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第020話:厨房に入る前に見るもの

 男の名前は、カイルと言った。


 手続きそのものは、驚くほど早く終わった。斡旋所の職員は、先ほどの一件で顔色を悪くしていたが、それでも仕事は仕事として進めた。試用期間、賃金、勤務時間、仕事内容、正式雇用前の確認事項。クィナスが一つひとつ読み上げ、オルゼンが内容を確かめ、カイルは面倒そうな顔をしながらも、意外なほど真面目に聞いていた。


「料理補助ってことは、いきなり包丁を握らせてもらえるわけじゃないんだな」


 カイルが確認すると、ボルガムは大きな腕を組んで当然のように頷いた。


「当たり前だ。厨房に入った初日から好きに切らせるわけがねえ。皿を洗う、床を拭く、火の位置を覚える、材料の置き場を覚える、客の流れを覚える。包丁はその後だ。料理ってのは、食材を切る前から始まってる」


 その言い方は厳しかったが、拒絶ではなかった。カイルは一瞬だけ眉を寄せたものの、反論はしなかった。斡旋所を何度も追い出されてきた男にしては珍しいほど、今の言葉には素直に耳を傾けているように見えた。


 レイシャはその様子を黙って見ていた。彼女は手続き中、ほとんど言葉を発しなかった。いつものように静かだったが、今日の沈黙は少し違う。先ほど、クィナスとボルガムが一瞬でカイルの命を奪える位置へ移動した。その光景が、まだ彼女の中に残っているのだろう。


 オルゼンはそれに気づいていたが、あえて触れなかった。


 手続きを終え、五人は斡旋所を出た。


 昼下がりの通りは賑やかだった。荷車が行き交い、職人たちが木材を運び、屋台の香ばしい匂いが風に乗る。いつもの都市の音だ。だがレイシャだけは、その音の中でもわずかに距離を置いて歩いていた。


 一方で、クィナスとボルガムはいつも通りだった。


「カイルさん、明日から来るなら遅刻はしないでくださいね。うちは朝が早いです。開店前に仕込みが始まりますし、朝包みは十個限定とはいえ、準備は十個分だけでは済みません。包み紙、火入れ、具材の確認、掃除、全部あります」


「分かってるよ。料理屋で働いたことくらいある」


「それで何度も辞めているなら、分かっているとは言い切れませんね」


「はっきり言う猫だな」


「帳簿に嘘は書けませんので」


「会話まで帳簿基準かよ」


 クィナスはにこにこしていたが、言葉には遠慮がなかった。カイルも口が悪いが、先ほどの一件が効いているのか、最初ほど無礼ではない。


 ボルガムは大きな声で続けた。


「店の場所は中央通りから一本入ったところだ。黒板が出てる。朝は焼いた肉の匂いがするから分かる!」


「匂いで店を探せってか」


「いい匂いを辿れば来られる!」


「迷ったらどうすんだよ」


「迷うな!」


「無茶言うな」


「迷ったら人に聞け! 『声の大きい熊族がいる店はどこだ』ってな!」


 カイルは少し呆れた顔をしたが、笑いをこらえているようにも見えた。


 オルゼンはそんなやり取りを聞きながら、店までの道順を説明した。共同販売館の近くから中央通りへ出て、香料店の角を曲がり、古い噴水を過ぎた先の裏通り。そこに店がある。カイルは一度聞いただけで覚えたようだった。口は悪いが、頭は悪くない。


 店の前まで来ると、オルゼンは立ち止まった。


「明日の朝、開店前に来てくれ。最初の数日は試用だ。厨房補助として入ってもらうが、まずは店の流れを見ることから始める。料理の腕を見せる前に、店の速度に慣れてもらう」


 カイルは店を見上げた。


 古い二階建ての小さな店。黒板には朝昼夜の限定商品が書かれ、棚越しに珍しい品が見える。大きな看板もなければ、豪華な外装もない。だが、人の出入りがあり、匂いがあり、何より中から熱がある。


 カイルは少しだけ黙ってから言った。


「思ってたより小さいな」


 クィナスの耳がぴくりと動く。


 ボルガムも眉を上げた。


 だがカイルはすぐに続けた。


「でも、忙しそうだ」


 その一言で、二人の反応が少しだけ緩んだ。


 オルゼンは頷いた。


「小さいが、暇じゃない」


「見りゃ分かる。明日来る」


 カイルはそれだけ言って、通りの向こうへ歩いていった。


 その背中を見送りながら、レイシャが初めて口を開いた。


「彼は、続くでしょうか」


 静かな問いだった。


 ボルガムは腕を組む。


「続くかどうかは分からねえ。でも、諦めねえ顔はしてた」


 クィナスは帳簿を抱え直しながら言った。


「口が悪いのは問題です。ですが、こちらの指示を聞けない人ではなさそうです。問題は、忙しい時に自分の癖を出すかどうかですね」


 オルゼンは店の入口の札を見た。


「それは明日から分かる」


 翌朝、カイルは遅刻せずに来た。


 それだけでボルガムは少し満足そうだった。


「よし、来たな!」


「来るって言っただろ」


「言って来ない奴もいる!」


「どんな職場だよ」


「世の中だ!」


 カイルは呆れたように息を吐いたが、厨房へ入る前に手を洗い、上着を脱ぎ、渡された前掛けを身につけた。手つきは雑ではない。むしろ、料理の場に入る前の最低限の動作は身についている。


 ボルガムはそれを見て、何も言わなかった。


 褒めない。


 だが、叱りもしない。


 それが最初の評価だった。


 朝の仕込みが始まると、カイルはすぐに店の忙しさを知ることになった。


 開店前から、やることが多い。


 厨房ではボルガムが具材の火入れを確認し、包み料理の中身を朝用に整える。クィナスは棚の配置を見直しながら、朝に売れやすい商品を少し前に出す。オルゼンは小銭、紙包み、黒板、昨日の売上記録を確認する。レイシャは共同販売館へ持っていく補充品の箱を確認していた。


 誰も無駄に動いていない。


 しかし、誰も止まってもいない。


 カイルは最初、厨房の隅に立ったまま、何をすべきか一瞬迷った。


 ボルガムはそれを見て、大声で言った。


「立つな! 見るなら邪魔にならねえ場所で見ろ! 動けと言われるまで動くな。ただし、言われたらすぐ動け!」


「無茶苦茶だな」


「厨房は無茶苦茶に見えて、全部順番がある! まずはそれを見ろ!」


 カイルは反論しようとしたが、やめた。


 ボルガムの手元を見たからだ。


 大きな手が、信じられないほど正確に動いている。肉を返す。香草を散らす。根菜の柔らかさを指先で確かめる。火から外す。冷ます。包む順番を組み立てる。その一つひとつに意味がある。


 ただ大きな声の熊族ではない。


 厨房にいる時のボルガムは、完全に場を支配していた。


 開店すると、さらに忙しくなった。


 朝包みを求める客が並ぶ。クィナスが客をさばきながら、同時に物販棚へ目を配る。レイシャはまだ正式な販売員ではないが、店内の混雑を見て、客の流れを邪魔しない位置へ自然に移動し、商品を受け取る客の動線を整えた。


 カイルはそれを見て、少し目を細めた。


 龍人族の女は、静かに動く。


 だが一歩の位置取りが異常に正確だった。


 客に触れない。邪魔にならない。それでいて、誰かが転びそうになればすぐ支えられる位置にいる。


 カイルは料理補助として来たはずなのに、気づけば厨房だけでなく店全体を見ていた。


 しかし、見ることと動けることは別だった。


 ボルガムが皿を洗うよう指示した時、カイルはすぐ動いたが、洗った皿を置く位置を間違えた。次の包み紙を取ろうとしたボルガムの肘に近すぎたのだ。


「そこじゃねえ!」


 ボルガムの声が飛ぶ。


「邪魔か?」


「邪魔だ! 皿は右奥、濡れた布は左、乾いた紙は火から遠ざけろ! 厨房は置き場所を間違えると、次の手が死ぬ!」


 カイルは舌打ちしかけたが、飲み込んだ。


 その代わり、皿を移した。


 次に、焼き上がった包みを紙に置く時、熱いものと冷めたものの順番を間違えた。


「それも違う!」


「まだ駄目かよ」


「まだ駄目だ! 熱いものを重ねると蒸れる。蒸れると皮が負ける。皮が負けると客が歩きながら食った時に崩れる!」


 カイルは一瞬だけ固まった。


 ただ包むだけではない。


 客が歩きながら食べるところまで考えている。


 ボルガムは続けた。


「料理は皿の上で終わらねえ。この店の包み料理は、客の手の中で完成する。だから包み方も味の一部だ!」


 その言葉は大きかったが、単なる怒鳴り声ではなかった。


 カイルは黙って頷いた。


 朝包みは完売した。


 カイルは何度も失敗したが、投げ出さなかった。


 昼の仕込みに入る頃には、少しだけ動きが変わっていた。


 皿を置く位置を覚えた。


 濡れた布と乾いた紙を分けた。


 火のそばに置いてはいけないものを理解した。


 まだ遅い。


 まだ迷う。


 だが、同じ失敗を何度も繰り返すほど鈍くはなかった。


 昼前、少しだけ店が落ち着いた時間に、ボルガムはカイルへ水を渡した。


「飲め」


 カイルは受け取り、半分ほど飲んだ。


「思ってたより忙しいな」


「だから言ったろう。小さい店でも暇じゃねえ」


「料理補助って、もっと切ったり焼いたりすると思ってた」


「それは後だ。まず流れを読め。どこに客が来て、何が減って、何が詰まって、誰が次に何をするか。厨房は火だけ見てたら駄目だ。店全体の息を見ろ」


 カイルは水の入った杯を見つめた。


「店全体の息ね」


「できねえか?」


 挑発ではなかった。


 確認だった。


 カイルは少し笑った。


「できるまでやる」


 その言葉に、ボルガムは満足そうに笑った。


「それでいい」


 その日の営業は、いつも以上に疲れるものになった。


 新しい人が入ると、慣れるまで逆に手間が増える。ボルガムは教えながら料理をしなければならず、クィナスはカイルの動きが販売側に影響しないか確認し、レイシャは静かに客の流れを支えた。


 それでも、店は回った。


 夕方にはカイルも少しだけ慣れ、皿洗い、紙包みの補充、冷蔵箱からの材料出し、洗った道具の戻し場所くらいは迷わずできるようになっていた。


 最後の客が帰り、入口の札が『閉店』に変わる頃、カイルは作業台にもたれかかりそうになっていた。


「疲れたか?」


 オルゼンが聞くと、カイルは意地を張るように顔を上げた。


「このくらいで疲れたとは言わねえ」


 ボルガムが大きく笑った。


「疲れてる顔だ!」


「うるせえ」


「だが逃げなかったな」


 その言葉に、カイルは黙った。


 ボルガムは厨房の片づけをしながら言う。


「今日は包丁を握らせなかった。皿を洗わせて、紙を取らせて、置き場所を覚えさせただけだ。それでも厨房の半分は見えただろう。料理人になりたいなら、まずはそこで折れるな」


 カイルは少し長く息を吐いた。


「……あんた、ただ声がでかいだけじゃねえんだな」


 クィナスの耳がぴくりと動いた。


 レイシャも静かにそちらを見る。


 ボルガムは一瞬だけ目を丸くしたあと、豪快に笑った。


「当たり前だ! 俺は声もでかいが腕もある!」


「そこは否定しないんだな」


「事実だからな!」


 カイルは呆れたように笑った。


 その笑いには、朝にはなかったものが混じっていた。


 認めたくないが、少しだけ認めた。


 そんな色だった。


 クィナスは帳簿を開き、今日の記録を書いた。


『カイルさん、試用一日目。口は悪い。動きは粗い。だが同じ失敗は減る。厨房の流れを覚え始めた。諦める様子なし』


 少し考え、さらに一行足す。


『ボルガム、教育時の声量大。ただし内容は正確。カイルさん、逃げず』


 カイルはそれを見て眉を寄せた。


「俺のことも帳簿に書くのかよ」


「店の人間になる可能性があるなら、当然です」


「悪口じゃねえだろうな」


「事実です」


「事実が一番刺さるんだよ」


 ボルガムが笑う。


「いいこと言うな!」


「言ってねえよ」


 そのやり取りを見ながら、レイシャは静かに立っていた。


 まだ彼女は多くを語らない。


 だが、昨日より少しだけ店の中に馴染んでいるように見えた。


 オルゼンはそれを見て、少しだけ安心した。


 店は変わっていく。


 三人だけだった場所に、レイシャが入り、カイルが入ろうとしている。


 変化は不安でもある。


 だが、必要な変化だった。


 リュナメルのためにも。


 共同販売館のためにも。


 これから増える客のためにも。


 そして何より、三人が三人のまま潰れないためにも。


 閉店後、カイルは前掛けを外し、疲れた顔で店を出ようとした。


 その背中に、ボルガムが声をかける。


「明日も来い」


 カイルは振り返らずに答えた。


「言われなくても来る」


「遅れるなよ!」


「分かってるよ!」


 扉の鈴が鳴り、彼は夜の通りへ出ていった。


 その音が消えたあと、クィナスがぽつりと言う。


「続きそうですね」


 ボルガムは腕を組み、満足そうに頷いた。


「まだ分からん。でも、あいつは諦めねえ」


 オルゼンはカウンターの上を片づけながら言った。


「なら、最初の条件は満たしてるな」


「おう」


 ボルガムは厨房へ戻りながら、どこか楽しそうに呟いた。


「明日は火の見方を教える」


 それは弟子を取る者の声だった。


 本人はまだ、そのつもりではないのかもしれない。


 だが、店の中にいる誰もが少しだけ思っていた。


 カイルがいつか、ボルガムを師匠と呼ぶ日が来るかもしれない、と。

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