第1話 忘れられない客
札幌・ススキノの外れに、小さなバーがある。
看板は目立たず、気づかない人間の方が多い。それでも、なぜか辿り着く客がいる。
迷ったわけでもなく、探していたわけでもなく、ただ、気づいたら扉の前に立っている。
そんな夜がある。
店の中は静かだ。音楽は流れていない。氷の触れ合う音と、グラスのわずかな響きだけが、時間を刻んでいる。
ここでは、特別なことは起きない。
ただ、忘れていた記憶が、ふと浮かび上がったり、選ばなかったはずの人生が、形を持って現れたり、いないはずの誰かが、隣に座っている気がしたりする。
それだけのことだ。
店主は多くを語らない。問いかけることはあっても、答えを与えることはない。
ここは、何かを解決する場所ではない。
ただ、気づくための場所だ。
自分が何を持っていて、何を手放してきたのか。
そのことに、静かに触れるための場所。
今夜もまた、一人の客が扉を開ける。
その夜、最初の客は見覚えのない男だった。
四十代くらい。
スーツ姿。
少しだけ疲れた顔をしている。
だが、どこかだけが不自然だった。
「いらっしゃい」
声をかける。
男は軽く頷く。
カウンターに座る。
周りを見渡す。
初めての客の動きだ。
だが、その視線が少しだけ長い。
まるで、何かを探しているような。
「何にしますか」
聞く。
男は少しだけ考える。
それから、こう言った。
「……決まっていた気がするんですが」
曖昧な言い方。
こちらを見る。
「思い出せない」
その一言で、手が止まる。
「おすすめでいいですか」
続ける。
頷く。
ボトルを手に取る。
ウイスキー。
軽めのもの。
理由はない。
ただ——
“これを出したことがある気がした”
グラスに注ぐ。
差し出す。
男はそれを受け取る。
一口飲む。
少しだけ目を閉じる。
「……違う」
ぽつりと言う。
「これじゃない」
その言い方に、違和感がある。
味の好みではない。
もっと別の何かだ。
「もっと」
言葉を探す。
「覚えているはずなんです」
グラスを見つめる。
指先が、わずかに震えている。
「ここで」
顔を上げる。
「飲んだことがある気がする」
その一言で、空気が変わる。
「……初めてだろ」
確認する。
男はすぐに首を振る。
「はい」
はっきり言う。
「初めて来ました」
だが、その目は揺れている。
「でも」
続ける。
「ここに来たことがある気がする」
その感覚は、知っている。
自分が経験したものと、同じだ。
「……名前は」
聞く。
男は少しだけ考える。
それから答える。
「……思い出せます」
少し安心したように言う。
「でも」
すぐに続ける。
「一つだけ、思い出せない」
その言葉が、静かに落ちる。
「何だ」
男は、ゆっくりと答える。
「誰と来たのか」
その瞬間、背中に冷たいものが走る。
この店に来た記憶がある。
だが、“一緒にいた誰か”だけが抜けている。
それは——
一番、残るはずのものだ。
「……」
カウンターに手をつく。
また始まっている。
形を変えて。
今度は、自分ではなく、
別の誰かの中で。
ドアの方を見る。
静かだ。
だが、分かる。
今夜は、まだ終わらない。
「……もう一杯、作る」
そう言う。
男は顔を上げる。
「思い出せるかもしれない」
自分でも、理由は分からない。
だが、この店では——
それが起きる。
忘れたはずのものが、
形を持って現れる。
男は、ゆっくりと頷く。
グラスを差し出す。
受け取る。
その手が、少しだけ強くなっている。
何かに触れそうな、
そんな予感があった。




