第016話:店を大きくする前に
温室契約を終えた翌日の夜。
店はいつもより早く閉められていた。
朝包みは完売。
昼包みも完売。
物販棚では青塩小包みと保存瓶がいくつか売れた。
商売としては悪くない一日だった。
だが、閉店後の空気は少し重い。
カウンターの上には、クィナスの帳簿が開かれている。
そこに並んでいるのは、売上ではなく支出だった。
魔術温室の使用料。
保証金。
管理費。
土壌調整費。
温度調整魔石の使用料。
記録提出に必要な書類費。
ラグネルへの将来的な返済予定。
オルゼンは数字を見ながら、小さく息を吐いた。
「重いな」
「はい」
クィナスも真面目な顔で頷く。
「すぐに店が傾く額ではありません。ですが、今のままだと余裕はかなり削られます」
厨房からボルガムが出てきた。
「つまり、もっと売らねえといけねえってことか」
「単純に言えばそうです」
クィナスは帳簿をめくる。
「ただし、朝昼夜のテイクアウトだけで増やすには限界があります。ボルガムの手も、厨房の広さも、販売時間も決まっています」
ボルガムは腕を組んだ。
「俺は作れるぞ」
「作れます。でも、毎日大量に作ると味が落ちます」
「む」
「それに、マスターも私も販売で潰れます」
「それは困る」
「はい。かなり困ります」
オルゼンは頷いた。
「店を大きくするのが一番早いかもしれないな」
クィナスの耳が動く。
「移転ですか?」
「大通りに出て、飲食店にする。席を作って、包み料理やそぼろ瓶をその場で食べられるようにする」
ボルガムの目が少し輝いた。
「厨房が広くなるのはいいな!」
「だが、人がいる」
オルゼンは言った。
「料理を手伝う者、接客をする者、皿を洗う者、仕入れを管理する者。今の三人では無理だ」
クィナスが頷く。
「人を雇うなら、育てる時間も必要です。帳簿も増えます。人件費も増えます。失敗すると、温室どころではありません」
「それに」
オルゼンは店内を見回した。
「この店の空気が変わる」
その言葉に、二人は黙った。
小さな店。
半分が物販。
半分がテイクアウト。
珍しい品と、数量限定の料理。
常連との距離が近く、黒板の一文で客が笑う店。
大きくすれば、売上は伸びるかもしれない。
だが、今の店の良さがそのまま残るとは限らない。
「では、二号店ですか?」
クィナスが聞く。
「それも人がいる」
「ですね」
「系統店を作るのも、まだ早い」
ボルガムが少し残念そうに言う。
「じゃあ、どうする?」
オルゼンは少し考えた。
「商品だけ外に出す」
クィナスの耳が立つ。
「委託販売ですか?」
「ああ。店を増やすのではなく、商品を増やす。うちで作った小包みや保存食を、他の店にも置いてもらう」
クィナスはすぐに帳簿へ書き始める。
「候補はあります。ヘルマさんの保存食店、ミレイユさんの茶葉と香草店、ラグネルさん経由の料理人向け、小規模な旅人用品店。あと、役所夜勤向けの少量納品も可能性があります」
「無人販売棚はどうだ?」
オルゼンが言うと、クィナスの手が止まった。
「店先に置く形ですか?」
「青塩小包み、香草小包み、保存瓶、焼き菓子。会計だけ簡単な魔道箱で済ませる」
「盗難対策が必要です」
「簡易魔道精算箱を使う。金を入れると小箱が開く仕組みのやつだ」
「導入費がかかります」
「かかるが、人を雇うよりは安い」
クィナスはしばらく考えた。
「良い案です。販売数は大きく増えませんが、営業時間外にも売れる可能性があります」
「朝包みを買えなかった客が、せめて調味料を買っていくかもしれない」
「保存食棚とも相性がいいですね」
ボルガムが腕を組む。
「でも、料理は外に置けねえぞ。温度がある」
「瓶詰めや焼き菓子中心だ」
「ならいけるか」
「そぼろ瓶も冷蔵魔道箱があれば可能ですが、最初はやめた方がいいです」
クィナスが言う。
「説明が必要な商品は、無人販売に向きません。青塩も瓶売りは駄目です。小包みだけです」
「正しい」
オルゼンは頷く。
「まずは、簡単に扱えるものだけだ」
クィナスは帳簿に新しい項目を作った。
『資金強化案
一、委託販売
二、店先無人棚
三、保存食・調味小包み強化
四、将来的な人員増
五、移転・飲食店化は保留』
ボルガムがその帳簿を覗き込む。
「金は、どれくらい足りねえ?」
クィナスは少しだけ黙った。
それから、正直に数字を示した。
ボルガムはそれを見て、低く言った。
「……俺が出せる金もある」
店内の空気が止まった。
クィナスの耳がわずかに伏せる。
オルゼンは、ボルガムを見た。
「出さなくていい」
「まだ何も言ってねえぞ」
「聞かなくても分かる」
ボルガムは黙った。
その大きな手が、ゆっくりと握られる。
「汚い金じゃねえ」
彼は低く言った。
「全部が、そうじゃねえ」
「分かってる」
オルゼンは静かに返した。
ボルガムが顔を上げる。
「本当か?」
「ああ。過去の仕事が全部悪だったとは思っていない。誰かを殺して、誰かが助かったこともあったんだろう」
クィナスの尻尾が、ぴたりと止まった。
ボルガムは何も言わない。
オルゼンは続けた。
「だが、それは今の店の金じゃない」
静かな言葉だった。
けれど、強かった。
「この店は、朝包みを売って、青塩を売って、そぼろ瓶を売って、客に頭を下げて、帳簿をつけて作ってきた店だ。リュナメルもその延長でやる。だから、店の未来は店の稼ぎで支える」
ボルガムは長く黙った。
クィナスも、静かに帳簿を見ている。
やがて彼女が小さく言った。
「私も、出せない額ではありません」
オルゼンはクィナスを見た。
彼女はいつもの軽い笑みを浮かべていなかった。
「でも、マスターは同じことを言うんでしょうね」
「ああ」
「店の金ではない、と」
「そうだ」
クィナスは少しだけ笑った。
「では、言いません」
「助かる」
「ただ、困った時は相談してください。店の金ではなくても、私たちは店の仲間ですから」
「分かってる」
ボルガムが深く息を吐いた。
「マスターは頑固だな」
「商人だからな」
「商人はもっと金に素直じゃねえのか」
「使う金を選ぶのも商人だ」
ボルガムは少しだけ笑った。
「そうか」
「そうだ」
重かった空気が、少しだけほどけた。
クィナスは帳簿に何かを書き込もうとして、止まる。
オルゼンがそれを見る。
「書かないのか?」
「これは、帳簿に書く話ではない気がしました」
珍しいことだった。
クィナスが帳簿に書かない。
ボルガムは少し驚いたように彼女を見た。
クィナスは静かに言う。
「店の記憶でも、残さない方がいいことはあります」
その言葉に、オルゼンは頷いた。
「そうだな」
しばらくして、クィナスは新しいページに別の項目を書いた。
『店の資金は、店で作る。』
その一行だけ。
ボルガムがそれを見て、満足そうに鼻を鳴らした。
「それならいい」
「はい」
「で、どう稼ぐ?」
ボルガムの声がいつもの調子に戻った。
クィナスも表情を切り替える。
「まずは無人販売棚の試験です。商品候補は、青塩小包み、香草小包み、黒糖ナッツ焼き菓子、旅人用調味セット」
「そぼろは?」
「有人販売のみ」
「だよな」
「次に委託販売。ヘルマさんの店に保存食系、ミレイユさんの店に茶菓子や香草系、ラグネルさん経由で料理人向け試供品」
オルゼンは頷く。
「役所向けは?」
「ナギルカさん経由で話を聞く程度から。正式納品はまだ早いです」
「そうだな」
「販売側としては、商品説明札を整えます。うちの商品は、説明があると売れます。ないとただの高い小包みになります」
「説明も商品か」
「はい」
ボルガムが腕を組む。
「俺は何を作ればいい?」
「保存がきくもの」
オルゼンが答える。
「毎日作らなくても売れるもの。味が落ちにくいもの。家で使いやすいもの」
ボルガムは少し考える。
「肉味噌みてえなやつならいける。そぼろより油を強めにして、塩と香草で締める。パンにも飯にも合う。あと、焼き菓子に入れる甘くないナッツだれもできる」
「甘くない焼き菓子ですか?」
クィナスが反応する。
「酒に合う」
「職人向けですね」
「旅人にもいい。腹にたまる」
「採用候補です」
クィナスはすぐに記録する。
「あと、青塩香草だれ」
ボルガムが続ける。
「魚に塗って焼く。肉にも使える。瓶にすると管理がいるが、小包みにして油と混ぜるならいける」
「家庭用調味小包みですね」
「そうだ」
オルゼンは三人の間に少しずつ熱が戻るのを感じた。
先ほどまで、温室費用の重さが店にのしかかっていた。
だが今は違う。
稼ぐ方法を考えている。
店を大きくする前に、できることがある。
商品だけを外へ出す。
説明を整える。
無人販売棚を試す。
委託販売を始める。
保存食を強化する。
派手ではない。
だが、小さな店にはそれが合っている。
「決まりだな」
オルゼンは言った。
「まずは無人販売棚と委託販売を試す。店舗拡大は保留。人を雇う話も、もう少し数字を見てから」
「はい」
クィナスが頷く。
「三日以内に試算を出します」
「俺は試作品だな!」
ボルガムが言う。
「頼む」
「おう!」
クィナスは帳簿に最後の一行を書いた。
『温室費用対策。店を急に大きくするのではなく、商品を外へ出す。無人棚、委託販売、保存食強化から開始。』
少し考え、もう一行。
『過去の金ではなく、今の店の商売で未来を育てる。』
書いたあと、クィナスはその一行をしばらく見ていた。
オルゼンも、ボルガムも何も言わない。
店の外では、夜の通りを馬車が通り過ぎる音がする。
棚には青塩。
厨房には明日の仕込み。
帳簿には新しい資金計画。
遠くの温室には、四つのリュナメルの芽。
小さな店は、大きくなる前に、まず外へ手を伸ばすことにした。




