第036話:足りないのは、料理ではなく手
日替わりスープを始めてから、三週間ほどが過ぎた。
冬の気配は日ごとに濃くなり、朝の石畳には白い息が浮かぶようになっている。
それに合わせるように、店の前へ立つ客も少しずつ増えていた。
「今日は何のスープですか?」
その言葉は、今では朝の挨拶のようになっていた。
根菜の日。
茸の日。
豆の日。
燻し肉の日。
角鳥を使う日。
その日ごとに内容が変わることが、客にとって楽しみになっている。
週末ともなれば、その流れはさらに顕著だった。
昼前には鍋が空になる日もある。
「もう終わり?」
「申し訳ありません。本日は完売しました」
クィナスが頭を下げると、客は残念そうな顔をしながらも笑って言う。
「じゃあ来週また来るよ」
「ありがとうございます」
怒る者はいない。
「売り切れる店」として受け止められ始めていた。
店の収入も安定してきた。
限定商品の日だけ売れるのではない。
毎日少しずつ積み重なる売上が、以前よりずっと安心できる数字になっている。
その日の営業を終えたあと、厨房ではボルガムが空になった鍋を洗いながら笑っていた。
「鍋が空になるってのは気分がいいな!」
「毎回作り切れるのは理想ですね」
クィナスも帳簿を見ながら頷く。
「廃棄もほとんどありません」
「それが一番ありがたい」
オルゼンはそう答えたが、頭の中はもう別のことを考えていた。
昼限定の予約弁当。
紙には何度も書き直した。
内容もほぼ決まっている。
価格も決まっている。
販売方法も決まっている。
前日予約。
二十食限定。
あとは始めるだけ。
……のはずだった。
しかし、一つだけどうしても解決しない問題がある。
人手だった。
その夜、営業終了後に五人はいつものように軽い食事を囲んでいた。
オルゼンはそこで口を開いた。
「少し相談がある」
四人が自然と顔を上げる。
「予約弁当のことですか?」
クィナスはすぐ察した。
「そうだ」
オルゼンは頷く。
「内容はほぼ決まった。でも、人が足りない」
ボルガムもすぐ理解したらしい。
「盛り付けだな」
「うん」
料理を作るのはボルガムとカイルでいい。
むしろ、その方が品質は安定する。
だが弁当は違う。
ご飯を詰める。
主菜を入れる。
副菜を並べる。
蓋を閉める。
包む。
数が増えるほど、その作業が大きくなる。
一人が料理を作り、一人が盛り付けていては、厨房が止まる。
オルゼンは紙へ簡単な図を書いた。
「できれば料理は最後まで料理人に集中してもらいたい。盛り付けは具材を順番に詰めるだけの形にしたい」
「流れ作業ですね」
レイシャが言う。
「そう」
「それなら速いです」
「でも誰がやる?」
その一言で全員が黙った。
クィナスは販売と帳簿。
レイシャは販売補助と共同販売館。
オルゼンは店全体。
ボルガムとカイルは厨房。
誰も空いていない。
ボルガムが腕を組む。
「俺がやればできる」
「でもその間、火を見る人がいなくなる」
「……そうだな」
カイルも考え込む。
「俺が覚えれば」
「今のお前だと、料理が止まる」
ボルガムが即答した。
「まず料理を覚えろ」
「ですよね」
レイシャは静かに整理する。
「今の五人体制は、ちょうど均衡しています。一人でも抜けると、どこかが止まります」
その言葉が一番分かりやすかった。
均衡。
だから新しいことを始めるなら、一人増やすしかない。
オルゼンは小さく頷いた。
「やっぱり専属で雇うのが一番早いと思う」
誰も反対しなかった。
クィナスが考え込む。
「どんな人がいいんでしょう」
その問いに、オルゼンはゆっくり答える。
「料理人じゃなくていい」
ボルガムが顔を上げる。
「ほう?」
「手先が器用な人がいい。あと、彩りの感覚がある人」
「彩り?」
「弁当って、味だけじゃないだろ」
ボルガムは少し黙ったあと、大きく笑った。
「分かってきたじゃねえか!」
「料理は見た目も大事だ」
「その通り!」
ボルガムは珍しく満足そうだった。
「盛り付けがうまいやつは、料理人とはまた違う才能だからな」
クィナスも頷く。
「獣人でも人族でも構いませんが、丁寧な仕事ができる人ですね」
「急がせても雑にならない人」
レイシャが補足する。
カイルも腕を組みながら考えていた。
「俺、不器用だからなぁ……」
「お前は料理を覚えろ」
ボルガムが笑う。
「盛り付けは別の才能だ」
その日の話は、そこで終わった。
募集を急ぐ必要はない。
だが次の段階へ進むなら、避けては通れない話だった。
翌日。
オルゼンは販売側の店番をしていた。
クィナスは共同販売館への納品。
レイシャは配達の確認。
厨房ではボルガムとカイルが昼の仕込みをしている。
店内は比較的静かだった。
暇というほどではない。
考え事をするにはちょうどいい時間だった。
「手先が器用で……」
小さく呟く。
「彩りが分かる人……」
人族か。
獣人か。
若い方がいいのか。
経験者か。
いや、経験はなくても教えられる。
性格の方が大事かもしれない。
そんなことを考えていると、店の扉が開いた。
「すみません」
入ってきたのは、初めて見る女性だった。
三十代くらい。
旅装ではない。
町で暮らしている普通の住民に見える。
「香辛料を少し探しているんですが」
「どんな用途でしょう」
オルゼンは棚へ案内した。
女性は少し困ったように笑う。
「近所のお針子さんが体調を崩してしまって。食欲がないみたいなんです。でも、香りがあると少し食べられるって言うので」
オルゼンは棚から二種類の香草を取り出した。
「強い香りではなく、温かい料理に合うものならこちらですね」
「ありがとうございます」
女性は嬉しそうに受け取った。
代金を払いながら、何気なく話す。
「この辺りで一番仕事が丁寧なお針子さんなんです。細かい飾り付けなんて、誰にも真似できないくらい器用な人で」
その言葉に、オルゼンの手が一瞬止まった。
「そんなに器用なんですか」
「ええ。本当に細かい仕事が得意なんですよ。だから町のお弁当包みなんかも頼まれるくらいで」
女性はそれ以上何も気にせず店を出ていった。
残ったのは静かな店内だけだった。
オルゼンは扉を見つめる。
『町で一番仕事が丁寧なお針子さん』
『細かい飾り付けが得意』
『器用』
偶然聞いただけの話。
まだ人材募集とは何の関係もない。
それでも。
「……覚えておこう」
小さく呟いた。
商売をしていると、こういう何気ない話が後で繋がることがある。
急いで会いに行く必要はない。
今はまだ、その時ではない。
けれど店の名前だけは、頭の片隅へ置いておく。
そういう積み重ねが、これまでの店を作ってきたのだから。
店の外では、冬の風が少しだけ冷たくなっていた。
そして厨房からは、今日のスープの良い香りが静かに流れてくる。
オルゼンは新しい香草を棚へ並べ直しながら、次の一歩もまた、人との縁から始まるのかもしれないと、ぼんやり考えていた。




