第030話:祭りの初日
記念日祭りの三日前、オルゼン商店の黒板には臨時休業の知らせが書かれた。
『記念日祭り出店のため、五日間休業いたします。
三日間は中央広場付近にて露店営業。
残り二日は従業員休養日です。
店は閉まりますが、祭りでお待ちしています。』
その文字を見た常連たちは、思ったより好意的だった。
「五日も休むのか」と驚く者もいたが、理由を聞けば大抵は笑った。祭りで出す料理の話をすると、むしろ「探しに行く」「初日は混むだろうから二日目にする」「辛いやつはあるのか」と、店先で小さな会話が生まれた。
クィナスはそれらをすべて帳簿に残した。
『祭り出店告知、反応良好。休業への不満少なめ。露店場所への質問多数。辛味角鳥串への反応、職人層強め。甘穀実団子、子供連れ反応あり』
そして祭り初日。
都市は朝から別の顔をしていた。
中央通りには色布が張られ、店先には花飾りや灯り玉が並び、普段は荷車で埋まる広場にも露店が立ち並んでいる。焼いた肉、甘い菓子、果実酒、香草、揚げ物、蜜、香料。あらゆる匂いが重なり合い、まだ朝だというのに街全体が熱を持っていた。
オルゼンたちの露店は、中央広場へ続く少し手前の通りにあった。
悪くない場所だった。
大通りのど真ん中ではないが、人の流れはある。混みすぎず、けれど見過ごされるほどでもない。初出店としては十分すぎる。
露店の上には、クィナスが書いた札が掲げられている。
『オルゼン商店 祭り焼き屋台』
その下に四品の札。
『祭り焼き包み』
『焼き甘穀実団子』
『香り赤角鳥串』
『焼きたて殻茸の香草串』
さらに横には、小さなタレ札。
『選べる一匙だれ
甘香だれ
香り赤だれ
青塩香草だれ』
ボルガムは焼き台の前に立ち、すでに火の具合を見ていた。カイルは隣で串と包み用の紙を整えながら、何度も深呼吸している。レイシャは列の動線を確認し、支払い場所と受け取り場所の間に邪魔な荷がないか見ていた。クィナスは小銭、商品札、販売数札、タレ用の匙を確認している。
オルゼンは全体を見た。
「始めるぞ」
その一言で、祭りの初日が始まった。
最初に客を止めたのは、やはり匂いだった。
湿原穀実の甘さと角鳥の香ばしさが、焼き台から立ち上る。祭り焼き包みの表面に焼き色がつき、香草油が煙に乗ると、通りを歩く人々が自然に足を緩めた。
「何の匂いだ?」
「包み焼きか?」
「湿原穀実って書いてあるぞ」
最初の客は、子供を連れた母親だった。
クィナスは落ち着いた声で説明した。
「祭り焼き包みは、甘い穀実と角鳥肉を包んで焼いたものです。歩きながら食べやすいようにしています。お子様には甘香だれがおすすめです」
母親は一つ買った。
子供が一口食べ、すぐに目を丸くした。
「おいしい!」
その声が、次の客を呼んだ。
そこからは早かった。
祭り焼き包みが動き、甘穀実団子が続いた。甘穀実団子は子供向けに見えたが、実際には大人も買った。特にミレイユの茶の露店で温かい茶を買った客が、戻ってきて団子を買う流れができ始めた。
「茶に合うって聞いたんだけど」
「合います。甘香だれは控えめがおすすめです」
クィナスは説明しながら、すぐ横の札を指した。
『ミレイユ茶葉店の甘香茶と相性良し』
これは前日に決めた小さな連携だった。
ミレイユの露店は、少し離れた場所にある。だが、互いに商品名を出し合うことで客の流れができる。強引ではない。興味がある者だけが動く。
レイシャはそれを見ながら、静かに人の流れを調整していた。
「お並びの方は、こちらの札の後ろへお願いします。商品を受け取った方は、右側のタレ台へどうぞ。青塩香草だれは量が強いため、こちらで一匙お渡しします」
声は大きくない。
だがよく通る。
混雑しても乱れない。
カイルは焼き台の横で必死だった。
殻茸の香草串は、予想通り難しい。焼き置きができないため、注文が入るたびに仕上げる必要がある。カイルは何度も水の出方を見て、ボルガムに確認され、そのたびに汗をかいた。
「今か?」
「まだだ! 音を聞け!」
「聞いてる!」
「なら焦るな! 茸は急かすと水が逃げる!」
「客は急かしてるぞ!」
「客を待たせるな! だが茸も急かすな!」
「無茶言うな、師匠!」
言ってから、カイルは固まった。
ボルガムは笑った。
「今は後だ! 焼け!」
「くそっ!」
クィナスはその会話を聞いていたが、今は帳簿に書く余裕がなかった。あとで必ず書こうと心に決めるだけにした。
昼前には、祭り焼き包みが半分以上売れていた。
甘穀実団子も好調。
香り赤角鳥串は、昼より夕方向けと見ていたが、意外にも若い冒険者や職人が早い時間から買っていく。辛すぎず、香りで満足できるのが良かったらしい。
ボルガムは焼きながら満足そうに言った。
「香り赤だれ、正解だったな!」
「セリオラさんに報告ですね」
レイシャが言う。
「する! あとで大声で礼を言う!」
「大声は控えめに」
「努力する!」
昼過ぎ、ナギルカが来た。
役所の同僚らしい女性二人を連れている。
「間に合いましたか?」
「まだあります。祭り焼き包みと甘穀実団子は残っています。香り赤角鳥串は少し少なめです」
クィナスが説明すると、ナギルカはほっとしたように笑った。
「では、祭り焼き包みを三つお願いします。午後の仕事前なので、辛いものは後で考えます」
「役所の方々には、焼き包みが人気ですね」
「手が汚れにくいのが助かります。あと、書類を持ったままでも食べやすいです」
「貴重な情報です」
「また書くんですね」
「もちろんです」
ナギルカたちが去る頃、通りの向こうに一人の男が立ち止まった。
旅装の男だった。
年齢は三十代後半ほど。日焼けした肌に、短く刈った黒髪。背は高くないが、体つきは締まっている。商人にも見えるし、護衛にも見える。腰には短剣があるが、それを見せびらかすような雰囲気はない。
彼は祭りの露店を眺めながら歩いていたらしい。
そして、オルゼンを見つけて足を止めた。
「……オルゼン?」
その声に、オルゼンが振り向く。
一瞬、記憶を探る。
それから目を少し見開いた。
「ジルクさん?」
男は笑った。
「やっぱりオルゼンか。まさか祭りの露店で会うとは思わなかった」
ジルク。
数年前、オルゼンが今の店を構える前に出会った行商人だった。珍しい品を見る目を少しだけ教えてくれた人物であり、若いオルゼンに「安く買うより、次に繋がる買い方を覚えろ」と言った男でもある。
オルゼンにとっては、少しばかり恩のある相手だった。
だが、ジルクの視線はすぐにボルガムとクィナスへ向いた。
そして、彼は驚いたように目を細めた。
「……黒猫の帳簿係に、青筋の熊料理人。なるほどな」
その言い方に、クィナスの手が止まった。
ボルガムの焼き串を返す手も、一瞬だけ遅れる。
レイシャがそれに気づいた。
空気がほんの少しだけ変わる。
カイルも何かを察したのか、口を閉じた。
だが、ジルクの声に敵意はなかった。
むしろ懐かしむような、安堵するような響きがあった。
「生きてたんだな、二人とも」
クィナスは笑顔を作らなかった。
ただ、少しだけ目を細めて言った。
「ジルクさん。お久しぶりです」
ボルガムも低く笑った。
「お前も生きてたか」
「こっちは運がいいからな」
「昔からそうだった」
オルゼンは三人を見た。
知り合いらしい。
しかも、ただの知り合いではない。
クィナスとボルガムの過去に関わる人物。
だが今、この場に悪い気配はない。
ジルクはオルゼンへ視線を戻し、少し笑った。
「まさか、お前の店にこの二人がいるとはな。世の中、妙な巡り方をする」
「知り合いだったんですか」
「昔、少し助けられた」
ジルクは軽く言った。
「悪い時期に、悪い連中がいてな。そこから抜ける時、俺だけじゃなく何人かが助かった。まあ、詳しい話は祭りの露店でするもんじゃない」
クィナスは何も言わない。
ボルガムも焼き台へ視線を戻した。
ただ、二人の空気は少しだけ柔らかくなっていた。
過去は暗い。
だが、その中で救われた者もいる。
ジルクはその一人なのだろう。
「で、これは何を売ってる?」
ジルクは何事もなかったように札を見た。
オルゼンは少しだけ笑った。
「祭り焼き包みがおすすめです」
「ならそれを一つ。あと、そこの熊が焼いてるなら角鳥串もだ」
ボルガムが笑う。
「食える口は変わってねえな!」
「お前の飯なら外れは少ない」
「少ないとはなんだ!」
「たまに多すぎる」
「それは愛情だ!」
ジルクは笑いながら代金を置いた。
クィナスは商品を包みながら、静かに言った。
「祭り中に時間があるなら、店にも来てください。今は休業中ですが、祭り後に」
「行くさ。オルゼンの店も見てみたいしな」
そしてジルクは焼き包みを一口食べた。
目を細める。
「……いい店になったな」
それは料理への感想であり、オルゼンへの言葉でもあり、クィナスとボルガムへ向けた言葉でもあった。
オルゼンは何も言わず、ただ軽く頭を下げた。
祭りは続く。
人の波は絶えない。
新しい客。
常連。
役所の知り合い。
遠くから来た者。
そして、過去を知る者。
初日の露店は、忙しさの中に思わぬ再会を混ぜて進んでいく。
夕方近く、クィナスは販売数札を確認した。
祭り焼き包み、完売。
甘穀実団子、残りわずか。
香り赤角鳥串、完売。
殻茸の香草串、完売。
初日百食は、日が落ちる前にほぼ売り切れた。
ボルガムは汗を拭いながら大きく笑った。
「売れたな!」
カイルは焼き台にもたれかかりそうになりながら言った。
「死ぬほど忙しかった……」
「死んでないから明日もやるぞ!」
「分かってるよ、師匠」
今度は誰も突っ込まなかった。
カイルももう訂正しなかった。
レイシャは空になった串箱を確認し、静かに言った。
「初日としては成功です。ただし、明日は祭り焼き包みを増やすか、角鳥串を増やすか判断が必要です」
クィナスは帳簿を開く。
「祭り焼き包みは安定。角鳥串は夕方前に完売。甘穀実団子は茶との連携効果あり。殻茸串は少数ながら反応良好。二日目は配分調整ですね」
オルゼンは夕方の祭り通りを見た。
一日目は終わりに近い。
だが祭りは三日ある。
そしてその後、二日は休む。
五日間、店は閉まっている。
けれど、店は止まっていない。
むしろ今、店は外へ出ていた。
通りの匂いの中で。
客の声の中で。
新しい出会いと、古い縁の中で。
オルゼンはふと、右の上り坂を思い出した。
大変だ。
けれど、やはり悪くない。
その横で、クィナスが帳簿に一行を書き足した。
『ジルクさん来訪。マスターの昔の知人。クィナス、ボルガムとも旧知。詳細はまだ書かない。悪い縁ではない。』
彼女は少し考え、さらに短く書いた。
『過去にも、助かった人はいる。』
その一行を、ボルガムは見なかった。
だが、見なくても分かっているような顔で、次の日の仕込みについてカイルに話し始めていた。




