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第023話:右の道

 ラグネルへの近況報告は、思っていたより長くなった。


 リュナメルの通常種四芽は、魔術温室の小区画に移してから大きな異常は出ていない。イェルミナからは「まだ油断する段階ではない」と冷静に釘を刺されているが、葉の色は悪くないらしい。白月種と緋月種はまだ眠らせており、発芽処理に入るのはもう少し先になる。クィナスがまとめた栽培記録を見せると、ラグネルは目を通しながら短く頷き、セイドは別紙へ必要な数字を書き写していた。


 共同販売館の売上についても話した。青塩小包み、香草小包み、黒糖ナッツ焼き菓子は動きが良い。旅人向け調味セットはまだ反応が鈍いが、説明札を変えれば伸びる可能性がある。ラグネルはその報告を聞きながら、売れている品より売れていない品の方に興味を示した。


「売れないものには理由がある。置き場所か、値段か、説明か、客層か。理由を見つければ売れる品になることもある。見つからなければ、棚を空けろ」


 そう言われ、オルゼンは頷いた。売れているものだけを見ると、店は浮かれる。売れていないものを見てこそ、次の手が見える。ラグネルらしい助言だった。


 話が終わった頃には、夕方が近づいていた。


 オルゼンがラグネル食材卸を出ると、街は昼の熱を少し残したまま、夜へ向かい始めていた。市場の声はまだ残っているが、朝や昼の勢いとは違う。荷車は帰り支度に入り、屋台の火は夕方客を狙って強くなり、通りには焼いた肉と果実酒、乾いた木箱の匂いが混じっている。


 店へ戻るには、中央通りを抜けるのが一番早い。


 だが、オルゼンは少しだけ遠回りすることにした。


 理由は大したものではない。ラグネルとの話で頭が熱くなっていたので、少し歩きながら整理したかっただけだ。共同販売館、ミレイユとの連携案、リュナメルの温室費用、レイシャとカイルの正式雇用、夜そぼろ瓶の次の展開。考えることは増え続けている。


 小さな店のはずなのに、ずいぶん遠くまで手を伸ばし始めたものだと、オルゼンは思った。


 その時だった。


 足元に、紙切れが一枚落ちていた。


 最初はただの破れた札かと思った。商人の街では、値札や申請書の切れ端が落ちていることは珍しくない。けれど、それにしては紙の質が妙だった。薄いのに破れていない。泥に触れているのに汚れていない。しかも、夕方の光を受けると表面にわずかに青白い筋が浮かんだ。


 オルゼンは立ち止まり、それを拾った。


 紙には、円と線が描かれていた。


 魔法陣のようだった。


 ただし、術式に詳しいわけではないオルゼンにも、普通のものではないと分かった。線は細かいが、どこか手書きに近い。整いすぎていない。まるで誰かが急いで描いたようで、それでいて一画も乱れていない。


「落とし物か?」


 周囲を見回す。


 近くを歩く者たちは、誰も紙切れを探している様子ではない。荷車を押す小人族の男、果物籠を抱えた獣人の女性、道端で値段交渉をしている旅商人。皆、普通に夕方の用事をこなしている。


 オルゼンは紙切れを手にしたまま、もう一度あたりを見た。


 その瞬間、街の音が遠のいた。


 気づけば、目の前に三叉の道があった。


 オルゼンは足を止める。


 今まで、こんな道はなかったはずだ。


 中央区の裏道には慣れている。ラグネルの店から自分の店へ戻る道も、何度も歩いている。そこに三叉路があったとしても不思議ではないが、今見えている道は明らかにおかしかった。


 左の道は、ゆるやかな下り坂だった。


 夕陽が差し込み、道幅も広く、石畳もきれいに整っている。歩けば楽だろう。荷車も通りやすい。遠くには灯りのある店先のようなものが見える。甘い匂いまで漂ってきそうだった。


 真ん中の道は、平坦だった。


 特に特徴はない。石畳も普通。暗すぎず明るすぎず、通る者もいないが、危険もなさそうに見える。ただ進めば、どこかへ着く。そんな道だった。


 右の道は、急な上り坂だった。


 石は欠け、途中には段差があり、手すりもない。道幅も狭い。上の方は夕方の光が届かず、少し暗い。進むには息が切れそうで、途中で足を取られそうな道だった。


 そして、その三つの道が分かれる場所に、小さな影が立っていた。


 フードを被った子供のように見えた。


 背は低い。顔は影になって見えない。性別も分からない。ただ、そこに立っているだけで、周囲の空気から少し浮いている。


 その子供らしき影が、オルゼンを見上げた。


「あなたが進む道は、どの道?」


 声は幼いようで、そうでもなかった。


 遠くから聞こえるようで、耳元に届くようでもある。


「左の道は楽な下り坂。足を止めずとも進めるし、荷も軽く感じる。真ん中の道は平らな道。大きな変化はないが、大きく迷うこともない。右の道は急な上り坂。疲れるし、転ぶかもしれないし、先もよく見えない。あなたは、どの道を選ぶ?」


 オルゼンは三つの道を見た。


 変な状況だとは思った。


 魔法か、幻か、夢か、罠か。


 手の中の紙切れはまだ温かい。指先には何かが残っている。青塩やリュナメルに触れた時とは違う。これは物の価値ではない。選択の気配だった。


 楽な道。


 平らな道。


 苦しい道。


 そんなものを急に聞かれれば、普通は迷うのだろう。


 けれど、オルゼンは思ったほど迷わなかった。


 左の下り坂は魅力的だった。


 楽はしたい。楽に売上が増えるなら、その方がいい。苦労せず金が入り、誰も疲れず、問題も起きず、商品も勝手に売れていくなら、そんなに良いことはない。


 だが、そんな道はたいてい長く続かない。


 真ん中の道も悪くはない。


 平らで、安定している。今の店を大きく変えず、無理をせず、同じような日々を続ける。朝包みを売り、昼包みを売り、夜そぼろ瓶を時々出し、共同販売館に少し置く。それでも十分に生活はできるかもしれない。


 けれど、それだけではリュナメルは育てられない。


 温室費用も、出資金の返済も、雇った二人の将来も、今のままでは足りなくなる日が来る。


 右の上り坂は面倒そうだった。


 見ただけで疲れる。進めば転ぶかもしれない。途中で引き返したくなるかもしれない。そもそも上った先に何があるかも分からない。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 オルゼンは右の道へ足を向けた。


 フードの子供が、明らかに驚いたように顔を上げる。


「そちらへ行くの?」


「行く」


「まず、そちらを選ぶ者はいない。左を見る者は多い。真ん中を選ぶ者もいる。右を見る者はいても、最初に足を向ける者は少ない。あなたはなぜ、わざわざ苦しい道を選ぶの?」


 オルゼンは右の坂を見上げた。


 石の欠けた道。薄暗い上り。楽ではない道。


「人生なんて、だいたい上り坂みたいなものだろ」


 子供は黙っていた。


 オルゼンは続けた。


「楽はしたい。疲れない方がいいし、面倒は少ない方がいい。けど、楽な道ばかり選ぶと、たぶん停滞する。楽に見える下り坂は、下っているうちは気持ちいいかもしれないが、後で上り直すのが大変だ」


 自分で言いながら、店のことを思い浮かべていた。


 青塩をただ売るだけなら簡単だった。


 夜そぼろ瓶を売れたからと毎日出せば、目先の金は増えたかもしれない。


 リュナメルの温室など借りずに、今ある商品だけ回していれば楽だった。


 レイシャやカイルを雇わなければ、人件費も増えなかった。


 共同販売館に棚を出さなければ、管理の手間もなかった。


 どれも、やらなければ楽だった。


 だが、やらなければ店はそのままだ。


「今は大変でも、仲間と一緒に進めるなら悪くない。俺一人で上るなら嫌になるかもしれない。でも、クィナスが帳簿を持って文句を言いながらついてくる。ボルガムが大声で飯を作りながら上ってくる。レイシャは静かに周りを見ているだろうし、カイルは文句を言いながらも火の見方を覚える。そういう道なら、苦しくてもきっと楽しい」


 子供は何も言わない。


 オルゼンは一歩、右の坂へ進んだ。


「だから、右だ」


 その瞬間、風が吹いた。


 石畳の匂いが消え、遠くの市場の声が戻ってきた。


 オルゼンは瞬きをした。


 目の前に三叉路はなかった。


 いつもの裏通りだった。


 夕方の街。


 屋台の声。


 荷車の音。


 通り過ぎる人々。


 さっきまでそこにいたフードの子供もいない。


 オルゼンは手元を見た。


 魔法陣の描かれた紙切れも消えていた。


 代わりに、足元に小さな赤い鍵が落ちていた。


 赤い、と言っても鮮やかな赤ではない。古い銅に血のような色が薄く混じった、小さな鍵だった。鍵穴に入れる部分は細く、柄の部分には小さな三叉の模様が刻まれている。


 オルゼンはそれを拾い上げた。


 指先に触れた瞬間、短い感覚が残る。


 扉。


 上り坂。


 灯り。


 そして、まだ開かれていない何か。


「……また変なものを拾ったな」


 自分でそう呟いて、苦笑した。


 店に帰れば、クィナスが必ず帳簿に書く。ボルガムは「食えるのか」と聞くかもしれない。レイシャは静かに警戒し、カイルは「店主って変なものばっか拾うんだな」と口を悪くして言うだろう。


 その想像が、妙に自然だった。


 オルゼンは赤い鍵を上着の内側にしまい、店へ向かって歩き出した。


 右の道を選んだ後だからか、いつもの帰り道が少しだけ上り坂に見えた。だが、不思議と足取りは重くなかった。


 店に近づくと、厨房からボルガムの声が聞こえた。


「カイル! 火を見ろって言っただろ! 鍋だけ見るな! 音を聞け!」


「聞いてるよ!」


「聞いてる顔じゃねえ!」


「顔で聞くわけねえだろ!」


 店の中からクィナスの声もした。


「二人とも、外まで聞こえています。通行人が鍋の音を聞きに来ますよ」


 レイシャの静かな声が続く。


「実際に一人、足を止めています」


「ほら見ろ!」


「俺のせいかよ!」


 オルゼンは扉の前で少し笑った。


 そして、赤い鍵の感触を確かめながら、店の扉を開けた。


 鈴が鳴る。


 いつもの音だった。


 けれど、その日からオルゼンの持ち物に、小さな赤い鍵が一つ加わった。

 まだ何を開けるのかは、誰も知らない。

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