第047話:冬に咲く、小さな約束
工事が本格的に床へ入る前日。
厨房では朝から全員が慌ただしく動いていた。
大鍋の中では、ゆっくりと煮詰められたそぼろが艶を帯びている。
今回だけは一種類。
肉本来の旨味を最大限に引き出した、特別仕様だった。
エインから届いた肉は、やはり別格だった。
脂は重くない。
噛むほどに甘みが広がり、それでいて後味は驚くほど軽い。
ボルガムは鍋をゆっくり混ぜながら満足そうに笑う。
「やっぱり良い肉ってのは面白ぇな。味が濃いだけじゃねぇんだ。火を入れた時の香りも違えば、脂の溶け方も違う。同じ調味料を使っても肉が勝手に答えを出してくれる。料理人ってのは結局、素材にどれだけ助けてもらえるかなんだよ」
カイルは真剣な顔で鍋を見つめる。
「師匠はいつも肉を見ただけで火加減を変えてますよね」
「変えるさ」
ボルガムは笑う。
「全部同じ温度で作る奴ぁ、肉と会話してねぇ。今日は少し優しく火を入れた方がいいとか、今日は脂が早く溶けるなとか、毎回違うんだ。だから料理は飽きねぇんだよ」
クィナスも瓶を並べながら会話へ加わる。
「だから私は料理ができないんでしょうね。帳簿なら数字は毎日同じように積み重なってくれますけど、お肉は昨日と今日で機嫌が違うなんて考えたこともありませんでした」
「数字にも癖はあるだろ」
「ありますよ」
クィナスは笑う。
「売上も客足も季節も全部理由があります。でも数字は必ず痕跡を残します。料理は目で見て覚える世界、帳簿は数字で読む世界です。結局どちらも積み重ねなんでしょうね」
オルゼンは二人のやり取りを聞きながら瓶を拭いていた。
この二人は、本当によく話す。
しかも話の中に経験がある。
だから聞いていて飽きない。
夕方までには百八十本すべての瓶詰めが終わった。
蓋を閉める。
一本ずつ布で拭く。
ラベルを貼る。
最後に全員で並べて確認する。
メルフィアが思わず声を漏らした。
「綺麗ですね……」
棚いっぱいに並んだ瓶は、それだけで商品というより作品に見えた。
クィナスが帳簿へ本数を書き込む。
「百八十本、確認しました」
オルゼンは頷く。
「じゃあ運ぼう」
荷車へ慎重に積み込み、全員でラグネルが管理する大型倉庫へ向かう。
案内してくれたのはエインだった。
「こちらです」
倉庫は街の流通区域にあり、温度管理用の魔導設備まで備えられている。
「ここなら安心ですね」
レイシャが静かに周囲を見る。
エインも頷いた。
「ラグネル様からも預かっています。『工事が終わるまで好きに使って構わない』とのことです」
オルゼンは深く頭を下げる。
「本当に助かります」
「いえ」
エインは穏やかに笑った。
「皆さんの商品は保管状態も品質の一部です。ここなら安心してお客様へ届けられるでしょう」
ボルガムは倉庫を見回しながら感心する。
「いやぁ、さすがだな。冷え方が均一だ。こういう場所は肉だけじゃなく調味料まで長持ちする。保管場所って料理人は軽く考えられがちなんだが、本当は最後の仕上げみたいなもんなんだ」
全ての瓶を棚へ並べ終えると、オルゼンは少し肩の力を抜いた。
これで工事中も安心だった。
翌日。
工事は予定通り床の工事へ入る。
テイクアウト側は閉鎖され、入口も一部塞がれた。
販売側だけが営業する。
朝礼でオルゼンは全員へ伝える。
「工事が終わるまで、共同販売館への納品も止める」
クィナスが頷く。
「委託販売もですね」
「うん」
「無人販売棚も」
「全部止めよう」
カイルが少し驚く。
「そこまでですか」
オルゼンはゆっくり説明した。
「今は人も時間も工事へ合わせて動く時期だ。無理に全部続けると、どこかで品質が落ちる。それだけは避けたい」
クィナスも続ける。
「売上だけ見れば続けたい気持ちはあります。でも一番大事なのは信用です。一週間だけ待っていただく方が、無理をして期待を下回るよりずっといいと思います」
ボルガムも大きく頷く。
「料理人ってのは一回手を抜いたら、自分が一番それを覚えちまう。忙しかったからって理由で味を落としたら、次も同じ理由を作るようになる。だったら最初から休む勇気を持った方がいい」
その言葉に全員が納得した。
昼を少し過ぎた頃。
販売側の客足が途切いた時間だった。
入口の鐘が鳴る。
入ってきたのは旅装姿の男女だった。
男は三十代半ばほど。
日焼けした肌に落ち着いた笑み。
腰には剣ではなく、短い山刀が一本だけ下がっている。
その横へ並ぶ女性は背が高く、美しい姿勢で立っていた。
冬用の厚手の外套を羽織っているため身体の線までは見えないが、歩き方だけで無駄のない鍛え方をしていることが分かる。
二人とも旅慣れていた。
男が店内を見回し、オルゼンを見る。
「ここがオルゼン商店で間違いないかな」
「はい」
男は小さな木箱を差し出した。
「これを君へ渡してほしいと言われてね」
「私にですか」
「預かり物じゃない。譲るように頼まれた」
オルゼンは箱を受け取る。
開けると、小さな鉢植えが入っていた。
白い花。
中心だけが淡い青色。
冬だというのに、静かに咲いている。
その瞬間だった。
オルゼンの記憶がふと蘇る。
「……これ」
子どもの頃。
庭先。
小さな自分。
そしてエルマが毎朝話しかけていた花。
「まさか……」
思わず口をつく。
「蒼月花」
男が少しだけ驚いたように笑う。
「知っているのか」
「子どもの頃に見たことがあります」
「珍しいな」
男は感心したように頷く。
「今では知る人も少ない花だ」
オルゼンは静かに花を見つめる。
(ばあちゃんが大事にしていた花だ……)
だが、あの花とは少し違う。
花弁の縁が銀色に光っている。
男が続けた。
「これは普通の蒼月花じゃない」
「え」
「銀縁蒼月と呼ばれる亜種だ」
オルゼンはその名前を知らなかった。
男は穏やかに笑う。
「世界を旅していると、時々こういう出会いがある」
女性も静かに頷く。
「この花は持ち主を選ぶと言われています」
「俺たちは旅を続ける身だ」
男は花を見つめる。
「だから置いて育てられる人へ託した方がいいと思った」
オルゼンはゆっくり鉢を受け取った。
「大切に育てます」
男は満足そうに笑う。
「その言葉が聞ければ十分だ」
二人はそれ以上、自分たちのことを語らなかった。
ただの旅人。
そう名乗るだけだった。
だがオルゼンは知らない。
この二人が世界中の遺跡や秘境を巡る、名の知れた最上位クラスのトレジャーハンターであることを。
その事実を知る者は、この都市にもほんのわずかしかいなかった。




