第039話:小さな来訪者、大きな存在
翌朝。
営業が始まる前、クィナスは帳簿を小脇に抱えながらオルゼンへ声を掛けた。
「マスター、隣の建物について聞いてきますね。空き家なのは間違いないんですが、管理している方が少し変わっているらしいので、話だけでも聞いてきます」
「頼む」
「契約条件や家賃、それと改装が可能かどうかも確認してきます。良い返事だけ持って帰れるとは限りませんけど、交渉は嫌いじゃありませんから」
クィナスはそう言って笑い、軽く手を振りながら店を出て行った。
その背中を見送ると、オルゼンは販売側の棚へ向かう。
祭りや新商品の追加で少しずつ商品も増え、棚の配置も見直した方がいい頃合いだった。
「この辺は少し詰められるかな」
保存香料の瓶を並べ替え、小物を一段上へ移す。
珍しい加工品は目線の高さへ。
初めて来る客にも見つけやすいように少し配置を変える。
そんな作業を黙々と続けていた時だった。
勢いよく店の扉が開く。
鐘が大きく鳴り響き、通りへまで聞こえるほどの元気な声が飛び込んできた。
「おおーい! オルゼン! 元気にしとるかのぉぉぉ!」
あまりにもよく通る声に、店内の客まで思わず入口を振り返る。
オルゼンはその声を聞いた瞬間、小さく苦笑した。
「やっぱり来たか」
入口に立っていたのは、小柄な少女だった。
十歳前後にしか見えない。
肩まで伸びた銀色の髪。
翡翠色の瞳。
ゆったりした旅装を身にまとい、大きな杖を肩へ担いでいる。
見た目だけなら、どこにでもいる子どもだった。
ただし。
口を開かなければ、の話だ。
「なんじゃその顔は。久しぶりに会う婆に向かって、もっと嬉しそうな顔はできんのか?」
その喋り方だけが、どう聞いても長年生きてきた老人そのものだった。
店内にいた客が一斉に首を傾げる。
オルゼンは笑いながら近付く。
「相変わらず元気だね、ばあちゃん」
「当たり前じゃ。まだ二百年も三百年も生きる予定じゃからの」
「それは長生きだ」
「予定じゃ」
さらりと言って笑う。
誰も冗談なのか本気なのか判断できない。
オルゼンにとっては、昔から変わらない光景だった。
彼女の名は――エルマ。
血の繋がった祖母ではない。
オルゼンの祖母と長年親友だった女性で、祖母が亡くなってからも孫同然に面倒を見てきた存在だった。
だからオルゼンも昔から「ばあちゃん」と呼んでいる。
魔法に詳しい変わり者。
本人はいつもそう言っている。
だが、その正体を詳しく知る者はほとんどいない。
「ふむ」
エルマは店内を見回す。
「えらく繁盛しとるのぉ」
「みんなのおかげだよ」
「謙遜するでない。商売は人が集まる場所を作る者の勝ちじゃ」
その言葉には妙な重みがあった。
そこへ厨房からボルガムが顔を出した。
「マスター、ちょっといいか――」
言葉が止まる。
エルマと目が合った。
「……げ」
珍しく熊族の大男が固まる。
エルマは目を細めると、嬉しそうに近付いていく。
「おおお! でっかい猫がおるのぉ!」
「熊だ!」
「細かいことは気にするでない」
「細かくねぇ!」
豪快なボルガムが一歩下がる。
さらに一歩。
店の奥へ逃げようとする。
しかし。
「待て待て」
エルマはいつの間にか目の前へ立っていた。
誰も動きを見ていない。
「最近ちゃんと食っとるか?」
「食ってる!」
「睡眠は?」
「寝てる!」
「筋肉は減っとらんか?」
「減ってねぇ!」
「そうかそうか。よしよし」
そう言って遠慮なくボルガムの腕をぺしぺし叩く。
「ほぅ、まだ硬いのぉ」
「勘弁してくれ……」
ボルガムは心底困った顔をしていた。
オルゼンは思わず笑ってしまう。
「相変わらず苦手なんだ」
「苦手っていうか……この婆さんは別だ」
「何が別なんじゃ」
「全部だ」
その答えにエルマは満足そうに笑う。
そこへ共同販売館から戻ってきたクィナスが扉を開けた。
「ただいま戻りまし――」
言葉が止まる。
「おや」
エルマが振り返る。
「今度は細い猫がおる」
「猫族です」
「ほう、綺麗な毛並みじゃのぉ」
「ありがとうございます」
「触ってもええか?」
「……少しだけですよ」
そう言いながらもクィナスは苦笑していた。
耳を軽く撫でられる。
尻尾まで眺められる。
「ふむふむ」
まるで珍しい動物を見るように観察している。
クィナスは笑顔を保っているものの、少しだけ助けを求める視線をオルゼンへ送っていた。
「マスター」
「ごめん」
「笑ってないで助けてください」
「昔からこうなんだ」
「知りませんよ」
レイシャは販売棚の陰から静かに様子を見ている。
カイルは厨房から顔だけ出して、小声でボルガムへ聞いた。
「師匠」
「何だ」
「この人、そんなに怖い人なんですか」
ボルガムは真顔で答える。
「怖ぇ」
「でも何もしてませんよ」
「だから怖ぇんだ」
「え?」
「昔から笑って近付いてくる奴ほど、とんでもねぇ」
カイルはますます意味が分からなくなった。
エルマは一通り店内を見回すと、満足そうに頷く。
「ふむ」
その視線は店の隅々まで見ていた。
商品。
棚。
厨房。
人の動き。
客の流れ。
ほんの数分しか店に入っていないはずなのに、まるで全部を把握したような目だった。
「いい店になったのぉ」
その一言だけだった。
オルゼンは少し照れくさそうに笑う。
「まだまだこれからだよ」
「それでいい」
エルマは静かに頷いた。
「坂は登り切ったら終わりじゃ。登っとる間が一番面白い」
その言葉に、オルゼンは以前出会った三叉路のことを思い出した。
上り坂を選んだ、あの日のことを。
偶然なのか。
それとも。
エルマはそんなことを知るはずもない。
だが、その笑みは何かを知っているようにも見えた。
店内にはまた、いつもの賑わいが戻り始める。
しかし、その日だけは誰もが思っていた。
小さな身体なのに、なぜか店中の空気を全部持っていくような、不思議な来訪者だったと。




