第026話:見慣れない食材と、仕掛け箱の客
翌日の昼前、試作用の食材が届いた。
それは、いつものラグネル食材卸の荷車ではなかった。荷台の木箱に刻まれている印も違う。湿原を思わせる波模様と、細い鳥の足跡のような印が焼き付けられている。荷を運んできたのは、北西方面から来たという行商人の使いで、言葉少なに受領書を渡し、食材の扱いを書いた札だけを残して去っていった。
箱は全部で三つ。
量としては試作五十食分ほどだった。
厨房の作業台に並べると、店の空気が少し変わった。見慣れないものには、それだけで匂いがある。青塩やリュナメルの時とは違う。これはもっと土と水の匂いに近かった。
カイルが最初に箱を覗き込んだ。
「なんだこれ。根菜か? いや、穀物か?」
一つ目の箱には、薄い紫色の殻をまとった粒が詰まっていた。小指の先ほどの大きさで、乾いた豆にも見えるが、表面は硬く、軽く振ると中で何かが詰まっている音がする。
レイシャがそれを一粒つまみ、光にかざした。
「湿原穀実ですね。北西の浅湿地で採れるものです。生のままでは硬く、粉にも挽きにくいですが、蒸してから焼くと甘みが出ます。祭りの屋台では団子や薄焼きに使われることがあります」
カイルは驚いて彼女を見た。
「なんで知ってんだよ」
レイシャは粒を箱へ戻しながら、いつもの静かな調子で答えた。
「共同販売館の仕事で、北西方面の商人が持ち込む商品を確認したことがあります。湿原穀実は保存状態で味が変わりやすいので、何度か管理票を見ました」
「管理票見ただけで分かるもんなのか?」
「見ただけでは分かりません。何度か扱いました」
「つまり知ってるんじゃねえか」
「はい。そう言いました」
カイルは少し納得いかない顔をしたが、レイシャが普通に返すので言い返しづらそうだった。
ボルガムが二つ目の箱を開ける。
中には、丸みを帯びた茸が入っていた。傘の外側に薄い殻のような膜があり、普通の茸とは違ってやや重い。色は灰白色で、根元に青い筋がある。
ボルガムはそれを手に取り、匂いを嗅いだ。
「殻茸だな。湿気を抱え込むやつだ。割って焼くなら火が難しい。外側を先に強く焼いて、内側の水を閉じ込める。弱い火でだらだら焼くと、水が出て台無しになる」
カイルは今度はボルガムを見た。
「あんたも知ってんのかよ」
「食ったことがある!」
「本当に食い物のことだけは何でも知ってるな」
「何でもじゃねえ。食ったことがあるものだけだ!」
「範囲が広いんだよ」
ボルガムは笑いながら、三つ目の箱を開けた。
そこには、きれいに処理された小型の鳥肉が入っていた。普通の鶏より身が締まり、骨は細い。皮には薄く金色の模様があり、脂は少なめに見える。
レイシャが言った。
「湿原角鳥です。飛ぶより走る方が得意な鳥ですね。肉は締まっていますが、火を入れすぎると硬くなります。皮目を焼くと香りが立つので、串焼き向きです」
ボルガムも頷く。
「脂が少ねえから、甘い穀実と合わせるなら油を足した方がいい。辛味串にするなら、香草油で補う。焼き包みに入れるなら、細かく切りすぎると硬さだけ残る。少し大きめにして、噛んだ時に肉だと分かるくらいがいい」
カイルは二人を交互に見た。
「お前ら、初見の食材に対して反応が早すぎるだろ。俺なんか、まだ食えるかどうかから考えてるんだけど」
レイシャは少し考えた。
「食べられるかどうかを考えるのは大事です」
ボルガムも大きく頷いた。
「そうだ! 食えるかどうかを見るのは最初だ! だからお前は間違ってねえ!」
カイルは一瞬だけ黙った。
褒められると思っていなかったのだろう。
「……ならいいけどよ」
ボルガムは作業台の上に食材を並べ直した。
「試作は三段階だ。まず素材だけ焼く。次に味をつける。最後に祭りで出す形にする。いきなり商品にしようとすると、素材の癖を見落とす。カイル、お前は殻茸の水の出方を見る。レイシャ、湿原穀実の保存状態と割れの有無を見てくれ。俺は角鳥を試す」
「私もですか?」
レイシャが少し意外そうに聞く。
「知ってる奴が見た方が早い!」
「分かりました」
カイルは殻茸を持ちながら、不満そうに言った。
「俺、茸担当かよ」
「水を見る練習だ。火を見る練習にもなる。湿原の食材は水が多い。水を逃がすか閉じ込めるか、それで味が変わる」
「また見ることが増えたな」
「料理は見ることだらけだ!」
厨房が一気に熱を帯びる。
オルゼンはその様子を見て、少し口元を緩めた。
この場は任せていい。
ボルガムが中心になり、レイシャが知識で補い、カイルが食らいつく。三人とも役割が違う。だからこそ、見慣れない食材を前にしても止まらない。
その時、オルゼンは物販棚の端に置いてある小箱が一つ、場所を間違えていることに気づいた。
昨日、棚替えをした時に奥へ戻すはずだった仕掛け箱だ。今は売り物ではない古い品で、説明札もつけていない。客が手に取ると面倒かもしれない。
「少し物販側を見てくる。試作は任せる」
オルゼンがそう言うと、ボルガムはすでに角鳥の皮を見ながら答えた。
「任せろ! 焦がさねえ!」
「焦がすなよ」
「焦がす前に止める!」
「焦がしたら?」
「俺が食う!」
「売り物の試作だぞ」
「だから焦がさねえ!」
カイルが横でぼそりと言った。
「この人、焦がさないって言いながら焦げた時のことも考えてるんだよな」
レイシャが静かに返す。
「備えは大事です」
オルゼンは苦笑しながら物販側へ戻った。
昼前の店内は、食品側が試作に入ったため半休憩のような空気になっていた。黒板にも「昼販売準備中」と書いてある。物販棚を見る客は時折いるが、混雑はしていない。
その棚の前に、見慣れない男性が立っていた。
年は二十代後半から三十代前半ほど。背は高く、整った顔立ちをしている。淡い銀茶色の髪を後ろで軽く束ね、旅装に近い服を着ているが、生地と仕立てが明らかに良い。貴族のような派手さはない。むしろ身軽で、余計な装飾は少ない。だが、立ち方、手袋、靴、腰の小さな飾り留めに、育ちの良さが滲んでいた。
その後ろには、付き人らしい男が一人控えている。
こちらは黒い上着を着た落ち着いた人物で、主の邪魔にならない距離に立っていた。護衛にも見えるし、秘書にも見える。少なくとも、ただの荷持ちではない。
オルゼンが近づくと、男性は棚から一つの小箱を手に取っていた。
まさに、オルゼンが戻そうとしていた仕掛け箱だった。
「いらっしゃいませ。その箱に興味がおありですか?」
オルゼンが声をかけると、男性は振り返った。
目が穏やかだった。
しかし、ただ穏やかなだけではない。品を見慣れている者の目だ。
「ええ。珍しいですね。これは売り物ですか?」
「売る予定ではありますが、まだ説明札をつけていません。古い仕入れ品で、少し仕掛けがあります」
「仕掛け」
男性は楽しそうにその言葉を繰り返した。
箱は手のひらより少し大きい程度だった。黒に近い濃い木で作られており、表面には細い銀線が埋め込まれている。小物入れとして使える形だが、蓋には取っ手がない。普通に開けようとしても開かない。
男性は箱を傾け、底を見て、側面の銀線をなぞった。
「鍵穴がありませんね」
「はい。正しい順番で側面を押すと開く仕組みです。力任せに開けると、中の留め具が噛んで壊れます」
「なるほど。旅先でこういう箱を見るのは久しぶりです。隣街にも似たものはありますが、これは作りが少し違う」
「隣街から?」
「はい。正確には隣の国境沿いの街から来ました。珍しい食材や小物を見て回っています。こちらの店は、変わった品を扱うと聞きまして」
男性は微笑んだ。
「申し遅れました。私はアルフェンと申します。こちらは付き人のロウです」
後ろの男が静かに一礼する。
貴族ではない、とは言い切れない。少なくとも普通の旅商人ではない。だが、本人は身分を出すつもりがないらしい。
オルゼンも名乗った。
「オルゼンです。この店の店主をしています」
「あなたが」
アルフェンは少しだけ興味深そうに目を細めた。
「夜そぼろ瓶の店主ですね」
「そちらの噂も届いているんですか」
「届いています。食べ物の噂は早いですから。特に、食べた者が悔しそうに『次は買う』と言う品の噂は遠くまで行きます」
オルゼンは苦笑した。
「今日はそぼろ瓶はありません」
「それは残念です。ですが、今日は珍しい小物と食材を探しに来ましたので」
その時、厨房からボルガムの声が響いた。
「カイル! 茸を押すな! 潰すな! 水が逃げる!」
「押してねえよ! 触っただけだ!」
「触り方が押してる!」
「どんだけ繊細なんだよこの茸!」
アルフェンが少し顔を上げた。
「試作中ですか?」
「記念日祭りの露店用です。北西湿原の食材が届いたので、試しています」
「湿原穀実と殻茸、それに角鳥でしょうか」
オルゼンは彼を見る。
「ご存じで?」
「隣国の北西側でも少し扱います。火の入れ方で印象が大きく変わる食材です。祭り向きですが、雑に焼くと水っぽくなる」
その言葉で、オルゼンの警戒と興味が少し強くなった。
この客は小物だけでなく、食材にも詳しい。
「もしよろしければ、試作が落ち着いたら少し見ていかれますか」
アルフェンは嬉しそうに微笑んだ。
「ぜひ。ただ、その前にこの箱を見せていただいても?」
オルゼンは頷き、箱を受け取った。
「この銀線の交点を、月の形に沿って押します。順番を間違えると戻ります」
彼は側面を指で押していく。右下、左上、中央、蓋の縁。最後に底を軽く叩くと、かちりと小さな音がした。蓋がわずかに浮く。
アルフェンの目が輝いた。
中には小さな仕切りがあり、さらに底が二重になっていた。指で押すと、隠し底がずれて、薄い紙片や小さな石をしまえる空間が現れる。
「面白いですね。小物入れでありながら、隠し箱でもある」
「旅人や商人が、印章や小さな契約札を入れるのに使っていたものらしいです。ただ、作り手の印がないので由来がはっきりしません」
アルフェンは箱の内側を見つめた。
「作り手の印がないのではなく、隠しているのかもしれません」
「分かるんですか?」
「少しだけ」
その言い方に、オルゼンはセリオラを思い出した。
少しだけ、という者ほど信用できない。
アルフェンは箱を丁寧に閉じた。
「これは売っていただけますか?」
「値段をまだ決めていません」
「では、店主の目で決めてください。私はそれを聞いてから考えます」
試されている。
オルゼンはそう感じた。
だが嫌な感じではなかった。ラグネルのような圧ではなく、品そのものの価値を一緒に確かめるような試し方だった。
オルゼンは箱を手に取り、指先で表面をなぞった。
古い木。隠し底。銀線。旅の手。契約札。小さな宝石。誰かに見つかってはいけない手紙。だが、ただ隠すためだけではない。開け方を知る者だけが共有できる信頼。
「高すぎる品ではありません」
オルゼンは言った。
「ただの箱として見れば少し高い。仕掛け箱として見れば妥当。旅用の隠し箱として見れば安い。そういう値段にします」
アルフェンは静かに笑った。
「良いですね。では、その値で」
まだ金額を言っていない。
オルゼンが少し眉を上げると、アルフェンは楽しそうに続けた。
「あなたがそういう説明をするなら、ひどい値はつけないでしょう」
「信用が早いですね」
「品を持つ手と、値を決める前の言葉を見ました」
後ろのロウが一歩近づき、小さな革袋を出す。
オルゼンが金額を告げると、アルフェンは迷わず支払った。
「ありがとうございます。これは良い買い物です」
「こちらこそ」
その時、厨房から香ばしい匂いが流れてきた。
角鳥の皮を焼いた匂いだ。そこに湿原穀実の甘い香りと、殻茸の水気を閉じ込めたような匂いが混ざる。
アルフェンがそちらへ視線を向けた。
「これは……祭りで売るなら、かなり人を止めそうですね」
オルゼンは少し笑った。
「まだ試作です」
「試作の匂いで足を止めるなら、本番は期待できます」
厨房では、カイルが焼き台の前で真剣な顔をしていた。
レイシャが湿原穀実を確認し、ボルガムが角鳥の火入れを見ている。
オルゼンは新しい客と、見慣れない食材と、祭りの試作が同じ日に重なったことを少し不思議に思った。
赤い鍵を拾ってから、道が少しずつ変な方向へ開いている気がする。
だが、それも悪くない。
上り坂は、こういう出会いを連れてくるのかもしれない。
「アルフェンさん」
オルゼンは言った。
「よければ、試作の香りだけでも見ていきますか。味見できるかは、料理担当の判断になりますが」
アルフェンは仕掛け箱を大事そうに抱え、穏やかに頷いた。
「喜んで。珍しい食材と、珍しい店。今日は良い日になりそうです」
その横で、付き人のロウは一言も発しなかった。
ただ、店内の全員を静かに観察していた。
まるで、この小さな店が本当にただの商店なのかを見極めるように。




