第038話:足りないのは、人ではなく場所
メルフィアが正式に店へ来るようになってから、一週間ほどが過ぎた。
まだ試用期間という形ではあったが、誰も急かすことはなかった。
朝から夕方まで毎日来る必要もない。
予定がある日は休んでいい。
体調が優れない日は無理をしなくていい。
まずは店の流れを知ること。
それがオルゼンの考えだった。
最初にその話を聞いた時、メルフィアは何度も確認したほどだった。
「本当に……それでいいんでしょうか」
「もちろん」
オルゼンは笑って答えた。
「長く働いてもらう方が大事だから」
「でも、普通は……」
「無理して体調を崩したら意味がない」
そのやり取りを聞いていたカイルが、思わず声を上げた。
「店主、優しすぎませんか」
「そうか」
「いや、普通もっと厳しいですよ」
「そうなのか」
「そうなんです」
ボルガムが豪快に笑う。
「だからうちは辞めるやつが少ねぇんだよ」
クィナスも帳簿を書きながら頷く。
「働く人が元気じゃないと、お客様も気付きますからね」
レイシャも静かに続けた。
「余裕がある人ほど周囲も見られます」
メルフィアはそんな会話を聞きながら、小さく笑っていた。
今まで受けた店とは空気がまるで違う。
誰かを急かす声がない。
失敗しても怒鳴らない。
分からなければ教えてくれる。
そんな環境そのものが、まだ少し不思議だった。
そして数日後。
予約弁当へ向けた試作が始まった。
とはいえ、まだ販売するわけではない。
昼営業が終わった後、厨房の一角だけを使って試しに三食分だけ作ってみる。
ボルガムが料理を完成させる。
カイルがそれを受け取る。
メルフィアは静かに弁当箱へ並べていく。
「そこは少し間を空けます」
「こうか」
「はい。その方が野菜の色が映えます」
「なるほど」
ボルガムは感心したように頷く。
「同じ料理でも違って見えるな」
「ありがとうございます」
メルフィアは照れながら副菜を少しだけ動かした。
赤。
緑。
白。
茶色。
ほんの少し位置を変えるだけで印象が変わる。
レイシャも横から眺めていた。
「蓋を開けた時の印象が全然違います」
「そうなんです」
メルフィアは嬉しそうに笑う。
「開けた瞬間が、一番大事だと思っています」
三食。
五食。
十食。
試作を繰り返す。
料理自体は問題ない。
盛り付けも日に日に良くなる。
しかし。
十五食目を作ろうとした時だった。
ボルガムがふと手を止めた。
「……狭いな」
誰もが同じことを思っていた。
厨房には皿が並ぶ。
副菜の器。
主菜。
ご飯。
盛り付け待ち。
完成品。
洗い物。
人が五人動くには、少し窮屈だった。
カイルは身体を横にしながら通る。
「すみません、通ります」
「鍋熱いぞ」
「危なっ」
メルフィアも一歩下がる。
「ご、ごめんなさい」
「いや、お前は悪くねぇ」
ボルガムは周囲を見回した。
「場所がねぇ」
その一言ですべてだった。
試作だから何とかなる。
三食なら問題ない。
十食も工夫すればいける。
だが二十食。
さらに通常営業。
スープ。
テイクアウト。
限定商品。
全部重なると、厨房そのものが足りなかった。
その夜。
営業終了後、五人は机を囲んでいた。
オルゼンは店の簡単な見取り図を描く。
「問題はここだ」
厨房。
倉庫。
販売。
通路。
すべてに丸を書いていく。
「弁当を始めると、この一角が全部埋まる」
ボルガムが頷く。
「料理する場所と並べる場所が一緒だからな」
「盛り付け専用の机も欲しいです」
メルフィアも遠慮がちに言う。
「今は鍋を避けながら並べています」
「危ないですよね」
レイシャも図面を見ながら頷いた。
クィナスは帳簿を閉じる。
「つまり、人ではなく場所が足りません」
「そういうことだ」
オルゼンは腕を組む。
しばらく全員で考えたあと、二つの案が出た。
一つ。
店を増築する。
もう一つ。
隣の空き家を借りる。
「増築なら一体化できます」
レイシャが言う。
「でも営業しながら工事になります」
クィナスが補足する。
「費用もそれなりです」
ボルガムはもう一つの図を指差した。
「隣借りた方が早ぇな」
「作業場になりますね」
「あと倉庫にも使える」
オルゼンは頷く。
「将来的にリュナメルの加工品も増える。共同販売館向けの商品も保管する場所が必要になる」
今だけではない。
一年後。
二年後。
その先まで考えるなら、作業場は必ず必要になる。
クィナスは帳簿を開き、静かに数字を書き始めた。
「収入だけなら可能です」
全員が顔を上げる。
「祭り以降、売上はかなり安定しています。三人だった頃と比べると三倍までは届きませんが、それでも十分伸びています」
「無理じゃないか」
「はい」
クィナスは小さく笑う。
「もちろん余裕があるとは言いません。でも未来への投資としては悪くありません」
オルゼンは静かに頷いた。
「借りるなら今か」
「私もそう思います」
カイルは図面を見ながら腕を組む。
「店主」
「何だ」
「気付いたんですけど」
「うん」
「人が増えるたびに問題も増えてませんか」
一瞬静かになったあと、全員が笑った。
ボルガムは腹を抱えて笑う。
「その通りだ!」
クィナスも笑いを堪えながら言う。
「でも、それは悪い問題じゃありません」
レイシャも静かに続ける。
「店が前へ進んでいる証拠です」
オルゼンは図面を見つめた。
最初は三人だけだった。
この広さで十分だった。
今は五人。
そしてもう狭い。
それだけ店が育ってきたということなのだろう。
メルフィアは少し遠慮がちに口を開く。
「……私が来たから、狭くなってしまったんでしょうか」
その言葉に、ボルガムが大きく首を振る。
「違ぇよ、嬢ちゃん」
「えっ」
「お前が来たから分かったんだ」
オルゼンも穏やかに続ける。
「もし来ていなかったら、弁当を始めた時に初めて気付いていた」
クィナスも笑顔で頷く。
「その時の方が大変でしたね」
メルフィアは少し安心したように笑った。
オルゼンは図面を畳みながら思う。
新しい商品を作る。
新しい仲間が増える。
すると、新しい課題が生まれる。
その課題を一つずつ乗り越えることで、店は少しずつ大きくなっていく。
だから次は、人ではなく場所。
その答えを探すため、明日には隣の空き家について調べてみようと、オルゼンは静かに心を決めた。




