第2話 思い出せない隣の席
グラスをもう一度満たす。
今度は少しだけ、変える。
同じウイスキーに、ほんの少しだけ水を落とす。
香りが開く。
記憶も、そういうものだ。
強すぎると閉じる。
少しだけ揺らすと、浮かび上がる。
「どうぞ」
差し出す。
男は受け取る。
今度は、すぐに飲まない。
グラスを見つめている。
その視線が、どこか遠い。
「……匂いが違う」
小さく言う。
「さっきより」
「ああ」
短く答える。
それ以上は言わない。
自分で辿らせる。
それが、この店のやり方だ。
男は一口飲む。
目を閉じる。
数秒。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「……近い」
ぽつりと言う。
「でも、まだ足りない」
何かを探している顔。
だが、さっきより確実に近づいている。
「どんな感じだ」
聞く。
男は言葉を探す。
「……もう一つ」
少しだけ眉をひそめる。
「何かがあった気がする」
グラスを持つ手が、少しだけ強くなる。
そのとき——
ドアが開く。
音は、いつも通りだ。
だが、空気が変わる。
男が顔を上げる。
反射的に。
何かに引かれるように。
入口に立っていたのは——
女だった。
三十代半ばくらい。
派手ではない。
だが、目を引く。
静かな雰囲気。
どこか、疲れているようにも見える。
「……」
女は少しだけ店の中を見渡す。
初めて来た客の動き。
だが——
一瞬だけ、男の方を見る。
その視線が、止まる。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
「いらっしゃい」
声をかける。
女は軽く頷く。
カウンターに近づく。
男の隣に座る。
距離は、わずかだ。
だが——
その距離が、妙に自然だ。
まるで、最初からそこに座ることが決まっていたみたいに。
「何にしますか」
聞く。
女は少し考える。
それから、こう言う。
「……同じもので」
男のグラスを見る。
その視線に、迷いはない。
頷く。
同じものを用意する。
グラスに注ぐ。
差し出す。
女はそれを受け取る。
一口飲む。
目を閉じる。
「……」
何も言わない。
だが、その表情がすべてを語っている。
知っている。
この味を。
この時間を。
男が、ゆっくりと口を開く。
「……どこかで」
声が、少しだけ震えている。
「会いましたか」
女はすぐには答えない。
グラスを見つめる。
そのまま、数秒。
それから——
「……分かりません」
静かに言う。
だが、その声には揺れがある。
「でも」
少しだけ顔を上げる。
男を見る。
「同じことを思いました」
その言葉で、空気が変わる。
二人の間に、何かが生まれる。
見えないが、確かにある。
「……誰と来たのか」
男が言う。
「思い出せないんです」
女は、ゆっくりと頷く。
「私も」
その一言で、すべてが繋がる。
同じ場所。
同じ時間。
そして——
同じ“欠落”。
「……ここだ」
男が呟く。
「ここで会った」
女は何も言わない。
だが、否定しない。
グラスを持つ手が、少しだけ近づく。
触れそうで、触れない距離。
そのとき——
男が、ふと顔を歪める。
「……名前」
苦しそうに言う。
「思い出せない」
さっきまで言えていたはずのもの。
それが、抜け落ちている。
「……」
女が、小さく息を呑む。
「私も」
同じだ。
名前だけが、抜けていく。
一番大事なはずのものが。
「……どういうことだ」
男がこちらを見る。
その目に、焦りがある。
「落ち着け」
短く言う。
だが、自分でも分かっている。
これは、あのときと同じだ。
記憶が、形になる前の状態。
分かれて、揺れて、欠けている。
「……もう一杯」
口に出る。
理由は分からない。
だが、分かっている。
ここで終わらせると、消える。
完全に。
「作る」
ボトルを取る。
今度は、ほんの少しだけ強くする。
同じ酒。
だが、比率を変える。
シェイカーは使わない。
ゆっくりと、混ぜる。
二人分。
グラスに注ぐ。
並べる。
「飲め」
静かに言う。
二人が、それぞれグラスを持つ。
同時に口をつける。
その瞬間——
空気が、わずかに揺れる。
氷が鳴る。
音が、重なる。
「……あ」
男が、小さく声を出す。
女も同じように息を呑む。
何かが、触れた。
断片が、繋がりかける。
だが——
まだ足りない。
完全には、戻らない。
「……」
カウンターに手をつく。
見ているしかない。
この二人が、何を思い出すのか。
それとも——
思い出せないまま終わるのか。
ドアの外は、静かだ。
だが、分かる。
今夜はまだ、
“もう一人”が必要だ。
それが来るまで、
この夜は終わらない。




