第025話:秋口の祭りと、百食の壁
白月種と緋月種の発芽から数日後、都市の空気は少しずつ秋へ傾き始めていた。
朝の風に涼しさが混じり、昼の日差しはまだ強いものの、夕方になると石畳の熱が引くのが早くなった。市場に並ぶ野菜も少しずつ色を変え、夏の水気を含んだものから、火を通すと甘みが出る根菜や、香りの強い茸、殻の硬い木の実が目立つようになっている。
そんな季節の変わり目に、この都市では年に一度の記念日祭りが行われる。
三日間続く祭りで、古い都市門の完成と、多種族の交易が始まった日を祝うものらしい。正確な由来を知る者は少ないが、街の者にとっては大事な祭りだった。中央通りには飾り布が張られ、屋台が並び、普段は店の奥に引っ込んでいる職人もこの時ばかりは表へ出る。料理、酒、菓子、香料、細工物、旅芸人、音楽。都市全体が三日だけ少し浮かれる。
その祭りへの露店出店案が持ち上がったのは、閉店後のことだった。
カウンターにはクィナスの帳簿が開かれ、ボルガムは厨房から持ってきた椅子に大きな体を預け、レイシャは共同販売館の記録札を整理し終えたところだった。カイルは鍋磨きを終え、まだ手が少し濡れている。オルゼンは祭りの出店申請書を机の上に置いた。
「記念日祭りの露店枠が、まだ少し残っているらしい」
その一言に、全員の視線が集まった。
クィナスの耳が立つ。
「露店ですか。期間は三日でしたね」
「ああ。中央通りから広場にかけて。場所は抽選だが、共同販売館と商業管理局の推薦枠もある」
「うちは共同販売館に商品を出していますから、推薦枠を使える可能性がありますね」
「バルドリアさんからも、出してみる気があるなら申請書を取っておけと言われた」
ボルガムが大きく身を乗り出した。
「祭りで料理を売るのか!」
「売るならな」
「やるなら焼き物だ! 祭りは焼いた匂いが勝つ!」
その勢いにカイルが少し笑った。
「急に決めるなよ。祭りって人多いんだろ。いつもの店と違って、現場で焼くなら仕込みも火口も人手も全然違うんじゃねえのか」
ボルガムは一瞬だけ目を丸くしたあと、満足そうに頷いた。
「いいぞ、カイル。少し分かってきたな。その通りだ。祭りで売る料理は、店で売る料理とは違う。持ち歩きやすくて、匂いが立って、待たせすぎず、冷めてもそこそこ食える。しかも数が出る。そこで味を落とすと、ただの混雑した屋台になる」
レイシャも静かに口を開いた。
「露店を出す場合、店とは別の危険があります。行列の整理、金銭管理、食材の保管、火の安全、酔客、迷子、盗難。祭りでは客の気分も普段より高くなります。売れる可能性はありますが、普段より乱れやすいと思います」
クィナスはすでに帳簿へ項目を書き出していた。
「出店料、露店用具、食材、燃料、人員配置、釣り銭、販売数、廃棄リスク、雨天時対応、通常店舗をどうするか。かなり準備が必要です。ですが、宣伝効果は大きいです。うちを知らない客にも届きます」
「問題は、どれだけ出すかだな」
オルゼンは申請書を見ながら言った。
「三日間、毎日百食くらいが限界だと思う」
「一日百食」
クィナスが復唱する。
「普段の限定販売から見るとかなり多いですが、祭りの露店としては控えめですね。裏通りの小店が初めて出す数としては妥当です。売り切れても祭りの空気なら次の日に回せますし、作りすぎて品質を落とすよりいいと思います」
ボルガムも頷いた。
「百食なら、四種類に分けると一品二十五食だな。いや、人気が偏るから全部同じ数にすると危ねえ。基本になる品を多め、癖のある品を少なめにした方がいい」
カイルが腕を組み、少し考え込んだ。
「四種類も出すのか? 初露店なら二種類くらいでいいんじゃねえの。増やすと現場が混乱するだろ」
その意見に、ボルガムはすぐ怒鳴らなかった。むしろ、少し嬉しそうに笑った。
「いい疑問だ。俺も普段なら二種類でいいと言う。だが祭りは客層が広い。子供、老人、職人、冒険者、役人、旅人、甘いものが好きな奴、酒を飲む奴、肉が欲しい奴、軽く食いたい奴。二種類だけだと逃す客が多い。四種類にするなら、調理の芯を揃えるんだ」
「芯?」
「全部焼き物にする。火口を同じにする。串か紙包みに統一する。味は分けるが、作業は分けすぎない。そうすれば四種類でも回る」
カイルは少し黙り、納得したように頷いた。
「なるほど。別々の料理じゃなくて、同じ動きで味を変えるのか」
「そうだ!」
クィナスの耳が楽しそうに動いた。
「カイルさん、最近質問の質が上がっていますね」
「いちいち記録するなよ」
「します。正式従業員の成長記録です」
「恥ずかしいからやめろ」
「帳簿なので」
レイシャが静かに言った。
「四種類にするなら、販売側でも説明を短くする必要があります。祭りの客は長い説明を読みません。見て、匂いを感じて、すぐ選べる名前が必要です」
「それは重要ですね」
クィナスは帳簿をめくり、露店用の商品欄を作った。
「祭り露店版。持ち歩きやすい焼き物。年齢層を広く取る。辛味が苦手な人、子供、酒を飲む人、しっかり食べたい人、それぞれに刺さる形にする」
「食材はどうする?」
オルゼンが聞くと、ボルガムは少し考えた。
「ラグネルの肉を使えば確実だ。だが、今回は別の試みでもいい。祭りは新しい食材を試すにはいい場だ」
「実は、食材の話がある」
オルゼンは一枚の小さな紹介状を出した。
「以前、共同販売館で知り合った商人から、友人が珍しい食材を扱っていると聞いた。北西の湿原近くで育つ、火を通すと甘みが強く出る穀実と、殻付きの茸、それから小型の角鳥肉を少量提供できるらしい。ラグネルさん経由ではない。直接仕入れの試験だ」
クィナスの目が鋭くなった。
「ラグネルさんを通さない仕入れですね」
「悪い意味ではない。仕入れ先を増やす必要がある。ラグネルさんの品は良いが、全部を頼るとこちらの足腰が弱くなる」
レイシャが頷いた。
「仕入れ先を分けるのは危険分散になります。ただ、初めての相手なら品質確認が必要です」
ボルガムは興味深そうに紹介状を見た。
「北西湿原の穀実か。火を通すと甘いなら、祭り向きだな。角鳥肉も焼けば匂いが出る。殻付き茸は扱いを間違えると水っぽくなるが、うまく焼けば子供も食う」
「商品案は作れるか?」
オルゼンが聞くと、ボルガムは待ってましたと言わんばかりに笑った。
「四つだな。まず一つ目は、祭り焼き包み。角鳥肉と甘い穀実を薄い生地で包んで焼く。これは基本だ。腹にたまるし、年齢を問わねえ。二つ目は、茸の香草串。殻付き茸を割って、香草油を塗って焼く。肉を食べない客や軽く食いたい客向けだ。三つ目は、甘穀実の焼き団子。穀実を潰して丸め、少し甘いタレで焼く。子供と甘いもの好きに刺さる。四つ目は、辛味角鳥串。辛めの香草だれで焼く。職人、冒険者、酒飲み向けだ」
カイルが目を輝かせた。
「祭り焼き包みは絶対売れる。匂いも出るし、歩きながら食える。辛味角鳥串は焼き場で煙を出したら客が寄る。甘穀実団子は子供向けに小さくした方がいいな。茸は……火加減が難しそうだ」
ボルガムは満足そうに頷いた。
「その通りだ。茸はお前に任せるにはまだ早い」
「任せろなんて言ってねえよ」
「だが見ろ。茸は見ろ。水が出る瞬間を見ろ」
「また火を見るやつか」
「料理は見ろ!」
クィナスは商品名を少し整えるように帳簿へ書き込んだ。
「露店版四品。祭り焼き包み、香草茸串、甘穀実団子、辛味角鳥串。各数量は調整。基本の祭り焼き包みを四十、甘穀実団子二十五、辛味角鳥串二十、香草茸串十五。合計百食。このくらいでしょうか」
「茸が少ないのか?」
カイルが聞く。
クィナスは頷いた。
「初回ですし、火加減が難しいなら少なめが安全です。逆に祭り焼き包みは幅広い客層に売れるので多め。甘穀実団子は子供や女性客、軽食向け。辛味角鳥串は客層が明確なので二十。完売したら次の日に調整できます」
「三日間で数字を変えるのか」
「はい。初日の反応を見て、二日目と三日目に少し変えます。祭りは三日ありますから」
オルゼンは頷いた。
「一日目は様子見。二日目で調整。三日目で勝負だな」
その時、入口の鈴が鳴った。
ちょうど閉店後の相談中だったため、クィナスが少し警戒して顔を上げる。入ってきたのはナギルカだった。仕事帰りらしく、少し疲れた様子ではあるが、店内の空気を見てすぐに何か会議中だと察したようだった。
「すみません、もう閉店後でしたか?」
「いえ、大丈夫です」
オルゼンが答えると、ナギルカは少しだけ店内を見回した。
「何か大事な話の最中でしたか?」
クィナスがにこりと笑う。
「記念日祭りの露店出店について相談中です」
「露店ですか」
ナギルカの表情が明るくなる。
「それは楽しみです。役所でも、記念日祭りの話題が増えてきました。毎年、昼休みに買いに出る人も多いですし、夜勤組も持ち帰りやすいものを探します」
クィナスの耳が立った。
「役所客、祭り露店に見込みあり」
「また書いていますね」
「貴重な情報ですので」
ナギルカは少し笑った。
「もし出店するなら、手で持ちやすいものがいいと思います。書類を持って歩く人も多いので、汁が垂れるものは避けられがちです。あと、辛いものは午後の仕事前だと避ける人もいますが、仕事終わりには売れると思います」
「時間帯で売れ筋が変わるか」
オルゼンが言うと、ナギルカは頷いた。
「はい。昼は食べやすいもの、夕方は味の強いもの。役所の人間だけで言えば、そんな傾向があります」
クィナスは即座に記録した。
「昼は祭り焼き包みと甘穀実団子を前に、夕方は辛味角鳥串を目立たせる。良いですね」
そこへ、もう一度鈴が鳴った。
今度入ってきたのはセリオラだった。
灰紫の外套をまとい、いつものように強い香りを残さず、静かに店へ入ってくる。ナギルカが振り返り、少し驚いた顔をした。
「姉さん?」
「ナギルカ。やはりここにいましたか」
「やはりって……」
セリオラは店内の空気を見て、すぐに状況を察したようだった。
「祭りの露店の相談ですね」
オルゼンは苦笑した。
「なぜ分かるんですか」
「この時期に商人が閉店後に食材名を書き出していたら、だいたい祭りです」
クィナスが帳簿を押さえた。
「見えていましたか?」
「少しだけ」
「その少しは信用できませんね」
セリオラは静かに微笑んだ。
「香りの話なら手伝えます。祭りの露店は、味より先に香りが客を呼びます。焼き物にするなら、煙に乗る香草を選んだ方がいいです。ただし、強すぎる香りは隣の露店と揉めます」
レイシャが静かに反応した。
「露店同士の距離も問題になりますね」
「はい。強い香辛料や煙を使う場合、配置によっては苦情が出ます。辛味角鳥串は、風向きを見て焼く位置を決めた方がいいでしょう」
ボルガムは腕を組み、真剣に頷いた。
「なるほどな。祭りは外で焼くから、匂いが広がる。店の中とは違うわけだ」
セリオラは商品案を聞き、少し考えた後で言った。
「甘穀実団子には、甘い香りを前に出しすぎない方が良いと思います。子供向けにするなら、焼き目の香ばしさを残した方が飽きません。香草茸串は、香りの余韻が短い香草を使うと隣の商品を邪魔しません。辛味角鳥串は、食べた後に水が欲しくなりすぎると客の動きが止まります。辛くするより、香りで辛く感じさせる方が祭り向きです」
カイルは目を丸くした。
「香りで辛く感じさせるって何だよ」
セリオラは穏やかに答えた。
「鼻に抜ける香辛料を少量使うと、舌が焼けるほど辛くなくても満足感が出ます。酒にも合いますし、子供が近くにいても刺激が広がりにくいです」
ボルガムの目が輝いた。
「それ、使えるな!」
「ただし、量を間違えると苦くなります」
「そこは俺が見る!」
「では、試作時に見せてください」
クィナスはすでに帳簿を一枚追加していた。
「ナギルカさん、セリオラさん、情報提供ありがとうございます。これは露店計画にかなり有用です」
ナギルカは少し照れたように言った。
「私は役所の昼休み目線だけですが」
「それが大事です。客層の一つですから」
セリオラも頷いた。
「祭りは普段来ない客が来ます。どの層にどの商品を見せるかで、売れ方は変わります」
オルゼンは店内にいる顔ぶれを見た。
クィナス、ボルガム、レイシャ、カイル。
そこにナギルカとセリオラが加わり、祭りの露店の話をしている。
最初は三人の小さな店だった。
今は、話し合う相手が増えている。
食材はラグネルではなく、新しい仕入れ先から試す。
販売は店ではなく、祭りの露店。
商品は四種類。
一日百食。
三日間。
無茶ではない。
だが簡単でもない。
オルゼンは申請書を手に取った。
「出よう」
その一言で、店内の空気が決まった。
クィナスが耳を立て、ボルガムが嬉しそうに笑い、カイルが少し緊張した顔になり、レイシャが静かに頷く。ナギルカは楽しみにしていますと微笑み、セリオラは試作時には呼んでくださいとだけ言った。
「出るなら、準備はすぐ始めます」
クィナスは帳簿を開いた。
「申請、食材確認、試作、露店道具、販売札、役割分担、初日の数量、二日目以降の調整案。全部必要です」
「俺は試作だな!」
ボルガムが声を張る。
「カイル、祭り料理はいい勉強になるぞ。客の目の前で焼く。焦げたら見られる。匂いが弱ければ客が止まらねえ。逆に強すぎると隣から怒られる。面白えぞ!」
カイルは少しだけ喉を鳴らした。
不安と興奮が混じった顔だった。
「……やるしかねえだろ」
レイシャは静かに言った。
「私は列整理と金銭周り、共同販売館との連絡を担当できます。祭りでは人の流れが乱れますので、先に動線を決めた方がいいと思います」
「頼む」
オルゼンが頷く。
クィナスは帳簿の新しいページに、大きく書いた。
『記念日祭り露店計画』
その下に、丁寧な字で続ける。
『三日間。一日百食目安。露店版四品。新規仕入れ先の食材を使用。初参加。店の外で、店の味を試す。』
ボルガムはその文字を見て、満足そうに鼻を鳴らした。
「祭りか。忙しくなるな!」
「嬉しそうですね」
レイシャが言うと、ボルガムは胸を張った。
「祭りで焼く料理は楽しい!」
カイルがぼそりと言う。
「絶対大変だろ」
「大変だから楽しいんだ!」
その言葉に、オルゼンはふと、少し前に見た三叉路を思い出した。
右の道。
上り坂。
楽ではない道。
けれど、仲間と進めるなら楽しいと思った道。
記念日祭りへの露店出店は、間違いなく上り坂だった。準備も大変だ。失敗もあり得る。店とは違う問題も出る。
それでも、進む価値はある。
オルゼンは申請書を折りたたみ、カウンターに置いた。
「明日、申請してくる」
クィナスが頷いた。
「では今夜から準備開始ですね」
ボルガムは厨房へ向かいながら叫んだ。
「試作するぞ!」
カイルが慌てて追う。
「今からかよ!」
「祭りは待ってくれねえ!」
店の中に、また新しい熱が生まれた。
秋口の記念日祭り。
三日間の露店。
一日百食。
まだ何も焼いていないのに、店にはもう祭りの匂いが漂い始めていた。




