第26話「ビオラ」 名前のない相談
その男は今日も酒を飲んでいた。
あの日から、酒がなければまともに眠れない。
よく相談に来てくれた男の子が亡くなった。
自殺ではない。
一家心中だった。
なぜ、あの子まで巻き込まれなければならなかったのか。
文句を言う相手すら、もういない。
行き場のない思いを酒で流し込む。
千鳥足で夜道を歩いていると、一軒の店に灯りがともっているのが目に入った。
「Pantalea……?」
看板には、そう書かれていた。
不思議と、酔いが少し覚めるような感覚がする。
店に入ると、眼鏡をかけた女店主が花の手入れをしていた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」
「ちょっと気になって入ったんですけど……花屋さんですか?」
「えぇ。どんな花でも、取り揃えておりますよ」
「気分が落ち込んでいる時に見ると、元気が出る花とかありませんか?」
「どの花も、見る方の気持ち次第で姿を変えるものです。ご自身の直感で選ばれた花が、一番良いかと思いますよ」
「そんなものですか……」
男はふらふらと店内を見て回る。
どの花も見ていて飽きない。だが、これだと思える花は見つからなかった。
ふと、棚に置かれた鉢植えに目が留まる。
青紫と白が混ざり合う、小さな花弁の花。
「そちらは、ビオラという花です」
「あぁ、花壇で咲いているのを見たことがあります。ちょうど目に留まったし、この花をもらえますか?」
「かしこまりました。ご用意いたしますので、少々お待ちください」
女店主は鉢植えを抱え、店の奥へ入っていく。
男は何気なく店内を見渡した。
すると、店の隅に一輪の黒い花が置かれているのが目に入る。
見たことのない花弁の形。
その部分だけ、光を吸い込んだかのような黒。
気になって近づこうとした、その時だった。
「お待たせしました」
女店主の声に振り返る。
「あっ、ありがとうございます」
男はビオラを受け取り、もう一度店の隅へ視線を向けた。
だが、そこに黒い花はなかった。
男の意識を逸らすように、女店主が穏やかに口を開く。
「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」
ある学校には、生徒の悩みや相談を書いて入れるための箱がありました。
廊下の隅に置かれた、何の変哲もない木箱です。
そこに入れられる内容のほとんどは、他愛のないものでした。
「○○先生に、いつも当てられます」
「好きな子と仲良くなるにはどうしたらいいですか」
「かけっこが速くなりたいです」
その手紙を読んでいたのは、担任の先生ではありません。
週に数回だけ学校へやって来る、一人のスクールカウンセラーでした。
返事が欲しい場合は、手紙の最後に「○○へ返事をください」と書いておく決まりになっています。
そうすれば、指定された場所へ、そっと返事が届けられるのです。
ある日、その箱の中に、一通の手紙が入っていました。
『消えたいです』
短い一文の下には、こう書かれていました。
『返事は、旧校舎三階の空き教室の机に入れてください』
スクールカウンセラーは、しばらくその紙を見つめました。
誰かのいたずらかもしれない。
あるいは、本当に誰にも知られたくない悩みなのかもしれない。
迷った末に、
『あなたのことを大切に思っている人は、きっといます。
一人で抱え込まず、少しずつ話してみませんか。』
そう書いて、指定された机の中へ返事を入れました。
翌日。
目安箱の中には、また同じ筆跡の手紙が入っていました。
『消えたいです』
返事の場所も、同じ空き教室でした。
スクールカウンセラーは指定された机の中を覗きます。
返事の手紙はなくなっていました。
その代わりに、一輪のビオラが置かれていました。
紫の小さな花が、机の奥で静かに揺れています。
届いているのだ。
そう思い、スクールカウンセラーは少し安心しました。
その日も、前日とは違う言葉で励ましの手紙を書きました。
けれど翌日も、その次の日も。
目安箱には、同じ筆跡で、たった一言。
『消えたいです』
返事を書くたびに、机の中には一輪のビオラが置かれていました。
机の中の花は、一輪、また一輪と増えていきます。
スクールカウンセラーは、何度も言葉を選びました。
『あなたは一人じゃない。』
『死んではいけない。』
『話を聞かせてください。』
『学校には味方がいます。』
けれど、返ってくるのは、変わらない一言だけ。
『消えたいです』
いつしか、その文字を見るだけで胸が重くなりました。
自分の言葉は、何ひとつ届いていないのではないか。
本当に助けたいのに、相手の顔すら分からない。
焦りと無力感が、少しずつ積もっていきました。
そして、ある日。
目安箱の中には、また同じ手紙が入っていました。
『消えたいです』
スクールカウンセラーは、しばらくその紙を見つめたあと、震える手で返事を書きました。
『消えてください』
書き終えた瞬間、自分でも息が止まりました。
取り返しのつかないことを書いてしまった。
けれど、そのまま封筒に入れ、旧校舎の空き教室の机へ置きました。
翌日。
目安箱の中には、一通の封筒が入っていました。
見覚えのある筆跡です。
震える手で開くと、中には紙が一枚と、一輪のビオラが入っていました。
紙には、こう書かれていました。
『ありがとうございます。次は、先生の番ですね。』
その日を境に、スクールカウンセラーは学校へ来なくなったそうです。
理由を知る者はいません。
ただ、今では旧校舎三階の空き教室に、誰も近づこうとしません。
机の中には、枯れることのないビオラが咲いているからです。
そして時折、その花の間に、新しい手紙が紛れていることがあります。
『消えたいです』
その文字は、どこか大人びた書き方をしているそうです。
「……そのカウンセラーの気持ち、痛いほど分かります」
女店主は何も言わず、男の言葉を待った。
「僕も似たようなものですよ。知ってますか? 最近あった一家心中事件。あの中学生の子は、僕がよく話を聞いていた子なんです」
男は力なく笑う。
「父親はほとんど家に帰ってこない。母親からは勉強を強要される。妹が構ってほしそうにすると、母親が勉強の邪魔だと言って妹に手を上げる。だから、自分も構えない」
そこで言葉が詰まる。
「夏休みに入って学校へ来なくなったから、心配していたんです。……そしたら、ニュースの通り」
男は俯いた。
「……僕は無力だ」
しばらく沈黙が流れる。
「妹さんは、まだ見つかっていないみたいですよ」
男はぽつりと続けた。
「何なんですかね。あの子達が、一体何をしたっていうんですか」
握り締めた拳が、小さく震えていた。
「いっそ、僕もあの子のもとへ行くべきなんでしょうね」
女店主が静かに口を開く。
「それも、一つの道かもしれませんね」
「尽きることのない後悔の果てにたどり着く場所」
「そこに何があるのかは、誰にも分かりません」
一度言葉を切り、ビオラへ視線を落とす。
「ですが――お気をつけください」
「……死んで咲く花など、ありませんから」
男は苦く笑った。
「……すみません。少し呑みすぎてるみたいですね。今日はもう帰ります」
女店主は小さく微笑む。
「妹さんは、すぐに見つかりますよ」
男が足を止める。
「……どうして、分かるんですか?」
「待っている方がいますから」
「いったい、誰ですか?」
「さぁ」
女店主は穏やかな笑みを浮かべた。
「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」
男は店を後にする。
酔いは、すっかり覚めていた。
夜風が頬を撫でる。
手元のビオラへ目を落とす。
その紫色の花は、夜の闇の中でも静かに咲いていた。
男は花を胸に抱き直し、ゆっくりと歩き出す。
ほんの少しだけ、心が軽くなったような気がした。




