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第015話:金で借りる場所ではない

 魔術温室区画は、都市の北東にあった。


 東区の白い石造りの街並みから少し外れ、北区の薬草師や研究者たちが集まる一帯へ入ると、空気が変わる。


 通りの両脇には、背の高い硝子張りの建物が並んでいた。

 透明な壁の向こうに、見たこともない葉や蔓、赤や青の花が揺れている。

 建物ごとに湯気が立っているもの、逆に薄く霜をまとっているもの、夜でもないのに内側だけ薄暗いものもあった。


 ただの温室ではない。


 温度、湿度、光、風、土。

 それらを魔術で管理する、特殊な栽培施設だった。


 オルゼンたちは、その区画の奥へ進んでいた。


 先頭はラグネル。

 隣にセイド。

 その後ろにオルゼン、クィナス、ボルガムが続く。


 ボルガムは布に包んだ小さな木箱を抱えている。

 中には、リュナメルの四つの芽と、まだ眠っている白月種、緋月種が入っていた。


「思ったより広いですね」


 クィナスが周囲を見ながら言った。


「借りる場所はもっと奥だ」


 ラグネルが答える。


「入口にあるのは、薬草師や香料師が使う一般区画だ。リュナメルを育てるなら、昼夜の温度差を作れる区画がいる」


「かなり高そうですね」


「高い」


 ラグネルは短く言った。


「金だけなら払う者は多い。だが、ここはそれだけでは借りられん」


「信頼ですか」


 オルゼンが言うと、ラグネルは少しだけ目を細めた。


「そうだ」


 やがて、一行は黒い木の門の前に着いた。


 門の上には、蔓草が絡んでいる。

 だが枯れてはいない。

 黒に近い深緑の葉が、静かに光を吸っているように見えた。


 ラグネルが門の横にある銅の呼び鈴を鳴らす。


 澄んだ音が、温室の奥へ吸い込まれていった。


 しばらくして、門が内側から開く。


 現れたのは、長身の女性だった。


 肌は灰褐色。

 髪は銀に近い白。

 耳は長く、目は深い紫色をしている。


 ダークエルフ。


 彼女は黒い長衣をまとい、腰には小さな剪定鋏と薬草袋を下げていた。

 年齢は分かりにくい。

 若くも見えるし、ずっと長い時間を生きてきたようにも見える。


 彼女の視線は、まずラグネルへ向いた。


「久しいな、ラグネル」


「世話になる、イェルミナ」


「世話になるかどうかは、まだ決めていない」


 声は低く、静かだった。


 ラグネルは笑わない。


「だろうな」


 イェルミナと呼ばれたダークエルフは、次にオルゼンたちを見る。


 視線が鋭い。


 だが、無遠慮ではない。

 品を見る商人の目でも、客を見る店主の目でもない。


 育てる者を見る目だった。


「リュナメルを持ち込む者たちか」


 オルゼンが一歩前に出た。


「オルゼンです。中央通り裏の小店で、珍品と食品を扱っています」


「店主か」


「はい」


「栽培するのは?」


 ボルガムが木箱を抱え直す。


「俺だ。ボルガム」


 イェルミナの目が少しだけ細くなる。


「熊族か」


「そうだ」


「リュナメルの栽培を、熊族が?」


 その言葉に、少しだけ棘があった。


 見下しではない。

 疑問だ。


 ボルガムは怒らなかった。


「知ってることはある」


「どこで知った」


 店内ではない。

 温室区画の門前だ。


 だが、その問いだけで空気が重くなる。


 ボルガムはしばらく黙った。


 クィナスの耳が小さく動く。

 オルゼンは口を挟まない。


 やがて、ボルガムは言った。


「昔、南西の高地に近い村にいた」


 イェルミナの表情がわずかに変わる。


「村の名は?」


 ボルガムは少しだけ目を伏せた。


「地図にはもうない」


 沈黙。


 黒い門の周囲で、温室の葉が静かに揺れる。


 クィナスの手が帳簿に伸びかけたが、止まる。

 書くべきではないと判断したのだろう。


 オルゼンも、ボルガムを見た。


 地図にない村。


 その響きは暗い。


 焼けたのか。

 滅んだのか。

 失われたのか。


 イェルミナも同じことを思ったのか、声を少し低くした。


「そうか」


「いや、暗い顔をするな」


 ボルガムが急に言った。


 全員の視線が彼に向く。


「村は移動しただけだ!」


「……移動?」


 オルゼンが思わず聞き返す。


「山崩れが続いてな! 畑が駄目になりそうだったから、村ごと少し下に移った! 古い場所は地図から消えたが、新しい村はある! たぶん元気だ!」


 クィナスが小さく息を吐いた。


「心配させる言い方をしないでください」


「すまん! 地図にないのは本当だった!」


「本当でも言い方があります」


 イェルミナはしばらくボルガムを見ていた。


 やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。


「嘘ではないな」


「嘘は言ってねえ!」


「リュナメルの畑は見たのか」


「見た。水をやりすぎるなと怒られた。昼は葉を焼くな、夜は冷やせ、根を甘やかすな、とも言われた」


 イェルミナの目が、はっきりと変わった。


「誰に」


「畑の婆さんだ。名は忘れた」


「名を忘れるな」


「すまん!」


 イェルミナは呆れたように目を閉じる。


「だが、言葉は合っている。根を甘やかすな、という言い方は南西高地の古い農家が使う」


 ラグネルが静かに言った。


「だから連れてきた」


「なるほど」


 イェルミナは門を大きく開いた。


「入れ。話だけは聞く」


 門の内側は、外から見たより広かった。


 黒い温室は、内側にいくつもの区画を持っていた。

 一つは湿った森のように薄暗い。

 一つは乾いた丘のように風が流れている。

 一つは白い霧が低く漂い、足元だけが冷えている。


 イェルミナは奥の小さな作業室へ案内した。


 部屋には机が一つ。

 壁には植物の図が貼られている。

 棚には土の瓶、乾いた根、種袋、魔石の小箱が並んでいた。


「座れ」


 オルゼンたちは椅子に座る。


 ボルガムだけは、木箱を膝に置いたまま座った。


 イェルミナは机の向こうに立ち、最初に言った。


「金の話なら帰れ」


 オルゼンは頷いた。


「金だけで借りられる場所ではないと聞いています」


「その通りだ」


「ですから、今日は信頼を得に来ました」


 クィナスの耳が少し立つ。


 ラグネルも、黙ってオルゼンを見る。


 ここからは、ラグネルの紹介ではなく、オルゼンの交渉だった。


 イェルミナは紫の目でオルゼンを見た。


「小店の店主が、リュナメルを育てたい理由は?」


「将来の商品にするためです」


「正直だな」


「はい。商売ですから」


「希少植物を金に変えたいと?」


「違います」


 オルゼンはすぐに答えた。


「希少だから高く売りたいわけではありません。育てる価値があり、使い道があるから、店の商品にしたいんです」


「同じことでは?」


「違います」


 オルゼンは机の上に、クィナスがまとめた資料を置いた。


 そこには、これまでの店の商品記録が簡潔にまとめられている。


 青塩。

 夜そぼろ瓶。

 保存食棚。

 乾燥果実。

 調味小包み。

 客の反応。

 売り方。

 注意書き。

 用途説明。


「うちは、珍しいものを仕入れて売る店です。ですが、扱う品をただ高く売るつもりはありません」


 イェルミナは資料へ視線を落とす。


「青塩……多量使用の注意書きか」


「はい。危険物として排除するのではなく、正しい使い方で残しました」


「夜そぼろ瓶?」


「安く見られていた端肉を、料理で商品にしました。ただし、良い肉が入った時だけです」


「ふむ」


 イェルミナの目が、少しだけ資料に留まる時間が長くなった。


 オルゼンは続ける。


「リュナメルも同じです。珍しいから並べるのではなく、育て、記録し、使い方を考え、必要な形にして売ります」


「何に使うつもりだ」


「通常種は乾燥果実、菓子、茶菓子、贈答用。白月種は香料と菓子。緋月種は肉料理、保存食、果実酒との組み合わせ」


 ボルガムが横から言う。


「緋月は脂に合う」


 イェルミナがボルガムを見る。


「知っているのか」


「昔、食った」


「どんな肉と?」


「脂の強い山羊肉だ。焼いた肉に、緋月を干したやつを刻んで混ぜた酸っぱいたれをかけてた。あれはうまかった」


 イェルミナは黙った。


 しばらくして、小さく言う。


「正しい」


 ボルガムは嬉しそうに鼻を鳴らした。


 オルゼンは話を戻す。


「ただし、まだ商品にはしません。数年かかると聞いています」


「最低でも、な」


「分かっています。だから投資として考えています。今日の売上ではなく、数年後の店の柱として」


 イェルミナは腕を組んだ。


「失敗したら?」


「記録を残します」


「金は失う」


「はい」


「ラグネルの名義も傷つく」


「だから、管理名義を借りるだけでなく、報告義務を持ちます」


 クィナスが資料を一枚差し出した。


「栽培記録案です。日付、水量、土の状態、葉色、温度、湿度、夜間冷却、根の張り、処置、異常、担当者所見を記録します」


 イェルミナはその紙を受け取った。


「細かいな」


「帳簿担当ですので」


「猫族の帳簿か」


「はい」


「信用できそうだ」


 クィナスの耳が少しだけ嬉しそうに動いた。


 だが、イェルミナはすぐにオルゼンへ戻る。


「記録は良い。だが、植物は記録だけでは育たない」


「はい」


「金も同じだ。払えば済むわけではない」


「その通りです」


「では、何を差し出す」


 クィナスが少し身を乗り出しかけた。


 だが、オルゼンは手で軽く制した。


 ここは自分が話すべき場面だった。


「責任です」


 イェルミナの目が細くなる。


「曖昧だな」


「具体的に言います。リュナメルが枯れた場合、責任を施設やラグネルさんに押し付けません。栽培判断の記録を残し、原因を確認し、次に活かします」


「次があれば、だが」


「はい」


「施設の規則を破った場合は?」


「即時退去で構いません」


 ボルガムが少しだけ反応したが、黙っている。


 オルゼンは続けた。


「施設の土や技術を外に持ち出しません。見たものを勝手に商品化しません。リュナメル以外の植物に触れません。必要なら、温室内での行動記録も残します」


 イェルミナは黙って聞いている。


「そして、収益が出た場合、ラグネルさんへの返済とは別に、温室への栽培記録提供と、初回加工品の提出を条件に加えても構いません」


「加工品を?」


「はい。育てた成果を、まず施設側にも確認してもらう。植物を預かる場所として、その権利はあると思います」


 イェルミナは初めて、少しだけ興味深そうな顔をした。


「面白いことを言う」


「商売ですから」


「施設に利益を返す、ということか」


「金だけでなく、成果で返します」


 ラグネルが口元をわずかに緩めた。


 セイドも静かにオルゼンを見ている。


 クィナスは帳簿を開きたい顔をしていたが、今は我慢している。


 イェルミナは机に置かれた資料をもう一度見た。


「お前は、リュナメルを独占するつもりか」


「ありません」


「本当に?」


「ありません」


「育てられれば、価値は高い。白月、緋月まであれば、他店より優位に立てる」


「そうでしょうね」


「なら、独占したいとは思わないのか」


 オルゼンは少しだけ考えた。


「うちの店だけで扱い切れる品ではありません」


 イェルミナは黙る。


「リュナメルが育てば、菓子職人、香料師、料理人、酒造り、保存加工の店。いろいろなところに需要が出ます。うちはその入口になりたい。全部を抱え込むより、正しい使い方を広げた方が価値が上がると思います」


「競争相手を作るのか」


「はい」


「負けるとは思わないのか」


「負ける試合をする気はありません」


 ラグネルが小さく笑った。


 以前、オルゼンが言った考えと同じだった。


「真似されても、育て方、加工、売り方、客への伝え方で勝負します。市場が育てば、客の目も育ちます。目が育った客は、良いものに金を払います」


 イェルミナは、長い耳をわずかに揺らした。


「若い店主が、ずいぶん先を見る」


「小さい店なので。今だけを見ていると、すぐ詰まります」


「ふむ」


 イェルミナは、今度はボルガムへ向いた。


「木箱を開けろ」


 ボルガムは静かに頷き、布を外した。


 中には、小さな鉢が四つ。

 そして種袋が二つ。


 四つの芽は、まだ小さい。

 だが、葉の色は悪くなかった。


 イェルミナは手を伸ばしかけて、止める。


「触っていいか」


 ボルガムは一瞬だけ考えた。


「根は触らないなら」


「分かっている」


 イェルミナは葉の近くの空気を指で確かめるように動かした。

 土の匂いを嗅ぎ、鉢の縁を軽く叩く。


「水は控えめ。悪くない。土は少し重いが、発芽まではこれでよかった。移植するなら根を崩すな」


「分かってる」


「四芽のうち、一つは弱い」


「右奥だろ」


「気づいているか」


「葉の張りが違う」


「ならいい」


 次に、白月種と緋月種を見る。


 イェルミナの目が明らかに鋭くなった。


「本物だな」


「発芽させたい」


 ボルガムが言った。


「簡単ではない」


「知ってる」


「白月は夜の湿り気を欲しがる。だが根を濡らすと腐る。緋月は風を欲しがる。だが乾かすと眠ったまま死ぬ」


「だからここに来た」


「自分の店で無理をしなかったのは正しい」


 その言葉に、ボルガムの肩が少しだけ落ちた。


 安心したのだろう。


 イェルミナは木箱を閉じさせたあと、机の引き出しから一枚の契約板を出した。


 紙ではない。

 薄い木板に、魔術文字が刻まれている。


「条件を出す」


 オルゼンは背筋を伸ばした。


「はい」


「第一。区画は小区画から始める。通常種四芽、白月種一粒、緋月種一粒のみ。追加持ち込みは禁止」


「分かりました」


「第二。栽培責任者はボルガム。責任者不在時の処置は事前に記録し、私の許可を得ること」


「はい」


 ボルガムも頷く。


「第三。管理記録は七日に一度提出。異常があれば即日報告」


「できます」


 クィナスが答える。


「第四。温室内の他植物には触れない。土、種、枝、葉、落ちた実も持ち出さない」


「承知しました」


「第五。初回の実が取れた場合、加工前と加工後の記録を提出。加工品の一部を温室へ納めること」


「はい」


「第六。出資名義はラグネル。使用責任はオルゼン商店。滞納、規則違反、虚偽報告があった場合、即時契約解除」


 オルゼンは頷いた。


「受けます」


 クィナスが少しだけオルゼンを見た。


 大きな条件だ。

 だが、必要な条件でもある。


 イェルミナは最後に言った。


「そして第七」


「はい」


「リュナメルを、飾りにするな」


 オルゼンは少しだけ目を細めた。


「飾り?」


「希少な植物を手に入れた者は、すぐに名を売りたがる。育ちもしないうちから看板にする。金持ちを呼ぶ。自分の価値を高く見せる道具にする」


 イェルミナの声は静かだった。


 だが、そこには長く生きた者の苦さがあった。


「そういう者に、植物は育てられない」


 オルゼンはまっすぐ答えた。


「看板にはしません」


「本当に?」


「はい。実がなり、商品として出せるまでは、店の表には出しません」


 クィナスが小さく頷く。


「帳簿上は記録しますが、販売告知には出しません」


 ボルガムも言う。


「育つ前に騒ぐと、根が驚く」


「根は驚かん」


 イェルミナが即座に返す。


「気分だ!」


「気分なら仕方ない」


 そのやり取りで、少しだけ空気が緩んだ。


 イェルミナは契約板をオルゼンの前に置く。


「署名しろ。店主が」


 ラグネルではない。

 ボルガムでもない。

 クィナスでもない。


 オルゼンが、店主として署名する。


 それがこの契約の意味だった。


 オルゼンは木筆を取り、名前を書いた。


『オルゼン商店 店主 オルゼン』


 次に、ボルガムが責任者として名を書く。


 字は少し大きい。

 だが、思ったより丁寧だった。


 クィナスが記録担当として名を書く。

 美しい字だった。


 最後に、ラグネルが出資名義として署名する。


 イェルミナは契約板に手をかざした。


 薄い緑の光が走り、文字が木板へ沈む。


「契約成立だ」


 クィナスが小さく息を吐く。


 ボルガムは木箱を抱え直した。


「どこに植える」


「案内する」


 イェルミナは立ち上がった。


 一行は作業室を出て、温室のさらに奥へ向かった。


 そこには、小さな区画があった。


 透明な天井。

 足元は砂混じりの土。

 奥には霧を出す石。

 壁際には夜間冷却用の青い魔石。

 天井近くには風を送る羽根がゆっくり回っている。


「ここを使え」


 イェルミナが言った。


「昼は暖かく、夜は冷える。湿度は調整できる。排水も良い。リュナメルには悪くない」


 ボルガムは土を見た。


 しゃがみ込み、指で少しだけ触る。


「軽い。だが逃げすぎない」


「混ぜてある」


「砂、腐葉土、火山灰か?」


 イェルミナの眉がわずかに上がる。


「分かるのか」


「昔、畑で見た」


「そうか」


 二人の間に、奇妙な沈黙があった。


 古い知識を持つダークエルフ。

 過去にリュナメルの畑を見た熊族。


 どちらも多くは語らない。

 だが、土を前にすると話が通じる。


「移すぞ」


 ボルガムが言った。


「今日は通常種四芽だけだ」


 イェルミナが言う。


「白月と緋月は?」


「まだ眠らせる。準備を整えてからだ。焦ると失敗する」


 ボルガムは素直に頷いた。


「分かった」


 通常種四芽は、慎重に移された。


 ボルガムが鉢を支え、イェルミナが土を整える。

 クィナスが記録する。

 オルゼンはその作業を黙って見守った。


 ラグネルも、何も言わない。


 小さな芽が、新しい土に収まる。


 それだけのことなのに、まるで店の未来の一部を植えているようだった。


 最後の一芽を移し終えた時、ボルガムが小さく息を吐いた。


「よし」


 イェルミナは葉の角度を見て言った。


「初日は水をやりすぎるな」


「分かってる」


「夕方に霧を少し。夜は冷やす」


「分かってる」


「話しかけすぎるな」


「それは……努力する」


 クィナスが帳簿に書く。


『イェルミナさん指示。話しかけすぎない。ボルガム、努力する』


「書くのか!」


「記録担当なので」


「栽培記録にいるか!?」


「精神管理も大事です」


 イェルミナが小さく笑った。


「悪くない記録係だ」


「ありがとうございます」


 オルゼンは区画の端に立ち、四つの芽を見た。


 残りの白月種と緋月種は、まだ眠っている。

 だが、ここなら起こせるかもしれない。


 金はかかる。

 責任も重い。

 失敗もあり得る。


 それでも契約した。


 金で場所を借りたのではない。


 信頼を預かり、責任を背負って、場所を得た。


 店に戻る頃には、夕方になっていた。


 帰り道、ボルガムは妙に静かだった。


 クィナスが横から聞く。


「ボルガム、緊張しましたか?」


「した」


「正直ですね」


「土の前で嘘はつけねえ」


「良い言葉です。帳簿に書きます」


「それはいい!」


「許可が出ました」


 オルゼンは二人のやり取りを聞きながら、ラグネルへ声をかけた。


「ありがとうございました」


「まだ礼を言うには早い」


 ラグネルは歩きながら答えた。


「芽を育ててからだ」


「はい」


「だが、悪くない交渉だった」


「そう見えましたか?」


「金の話に逃げなかった」


 オルゼンは少しだけ笑った。


「金だけでは借りられない場所でしたから」


「それに気づいているならいい」


 セイドが静かに言う。


「イェルミナ様が初日で契約を許すのは珍しいです」


「そうなんですか?」


「はい。普通は三度は追い返されます」


 クィナスの耳が揺れる。


「それは先に教えてほしかったですね」


「言うと構えますので」


「セイドさんも試す側ですね」


「少しだけ」


「その少しも信用できません」


 セイドは穏やかに笑った。


 店に戻ると、いつもの匂いがした。


 木の棚。

 厨房の火。

 青塩。

 保存瓶。

 白蜜プリンの甘さ。


 温室とは違う。


 ここが店だ。


 オルゼンは入口の札を見た。


 今日は臨時で昼から閉めていた。

 明日からは通常営業に戻る。


 ただし、店の裏側には新しい仕事が増えた。


 リュナメル栽培記録。

 温室通い。

 出資返済計画。

 白月種と緋月種の発芽準備。


 クィナスはさっそく帳簿を開き、新しいページに書く。


『魔術温室契約成立。

 管理者、イェルミナさん。ダークエルフ。リュナメル栽培経験あり。

 金ではなく信頼で借りる場所。

 通常種四芽を移植。白月種・緋月種は未発芽、準備後。

 ボルガム、責任者。

 マスター、契約交渉。信頼獲得。』


 そこで一度、手を止める。


「マスター」


「ん?」


「今日の交渉、良かったです」


「珍しいな。正面から褒めるなんて」


「記録担当なので、事実は正確に残します」


「そうか」


「はい」


 ボルガムも腕を組んで頷いた。


「マスターが話してくれたから、借りられた」


「俺だけじゃない。ラグネルさんの名義と、クィナスの記録と、ボルガムの知識があったからだ」


「それでも、最後に決めたのはマスターだ」


 ボルガムの声は、いつもより落ち着いていた。


 オルゼンは少しだけ照れくさくなり、カウンターの上を整えるふりをした。


「明日は通常営業だ」


「話を逸らしましたね」


 クィナスが言う。


「逸らしてない」


「逸らしました」


「帳簿に書くなよ」


「検討します」


 ボルガムが大きく笑った。


 その声は店の中に響いたが、不思議と嫌ではなかった。


 リュナメルの芽は、もう店にはない。


 特殊温室の土に移された。


 けれど、店から消えたわけではない。


 むしろ、これから本当に始まる。


 商品になるのはずっと先だ。

 失敗するかもしれない。

 金もかかる。

 手間もかかる。


 だが、オルゼンの店は今日、数年後のために小さな場所を借りた。


 金ではなく、信頼で。


 そしてその信頼は、明日から毎日、記録と手入れで返していくことになる。

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