第021話:弱いからこそ、よく見える
レイシャの試用期間が明けたのは、共同販売館に商品を置き始めてから少し経った頃だった。
特別な儀式があったわけではない。
オルゼンが閉店後に雇用条件の書類を出し、クィナスが内容を読み上げ、レイシャが静かに署名しただけである。だがその瞬間から、彼女は試用ではなく、正式にオルゼン商店の従業員となった。
「改めて、よろしくお願いします」
レイシャはいつもと変わらない調子で頭を下げた。背筋は真っ直ぐで、声は落ち着いている。試用期間中と何も変わっていないように見えるが、クィナスはその尾のように流れる外套の裾の動きが、ほんの少しだけ柔らかくなったことに気づいていた。
「こちらこそよろしくお願いします、レイシャさん。共同販売館の棚管理は、想定以上に助かっています。売上記録、補充数、説明札の破損報告、客からの質問内容、どれも正確です。帳簿担当としては非常にありがたいですね」
クィナスがそう言うと、レイシャはわずかに目を細めた。
「クィナスさんの記録札がよくできています。記入する場所が決まっているので、迷いが少ないです」
「褒めていますか?」
「はい」
「では帳簿に書きます」
「そこまでしなくても」
「します。貴重な正式褒め言葉です」
ボルガムが厨房から大声で笑った。
「レイシャ、うちに入った以上、褒め言葉も帳簿に残るぞ! 逃げられん!」
「それは少し怖いですね」
「慣れろ!」
「努力します」
オルゼンはそのやり取りを見ながら、レイシャが以前より自然に返していることに気づいた。最初はどこか店の外に立っているようだった彼女が、今では店内の会話に一拍遅れず加わる。多くを語る性格ではないが、それでも店の空気を乱さない形で存在していた。
カイルの方は、まだ試用期間中だった。
ただし、初日とは比べものにならないほど動けるようになっていた。皿の置き場所を間違えなくなり、濡れ布と乾いた紙を混ぜなくなり、火の近くに置いていいものと駄目なものを覚えた。まだ包丁を持つ時間は短いが、根菜の下洗いや包み紙の準備、冷蔵箱からの材料出し、使い終わった道具の戻しはかなり速くなっている。
メンバーの中で、カイルは一番弱かった。
それは単純な戦闘力の話だけではない。
オルゼンには品の価値を見る感覚がある。クィナスは帳簿と接客、そして表には出さない異常な反応速度を持つ。ボルガムは料理人としての腕に加え、力も体力もずば抜けている。レイシャは静かに隠しているが、戦闘能力も知能も相当高い。
その中でカイルは、料理人としての素地はあるが、まだ未熟だった。力も特別ではない。頭は悪くないが、クィナスのように全体を記録する目はない。戦える気配もない。
だからこそ、彼はよく見た。
自分が遅れることを知っている者は、周囲を見るしかない。自分が一番下にいると分かっている者は、上の者の動きを盗むしかない。カイルは口こそ悪いが、その点だけは妙に素直だった。
朝の仕込み中、ボルガムが肉を叩いていると、カイルは横からじっと見ていた。
「何を見てる」
ボルガムが聞くと、カイルは手を止めずに答えた。
「叩く強さが毎回違う。最初は全部同じに潰してるのかと思ったけど、脂が多いところと赤身のところで音が違う。筋に近い場所だけ、少し細かくしてるだろ」
ボルガムの手が止まった。
「分かるか」
「分かるというか、気づいた。なんで同じ端肉をわざわざ分けて叩くのかと思ってた。全部まとめて細かくした方が早いのに、そうしないから」
「まとめて叩くと、味は出るが食感が死ぬ。そぼろは細かい肉だが、噛んだ時に肉を食ってる感じがいる。脂は潰しすぎると重い。赤身は残しすぎると馴染まない。筋に近いところは細かくして煮ると旨みが出る」
カイルはその説明を聞きながら、まな板の上を見つめた。
「じゃあ、そぼろって意外と面倒なんだな」
「意外とじゃねえ。かなり面倒だ」
「昨日、別の店で似たようなのを見た。安かったけど、あれじゃ駄目なのか」
ボルガムは鼻を鳴らした。
「駄目とは言わねえ。普通に飯には合うだろう。だが、うちのとは違う。肉を刻んで濃く煮れば形は真似できる。でも、火を止める場所、冷ます時間、瓶に詰める時の脂の残し方、そこまで真似しねえと同じにはならねえ」
カイルは少しだけ笑った。
「限定商品は伊達じゃないってわけか」
ボルガムは満足そうに笑った。
「そうだ! 伊達じゃねえ!」
その日の夕方、久しぶりに夜そぼろ瓶が販売された。
良い端肉がラグネルから入った日だった。基本、甘め、辛めの三種。数は多すぎない。味が落ちる前に出せる範囲だけ。
カイルにとって、販売当日に厨房側から見る夜そぼろ瓶は初めてだった。
彼は瓶詰めされたそぼろが木箱に並んだ時点で少し驚いていたが、本当に驚いたのは販売が始まってからだった。
黒板に「本日、夜そぼろ瓶あり」と書かれた途端、夕方の客足が変わった。普段なら少しずつ入ってくる客が、今日は時間を合わせたように来る。基本を買う者、甘めを子供用に買う者、辛めを酒の供にすると決めている職人。三種を一瓶ずつ買う者も多かった。
カイルは厨房の入口からその様子を見て、思わず呟いた。
「なんだよ、これ。瓶詰め肉でこんなに来るのか」
クィナスは販売をさばきながら、聞き逃さずに答えた。
「瓶詰め肉ではなく、夜そぼろ瓶です。名前も味も説明も、全部合わせて商品です」
「いや、それでもすごいだろ。昨日まで普通に包み料理買ってた客が、今日は瓶を狙って来てる」
「それが限定商品の力です。ただし、嘘で煽るとすぐ嫌われます。出す日は出す。出せない日は出せない。美味しくない日は出さない。それを続けたから、今日の列があります」
カイルは少し黙った。
そして、小声で言った。
「そういうの、前の店じゃ誰も教えてくれなかったな」
その声は、普段の棘が少し抜けていた。
レイシャが近くで商品の袋詰めを手伝いながら、静かに彼を見た。彼女はここ数日、カイルの変化を観察していた。彼は弱い。少なくともこの店の中では、圧倒的に弱い。だから最初は、すぐに折れるか、反発して出ていくと思っていた。
だが違った。
カイルは疑問を持つ。納得するまで見る。分からなければ聞く。口は悪いが、聞いた後は試す。失敗して怒られても、翌日また来る。
レイシャはそれを、少し不思議に思っていた。
「カイルさんは、よく質問しますね」
販売が一段落した後、レイシャがそう言うと、カイルは少し嫌そうな顔をした。
「悪いかよ」
「悪くありません。むしろ感心しています。分からないことを分からないままにしない人は、吸収が早いのだと思いました」
カイルは言葉に詰まった。
褒められることに慣れていない顔だった。
「……別に、褒められるようなことじゃねえだろ。分からないまま動いたら、また怒鳴られるだけだ」
「それでも、聞かずに分かったふりをする人は多いです」
レイシャの声は静かだったが、そこには実感があった。
「あなたは分かったふりをしません。自分が今どこにいるかを見ている。だから早いのだと思います」
カイルは視線を逸らした。
「龍人族って、さらっと変なこと言うんだな」
「変でしょうか」
「変だよ。普通はもっと馬鹿にする」
「馬鹿にしてほしいのですか?」
「いらねえよ」
そのやり取りを、クィナスはしっかり聞いていた。
もちろん帳簿に書いた。
一か月が過ぎる頃、カイルの試用期間も終わった。
その日も、特別なことはしなかった。レイシャの時と同じように、閉店後のカウンターに書類が置かれた。オルゼンが雇用条件を説明し、クィナスが賃金と勤務内容を読み上げ、ボルガムが腕を組んで横に立った。
カイルは少し居心地悪そうにしていた。
「なんだよ。改まると変な感じだな」
「正式採用の手続きです」
クィナスが言う。
「試用期間中の記録では、遅刻なし。無断欠勤なし。口の悪さは改善余地あり。同じ失敗の繰り返しは減少。厨房内の配置把握は良好。火の見方はまだ不安あり。包丁作業は基礎段階。客前での態度は厨房内より少し良い。総合して、正式採用に問題なしと判断しました」
「最後、普通に恥ずかしいんだけど」
「帳簿なので」
「その言葉、便利すぎるだろ」
ボルガムが大きく笑った。
「まだまだだが、逃げなかったからな! 俺はそこを評価してる!」
カイルは少しだけ顔をしかめた。
「逃げるほどじゃなかっただけだ」
「じゃあ明日からも逃げるな!」
「逃げねえよ」
オルゼンは書類を差し出した。
「正式に雇う。仕事内容は厨房補助。最初のうちは今まで通り、仕込み補助、片づけ、材料出し、紙包み準備、簡単な下処理。包丁作業はボルガムの許可がある範囲で。賃金は試用中より上げる」
カイルは書類を見た。
しばらく黙っていた。
辞めるという選択肢は、彼の中にもうほとんどなかった。
この店は忙しい。怒られる。覚えることが多い。ボルガムは声が大きいし、クィナスは帳簿に何でも書くし、レイシャは何を考えているか分かりにくいし、オルゼンは普通の顔をして時々妙な判断をする。
それでも、毎日知らないことがある。
火の見方。
肉の叩き方。
客の流れ。
限定商品の意味。
保存食の売り方。
料理が、ただ皿に乗るものではなく、店全体で作られているということ。
それが面白かった。
「なあ」
カイルは書類に署名する前に、ボルガムを見た。
「明日、何したらいい?」
ボルガムは少しだけ目を丸くした。
「明日か?」
「正式に入るなら、今までと同じだけじゃねえだろ。何覚えりゃいい」
その言葉に、レイシャがわずかに表情を動かした。
感心したのだ。
正式採用が決まった直後に、待遇ではなく次に何を覚えるかを聞く。
それは、働く場所を確保した者の言葉ではなく、成長する場所を見つけた者の言葉だった。
ボルガムはゆっくり笑った。
「明日は火だ」
「火?」
「火の強さを見る。鍋の音を聞く。匂いの変わる場所を覚える。焦げる前の匂い、火が弱い時の水っぽい匂い、脂が立った時の音。包丁より先に火だ」
カイルは少しだけ息を呑んだ。
「難しそうだな」
「難しいぞ!」
「じゃあやる」
「よし!」
ボルガムは嬉しそうだった。
クィナスは帳簿に書き込む。
『カイルさん、正式採用決定。署名前に明日の学習内容を質問。ボルガム、火を見ることを教える予定。本人、辞める気配なし。好奇心あり』
レイシャはその一文を見て、静かに言った。
「貪欲だから、吸収が早いのかもしれませんね」
カイルは顔をしかめた。
「おい、本人の前で分析するな」
「事実です」
「事実が一番刺さるんだって」
「それ、以前も言っていましたね」
「覚えてるのかよ」
「私は記憶力がいいので」
クィナスがすかさず言う。
「では、レイシャさんの発言も記録します」
「それは必要ですか?」
「必要です。正式従業員が正式従業員を評価した記録です」
「そう言われると断りにくいですね」
店内に笑いが広がった。
最初は三人だった。
そこへレイシャが入り、カイルが入った。
まだ完全に馴染んだわけではない。五人になったことで、店の流れも少し変わった。クィナスの帳簿はさらに厚くなり、ボルガムの声は教育の分だけ増え、オルゼンは人件費と販路と温室費用を同時に考えなければならない。
だが、それでも店は前へ進んでいた。
共同販売館の棚は少しずつ売上を作っている。保存食棚の反応も悪くない。夜そぼろ瓶は出せば売れる。リュナメルは温室で育っている。レイシャは静かに店の外との道を繋ぎ、カイルは厨房の中で毎日何かを覚えている。
閉店後、カイルは署名を終え、少し乱暴に木筆を置いた。
「これで正式ってわけか」
「そうだ」
オルゼンが頷く。
「よろしく頼む」
カイルは少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「まあ、続けられるだけ続ける」
ボルガムが大きく笑った。
「違う! 続けられるだけじゃねえ! 続けるんだ!」
カイルはその声に耳を押さえそうになりながらも、少し笑った。
「分かったよ、うるせえな。続ける」
その返事を聞いて、ボルガムは満足そうに頷いた。
そして翌朝、カイルは開店前の厨房で鍋の前に立つことになる。
包丁ではなく、火を見るために。
料理人としての道は、まだ始まったばかりだった。




