第024話:白月と緋月の芽
昼の販売が始まる少し前、店の入口に小さな影が立った。
最初に気づいたのはレイシャだった。彼女は共同販売館へ持っていく補充箱を確認していたが、鈴が鳴るより先に顔を上げた。次にクィナスの耳が動き、カウンターの奥にいたオルゼンも入口へ視線を向ける。
扉を開けたのは、薄い灰色の外套をまとった小柄な使いだった。人族にも見えるが、どこか違う。髪は淡い苔色で、耳は少し尖っている。魔術温室区画で働く者特有の、土と水と乾いた葉の匂いがした。
使いは店内を見回し、短く頭を下げた。
「オルゼン商店で間違いありませんか。イェルミナ様より、リュナメル管理責任者のボルガム様へ伝言です」
その言葉を聞いた瞬間、厨房から大きな音がした。
鍋を落としたわけではない。ボルガムが思わず作業台へ手をついた音だった。
「リュナメルか!」
声が店の奥から飛んでくる。
使いは驚かなかった。温室区画から来た者なら、イェルミナ経由である程度話は聞いているのかもしれない。むしろ、少しだけ口元を緩めたようにも見えた。
「はい。白月種と緋月種、二粒とも発芽しました。イェルミナ様は、昼の販売が終わった後に確認へ来るように、と」
その瞬間、厨房の空気が変わった。
ボルガムが表に出てきた。手には粉がついている。前掛けも少し汚れている。だが、目だけは子供のように輝いていた。
「二つともか!」
「二つともです。白月種は非常に細い芽ですが、葉先の色は悪くありません。緋月種は通常種よりやや強く出ています。ただし、イェルミナ様は『浮かれる前に昼の仕事を終わらせろ』とも仰っていました」
ボルガムは大きく笑った。
「言いそうだ! あのダークエルフなら言いそうだ!」
クィナスは即座に帳簿を開いた。
「白月種、緋月種、発芽確認。昼販売後に温室へ確認。ボルガム、非常に嬉しそう。イェルミナさんより、浮かれる前に昼の仕事を終わらせろ、とのこと」
「そこまで書くのか!」
「書きます。重要な伝言です」
レイシャとカイルは、事情を完全には知らない顔をしていた。
カイルは厨房側から顔を出し、首を傾げる。
「リュナメルって何だ? また店主がどっかから拾ってきた変なもんか?」
「半分正解です」
クィナスが言う。
「半分なのかよ」
「リュナメルは南西高地で育つ珍しい果実です。以前、乾燥果実が三つだけ届きまして、そこから種を六粒取りました。通常種四粒はすでに発芽して、魔術温室区画へ移しています。残り二粒は白月種と緋月種という特殊な種で、発芽が難しいため、イェルミナさんの温室で管理していました」
レイシャは静かに聞いていたが、途中でわずかに目を細めた。
「白月種と緋月種。聞いたことがあります。香料や保存加工で、ごく稀に名前だけ出るものです。実物は見たことがありません」
「そんなに珍しいのか?」
カイルが聞くと、クィナスは頷いた。
「珍しいです。しかも、種から育てるとなるとかなり難しいそうです。ボルガムが栽培方法を知っていたので、責任者になっています」
カイルの視線がボルガムへ向く。
「料理だけじゃないのかよ」
ボルガムは胸を張った。
「食い物は土から始まる!」
「それ、前にも聞いた気がするな」
「大事だから何度でも言う!」
昼の販売は、いつもより妙な熱を帯びていた。
ボルガムは嬉しそうだった。明らかに浮かれている。だが、料理は雑にならない。むしろいつもより火を見る目が鋭い。カイルが少しでも鍋の音を聞き逃すと、すぐに声が飛ぶ。
「カイル! 嬉しい時ほど火を見ろ! 気分が浮くと手が浮く! 手が浮くと味が逃げる!」
「芽が出たのはあんただろ! 俺まで浮かれてねえよ!」
「厨房にいる全員が浮かれる可能性がある!」
「どんな理屈だよ!」
「飯は空気を吸うんだ!」
「分かるようで分かんねえ!」
クィナスは販売をしながら、そのやり取りを聞いて少し笑った。レイシャは客の流れを整えながらも、厨房の方へ時々視線を向けていた。彼女には、ボルガムの喜びがただ珍しい植物が芽吹いたというだけではないことが分かっていた。
あの大きな熊族の男は、よく喋る。怒るとさらに喋る。料理のことになると止まらない。だが、リュナメルの話をする時だけ、時折言葉が短くなる。
その短さの奥に、何かがある。
昼包みは完売した。
いつもならそのまま仕込みや共同販売館の補充に入るところだが、今日はオルゼンが店内を見回して言った。
「午後の食品販売は少し遅らせる。ボルガムは温室へ行ってこい。クィナスも記録用に一緒に行くか?」
クィナスは少し迷ったが、首を横に振った。
「今日は店に残ります。レイシャさんは共同販売館の確認がありますし、カイルさんも厨房の片づけがあります。ボルガムが直接見て、イェルミナさんの指示を聞いてきてください。帰ってきたら、私が記録します」
ボルガムは少し意外そうにクィナスを見た。
「いいのか?」
「はい。責任者はボルガムですから」
その言葉に、ボルガムは一瞬だけ黙り、それから大きく頷いた。
「行ってくる!」
「声が大きいです」
「嬉しいからな!」
「それは分かります」
オルゼンも同行しようかと一瞬考えたが、やめた。これはボルガムの話だ。イェルミナとの会話も、おそらく彼だけで向き合う方がいい。
ボルガムは店を出て、魔術温室区画へ向かった。
昼下がりの街を歩く彼の足取りは大きく、しかし急ぎすぎてはいなかった。急いで見に行きたい気持ちはある。だが、走れば気が急く。気が急けば、温室で余計なことをしてしまうかもしれない。そう自分に言い聞かせるように、彼は一定の歩幅で歩いた。
魔術温室区画の黒い木の門に着くと、門はすでに開いていた。
中で待っていたのはイェルミナだった。
灰褐色の肌、銀に近い白髪、深い紫の目。相変わらず、年齢を感じさせない静かな佇まいをしている。長衣の袖には、細かな土がついていた。
「来たか」
「来た!」
「声が大きい。芽が驚く」
「根は驚かねえって前に言ってたろ!」
「芽は驚くかもしれん」
「どっちだ!」
イェルミナはわずかに口元を緩めた。
「浮かれているな」
「浮かれてる!」
「正直なのは悪くない。だが、温室の中では半分にしろ」
「努力する」
「努力ではなく、するんだ」
「……する」
ボルガムは声を落とした。
イェルミナはそれを確認してから、奥の区画へ案内した。
リュナメルの小区画は、以前より少し緑が増えていた。通常種四芽は、最初に移した頃より明らかに大きくなっている。まだ若い苗ではあるが、葉はしっかり開き、茎も細いながらも真っ直ぐだ。
リュナメルの成長は、思ったより早かった。
ボルガムはしゃがみ込み、葉の張りを見た。土の湿り気を確認したい衝動に駆られたが、勝手に触らないように手を止める。
イェルミナが少しだけ感心したように言った。
「触らなかったな」
「触りたかった」
「だろうな」
「だが、勝手に触るなって言われてる」
「よく覚えている」
「食い物のことは覚える」
「リュナメルはまだ食い物ではない。苗だ」
「未来の食い物だ」
イェルミナは少しだけ目を細めた。
「良い言い方だ」
区画の奥、霧石の近くに、小さな鉢が二つ置かれていた。
白月種。
緋月種。
ボルガムは息を止めた。
白月種の鉢には、細く淡い芽が出ていた。茎は通常種より薄く、光を受けると白銀がかった筋が見える。葉はまだ開ききっていないが、先端にほんのりと乳白色が混じっている。
緋月種の方は、もう少し力強かった。赤褐色の種殻が割れ、そこから濃い緑の芽が伸びている。葉脈にうっすら赤い筋があり、通常種よりも野性味がある。
ボルガムはしばらく何も言わなかった。
いつもなら大声を出して喜ぶところだ。だが今は、喉の奥で言葉が止まっている。
イェルミナはその横に立ち、静かに言った。
「二つとも生きている。白月は弱いが、悪くない。緋月は強く見えるが、強いからといって雑に扱えばすぐ拗ねる。どちらも今日からが本番だ」
「……よく出たな」
ボルガムの声は低かった。
「普通なら、片方出れば良い方だ。乾燥果実から取った種なら、なおさら」
「六粒全部、生きた」
「そうだな」
「すげえな」
「お前の初期処理が良かったのだろう。蜂蜜水、湿布、暗所管理。古い農家のやり方だ」
ボルガムは鉢を見つめたまま、少しだけ笑った。
「昔、怒られながら覚えた」
イェルミナは黙っていた。
その沈黙は、続きを急かすものではなかった。話してもいいし、話さなくてもいい。そういう沈黙だった。
ボルガムは白月の芽を見ながら、ぽつりと話し始めた。
「南西高地に近い村にいた時期がある。長くはねえ。俺の村じゃねえし、俺はよそ者だった。熊族なんてその辺じゃ珍しいからな。最初は子供に石を投げられた」
「それは穏やかではないな」
「小石だ。痛くはねえ。だが、婆さんに怒られてた。石を投げるなら畑の石を拾え、客に投げるなってな」
イェルミナは少しだけ笑った。
「畑の者らしい叱り方だ」
「あの村ではリュナメルを育ててた。普通のやつが多かったが、白月も緋月も少しだけあった。村の者はあまり騒がなかった。珍しいってより、手のかかる畑の子供みたいに扱ってた」
ボルガムは緋月種の芽を見る。
「俺は料理の手伝いをしてた。肉を焼いたり、鍋を洗ったり、荷を運んだりな。ある日、畑の婆さんが俺に種の世話をさせた。たぶん、俺が暇そうにしてたからだ」
「暇だったのか」
「暇ではなかった。だが、今思うと暇そうな顔をしてたのかもしれねえ」
「あり得るな」
「おい」
イェルミナは静かに聞いていた。
ボルガムの声はいつもより穏やかだった。喋ってはいるが、騒がしくはない。彼の言葉の中にある村の景色が、温室の薄い霧の中へ浮かぶようだった。
「その村は今、地図にはないと言ったな」
「ああ。古い場所にはもうねえ」
「移動しただけ、とも言った」
「そうだ。山崩れが続いて、畑を守るために村ごと下へ移った。俺が出た後の話だが、人づてに聞いた。全滅したとか、焼けたとか、そういう話じゃねえ。暗い話に聞こえるが、ちゃんと生きてる。たぶん、今も誰かが畑で怒鳴られてる」
イェルミナは紫の目を細めた。
「お前は戻らなかったのか」
ボルガムは少し黙った。
「戻れなかった、の方が近い」
その言葉だけ、重かった。
温室の風が、リュナメルの葉をわずかに揺らした。
ボルガムは続けた。
「俺はその後、色々あった。良い話じゃねえ。料理をしてた時期もあれば、飯を作る手を別のことに使ってた時期もある。あの村で覚えたことを、ずっと大事にしてたわけじゃねえ。忘れてたわけでもないが、思い出さないようにしてた」
イェルミナは何も言わない。
「でも、オルゼンの店でリュナメルを見た時、思い出した。種を見たら、水に浸す温度も、布の湿らせ方も、婆さんの怒鳴り声も出てきた。変なもんだな。肉の焼き方はずっと覚えてたのに、種の世話まで残ってた」
「必要な時に出てきたのだろう」
「そうか?」
「そうだ。知識は持っているだけでは眠る。使う場所が来ると起きる。種と同じだ」
ボルガムは白月種を見た。
小さな芽。
まだ弱い。
けれど確かに生きている。
「なら、起こしてやらねえとな」
「そのための温室だ」
イェルミナはしゃがみ込み、白月種の鉢を確認した。
「リュナメルは成長が早い。特にこの温室なら、通常種は一年でかなり伸びる。実をつけるまではまだ先だが、環境が合えば枝はよく出る。実も一度つき始めれば多い。問題は、最初の数年をどう越えるかだ」
「実は多いのか」
「多い。ただし、放っておくと多すぎる。枝を疲れさせる。最初は摘果が必要になる」
「もったいねえ」
「もったいないと思って残すと、木が弱る」
「分かってる。料理でもそうだ。全部入れればうまくなるわけじゃねえ」
「なら覚えは早いな」
「食い物の話だからな」
イェルミナは緋月種の鉢を見ながら言った。
「緋月は実をつけると重い。枝を支える工夫がいる。白月は香りが強い分、虫を呼ぶことがある。ここの温室なら管理できるが、油断はするな」
「分かった」
「通常種は葉を増やし始めている。来月には支柱を立てる。白月と緋月はしばらく鉢のままだ。根が動くまで触るな」
「触らねえ」
「話しかけるのは?」
「少しだけ」
「大声でなければよい」
ボルガムは笑った。
「なら、後で小声で言っておく。よく出たな、って」
「それくらいなら芽も驚かん」
二人はしばらくリュナメルの前にいた。
会話は多くなかった。
だが、ボルガムには十分だった。
店ではよく喋る。厨房でも喋る。怒っても喋る。嬉しくても喋る。だが、この小さな芽の前では、言葉は少なくていい気がした。
イェルミナは立ち上がり、管理板に記録を刻んだ。
「今日から白月種と緋月種も正式に管理記録へ入れる。クィナスには、私の方から基礎記録を渡す。お前は週に二度は来い。見すぎても駄目だが、見なさすぎるのも駄目だ」
「週に二度か」
「店の方は大丈夫か」
「仲間が増えた。レイシャとカイルがいる。カイルはまだ半人前だが、諦めねえ。レイシャは静かで強え。クィナスは帳簿で全部捕まえる。マスターは……変なものを拾う」
「変なもの?」
「最近も何か拾って帰ってきた顔をしてた。まだ聞いてねえが、あれは絶対何か拾った顔だ」
イェルミナは意味が分からないという顔をしたが、追及はしなかった。
「店主も大変だな」
「俺たちのマスターだからな」
その言葉は、自然に出た。
イェルミナは一瞬だけボルガムを見た。
そして何も言わず、ただ頷いた。
温室を出る前に、ボルガムは白月種と緋月種の前でもう一度しゃがんだ。声は落としていた。
「よく出たな。焦らなくていい。だが、育て」
それだけ言って立ち上がった。
帰り道、ボルガムの足取りは来た時よりさらに軽かった。
店に戻ると、クィナスがすぐに帳簿を構えて待っていた。
「どうでした?」
ボルガムは胸を張った。
「二つとも出た! 白月は細いが生きてる。緋月は強そうだが油断するなって言われた。通常種も伸びてる。来月には支柱だ。リュナメルは成長が早い。実もたくさんつくが、最初は摘果が必要だ。もったいねえが残しすぎると木が弱る。あと週に二度は見に行けって言われた!」
クィナスの手が止まらない。
「ゆっくり言ってください。情報量が多いです」
「嬉しいからな!」
「それは分かりますが、記録が追いつきません」
レイシャが静かに湯を出し、ボルガムの前に置いた。
「まず飲んでください。その後、順番に話すと良いと思います」
カイルは厨房から顔を出した。
「芽が出ただけでそんなに嬉しいのかよ」
ボルガムは真剣に答えた。
「芽が出るってのは、未来が出るってことだ」
カイルは黙った。
その言葉だけは、少し刺さったらしい。
オルゼンはカウンターの奥で赤い鍵をしまったまま、その様子を見ていた。
リュナメルの六粒は、すべて動き始めた。
通常種四つ。
白月種一つ。
緋月種一つ。
まだ実はならない。
まだ金にもならない。
だが、店の未来は確かに芽を出していた。
クィナスは帳簿に最後の一行を書き込む。
『白月種、緋月種、発芽。ボルガム、とても嬉しそう。芽が出るとは、未来が出るということ。』
その一行を見て、ボルガムは少し照れたように鼻を鳴らした。
「そこまで書くのか」
「書きます。良い言葉なので」
「そうか」
「はい」
店の中には、いつもの香りがある。
肉と香草、青塩、焼き菓子、紙包み、木の棚。
そして今日から、その奥にもう一つ。
まだ見えない果実の香りが、ほんの少しだけ加わったような気がした。




