第6話「睡蓮」 引き上げてはいけなかったもの
「いつの間に、こんな所まできたんだ?」
男は深夜の街を走っていた。いつもなら、決まった道を走る。だがその夜だけは、なぜか知らない道へ足を向けていた。
ただ、無心に。
胸にこびりついた、あの日の記憶を振り払うように。
辺りを見渡すと、一軒の灯りの灯った店を見つける。看板には、「Pantalea」と書かれていた。
「……花屋か?こんな時間に?」
店頭に並ぶ花々を見て、小さく呟いた。普段なら絶対に入らない。だが男の足は、導かれるように店の中へ入っていった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」
カウンター越しに、眼鏡をかけた女店主が声を掛ける。手元でペンを動かしながら。
「こんな時間まで花屋って営業してるんですか?」
「ふふっ。他のお店は、やってないと思いますよ。ウチは少し変わってますから……」
「そうですか……。ええっと、どうしようかな」
男は店内を見渡し、ある一点で視線を留めた。水の入った桶の上に咲く、白い花。
「そちらは睡蓮ですね。今の時期は、特に綺麗に咲きますから」
「——綺麗ですね。じゃあ、それをください。あっ、でも持って帰れるかな……」
「ご安心ください。お包みしますので、少々、お待ちください」
女店主は睡蓮の咲く桶を持つと、店の奥へ入っていった。
男は所在なく棚を眺める。見たこともない花が並んでいた。手持ち無沙汰に、花へ近づこうとした瞬間——
「お待たせしました。こちらをどうぞ」
背後から声をかけられ、男は焦って振り返る。
「あっ!……ありがとう、ございます」
女店主が丁寧に包装された睡蓮を男に手渡しながら、こう言った。
「そうそう、この花には、こんなお話があるんですよ」
ある村では、睡蓮を忌み嫌う風習がありました。
睡蓮は死者に手向ける花。
生きている人間が触れていい花ではない。お彼岸の時期を除き、摘むことはもちろん、池を覗くことすら嫌われていました。
もし禁を破れば、恐ろしいことが起きる。
そう、言い伝えられていたのです。
村の奥、森を抜けた先に、大きな池がありました。池の水面は一年を通して静かで、そこには無数の睡蓮が咲いています。
毎年、お彼岸になると、村人たちはその池へ行き、睡蓮を摘みます。
摘む数は決まっていました。
前のお彼岸から、村で亡くなった人の数。その数と、ぴったり同じだけ。
それを仏前に供えるのが、この村のしきたりでした。
村に住む少年は、その睡蓮が好きでした。
お彼岸のたびに供えられる花は、ほかのどんな花よりも美しく見えたのです。
ですが、村の大人たちは口を揃えて言います。
「あれは死者の花だ。生きている者が触っていい花じゃない」
少年は頷きながらも、心の奥では思っていました。
一度でいいから、近くで見てみたい。
そしてある年のお彼岸が過ぎた夜。
少年は、こっそりと家を抜け出しました。
月明かりを頼りに、森を抜け、池へ向かいます。
池には、変わらず睡蓮が咲いていました。
水面いっぱいに広がる、白い花。
少年は息を呑みました。
こんなに近くで見るのは初めてです。手を伸ばせば、すぐ届くところに咲いていました。
少年はそっと一輪摘み取ります。
花は、ひどく冷たく感じられました。
それでも少年は嬉しくて、その花を大事に持ち帰りました。
家の裏にある桶に水を張り、ゆっくりと浮かべます。
「きれいだな」
そう呟いて、少年は眠りにつきました。
しかし翌朝、桶を覗いた少年は息を呑みました。
睡蓮が枯れていたのです。
ただ枯れたというより、色が完全に抜け落ち、何年も干からびていたように萎れていました。
昨日摘んだばかりとは思えないほどに。
少年は急に怖くなりました。
もし誰かに見つかったら――。
村の掟を破ったことが知られたら、ただでは済みません。
少年は震える手で枯れた睡蓮を拾い上げました。
池に戻そう。
そう思ったのです。
その夜、少年はまた森へ向かいます。池はすぐに見つかりました。
月明かりに照らされ、白い花が水面に浮かんでいます。
ですが、近づいたとき、少年は違和感を覚えました。
睡蓮の位置が高いのです。
水面から咲いているというより――
池の中から、何かが持ち上げているように見えました。
少年は池の縁まで歩き、目を凝らします。
そして、気づきました。
睡蓮を支えているのは、茎ではありません。
人間の腕だったのです。
池の底から、何本もの腕が伸びていました。
青白くふやけた腕が、水面から突き出し、その手のひらに、睡蓮を一輪ずつ大事そうに乗せていたのです。
腕は、静かに揺れていました。
まるで、花を落とさないように気をつけているかのように。
その中に一本だけ、何も持っていない腕がありました。
その腕だけが、左右に大きく揺れていました。
何かを探すように。
少年はすぐに分かりました。
自分が摘んだ花だ。
少年は泣きながら、枯れた睡蓮を取り出しました。
そして池へ差し出します。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
池の縁に膝をつき、何度も頭を下げました。すると、何も持っていなかった腕が、ゆっくりと近づいてきました。
その手は、少年の頭に触れました。
冷たい手でした。
けれど、その動きはどこか優しく、まるで子どもをあやすように、そっと頭を撫でました。
少年は、少しだけ安心しました。
そして、顔を上げました。
その瞬間、腕は少年の首を掴みました。強い力で、そのまま池の中へ、少年を引きずり込みます。
水音は、ほとんどしませんでした。
翌日。
池には、変わらず睡蓮が咲いていました。
ただ一輪だけ。
ほかの花より、少し小さな睡蓮が増えていたそうです。
「……なぜ、そんな話を……?」
男の声は震えていた。
女店主は微笑んだまま、静かに答える。
「この世には、引き上げてはいけないものも、ありますからね」
男の肩がびくりと跳ねる。
「俺が、間違えたって言いたいのか」
絞り出すような声だった。
「いいえ、その逆です」
女店主は小さく首を振る。
「貴方が引き上げたものに、間違いなどありません」
「ですから、どうか……あまりご自身を責めないでください」
男の目が揺れる。
「……なんで、あんたがそれを知ってる?」
掠れた問いに、女店主はただ眼鏡を押し上げた。
「さあ」
そして微笑む。
「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」
男はしばらく俯いたまま、立ち尽くしていた。
やがて睡蓮を胸に抱え、何も言わずに店を後にする。
少し歩いた先で、男が振り返った時には、もうそこに、花屋の灯りはなかった。




