が現実へ戻す役になる。休みの日までそれをやるのは構わねぇが、昼を抜くのだけはやめろよ」
「お前も十分乗るだろ。緋月種が肉に合いそうだって分かったら、絶対長くなる」
「俺は料理へ使う条件を話すだけだ。何にでも入れたがるわけじゃねぇ。酸味が強い果実は、肉を柔らかくすることもあるが、使い方を誤ると表面だけ崩れて中が締まる。甘味と違って、酸は入れた量より、入れる時点で働きが変わる。下処理へ使うのか、煮込みの途中へ入れるのか、仕上げへ香りを残すのか。緋月種がどの種類の酸味を持ってるかで全部違う。だから俺は、実が育っただけで高級そぼろ瓶へ入れるとは言わねぇ。ただ、可能性があるなら、枝についてるうちから考えておく。それが作る側の準備だ」
結局、茶を飲み終えた後、二人はそのまま特殊温室へ向かうことになった。
特殊温室は街の中心から少し離れた場所にある。通常の農園よりも外気の影響を受けにくいよう、厚い透明板と魔力を通す骨組みで囲われ、内部の温度、湿度、光量、土の水分を細かく調整できる。珍しい植物や、異なる環境から持ち込まれた種を育てるための施設であり、管理を任されているイェルミナは、植物の変化を見逃さないためなら一日中でも葉の裏を眺めていられるような人物だった。
街路を抜け、畑と低い作業小屋が増え始める頃には、朝の冷気も少し和らいでいた。
ボルガムは歩きながらも、リュナメルについて話し続けた。
「一般種の実が一定の大きさへ揃うなら、まず重さだけじゃなく、枝ごとの数を見た方がいい。一本へ少数しかつかず、栄養が集中したから揃ってるだけなら特殊種の影響とは限らねぇ。逆に実の数が以前と変わらず、それでも大きさが揃ってるなら、花の段階で何かが選別されてる可能性がある。弱い花が落ちて、育つものだけが残ってるのかもしれない。そうなると木の負担は減るが、収穫数は少なくなる。店で使う立場からすれば、形が揃っても数が半分なら計画は変わる」
「でも、定期的に次の実がつくなら、一度の収穫数が少なくても補えるんじゃないか」
「周期が安定してればな。そこがまだ分からねぇ。最初の実、次の花、その次の芽が見えたからといって、同じ間隔が一年続くとは限らない。温室の中は季節を緩くできるが、木そのものが持つ休む時期まで消せるわけじゃねぇ。むしろ実らせ続けるなら、どこかで意図的に休ませる必要があるかもしれない。働かせれば働かせるほど多く取れると思うと、木も人間も壊れる。そこは似てるぞ。実がついたから次もすぐ咲かせよう、さらに次もと欲を出すと、最初は応えても後で枝が細くなる。定期的に実る性質が本当にあるなら、その周期へ乗るのであって、無理に縮めるもんじゃない」
「クィナスに聞かせたいな。休ませる話なら、俺より素直に聞くかもしれない」
「聞かねぇだろうな。自分と木は違うと言って終わる。だが、同じじゃなくても似た理屈はある。働く期間と蓄える期間が交互にあるから、次も動ける。店だってそうだ。仕込んで売って、売り切った後に記録して休む。その間へ設備を整え、次の材料を用意する。毎日同じ力で続けられると思う方が無理がある」
「休みの日に仕事をする俺たちが言うと、説得力は弱いけどな」
「今日は異常の確認だ。遊びじゃねぇが、通常営業でもない。それに、俺は料理を作りに行くわけじゃない。見る、聞く、必要なら触る。それだけだ。休みってのは、寝て動かねぇことだけじゃない。普段とは違う頭を使う日でもいい。ただし、戻ってから仕込みを始めるようなら止めるぞ」
「まだ実り始めたばかりなら、仕込みようがないだろ」
「マスターは実がなけりゃ葉や皮の話を始めるかもしれねぇからな」
「俺を何だと思ってるんだ」
「使えそうなものを見つけると、捨てずに持ち帰る奴だと思ってる」
その言葉に、オルゼンはふと三叉の道で拾った鍵を思い出した。
赤い扉。
扉の向こうの草原。
奇妙な生き物。
持っている時には渡せず、渡した後に初めて持っていたと分かるもの。
あれが夢だったのか、現実だったのかは、今も分からない。鍵は消え、扉もなくなった。だが問いだけは残っている。
オルゼンは一瞬だけ足を緩めたが、ボルガムへその話をすることはなかった。
まだ自分の中でも整理できていない。夢かもしれない話を、どう伝えるべきかも分からない。何より、今はリュナメルを見るために歩いている。赤い扉の記憶は胸の奥へ戻し、目の前の道へ意識を戻した。
特殊温室へ着くと、入口の外ですでにイェルミナが待っていた。
作業用の外套を着込み、長い髪を後ろでまとめ、片手には板へ挟んだ記録紙を持っている。待ちきれず何度も温室の方へ視線を向けていたらしく、二人の姿を見つけると、挨拶より先に歩み寄ってきた。
「来てくれて助かったわ。連絡へ書いた以上に変化が出ているの。最初は二本だけだと思っていたけれど、今朝確認したら一般種のほぼ全部で、実の大きさが一定の範囲へ収まり始めていた。それだけじゃない。白月種と緋月種の周囲で、開花の間隔が揃っている。偶然というには、位置との関係がはっきりしすぎているのよ」
「まず中を見せてくれ。話は実物を見ながら聞いた方がいい」
ボルガムが言うと、イェルミナはすぐに頷き、温室の扉を開いた。
内部へ入った瞬間、外とは違う湿り気を含んだ空気が全身を包んだ。暖かすぎるほどではない。だが土と葉の匂いが濃く、透明板を通した光が柔らかく拡散し、外の冬を忘れさせる。
入口近くには作業台と水の調整器があり、その奥へ複数の植栽区画が並んでいる。
リュナメルの木は、中央より少し奥の広い区画へ植えられていた。
一般種を囲むように、白月種と緋月種が少し距離を空けて配置されている。以前見た時には、どの木も葉を増やし、枝を伸ばしている段階だった。だが今は、枝の下へ小さな実が幾つもついていた。
一般種の実は、まだ成熟前の淡い緑色をしている。
それでも、確かに大きさが揃っていた。
一つ一つを見ればわずかな差はある。しかし小さすぎるものや、逆に不自然に大きく膨らんだものがほとんどない。枝の先と根元近くで比べても、成長段階が近く、丸みまで似ている。
オルゼンは最も近い木の前へしゃがみ、実へ触れないよう注意しながら覗き込んだ。
「前に見た時より、ずいぶん揃ってるな。本当に同じ型へ入れたみたいだ」
「そう見えるでしょう。でも形を整える処置は何もしていない。摘果も、選別も、枝ごとの栄養調整もしていないわ。むしろ変化を記録したかったから、普段なら落とす弱い花も残していた。それなのに、弱かった花の一部が自分で落ちて、残った実だけがほぼ同じ速さで育っている」
イェルミナは記録紙を開き、日付と枝番号を示した。
「最初に花がついたのは、この区画の一般種が先。白月種と緋月種は少し遅れた。ところが特殊種の花が開いた後、一般種で新しく咲いた花の結実率が急に揃い始めた。全部が実になったわけではないの。むしろ、つく花と落ちる花がはっきり分かれた。その結果、枝へ残った実の大きさが一定になっている」
ボルガムは一本の枝を下から見上げ、実と実の間隔を確かめた。
「数は減ってるか」
「最初の見込みより一割から二割ほど少ない。ただし、未成熟のまま落ちる実がほぼないから、最終的な収穫数は以前と大きく変わらない可能性があるわ。普通は花が多くついても、途中で実が止まるものが出るでしょう。今回は早い段階で残るものが決まり、その後の成長が揃っている」
「なら木が、育て切れる数を先に選んでるような状態かもしれねぇな。人間が摘果するより早く、自分で余分を落としてる。そうなら実の大きさが揃う説明にはなる。だが、その判断へ特殊種が関わってる理由はまだ分からねぇ」
「根の影響、花粉の影響、香りの影響。その三つを考えているわ」
イェルミナは白月種の方へ歩いた。
白月種の木には、一般種よりやや細い葉がつき、その表面は光の角度によって白銀色に見えた。実はまだ小さいものの、すでに色が違う。淡い乳白色の表皮へ、ごく薄い金色が内側から滲んでいるようだった。
近づいただけで、わずかな香りがした。
果実が成熟する前とは思えないほど、甘く柔らかな匂いがある。砂糖のような強い甘さではない。花、温めた乳、乾いた木、淡い蜜。それらを薄く重ねたような香りが、実そのものではなく葉や枝を含む周囲全体から漂っている。
オルゼンは驚いて息を吸った。
「まだこれだけ小さいのに、もう香るのか」
「実だけではないわ。葉の裏にも香りがある。ただし、一般種の近くで感じる香りとは少し違う。白月種の枝へ近づくほど強くなるけれど、温室全体へ薄く広がっている。香りに反応して花の開き方が変わる植物はある。だから一般種の開花周期へ影響した可能性はあると思っている」
ボルガムは鼻だけで判断せず、周囲の葉の状態をじっくり見た。
「香りが強いからって、実まで甘いとは限らねぇ。むしろ香りが先へ立つ果実は、口へ入れた時の甘味が弱く感じることもある。だが菓子へ使うなら、砂糖を増やさず香りを出せるのは強い。セリオラが見たら、たぶん実より先に葉の乾燥を試したがるだろうな。香りだけを移せるなら、果肉を大量に使わずに済む。ただし葉に刺激や苦味がある可能性もあるから、そこは安易に口へ入れられねぇ」
「セリオラへ連絡するのは、もう少し待った方がいいか」
オルゼンが尋ねると、イェルミナは少し悩んだ。
「見てもらいたい気持ちはあるわ。彼女なら香りの変化を私より細かく捉えられるでしょう。でも、今はまだ成熟前で、触れられる試料が少ない。興味を持って来てもらっても、枝から取れない状態では観察だけで終わるかもしれない。それでも構わないなら、早めに知らせる価値はあると思う」
「知らせるだけ知らせて、来る時期はセリオラに任せよう。今の段階から見たいなら来るだろうし、試料が取れるまで待つならそれでもいい」
「その伝え方ならいい。ただし、白月種は菓子や香料へ向きそうだと、こっちで決めつけすぎるなよ、マスター。香りが強いから可能性があるだけで、熱へ弱ければ焼き菓子では飛ぶ。逆に冷たい菓子なら残るかもしれねぇ。酒へ漬けた時だけ変わる可能性もある。セリオラがどう見るかは、あいつへ任せた方がいい」
「分かってる。興味を持ちそうだって伝えるだけにする」
次に三人は、緋月種の区画へ移った。
こちらは葉の色が一般種より濃く、枝にもわずかに赤みがある。種の色を思わせる赤褐色が、木全体の細部へ薄く現れていた。実は赤みのある橙色へ変わり始めており、まだ熟していないにもかかわらず、一般種より明確な色を持っている。
香りは白月種ほど遠くへ広がらない。
だが近づくと、鼻の奥へ細い刺激が届いた。柑橘にも似ているが、もっと土っぽく、若い酒のような鋭さもある。
ボルガムは緋月種の実を長く眺めた。
「皮が少し厚そうだな」
「触れて比べた限りでは、一般種より弾力がある。成熟すると薄くなるのか、そのままなのかはまだ分からないわ」
「厚い皮が悪いとは限らねぇ。酸が強い実なら、皮に香りや苦味が集まってる可能性がある。肉料理へ使うなら果肉だけじゃなく、皮を乾かして香辛料のように使えるかもしれない。逆に皮が硬くて香りも弱いなら、歩留まりが悪くなる。酒や酢へ漬けるなら皮ごと使えるかもな。だが一番大事なのは、酸味の角だ。舌へ刺さるだけの酸なら、肉へ使っても味を壊す。口の中で後から甘味へ変わる酸か、香りと一緒に抜ける酸か、火を入れると丸くなる酸か。その違いで使い道はまったく変わる」
ボルガムは実へ手を伸ばしかけ、触れずに止めた。
「高級そぼろ瓶へ使うなら、肉の脂を切り、食後を軽くする方向が一番分かりやすい。だが酸を足せば高級になるわけじゃねぇ。普通のそぼろ瓶が食事へ使いやすい味なら、高級品は珍しい材料を入れるだけじゃなく、食べた時に明確な違いがなければならない。香り、余韻、肉の柔らかさ、冷めた後の脂の感じ。緋月種がそこへ働くなら価値がある。名前だけで特別に見せるのは簡単だが、食えば分かる差を作れなけりゃ、限定品を名乗る意味がない」
「まだ味見もしていないのに、もうそこまで考えるのね」
イェルミナが半ば呆れ、半ば感心したように言うと、ボルガムは当然のように答えた。
「枝で育ってる時から使い方を考えるのは、別に早すぎねぇ。むしろ、収穫してから考え始める方が遅いこともある。酸が強そうなら、試す肉の部位を今から決められる。脂の多い肉、筋の強い肉、香りの弱い肉。それぞれで反応が違う。瓶詰めにするなら加熱後の色も見る必要がある。赤みのある橙が茶色へ沈むのか、油へ色が移るのか、保存中に苦味が出るのか。試験する項目を先に並べておけば、収穫した実を無駄にしない。珍しい材料ほど量が少ないんだから、取れてから思いつきで切るより、一本ごとに目的を決めた方がいい」
「それなら、最初の収穫分は用途を分けて確保しましょう。白月種も緋月種も、すべてを一度に切らず、一部は生の状態、一部は加熱、一部は乾燥、一部は保存へ回せるようにする。種も捨てない。皮も分ける」
イェルミナは記録紙へ新しい項目を書き足しながら言った。
オルゼンは二人の話を聞きつつ、一般種の列へ戻った。
そこでは、最初の実がついた枝の少し上に、新しい花が咲いていた。
一つの枝に、実と花が同時にある。
さらに先端には、まだ固く閉じた蕾が見える。
実、花、蕾。
成長段階の違うものが、一定の間隔を空けて並んでいた。
「これが、定期的に実るかもしれないって話か」
イェルミナも隣へ来て、その枝を指した。
「そう。最初の実が膨らみ始めてから、新しい花が開くまでの間隔が、今のところ九日から十一日ほどに収まっている。木によって多少違うけれど、大きくは外れていない。さらに、その次の蕾も同じ程度の間隔で育っている。もしこれが続くなら、一度に全部を収穫するのではなく、十日前後ごとに一定量を取れる可能性がある」
「十日ごとに実が取れるなら、かなり安定するな」
「収穫までの成長期間もあるから、開花が十日ごとでも、実際の収穫は別の周期になるわ。ただ、最初の群れが成熟した後、次の群れ、その次の群れと続くなら、収穫が完全に途切れない。温室の環境を一定に保てれば、従来の季節ごとのまとまった収穫から、複数回へ分かれた収穫へ変わる可能性がある」
ボルガムは枝の付け根と幹の太さを見た。
「木の負担はどうだ。葉の色が薄くなったり、枝の伸びが止まったりしてねぇか」
「今のところ、目立った消耗はない。ただし最初の周期だから、木が蓄えていた力で進んでいるだけかもしれない。二回目、三回目の実が育ち始めた時に、葉の色、根の吸水量、土の栄養消費を比較する必要がある。だから私は、定期的に実る性質が現れた可能性はあるけれど、まだ確定ではないと考えている」
「それでいい。最初から定期収穫できるって決めると、その前提で欲が出る。店側が月に何個必要だとか、瓶を何本作れるとか言い始めれば、育てる側へ無理な数を求める。まず木が自然に続けられる周期を知る。その後で、俺たちが使える量を合わせるべきだ。材料を店の都合へ曲げすぎると、最初は回っても長く続かねぇ」
オルゼンは頷いた。
「なら、新店舗へ使う話は、最初の収穫と二回目の開花が安定してからだな。一般種も、揃って育つことが一度だけなのか、次も続くのか見たい」
「それが妥当ね。ただ、一般種の果実が一定の大きさへ揃う現象は、白月種と緋月種の両方がある区画で強く出ている。片方だけに近い木では、少し弱い。そこが面白いの」
イェルミナは別の記録紙を取り出し、簡単な配置図を見せた。
中央に一般種。
一方へ白月種。
反対側へ緋月種。
両方からほぼ同じ距離にある一般種ほど、実の大きさと開花間隔が揃っている。白月種の近くでは香りが強まり、花の開き方が早い。一方、緋月種の近くでは実の色づきと皮の張りが早い。だが両方の影響が重なる中央では、成長そのものが急ぐのではなく、実の大きさが一定へ整えられているように見える。
「つまり、白月種が花の動きを整えて、緋月種が実の成長を支えている可能性があるのか」
オルゼンが言うと、イェルミナは目を輝かせた。
「私もそれを考えている。ただし、まだ仮説よ。白月種の香りが受粉や開花へ影響し、緋月種の根から出る何かが土を通じて果実の成長へ作用しているのかもしれない。逆に、二種が互いへ反応した結果、一般種がその中間の性質を示している可能性もある。花粉が混ざっているなら、次世代の種に変化が出るかもしれないけれど、今ついている実へここまで早く影響するなら、それだけでは説明しにくい」
「根が繋がってる可能性は?」
ボルガムが尋ねる。
「直接絡むほど近くは植えていない。でも、土の中の菌や細い根を通じて、影響が伝わっている可能性はある。特殊温室の土は区画ごとに仕切っているけれど、完全に隔離しているわけではないから」
「なら次に植える時は、仕切りを分けた区画も必要だな。白月種だけ、緋月種だけ、両方、一般種だけ。同じ土、同じ水、同じ光で比べる。手間は増えるが、原因を見たいなら避けられねぇ」
「ええ。それと、香りだけを通して根を分ける区画、根の影響だけを見て空気を分ける区画も欲しい。すぐには作れないけれど、今回の実が成熟するまでに小さな試験区画なら準備できる」
二人の話は完全に研究の段階へ入っていた。
オルゼンはしばらく黙って聞いていたが、ふと一般種の枝へ目を戻した。
実の大きさが揃い、次の花が定期的に開き、さらに蕾が待っている。
それは店にとって都合のよい変化に見える。
一定の大きさなら加工しやすい。
定期的に実るなら供給も読みやすい。
白月種と緋月種、それぞれの特殊な性質も、菓子、香料、酒、肉料理、保存加工へ広がる可能性がある。
だが同時に、ボルガムが言うように、都合がよいからこそ急いではいけない。
珍しい実を前にすれば、使い道を先に考えたくなる。
店へ並べる姿を想像したくなる。
しかし木にとっては、今が最初の実りだ。
この先も同じように続けられるかは、まだ誰にも分からない。
「イェルミナ、この実は、最初の収穫までどれくらいかかりそうだ」
「一般種は、今の成長が続けば三週間から四週間。白月種と緋月種は比較対象がないから断定できないけれど、色づきだけ見れば同程度か、少し遅い可能性がある。私は実の大きさだけで取らず、香り、皮の張り、種の成熟を見て判断したい」
「収穫する時は、全部一度に取らない方がいいな」
「もちろん。枝ごと、開花日ごとに分ける。一番早く育った実を少数だけ取り、残りは木の上での変化を見る。収穫後の保存も、常温、低温、乾燥、密閉で分けたい」
「一般種は、店へ使う分を最初から決めるより、まず全部を記録用へ回してくれ。量に余裕が出た分だけ、料理へ使う。特殊種も同じだ。新店舗が始まって忙しくなっても、この実を急いで商品にしない」
オルゼンがそう言うと、イェルミナは少し意外そうな顔をした。
「もっと早く使いたいと言うかと思っていたわ」
「使いたいよ。白月種はセリオラがどう見るか気になるし、緋月種をボルガムが料理へ使うところも見たい。一般種が揃うなら、瓶詰めや菓子に使いやすいのも分かる。でも、一度しか取れないなら、最初から定番にできない。定期的に実るとしても、木へ無理をさせてまで数を増やすつもりはない」
ボルガムがオルゼンを見て、わずかに口元を緩めた。
「マスターも、少しは待つことを覚えたな。前なら『一個だけなら味見できないか』って聞いてたところだ」
「そこまで我慢がないみたいに言うなよ」
「今も聞きたい顔はしてる」
「それはしてるけど、聞かないでいるだろ」
「なら上出来だ。珍しい材料を前にして、使わずに観察するのも料理のうちだ。食材を知るってのは、口へ入れた時だけじゃない。いつ実り、どこで香り、どの枝に残り、何日で色が変わるか。その全部が、後で火へ入れた時の答えへ繋がる。俺も早く切ってみたいが、未熟な実を一つ減らすより、成熟までの変化を残した方が、最初の一回は価値がある」
イェルミナは記録紙へ、オルゼンの方針を書き加えた。
「分かった。初回収穫は研究と試験を優先する。商品化は二回目以降の周期と木の負担を見てから。一般種の大きさが揃う現象については、白月種と緋月種の位置関係を含めて記録する。これで進めるわ」
「頼む。それと、セリオラには今日中に知らせよう。成熟前でも見たいなら、早めに来てもらう」
「私から連絡してもいい?」
「その方が話が早い。香りの状態や、今どこまで触れられるかも書いてくれ」
「ええ。彼女なら、実を取らなくても空気の香りを瓶へ移せないか考え始めるかもしれないわね」
「やりそうだな」
オルゼンが笑うと、ボルガムは真面目な顔で頷いた。
「セリオラならやる。だが、香りを閉じ込めるなら温度と時間を間違えると、白月種の柔らかい香りが青臭さへ変わるかもしれねぇ。あいつが来たら、そこは聞いておきたい。菓子に使うのか、香料へするのかで取る部分も変わる。果肉が育つ前の香りと、成熟した後の香りが同じとも限らない。早い段階から採るなら、木へ負担を掛けない方法も必要だ」
「師匠がいないのに、もうセリオラとの相談まで始まってるな」
「誰が師匠だ」
「カイルの真似をしただけだよ」
「似てねぇし、やめろ。お前にそう呼ばれると調子が狂う」
普段は堂々としているボルガムが、わずかに嫌そうな顔をしたため、イェルミナが吹き出した。温室の静かな空気へ笑いが広がり、張り詰めていた観察の雰囲気が少し緩んだ。
三人はその後も、一本ずつ木を見て回った。
一般種では、実の直径、枝ごとの数、葉の色、次の花の位置を確認した。白月種では、香りが強くなる時間帯と光の向きを調べ、葉の表と裏で香りに差があるかを記録した。緋月種では、実の色づき、皮の張り、枝の赤み、土の水分消費を比べた。
イェルミナによれば、白月種は朝から昼へかけて香りが強くなり、夕方には少し落ち着く。一方、緋月種は日中よりも夜間の吸水量が多く、実の張りも朝に強く出るらしい。両者の周期が異なることで、一般種の成長が一日を通じて均されている可能性もあった。
「白月種が昼に働き、緋月種が夜に支えてるようなものか」
オルゼンが言うと、イェルミナは考えながら頷いた。
「そう見える部分はあるわ。ただ、働くという言い方をすると意思があるように聞こえるけれど、植物同士の反応としては十分あり得る。昼に香りが広がって虫や空気の流れへ影響し、夜に根の吸水や土の成分が変わる。その両方が一般種へ重なることで、実が急に大きくなる時間と止まる時間の差が減っているのかもしれない」
ボルガムは腕を組み、温室全体を見渡した。
「もしそうなら、一定の大きさへ揃うのは、無理に成長を速めてるからじゃなく、成長の波を平らにしてるからかもしれねぇな。料理でも同じだ。強火だけで早く煮れば、外は崩れて中が硬い。弱火だけなら時間がかかりすぎる。火を入れる時と休ませる時を繰り返すと、中まで均等に入ることがある。白月種と緋月種が違う時間に働き、一般種がその間で休まず急がず育つなら、形が揃うのも分かる」
「植物を煮込みへ例えるのはボルガムくらいね」
「俺は料理人だからな。自分が分かる形へ置き換えて考える。だが例えは答えじゃねぇ。似てるだけで同じじゃない。そこを間違えると、理解したつもりになる。イェルミナが数値で確かめ、俺は使う時の条件を考える。マスターは、両方を聞いて店へ入れる時期を決める。それぞれが自分の分かるところだけで全部を決めない方がいい」
オルゼンはその言葉を聞きながら、一本の一般種へ目を向けた。
実と花と蕾。
三つの段階が、一つの枝へ並んでいる。
収穫して終わりではない。
次がある。
その次もあるかもしれない。
だが続くからといって、急いで取ればよいわけではない。
一つを育てる間にも、次の準備が進み、木は見えないところで力を使っている。
店も、どこか似ているのかもしれない。
古い店を続けながら、新店舗を作った。
販売を止めずに、別の場所でそぼろ瓶を売った。
設備を入れる間に休み、その休みの中で挨拶を回り、今は新しい実りを見ている。
何かが終わってから次が始まるのではなく、終わりと始まりは少しずつ重なっている。
オルゼンは、赤い扉の向こうで聞いた問いを思い出した。
持っている時には渡せず、渡した後に初めて持っていたと分かるもの。
答えはまだ出ない。
だが目の前の枝を見ていると、答えは一つではないのかもしれないと思えた。
実が育っている時、木は何かを蓄えている。
実を落とし、種を渡した後に初めて、何を持っていたかが次の芽として見える。
それが問いの答えなのかは分からない。
今はまだ、決めなくてよかった。
温室での確認を終えた頃には、昼を少し過ぎていた。
案の定、三人とも時間を忘れていたらしく、ボルガムが入口近くの光の角度を見て、ようやく気づいた。
「ほら見ろ。話を広げると昼を越えると言っただろうが。マスターもイェルミナも、枝一本へ話を始めると周りが見えなくなる。今日は確認だけのつもりが、試験区画の話まで進んでるじゃねぇか」
「一番長く話していたの、ボルガムじゃないか?」
「俺は必要なことを説明してた。マスターは途中で実と花を眺めたまま黙ってたし、イェルミナは記録を三枚増やしてる。俺だけのせいにするな」
「私は管理者だから記録するのが仕事よ。それに、あなたが肉料理への使い方をあれだけ話したから、保存試験の項目も増えたの」
「使えるかもしれねぇ実を見て、酸味と皮の話をしない料理人の方が無責任だ。だが今から食うものは、リュナメルじゃなく普通の飯にするぞ。未熟な実を見続けた後で腹が減ると、判断を誤る。果実を一つくらい取ってもいいか、なんて言い出しかねない」
「それはボルガム自身の話だろ」
「俺も含めて言ってるんだ」
ボルガムは隠しもせずに言い切った。
イェルミナは作業台を片づけながら、二人へ昼食を出そうかと申し出た。温室の管理棟には、長時間の作業へ備えて簡単な保存食が置かれているという。しかしボルガムは、管理用の食料を三人で減らすより、帰りに街道沿いの食堂へ寄った方がいいと断った。
「こういう場所の食料は、急に外へ出られなくなった時のために置いてある。食えるからって普段から減らすと、本当に必要な時に足りなくなる。俺たちは歩けば店へ行けるんだから、そっちで食えばいい。それにマスターは休み中だ。せめて昼くらい、誰かが作ったものを客として食わせた方がいい」
「ボルガムも同じだろ」
「俺は客で食っても、火の入り方や塩の使い方を見る。完全に仕事を忘れるのは無理だ。だが自分で作らず、人が作ったものをそのまま受け取る時間は必要だ。料理人は作る側に立ち続けると、食う側の待ち時間や量の感じ方を忘れる。席へ座り、注文して、来るまで待ち、最後に代金を払う。そこで初めて見える不便もある。休みなら、なおさら客へ戻った方がいい」
イェルミナは笑いながら二人を見送った。
「今日の記録は夕方までに整理して、セリオラへ連絡する。白月種と緋月種、それから一般種の周期について、次の変化が出たらすぐ知らせるわ」
「頼む。新店舗が始まっても、連絡はクィナスか俺へ回してくれ。忙しいから後で、とはしない」
「マスター、そこは先に全部自分で受けようとするな。クィナスへも同時に送ってもらえ。お前だけが知って、話すのを忘れたら意味がねぇ。管理する者が全部の情報を一人で抱えると、本人は責任を持ってるつもりでも、周りから見れば詰まってるだけになる。イェルミナ、連絡はマスターとクィナスの両方へ。料理の試験へ入る段階になったら俺にも直接くれ」
「分かったわ。最初から三人へ同じ内容を送るようにする」
「そこまで言わなくても忘れないよ」
「忘れるかどうかじゃねぇ。共有する仕組みを、個人の記憶へ任せるなって話だ。店が大きくなるなら、マスターが覚えてるから大丈夫で済ませる範囲を減らせ。人は忙しくなれば必ず抜ける。俺も抜けるし、クィナスだって一人で全部は持てない。忘れない人間を目指すより、忘れても届く形を作る方が長く続く」
オルゼンは反論しかけたが、結局頷いた。
「分かった。イェルミナ、両方へ頼む」
温室を出ると、外の空気は中よりずっと冷たく感じられた。
二人は来た道を戻りながら、街道沿いの食堂へ向かった。歩き出してしばらくは、どちらも黙っていた。温室で見たものが多すぎて、頭の中で整理する時間が必要だった。
やがてオルゼンが口を開いた。
「残り二日、どう過ごすか考えてたけど、結局こうなったな」
「不満か?」
「いや。何もしないより、見に行けてよかった。新店舗が始まる前に、次へ繋がるものを確認できた気がする」
「なら今日はそれでいい。ただし明日は休め。リュナメルの記録を自分でまとめようとするなよ。イェルミナがやる。セリオラへの連絡もあいつが送る。マスターが戻ってからできることはない。明日まで仕事を増やす理由にするな」
「お前はどうするんだ」
「俺も休む。だが緋月種を使う時の試験項目くらいは頭の中で整理する。紙へ書くかもしれねぇが、それは店の仕込みじゃない。料理人が材料を見て考えるのまで止めたら、休み明けに頭が鈍る」
「それ、クィナスと同じ言い訳じゃないか」
「違う。あいつは仕事を終わらせるために休みを使おうとする。俺は休んでる間に勝手に考えるだけだ。期限も提出先もない。思いつかなきゃ何もしねぇ。そこは大きく違う」
「本人が聞いたら、かなり言い返されそうだな」
「聞かせるなよ。俺は休みの日にまでクィナスと議論したくねぇ。あいつは理屈を組むのが速いから、こっちが料理の例を一つ出す間に、費用と人員と事故の可能性まで並べてくる。話す価値はあるが、腹が減ってる時にやる相手じゃない」
「それは分かる」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
食堂へ着く頃には、昼の混雑も少し落ち着いていた。
店の隅へ座り、煮込みと焼いた平パンを頼む。料理が届くまでの間、ボルガムは本当に客の立場へ戻ったように、席の間隔や注文の取り方、店員が盆を運ぶ動線を見ていた。だが口には出さず、料理が来るとまず香りを確かめ、それから静かに食べ始めた。
オルゼンも、出された煮込みを口へ運んだ。
温室で見た緋月種の酸味を思い出し、この肉へ少し加えたらどうなるかと考える。だがすぐに、今日は客として食べるのだというボルガムの言葉を思い出し、目の前の味へ意識を戻した。
煮込みは素朴で、塩気は強くない。
肉は柔らかく、豆と根菜が多い。
新店舗で出す料理とは違う。
それでも、歩いた後の身体にはよく合った。
食べ終える頃には、残り二日をどう使うかという焦りは薄れていた。
今日、見たものがある。
白月種の淡い乳白色。
緋月種の赤みを帯びた橙色。
一定の大きさへ揃い始めた一般種。
実と花と蕾が並ぶ枝。
それらはまだ、商品ではない。
料理でもない。
店の利益にもならない。
ただ、これから何かへなっていく途中のものだった。
オルゼンは、それで十分だと思った。
翌日、何も起きなければ休めばいい。
何か考えが浮かんでも、すぐ形へしなくていい。
新店舗も、リュナメルも、急いだから良くなるものではない。
定期的に実るなら、その間隔を知る必要がある。
一定の大きさへ揃うなら、何がそうさせているのかを確かめる必要がある。
特殊種の力が一般種へ影響しているなら、それは利用する前に理解しなければならない。
食堂を出る時、ボルガムは空を見上げた。
「明日は本当に休めよ、マスター。設備が二日遅れるくらいで店は逃げねぇし、実も明日いきなり全部熟すわけじゃない。待つ時間に何も起きてないように見えても、中では進んでる。今日見た枝がそうだったろ。実が育ってる横で花が咲き、その先で蕾が待ってる。全部を同時に収穫しようとすれば、どれも駄目になる。今やることと、後でやることを分けるのは、怠けることじゃない」
「分かったよ。明日は休む」
「その返事を信じる。だが一応、夕方に様子を見に来るかもしれねぇ」
「それじゃ、お前も休めてないだろ」
「マスターが本当に休んでるか確認したら、俺も安心して休める」
「面倒な友人だな」
「店を始めた頃のお前を知ってるからな。何もない日に何かを探し始める癖も知ってる。だが、今日みたいに本当に見る価値があるものなら付き合う。そうじゃないなら止める。そのくらいは友人としてやる」
ボルガムはそう言って、オルゼンの肩を一度だけ叩いた。
力は強かったが、不思議と嫌ではなかった。
二人は街へ戻る道の途中で別れた。
オルゼンは一人になってから、特殊温室のある方角を振り返った。透明な屋根は遠く、畑の向こうへわずかに光っている。
その中では今も、一般種の実が同じ大きさへ育ち、白月種の香りが薄く広がり、緋月種の根が夜へ向けて水を吸う準備をしているのだろう。
最初の収穫は、まだ先だ。
けれど実りは、もう始まっている。
新店舗も同じだった。
扉を開けて客を迎える日はまだ来ていない。
それでも炉は入り、棚は並び、仲間たちはそれぞれ休みながら次へ備えている。
始まりとは、誰かが声を上げた瞬間だけを指すものではないのかもしれない。
見えないところで少しずつ揃い、次の花が開き、さらにその先で蕾が膨らむ。
そうして十分に整った時、人はようやく始まったことへ気づく。
オルゼンは家へ戻り、机の上に残っていた設備業者からの連絡紙を折り直した。
残り二日。
今度こそ、何かを埋めるためではなく、次に動くための空白として使えばいい。
窓を開けると、外から冷たい風が入り込んだ。
温室の香りはもうしない。
だが白月種の柔らかな匂いと、緋月種の鋭い気配、枝へ並ぶ三つの時間は、まだ鮮明に胸へ残っていた。
オルゼンは椅子へ腰を下ろし、何も書かれていない紙を一枚だけ机へ置いた。
そこへ予定を書くことはしなかった。
明日は休む。
そして次に特殊温室を訪れる時、リュナメルがどこまで育っているのかを楽しみに待つ。
その待つ時間もまた、実りの一部なのだと思えた。
申し訳ありませんが、7月最終日にメインパソコンが壊れたので、現在機種を選んでいます。
用意できたら再開する予定です。




