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真夜中の花屋 Pantalea  作者: 東雲大雅


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第9話「ツツジ」 笑う遺影と血の涙

 女は、深夜にゴミ出しのため家を出た。


 本来なら朝に出さなければならない。

 だが、女の家はゴミ置き場から少し離れている。


 朝の支度に追われるのが嫌で、こうして夜のうちにこっそり捨てに行くのが、いつの間にか習慣になっていた。


 ゴミ置き場に着いたときだった。


 足元に、違和感を覚える。


 地面が、わずかに濡れていた。


 雨は降っていない。それなのに、水滴がぽつぽつと続いている。


 まるで――


 どこかへ導くように。


 女は顔を上げる。水滴は、そのまま道の先へと続いていた。


 視線の先に、小さな灯りがある。


 女は、しばらくその場に立ち尽くした。


 行く必要はない。


 関わる理由もない。


 そう思ったはずだった。


 だが、気づけば足が動いていた。


 水滴を踏まないように避けながら、あるいは無意識にその上をなぞりながら、灯りの方へと歩いていく。


 近づくにつれ、その正体がはっきりした。


 


 「Pantalea」と書かれた看板。


 


 花屋だった。


「……こんな店、あったかしら」


 見覚えはない。


 この道は何度も通っているはずなのに。


 それでも、足は止まらなかった。


 入らなければならない気がした。


 理由は分からない。


 ただ、そうしなければいけないと、どこかで思っていた。


 


 女は、戸を押して店の中へ入る。


 中には、眼鏡をかけた女店主がいた。


 赤紫色の花が咲いた鉢植えを、ハサミで一枝ずつ切り落としている。


 静かな音が、店内に規則正しく響いていた。

 


「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」


 女店主は一度だけ顔を上げ、軽く会釈をする。


 それ以上は何も言わず、再び手元へと視線を落とした。


 刃が、枝を切り落とす。


 ひとつ。


 またひとつ。



 落ちた枝は、床にそのまま残されていた。


「……そちらの花は?」


「これはツツジの花です。これから少しずつ、形を整えていくところでして」


 女店主が、花を見つめたまま答える。


「そう……」


 興味があったわけではない。


 ただ、目を逸らせなかっただけだった。


「それでいいので、早くください」


 長くいるべきではない。そう思いながら、女は言う。


「かしこまりました。少々、お待ちください」


 女店主はようやく手を止め、ハサミを静かに置いた。


 剪定されかけていたツツジを手に取り、そのまま店の奥へと消えていく。


 店内は、不自然なほど静かだった。


 数分後。


 女店主は、小さな鉢に移し替えられたツツジを、簡素な袋に入れて戻ってきた。


「こちらをどうぞ」


 差し出された袋を、女が受け取る。


 そのときだった。


「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」


 女店主は、ふと顔を上げて微笑んだ。





 その女性は、姑からひどいいじめを受けていました。


 掃除ができていない。料理はまずい。動きが遅い。

 些細なことでも叱責され、「これだから田舎者は」と、何度も言われました。


 そして姑は、決まって最後に笑うのです。

 口角だけが、不自然に吊り上がるような笑い方で。


 その笑い方が、女性はどうしても苦手でした。

 

 夫に相談しても、取り合ってはもらえません。


「お前がちゃんとやらないからだろ」


 その一言で終わります。


 近所の人も事情は知っていましたが、誰も関わろうとはしません。

 

 そんなある日、姑が倒れました。


 急な脳梗塞だったようで、そのまま、帰らぬ人となります。

 

 女性は泣きませんでした。


 ただ、静かに葬儀を終えたそうです。

 

 周囲がひそひそと囁き始めます。


 あれだけのことがあったのだ、もしかしたら――と。


 ですが、その疑念はすぐに消えました。

 

 女性が、毎日欠かさず仏壇に花を供えていたからです。

 

 ツツジの花でした。

 

「生前、義母が好きだった花なんです」


 そう言って、女性は微笑みました。

 

 かつては怖いと言っていた、あの笑顔の遺影に向かって。

 

 夫は、どこか安心したように頷きます。


 ようやく分かってくれたのだと。

 

 

 それから毎日。

 女性は仏壇に手を合わせ、ツツジを供えました。

 

 最初は、何も変わりませんでした。

 

 それが数日続いた頃。


 女性は気づきます。

 

 遺影の笑顔が、少しだけ深くなったように見えたのです。

 

 気のせいだと思いました。

 

 次の日も花を替えます。

 

 また、笑顔が変わる。

 

 口角が、わずかに上がっている。

 

 夫は何も言いません。


 何も気づいていないようでした。

 

 

 さらに数日。

 

 遺影の目が、笑っていないことに気づきます。

 

 あの頃と同じで、口元だけで笑っている。

 

 女性は、しばらくその顔を見つめていました。

 

 それから、静かにツツジを供えます。

 

 

 ある日。

 

 遺影の頬に、細い筋が走っているのを見つけました。

 

 涙の跡のようです。

 

 ただ、その色は、少しだけ濃かった。

 

 女性は何も言わず、いつものように花を替えます。

 

 

 その夜。

 

 仏壇の前に座り、遺影を見上げて、こう呟きました。

 

「……よかった」

 

 遺影の中の姑は、いつものように笑っています。

 



 ただ、その目元から。

 

 ゆっくりと、赤いものが伝っていたのです。

 

「よかった。そちらでも、元気にやってるんですね」

 

 女性は、もう一輪ツツジを供えます。

 

 その花は、どこにでもあるような、ありふれた花です。

 

 ただ一つ。

 

 女性の生まれた土地では――

 

 その花を仏壇に供えることだけは、固く禁じられていたそうです。

 



 死者が、苦しむからだと。

 

 


 遺影の中の姑は。

 

 血の涙を流しながら。

 



 口元だけで、嬉しそうに笑っていました。







「……よくある話ですね」


 女はそう言って視線を逸らした。


「ええ。気づかなければ、それで済むものも多いですから」


 女店主が、小さく頷く。


「……」


「まぁ、関わりたくないものもありますよね」


 一瞬、女の顔がひきつる。


「……知っているの?」


「さぁ」


 女店主は、わずかに首を傾げる。


「お気になさらないでください。ただの、よくあるお話ですから……」


 その言葉に、女は小さく息を吐いた。


 これ以上、この店に居たくない。


 女はそれ以上何も言えず、店を出た。


 帰り道、いつのまにか水滴は無くなっていた。

 ゴミ置き場まで戻った時、ふと後ろを振り返る。


 すでにあの店の灯りは消えており、いつもの見慣れた路地が、何事もなかったかのように広がっていた。

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