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第001話:都市の朝は、いつも少しだけ慌ただしい。

 石畳の大通りを馬車の車輪が叩き、荷を背負った蜥蜴族の行商人が低い声で道を空けるよう促す。

 鳥人族の郵便配達人が屋根の上を跳ねるように移動し、小人族の職人たちは二人がかりで大きな木箱を押していた。


 人族、獣人族、亜人、妖精種、魔術師、冒険者、商人、役人。


 様々な種族が行き交うこの都市の中心部に、一軒の小さな店がある。


 二階建ての古い木造店。

 広いわけではない。

 派手な看板があるわけでもない。


 だが、朝になると決まって何人かの客が足を止める。


 理由は、入口の横に置かれた小さな黒板だった。


 そこには白い文字で、こう書かれている。


『本日の朝包み、十個限定』


 店の奥から、焼いた薄パンと香草肉の匂いが漂っていた。


「マスター、右の棚、昨日より半歩だけ前に出しました」


 開店前の店内で、黒い耳をぴんと立てた猫族の女が言った。


 名前はクィナス。


 黒毛を基調にしたケットシーで、胸元と耳先だけが雪のように白い。

 すらりとした体つきで、動きは軽い。

 黙っていれば、どこか気品すらある。


 ただ、黙っている時間がほとんどない。


「半歩か」


 カウンターの内側で木箱を開けていたオルゼンは、顔だけを上げた。


 二十五歳ほどの人族の男。

 これといって目立つ顔立ちではない。

 豪商の若旦那というほど華やかでもなければ、百戦錬磨の行商人というほど泥臭くもない。


 どこにでもいそうな、少し落ち着いた若い商人。


 それが、この店の主人だった。


「はい、半歩です。昨日の位置だと、お客さんの視線が左の甘味棚に流れすぎます。今日は香辛料と乾物を見せたい日ですから、右の棚を少しだけ前に出しました」


「なるほど」


「なるほど、じゃありませんよ。マスターはすぐに分かった顔をしますけど、棚の位置は売上に関わるんです。商売は視線です。視線を奪えば足が止まります。足が止まれば手が伸びます。手が伸びれば財布が開きます」


「最後は少し強引じゃないか?」


「そこは私の接客でどうにかします」


 クィナスは胸を張った。


 その片手には帳簿がある。

 よく喋るが、帳簿の数字は正確だった。

 売れた数、残った数、客層、時間帯ごとの流れ。

 すべてきっちり管理している。


 店の右半分には、珍しい品が並べられていた。


 東方の乾燥茸。

 砂漠産の赤塩。

 小人族の細工針。

 南方で織られた防水布。

 魔術師が使うらしい銀色の粉。

 獣人向けの香油。

 旅人用の小さな保存瓶。


 どれも大量には置かれていない。

 ひとつの品につき、数個。

 多くても十には届かない。


 オルゼンの店は、大量に仕入れて大量に売る店ではなかった。


 少し珍しいものを、必要な者に、必要な分だけ売る。

 その方針で成り立っている。


「おう、マスター! 朝包み、焼きに入るぞ!」


 奥の厨房から、大きな声が飛んできた。


 ボルガムである。


 熊族の男で、背は高く、肩幅も広い。

 黒い毛並みに、背中だけ青白い毛が少し混じっている。

 見た目だけなら、厨房より戦場の方が似合いそうな男だ。


 だが今は、巨大な手で器用に薄パンを包んでいた。


「今日は何個だ?」


 オルゼンが聞く。


「十個だ! 毎朝そうだろうが! だが確認は大事だ! 料理も商売も確認を怠った瞬間に焦げる!」


「焦げるのは料理だけだろ」


「いや、人生も焦げる!」


「怖いことを言うな」


 厨房では、朝限定の包み焼きが作られていた。


 薄く焼いたパンに、香草で炒めた肉と根菜を包む。

 歩きながらでも食べられるように、片手で持てる形にする。

 朝の仕事前に買っていく者が多い。


 ただし、一日に十個しか作らない。


 追加はない。

 売り切れたら終わり。


 最初は仕込みの都合だった。

 だが、いつの間にかそれが売りになった。


「ボルガム、七番の包み、端が少し甘いです」


 クィナスが帳簿から顔を上げずに言った。


「む、そうか!」


「たぶん役所の方が買います。歩きながら食べるので、中身が落ちると困ります」


「おう、直す!」


「三番は冒険者向けです。昨日、北門帰りの方が来ると言っていました。少し塩を強めで」


「任せろ! 肉体労働の後は塩だ! 塩は裏切らん!」


「塩にそこまで信頼を置く人、初めて見ました」


 二人のやり取りを聞きながら、オルゼンは仕入れ品の木箱を開けた。


 今日の品は三つ。


 乾燥させた青い柑橘。

 小人族の細工針。

 そして、青い粒の入った小瓶。


 最後の小瓶を手に取った瞬間、オルゼンの指先に、わずかな違和感が残った。


 瓶の中身は、細かな青い塩のような粒だった。

 光を受けると、かすかに蒼くきらめく。


 香りは薄い。

 料理に使えないことはないだろう。

 魚や脂の強い肉に合わせれば、面白い風味になるかもしれない。


 だが、オルゼンの感覚は違うと言っていた。


 これは、食卓だけに向かう品ではない。


 オルゼンには、昔からそういうところがあった。


 品に触れると、その価値の流れがぼんやりと分かる。

 正体が見えるわけではない。

 鑑定師のように名前や成分が浮かぶわけでもない。


 ただ、その品がどこで求められるのか。

 誰の手に渡れば値がつくのか。

 何に使われると本当の価値を持つのか。


 そういったものが、指先に残る。


 青い塩の小瓶に触れた時、オルゼンの脳裏に浮かんだのは、料理皿ではなかった。


 門。

 荷車。

 夜明け前の道。

 獣の足跡。

 閉じた倉庫。


 食卓よりも、街道に近い品。


 そんな気がした。


「マスター?」


 クィナスが耳を揺らした。


「どうしました? その顔、安く仕入れて高く売れる時の顔でも、高く掴まされて損をした時の顔でもないですね」


「どんな顔だよ」


「面倒なものを拾った時の顔です」


「当たってるかもしれない」


 オルゼンは小瓶を棚の奥に置いた。

 目立つ場所ではない。

 だが、本気で探す者なら気づく位置だ。


 クィナスはそれを見て、何かを察したように値札を一枚取り出した。


「値段は?」


「安くはしない」


「高くします?」


「高すぎても駄目だ」


「つまり、面倒な値段ですね」


「そういうこと」


「はいはい。マスターのそういう値付け、嫌いではありませんよ。理由を説明してくれないところは、少しだけ不満ですけど」


「説明できるほど分かってない」


「では、説明できるようになるまで帳簿に印をつけておきます」


 クィナスは青い塩の小瓶の横に、小さな値札を置いた。


『青塩 少量品』


 ただ、それだけ。


 その時、店の入口の鈴が鳴った。


 まだ開店前だ。


 だが、この店では珍しいことではない。

 朝の常連は、開店時間より少し早く来る。


「すみません。まだ、開いてはいませんよね」


 澄んだ声だった。


 入口に立っていたのは、若い女性だった。


 淡い色の上着に、きちんと整えられた髪。

 派手さはないが、清潔感があり、背筋も伸びている。


 年は二十三ほど。

 名前はナギルカ。


 役所の職員で、若くして都市管理局の一部を任されている才女だった。


 最初にこの店へ来た時、ナギルカはかなり警戒していた。

 多種族が出入りする小さな店。

 よく喋る猫族の店員。

 厨房に立つ大柄な熊族。

 都市中心部にありながら、役所勤めの彼女が朝食を買うには少し雑多に見えたのだろう。


 だが今では、ほぼ毎朝来る。


「ナギルカさん、おはようございます!」


 クィナスが軽やかに手を振った。


「おはようございます、クィナスさん」


「今日も朝包みですか? それとも昨日から気にしていた白蜜プリンですか? ちなみに白蜜プリンは朝に食べても罪にはなりません。私の帳簿にもそう書いてあります」


「帳簿に書かないでください」


 ナギルカは少し困ったように笑った。


「おう、ナギルカ嬢! 今日は顔色がいいな! 昨日より寝たか!」


 ボルガムが厨房から顔を出した。


「少しだけですが」


「少しでは足りん! 役所の連中は書類を食って生きているのか? 人は飯を食って寝るんだぞ!」


「書類は食べません。でも、書類に食べられそうになる日はあります」


「なら今日は肉を多めにしておく!」


「普通でお願いします」


 そのやり取りを聞きながら、オルゼンは朝包みを一つ紙で包んだ。


 七番。


 クィナスが先ほど指摘した、包みの端を強く留めたものだ。


「いつものです」


「ありがとうございます、オルゼンさん」


 ナギルカは代金を置き、包みを受け取る。

 手つきは丁寧だが、目だけは少し急いでいた。


「今日は早いですね」


 オルゼンが言うと、ナギルカは小さく息を吐いた。


「南門の通行記録で、少し確認したいことがありまして」


「また役所の愚痴ですか?」


 クィナスがにこにこと言う。


「愚痴ではありません。業務上の独り言です」


「出ました、役所言葉」


「本当に独り言です。最近、香辛料の搬入量だけが合わないんです」


 オルゼンの手が、わずかに止まった。


 棚の奥には、青塩の小瓶がある。


「香辛料ですか」


「ええ。税の記録上は問題ないんです。けれど、倉庫側の確認と少しだけ数字がずれていて」


「大きな差ですか?」


「いいえ。むしろ小さすぎるくらいです。密輸と呼ぶには量が少ない。けれど、偶然と呼ぶには続きすぎている。そういう気持ち悪いずれ方です」


 クィナスが帳簿を閉じた。


 さっきまでふわふわ揺れていた尻尾が、ぴたりと止まる。


「ナギルカさん、その香辛料の色は分かります?」


「報告書では、青、とありました」


 店内の空気が、一瞬だけ静かになった。


 ボルガムは厨房に戻ったが、包み焼きを動かす手を止めている。

 クィナスは笑顔のままだが、目だけが棚の奥を見ている。


 ナギルカはその変化に気づいたらしく、首を傾げた。


「何か?」


「いえ」


 オルゼンは表情を変えずに答えた。


「少し珍しい品を仕入れただけです」


「珍しい品?」


「青い塩です。料理にも使えるらしい」


「青い塩……」


 ナギルカは少し考える顔をした。

 だが、遠くで役所の鐘が鳴る。


 彼女は慌てて朝包みを抱え直した。


「すみません、もう行かないと」


「いってらっしゃいませ。書類に食べられそうになったら、昼に逃げてきてくださいね」


 クィナスが手を振る。


「昼包みは十個限定です」


「分かっています」


「本当に分かっていますか? 前回は九個目でしたよ」


「今日は努力します」


 ナギルカは苦笑しながら店を出ていった。


 入口の鈴が小さく鳴る。

 外の朝のざわめきが一瞬だけ店内に入り込み、すぐにまた閉じた。


「マスター」


 クィナスの声が、少しだけ低くなった。


「今の青塩、棚に出しますか?」


 オルゼンは棚の奥の小瓶を見た。


 売れば、誰かが買う。

 買った相手を見れば、何か分かるかもしれない。

 だが、何も知らない客に渡すには少し気味が悪い。


「出す」


 オルゼンは言った。


「ただし、目立つ場所には置かない。値段は少し高め。説明を求められたら、料理用としては癖が強いと言ってくれ」


「分かりました」


 普段なら余計な一言が三つは付くクィナスが、それだけで頷いた。


 ボルガムが厨房から大きな声を出した。


「マスター! 朝包み、焼けたぞ! それと、俺はその青いやつが嫌いだ!」


「理由は?」


「匂いが変だ! 美味そうじゃない!」


「料理人としての意見か?」


「熊としての意見だ!」


 オルゼンは小さく笑った。


 それから入口の外を見た。


 すでに数人の客が開店を待っている。

 役所へ向かう者。

 荷運びの途中らしい者。

 眠そうな冒険者。

 朝包みの匂いにつられて足を止めた旅人。


 いつもの朝だ。


 小さな店の、いつもの商売。


 オルゼンは入口の札を裏返した。


『開店』


 鈴が鳴り、最初の客が入ってきた。


「朝包み、まだあるか?」


「ありますよ。一つですか?」


 クィナスがいつもの調子で応じる。


「二つくれ。片方は塩を強めに」


「はいはい。北門帰りですね? 顔に疲れが出ていますよ。今日は水も一緒に買ってください。倒れられると店の前が混みます」


「心配の仕方が変だな」


「心配していますとも」


 次の客は小人族の職人だった。

 細工針を見に来たらしい。


 その次は、白蜜プリンだけを目当てにした老魔術師。

 朝から甘味を食べることに、一切の迷いがない顔をしていた。


 店はすぐに賑やかになった。


 ボルガムは厨房で包み焼きを仕上げ、クィナスは客の流れを見ながら棚の前を動き回る。

 オルゼンはカウンターで代金を受け取り、時折、商品を手に取る客の様子を見た。


 青塩は棚の奥に置かれている。


 普通の客は気づかない。

 気づいたとしても、値札を見て一度考える。


 そして大半は、別の商品へ視線を移す。


 それでいい。


 必要な者だけが気づけばいい。


 朝包みが残り三つになった頃だった。


 入口の鈴が、また鳴った。


 入ってきたのは、灰色の外套を着た男だった。


 種族は人族に見える。

 年は三十前後。

 背は高くも低くもない。

 荷物は少ない。

 旅人というには靴が綺麗で、商人というには目が品を見ていない。


 男は店内をざっと見た。


 甘味棚。

 乾物。

 香辛料。

 厨房。

 クィナス。

 ボルガム。


 その視線が、ほんの一瞬だけ棚の奥で止まった。


 青塩の小瓶。


 オルゼンはそれを見逃さなかった。


「何かお探しですか?」


 オルゼンが声をかける。


 男は少しだけ間を置いてから、穏やかな笑みを浮かべた。


「珍しい香辛料を扱っていると聞いた」


「いくつかあります」


「青いものは?」


 クィナスの耳が、わずかに動いた。


 ボルガムは厨房にいる。

 だが、包み焼きを返す音が止まった。


 オルゼンは何も変わらない顔で、棚の奥から青塩の小瓶を取った。


「これですか」


 男の目が細くなる。


 欲しがっている。


 だが、料理人の目ではない。


 香りを気にしない。

 色味も見ない。

 産地も聞かない。


 男は、まず量を見た。


「それだけか?」


「今日はそれだけです」


「次はいつ入る?」


「品次第ですね。珍しいものなので」


「全部もらおう」


 男は即座に言った。


 オルゼンは小瓶をカウンターの上に置いた。


「何に使うんです?」


「料理だ」


「どんな料理に?」


 男は、初めて少しだけ黙った。


 一拍。


 ほんの一拍だけだ。


 だが、商売の場では、その一拍が値札よりも多くを語ることがある。


「魚料理に」


 男は答えた。


「港の方ですか?」


「いや」


「では、川魚?」


「……ああ」


 オルゼンは軽く頷いた。


 嘘が下手というわけではない。

 むしろ慣れている方だろう。


 だが、料理の嘘は料理人には通じない。

 そして、この店には厨房に熊族の料理人がいる。


「川魚なら、青塩は少し癖が強いですよ」


 オルゼンは言った。


「赤塩の方が合います。香草と合わせるなら、こっちの乾燥柑橘もいい」


「いや、それでいい」


 男の返事は早かった。


 早すぎた。


 オルゼンは青塩の小瓶に指を置いた。


 指先に、またあの感覚が残る。


 門。

 荷車。

 夜明け前の道。

 獣の足跡。

 閉じた倉庫。


 そして今度は、そこにもう一つ加わった。


 南門。


 ナギルカの言っていた場所だ。


「申し訳ありません」


 オルゼンは言った。


「これは全量販売できません」


 男の眉が、わずかに動いた。


「なぜだ?」


「少量品です。料理用として扱いが難しいので、初めての方には試し分しかお売りしていません」


「金なら払う」


「金額の問題ではありません」


 店の中の客が、少しだけこちらを見る。


 クィナスは笑顔のまま、老魔術師に白蜜プリンを渡している。

 だが、その尻尾は動いていない。


 ボルガムは厨房から出てこない。

 けれど、いつもより静かだった。


 男はしばらくオルゼンを見た。


 それから、笑った。


「慎重な店主だな」


「小さい店なので」


「小さい店ほど、売れる時に売った方がいい」


「小さい店ほど、売る相手を選ぶんです」


 男の笑みが、少しだけ薄くなった。


「では、試し分でいい」


「ありがとうございます」


 オルゼンは小瓶の中から、ごく少量だけを小さな紙包みに移した。


 一回分。

 料理に使うなら、それで十分な量。


 別の用途には、足りない量。


 男は代金を置き、紙包みを受け取った。


 その指先には、細かな傷があった。

 商人の傷ではない。

 料理人の火傷でもない。


 縄か、荷紐か、あるいは金具で擦れたような傷。


「また来る」


 男はそう言って、店を出ていった。


 鈴が鳴る。


 朝のざわめきに紛れて、灰色の外套が通りの人混みに消えていく。


 オルゼンは置かれた硬貨を見た。


 本物だ。

 支払いに問題はない。


 問題があるのは、買い方の方だ。


「マスター」


 クィナスが隣に来た。


 声はいつも通り明るい。

 だが、言葉は短い。


「あの人、料理しませんね」


「ああ」


「手が違いました」


「見てたか」


「見ますよ。うちの商品を買う人ですから」


 奥からボルガムが顔を出した。


「マスター、あいつの匂い、南門の倉庫番どもと似てたぞ」


「倉庫番?」


「ああ。荷を扱うやつの匂いだ。香辛料を買うやつじゃねえ」


 オルゼンは棚の奥に残った青塩を見た。


 ナギルカが言っていた。

 南門の通行記録。

 香辛料の搬入量のずれ。

 青い香辛料。


 そして今、青塩を買いに来た男。


 大きな事件というには、まだ何も見えていない。

 だが、ただの偶然と片づけるには、少しだけ繋がりすぎている。


「クィナス」


「はい、マスター」


「今日から青塩に印をつけておいてくれ。買いに来た客、聞かれた時間、量、全部」


「すでに書いています」


 クィナスは帳簿を開いた。


 そこには、先ほどの男の特徴が簡潔に記されていた。


 灰外套。

 人族男。

 三十前後。

 料理目的と申告。

 ただし香り確認なし。

 全量購入希望。

 手に荷紐傷。


 オルゼンは少しだけ笑った。


「仕事が早いな」


「私は優秀なので」


「知ってる」


 クィナスは少しだけ得意げに耳を動かした。


 ボルガムが厨房から声を張る。


「マスター! 朝包み、残り一つだ! それと、俺はやっぱり青い塩が嫌いだ!」


「理由は?」


「腹が減る匂いじゃねえ!」


「それは重要だな」


「重要だ!」


 店の外では、都市の朝が変わらず流れている。


 馬車が走り、役人が急ぎ、冒険者が欠伸をし、商人が声を張る。

 どこにでもある朝。

 いつも通りの商売。


 だが、棚の奥に残った青塩だけが、妙に冷たく光っていた。


 オルゼンはそれを見て、静かに言った。


「昼に、南門の方を見てくるか」


 クィナスが帳簿を閉じる。


「お店は任せてください、マスター」


 ボルガムが厨房で笑った。


「昼包みは俺が焼く! ついでに変な客が来たら、たっぷり喋って追い返してやる!」


「喋るだけにしてくれよ」


「もちろんだ! 俺は店員だからな!」


 その声は、いつも通り明るい。


 けれどオルゼンには分かっていた。


 この店の朝は、もう少しだけ面倒な方向へ動き始めている。


 そして、面倒なものほど、商人の手にはよく残る。

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