第002話:店主が店を出たあと
包みの仕込みが始まる頃、オルゼンは店の奥で上着を羽織った。
朝の混雑はすでに落ち着いている。
棚の品は少し減り、甘味の冷蔵箱には白蜜プリンが二つだけ残っていた。
朝包みは当然のように完売。
その完売札を見て悔しがる客が、さっきまで三人ほど入口で嘆いていた。
いつもの昼前だ。
ただ、いつもと違うものがひとつある。
棚の奥に残った青塩だ。
「南門へ行くんですね、マスター」
クィナスが帳簿を閉じながら言った。
「様子を見るだけだ」
「様子を見るだけで済んだこと、ありましたっけ?」
「あるだろ」
「では、帳簿に記録しておきます。マスターが様子を見るだけで帰ってきた貴重な日、と」
「嫌な記録だな」
オルゼンは苦笑した。
厨房では、ボルガムが昼包み用の肉を豪快に刻んでいる。
ただし包丁さばきは見た目に反して細かい。
野菜の大きさも揃っている。
「マスター、南門に行くなら腹に入れてから行け!」
「昼前に戻るつもりだ」
「戻るつもりと戻れるかは別だ! 人生も肉も予定通りには焼けん!」
「また焦げる話か?」
「今度は焼け具合の話だ!」
クィナスが棚の値札を直しながら、さらりと言う。
「では、店はどうします?」
「昼までは臨時休業にする」
「おや」
クィナスの耳がぴくりと動いた。
「マスターが臨時休業を選ぶとは珍しいですね。売上より安全ですか?」
「青塩を買いに来た客が、すぐ戻ってくるかもしれない」
「それなら私たちだけでも対応できますよ」
「対応できるのは知ってる」
オルゼンは棚の奥の青塩を手に取った。
小瓶の中で、蒼い粒がかすかに鳴るように揺れる。
「だが、店で揉める必要はない。こっちが売る気を見せている間は、相手も客の顔をしてくる。なら、一度肩透かしさせる」
クィナスは少しだけ目を細めた。
「なるほど。買いに来た相手に、買う場所が閉まっていると思わせる」
「そうだ」
「でも、完全に閉めると不自然です。朝に営業して、昼に急に閉める理由がいります」
「仕込み都合でいい」
「弱いです」
「弱いか」
「弱いです。マスター、商売に嘘を混ぜるなら、匂いが自然な嘘にしてください」
オルゼンは少し考えた。
するとボルガムが厨房から顔を出した。
「なら、こうだ! 『本日昼包み、仕込み直しのため遅れます』でいい!」
「仕込み直し?」
「肉の漬け込みを変える! 嘘じゃねえ! 今から少しだけ味を変えればいい!」
クィナスがぽんと手を打った。
「いいですね。完全休業ではなく、昼の販売を遅らせる形。常連にも納得されます。ついでに物販も少しだけ閉める。理由は厨房側の香り移り防止」
「香り移りなんてするのか?」
「しません」
「おい」
「でも、それらしいです」
オルゼンは笑った。
「じゃあ、それで頼む」
クィナスはすぐに黒板へ向かった。
白墨を手に、流れるような字で書いていく。
『本日、昼包みは仕込み直しのため少し遅れます。
物販も昼過ぎまで一時休止。
甘味は残り二つ。取り置き不可。』
「最後の一文、必要か?」
「必要です。白蜜プリン目当ての老魔術師が窓から覗く可能性があります」
「そこまで?」
「そこまでです」
ボルガムが大きく頷いた。
「甘味を求める老人は強いぞ、マスター!」
「妙な説得力があるな」
クィナスは看板を入口に出した。
そのまま、扉の札を『準備中』へ変える。
店内の空気が少しだけ静かになる。
だが、それは休みの静けさではなかった。
オルゼンには分かる。
クィナスは帳簿を抱えたまま、店内の見通しを確認している。
ボルガムは厨房に戻ったが、いつもより足音が軽い。
二人は、ただの店員として動いている。
けれど、その目は店の外も見ていた。
「マスター」
クィナスがいつもの調子で言った。
「お帰りは昼包みが売り切れる前にお願いしますね。店主不在だと、値引き交渉が増えますので」
「値引きするのか?」
「しません。ですが、断る手間が増えます」
「分かった。早めに戻る」
ボルガムが厨房から声を張った。
「マスター! 腹が減ったら南門の屋台で変なものを食うなよ! 帰ってから食え! 俺の包み焼きの方がうまい!」
「それは信用してる」
「おう!」
オルゼンは店を出た。
扉の鈴が鳴る。
その音を背中で聞きながら、彼は大通りへ向かった。
都市の中心から南門までは、歩いて四半刻ほどだ。
大通りを抜け、商会の倉庫街へ向かうにつれて、道の雰囲気は少しずつ変わっていく。
華やかな店先は減り、荷車が増える。
香水や焼き菓子の匂いは薄れ、代わりに乾いた木箱、油、縄、獣の革、干し草の匂いが濃くなる。
南門は物流の入口だ。
西と南の街道から入る荷の多くが、ここを通る。
旅人、行商人、荷運び、役所の検査官、倉庫番。
都市の胃袋と財布を支える場所でもある。
オルゼンは歩きながら、今朝の男を思い返した。
灰色の外套。
人族。
手に荷紐傷。
料理人ではない。
全量を買おうとした。
青塩の香りも見ず、用途も曖昧だった。
そして、ボルガムが言った。
南門の倉庫番に似た匂い。
「倉庫か」
青塩を使う目的が料理でないなら、使う場所は限られる。
魔獣避け。
獣避け。
荷の保存。
あるいは、何かの匂いをごまかすため。
オルゼンは青塩の小瓶を直接持ってきてはいない。
店に残してある。
だが、指先にはまだ価値の残り香がある。
門。
荷車。
夜明け前の道。
獣の足跡。
閉じた倉庫。
やはり、南門だった。
南門へ着くと、通行検査の列ができていた。
役所の職員が荷を確認し、商人が書類を出し、荷運びが退屈そうに待っている。
門の脇には倉庫が並び、それぞれに商会や個人の紋が掲げられていた。
オルゼンはまず、屋台へ向かった。
門の近くには、荷運びたち向けの簡素な食事屋台がいくつか出ている。
硬いパン、豆の煮込み、安い茶、塩漬け肉。
味より量と早さが求められる場所だ。
「親父、茶を一つ」
「おう」
屋台の親父は、片目に古い傷のある人族だった。
南門ではよく見る顔だ。
オルゼンも、仕入れの帰りに何度か使ったことがある。
「珍しいな、中央の店主がこんな時間に」
「少し仕入れの確認で」
「中央の連中は南門の匂いが苦手だろ」
「嫌いじゃないですよ。金の匂いもしますから」
親父は笑った。
「商人らしいな」
オルゼンは銅貨を置き、湯気の立つ茶を受け取った。
そのまま、さりげなく聞く。
「最近、青い香辛料を扱う荷、増えてます?」
親父の手が止まった。
ほんの少しだけ。
だが、ここでは小さな反応が大きな情報になる。
「青い香辛料?」
「青塩です。料理用として少し入ってきていると聞きまして」
「料理用ねえ」
親父は鼻で笑った。
「ありゃ料理に使うには高いだろ」
「詳しいですね」
「昔、街道を行ってた頃に見たことがある。荷馬車の魔獣避けに少し使った。だが、扱いを間違えると獣が嫌がるどころか、妙に騒ぐ」
「最近、ここで見ました?」
親父は周囲を見た。
荷運びたちが騒ぎ、役所の検査官が怒鳴り、馬が鼻を鳴らしている。
「見た、とは言わん」
「では?」
「匂った」
オルゼンは茶を一口飲んだ。
渋い。
だが、今はちょうどいい。
「どこで?」
「三番倉庫のあたりだ。南門から入って右奥。古い倉庫だ」
三番倉庫。
オルゼンは視線を動かした。
右奥に、少し古びた倉庫がある。
紋章は擦れていて、どこの商会のものか遠目では分かりにくい。
「何の荷を置いている倉庫です?」
「表向きは穀物と乾物だな」
「表向き」
「商人に説明するまでもないだろ。倉庫には表向きの顔と、帳簿にしか出ない顔がある」
「勉強になります」
「若いくせに白々しいな」
親父はにやりと笑った。
その時、南門の方から少しざわめきが起きた。
荷馬車の馬が一頭、落ち着きなく足踏みしている。
御者が手綱を引き、役所の検査官が苛立った声を出す。
「またか」
親父が呟いた。
「また?」
「ここ数日、朝と昼前に馬が騒ぐ。魔獣でも近いのかと思ったが、警備隊は何も見てないそうだ」
「獣だけが騒ぐ?」
「馬、犬族、鼻の利く連中。逆に人族はあまり気づかん」
青塩。
オルゼンの中で、線が一本引かれた。
これは魔獣を呼ぶためではないかもしれない。
獣避けでもない。
鼻の利く者の感覚を乱している。
なぜそんなことをする?
南門で、嗅覚を乱す必要があるもの。
臭いを隠したい荷。
あるいは、臭いで見つかると困るもの。
「親父」
「なんだ」
「三番倉庫の荷、最近出入りが多いですか?」
「妙に夜明け前が多い」
「夜明け前」
「役所の検査が薄い時間だ。もちろん、通す書類はある。だから違法ではない。違法ではないが、気持ちが悪い」
ナギルカと同じ言い方だった。
大きな不正ではない。
けれど、偶然にしては続きすぎている。
オルゼンは茶を飲み干した。
「ありがとうございます」
「何かする気か?」
「商人らしく、損をしないようにします」
「それが一番怖いんだよ、商人は」
親父はそう言って、別の客の相手に戻った。
オルゼンは三番倉庫へ向かって歩き出した。
近づきすぎるつもりはない。
倉庫に踏み込む気もない。
犯人を捕まえる気もない。
それは役所や警備隊の仕事だ。
商人の仕事は、物の流れを見ること。
誰が欲しがり、どこへ運び、何を隠し、どこで値をつけているのか。
それを見れば、力で扉を破らなくても中身は分かる。
三番倉庫の前には、二人の荷運びがいた。
一人は大柄な人族。
もう一人は犬族の若者だ。
犬族の若者は、しきりに鼻をこすっている。
目も少し赤い。
「大丈夫ですか?」
オルゼンが声をかけると、犬族の若者は驚いたように顔を上げた。
「あ、ええ。大丈夫です」
「鼻がつらそうだ」
「最近、この辺りだけ変な匂いがするんです。俺だけみたいで」
大柄な人族が笑った。
「鼻が良すぎるのも大変だな」
「笑い事じゃないですよ。荷の確認で匂いが分からないの、結構困るんですから」
「荷の確認を匂いで?」
オルゼンが聞くと、犬族の若者は少し誇らしげに言った。
「穀物の湿気とか、干し肉の傷みとか、油の混じりとか、分かるんです。役所の人にもたまに頼まれます」
「なるほど」
嗅覚で荷を見分ける者がいる。
なら、その嗅覚を乱せば、検査をすり抜ける荷が作れる。
オルゼンは三番倉庫の扉を見た。
鍵はかかっている。
表には穀物の印。
だが、扉の下の隙間から、ほんのわずかに乾いた粉の匂いがした。
青塩の匂いではない。
もっと甘い。
少し土臭い。
薬草か、染料か。
「最近、ここに青い香辛料の荷が入りました?」
オルゼンはあくまで世間話の調子で聞いた。
犬族の若者が首を傾げる。
「青い香辛料?」
大柄な人族の男が、先に答えた。
「ああ、料理用のやつか。小箱で何度か入ってたな。高そうなわりに、量は少なかった」
「どこの荷です?」
「さあな。俺たちは運ぶだけだ」
その返事は自然だった。
自然すぎるくらいに。
オルゼンは男の手を見た。
細かな傷。
荷紐で擦れたような跡。
今朝、店に来た灰色外套の男と似ている。
同じ仕事をしているなら、当然つく傷だ。
だが、ここで偶然が重なるほど、商売は甘くない。
「そうですか」
オルゼンは穏やかに笑った。
「失礼しました。うちでも少し扱うか迷っていまして。料理用として売れるかどうか、確認したかったんです」
「中央の店の人か?」
「ええ、小さな店ですが」
大柄な男は少しだけ目を細めた。
「青塩なら、買う人はいるんじゃないか。珍しいからな」
「そうですね」
「ただ、あまり嗅ぎ回らない方がいい」
犬族の若者が男を見た。
「え?」
男は笑った。
「いや、商売の種を探すのはいいが、他所の荷に首を突っ込みすぎると嫌われるって話だ」
「ご忠告、どうも」
オルゼンは軽く頭を下げた。
この場で言い返す必要はない。
問い詰める必要もない。
相手は警戒した。
それだけで十分だった。
店に戻ってから、次の手を打てばいい。
オルゼンが三番倉庫から離れようとした時だった。
背後で犬族の若者がくしゃみをした。
一度。
二度。
そして三度目で、彼は顔をしかめた。
「まただ……」
「大丈夫か?」
大柄な男が聞く。
「大丈夫です。でも、今日は特にひどいです」
「少し休め」
「すみません」
犬族の若者は倉庫の横へ下がった。
オルゼンはその様子を見て、歩きながら考えた。
青塩は少量ずつ入っている。
三番倉庫付近で匂う。
鼻の利く者が不調を起こしている。
夜明け前に荷が動く。
倉庫の表向きは穀物と乾物。
そして、青塩を買い集める者がいる。
おそらく青塩そのものが目的ではない。
青塩は、何かを隠すために使われている。
なら、解決の方法は単純だ。
隠しているものを暴くのではなく、隠せなくすればいい。
オルゼンは南門を離れ、中央へ戻り始めた。
途中、彼は一軒の小さな印刷屋に立ち寄った。
魔術式の高級印刷ではなく、手刷りの札や簡単な告知板を作る店だ。
商店の値札や催し物の案内によく使われる。
「急ぎで小さな札を十枚ほど作れますか?」
店主の小人族が眼鏡を上げた。
「内容によるね」
オルゼンは紙に短い文を書いた。
店主はそれを読み、片眉を上げる。
「これ、商売敵に喧嘩売る文じゃないのかい?」
「喧嘩ではありません。注意喚起です」
「商人の注意喚起は、だいたい喧嘩だよ」
「では、柔らかくお願いします」
「柔らかい喧嘩ね。得意だ」
小人族の店主はにやりと笑った。
その頃。
オルゼンの店では、入口に『準備中』の札が出ていた。
通りかかった常連が不思議そうに看板を見ている。
『本日、昼包みは仕込み直しのため少し遅れます。
物販も昼過ぎまで一時休止。
甘味は残り二つ。取り置き不可。』
「仕込み直しかあ」
「珍しいな」
「白蜜プリン、残ってるのか……」
老魔術師が店の窓を覗こうとした瞬間、扉が少しだけ開いた。
クィナスが顔を出す。
「甘味は昼からです」
「まだ何も言っておらん」
「目が言っていました」
「猫族は目にも帳簿をつけるのか?」
「必要なら」
扉は静かに閉まった。
店内では、ボルガムが昼包みの肉を焼いている。
ただし、厨房の火はいつもより弱い。
クィナスは帳簿を開いていた。
青塩を買いに来た男の記録。
ナギルカの発言。
南門。
香辛料の搬入量。
灰外套。
荷紐傷。
彼女はそれらの横に、細い線を引いていく。
「クィナス」
ボルガムが低い声で言った。
「来たか?」
「ええ」
クィナスは顔を上げない。
店の前を、灰色の外套の男が通った。
朝に青塩を買った男だ。
男は看板を見た。
入口の札を見る。
そして、店内の様子をうかがうように一瞬だけ立ち止まった。
クィナスは動かなかった。
ボルガムも厨房から出なかった。
店は準備中。
客は入れない。
男はしばらくそこに立っていたが、やがて通りの向こうへ歩いていった。
「追いますか?」
ボルガムが聞く。
クィナスは帳簿を閉じた。
「追いません。マスターは、店で揉める必要はないと言いました」
「だな」
「でも、見るだけなら問題ありません」
クィナスは棚の上から、小さな鏡を取った。
商品確認用の姿見に見えるが、角度を変えれば店の前の通りが見える。
灰外套の男は、少し先の角で別の男と合流していた。
短い会話。
片方が南門の方角を指す。
もう片方が、中央通りを指す。
「二人」
クィナスが呟いた。
「片方は朝の客。もう片方は初めて」
ボルガムが鼻を鳴らした。
「匂いは?」
「ここから分かるんですか?」
「少しだけな。朝のやつは南門。もう一人は……紙と油の匂いだ」
「書類関係?」
「たぶんな」
クィナスは帳簿に記した。
灰外套、再来店。
準備中を確認。
別人物と接触。
紙と油の匂い。
「マスターが戻る前に、店を開けます」
「今か?」
「もう少しだけ待ちます。あの二人が角を曲がってから。何もなかったように営業再開です」
「なるほど」
ボルガムが大きく頷いた。
「俺たちは普通の店員だからな!」
「ええ。普通の店員は、普通に昼包みを売ります」
「普通の店員は、怪しい客の足音を覚えたりしねえがな」
「それは帳簿管理の一環です」
「便利な言葉だな、帳簿」
少しして、クィナスは入口の札を裏返した。
『営業中』
黒板の文も書き換える。
『昼包み、焼き上がりました。十個限定』
まるで何事もなかったかのように、店は開いた。
最初に入ってきたのは、甘味目当ての老魔術師だった。
「白蜜プリンは」
「残り二つです」
「二つとも」
「お一人様一つです」
「なぜだ」
「悲しむ人が出るからです」
「わしが悲しむ」
「では一つで我慢してください」
老魔術師は深刻な顔で銅貨を置いた。
その後、昼包みを買う客が続いた。
ボルガムはいつものように大きな声で喋り、クィナスはいつものように笑顔で客をさばいた。
店は普通に営業している。
少なくとも、通りからはそう見えた。
オルゼンが戻ってきたのは、昼包みが残り四つになった頃だった。
扉の鈴が鳴る。
「ただいま」
「お帰りなさい、マスター」
クィナスは何事もなかったように言った。
「昼包み、残り四つです。白蜜プリンは完売。老魔術師が非常に悲しそうな顔をして帰りました」
「一つは買えたんだろ?」
「買えました。でも二つ買えなかったので悲しかったようです」
ボルガムが厨房から顔を出す。
「マスター! 変な屋台飯は食ってないだろうな!」
「食べてない」
「よし! なら昼包みを食え!」
オルゼンは店の中を見た。
棚は整っている。
客もいる。
昼の匂いも漂っている。
まるで、ずっと普通に営業していたかのようだ。
けれど、入口脇の黒板には、白墨を消した跡がうっすら残っていた。
一時的に店を閉めた痕跡。
そしてクィナスの帳簿には、明らかに増えた記録がある。
「何かあったか?」
オルゼンが小声で聞くと、クィナスは笑顔のまま答えた。
「何もありませんでした」
「そうか」
「ただ、朝の灰外套さんが店の前まで来ました。準備中の札を見て帰りました。その後、角で別の男と会いました。ボルガムいわく、紙と油の匂いがしたそうです」
「それを何もなかったと言うのか?」
「店では何も起きていません」
「なるほど」
オルゼンは笑った。
確かに、店では何も起きていない。
その通りだ。
クィナスは帳簿を差し出した。
そこには短く、しかし必要なことがすべて書かれている。
オルゼンはそれに目を通し、頷いた。
「助かった」
「私は優秀なので」
「知ってる」
ボルガムが厨房から包み焼きを一つ差し出した。
「で、マスター。南門はどうだった?」
オルゼンは包み焼きを受け取り、少しだけ考えた。
南門の三番倉庫。
鼻の利く荷運び。
夜明け前の荷。
青塩。
そして、紙と油の匂いがする男。
紙と油。
書類。
印刷。
帳簿。
通行証。
つまり、荷そのものだけでなく、書類側にも誰かがいる。
「青塩は、たぶん何かを隠すために使われている」
オルゼンは言った。
クィナスの耳が動く。
「何をですか?」
「まだ分からない。だが、鼻の利く者の検査を狂わせている。特に南門の倉庫周辺で」
「獣人避けですか」
「近いな。魔獣避けより、検査避けだ」
ボルガムが眉を寄せた。
「嫌な使い方だな」
「ああ」
「殴るか?」
「殴らない」
「だよな!」
ボルガムはなぜか嬉しそうに笑った。
「マスターはそう言うと思った!」
「殴ると、ただの揉め事になる」
オルゼンは包み焼きを一口食べた。
温かい肉汁と香草の匂いが口に広がる。
やはり、南門の屋台で食べなくて正解だった。
「商売で潰す」
クィナスが少し楽しそうに目を細めた。
「どうやって?」
オルゼンは上着の内側から、小さな紙札の束を取り出した。
急ぎで刷ってもらったものだ。
そこには、こう書かれている。
『青塩を扱う方へ
料理用としては少量で十分です。
多量使用は獣人族・騎獣・荷馬の嗅覚を乱す恐れがあります。
南門周辺での使用は、荷役事故の原因となるためご注意ください。
中央通り 珍品と朝包みの店』
クィナスがそれを読んで、口元を押さえた。
「マスター」
「なんだ?」
「これは、喧嘩では?」
「注意喚起だ」
「商人の注意喚起は喧嘩です」
「印刷屋にも同じことを言われた」
ボルガムが大声で笑った。
「いいじゃねえか! 殴らずに相手の足元を焼く感じだ!」
「焼かない」
「なら炙る!」
「それも違う」
クィナスは紙札を一枚取り、じっと見た。
「でも、これは効きますね。青塩を隠して使っているなら、表に名前を出されるだけで困る。しかも、危険物扱いではなく、料理用の注意として書いてある」
「そうだ」
「役所に通報ではない。けれど、役所が見たら気にする」
「そういうこと」
「ナギルカさんも、見るでしょうね」
「見るだろうな」
「マスター、性格が悪いです」
「商人だからな」
「褒めています」
オルゼンは残った紙札をカウンターに置いた。
「これを、南門近くの屋台、荷運び向けの食堂、獣人向けの香油店に置いてもらう。うちにも貼る」
「つまり、青塩の使い方を街に知らせる」
「全部ではない。だが、鼻の利く者が不調を訴えやすくなる」
ボルガムが腕を組んだ。
「隠れて使いづらくなるな」
「青塩を使って何かを隠していたなら、今後は目立つ」
クィナスが帳簿を閉じた。
「そして、青塩を買い集めていた人たちは焦る」
「焦った商人や悪人は、動きが雑になる」
「そこを役所が見る」
「そうだ」
戦わない。
追い詰めすぎない。
ただ、隠れていたものに光を当てる。
相手が青塩を使い続ければ目立つ。
使うのをやめれば、隠していた荷が嗅覚検査に引っかかる。
どちらにしても、相手はやり方を変えなければならない。
そして、やり方を変える時、人は必ずミスをする。
「ナギルカさんには?」
クィナスが聞いた。
「直接は言わない」
「言わないんですか?」
「役所の人間に、根拠の薄い話を押しつけても困らせるだけだ。だが、彼女はこの札を見れば気づく」
「業務上の独り言として?」
「そう」
クィナスは小さく笑った。
「では、こちらも商売上の独り言ですね」
「いい言い方だ」
その時、入口の鈴が鳴った。
入ってきたのは、ナギルカだった。
昼に逃げてくる、と朝に冗談めかして言っていた。
どうやら本当に逃げてきたらしい。
彼女は少し息を切らしている。
いつも整っている髪も、今日はわずかに乱れていた。
「昼包み、まだありますか?」
「ありますよ」
クィナスがすぐに笑顔へ戻る。
「残り四つです。危なかったですね、ナギルカさん。今日はかなりの幸運です」
「それはよかったです」
ナギルカはほっとしたように息を吐いた。
だが、次の瞬間、彼女の視線がカウンターの上で止まった。
青塩の注意札。
「これは……」
オルゼンは何も言わず、昼包みを一つ紙で包んだ。
ナギルカは札を手に取る。
その表情が、役所の職員のものに変わっていく。
「青塩を、多量使用すると……獣人族や騎獣の嗅覚を乱す?」
「そういう話を聞きまして」
オルゼンは穏やかに答えた。
「料理用として扱うなら、注意が必要かと」
「南門周辺での使用は、荷役事故の原因……」
ナギルカは小さく呟いた。
それから、オルゼンを見た。
「オルゼンさん」
「はい」
「これは、商売上の注意喚起ですか?」
「ええ」
「業務上、とても気になる注意喚起です」
「それは何よりです」
クィナスが横から楽しそうに言う。
「ナギルカさん、昼包みは温かいうちがおすすめですよ。仕事の顔をしていると冷めます」
ナギルカは少しだけ我に返ったように瞬きをした。
「……そうですね。いただきます」
彼女は代金を置き、昼包みと札を一枚受け取った。
「この札、一枚いただいても?」
「もちろんです。注意喚起ですから」
「ありがとうございます」
ナギルカは深く考え込むような顔で店を出ていった。
入口の鈴が鳴る。
その音が消えた後、ボルガムが小さく笑った。
「役所が動くな」
「動くかどうかは、役所次第だ」
オルゼンは言った。
「俺たちはただ、青塩の売り方に気をつけただけだ」
クィナスが帳簿を開く。
「では、記録しておきます。青塩注意札、ナギルカさん一枚持ち帰り。表情、真面目。昼包み、冷める前に食べられるかは不明」
「最後は必要か?」
「大事です。冷めた昼包みは、売り手として悲しいので」
ボルガムが強く頷いた。
「そこは重要だ!」
店はまた、いつもの昼のざわめきに戻った。
客が入り、商品が売れ、包み焼きの匂いが広がる。
だが、カウンターの上には青塩の注意札が置かれている。
小さな紙札だ。
刃物でも、魔法でも、拳でもない。
それでも、隠れて何かをしている者にとっては、十分に鋭い。
オルゼンは棚の奥に残った青塩を見た。
青い粒は、朝と同じように静かに光っている。
ただし今度は、その光を見ている者が少しだけ増えた。
それでいい。
商人の戦いは、声を荒げることではない。
品の置き場所を変え、値段を決め、情報を流し、相手が動かざるを得ない場所に道を作ることだ。
オルゼンは昼包みをもう一口食べた。
温かい。
店は普通に営業している。
けれど、南門の誰かにとっては、この日から青塩は少しだけ扱いにくい品になった。




