第25話「ベゴニア」 美しい監獄
その老婆は夜道を歩いていた。
自宅からは遠い、その街をただ彷徨っている。
何か変わるはずもない。もうあの子達はいなくなってしまったのだから。
仏壇に供える花を探していた。
ありきたりなものではない。誰もが目を奪われるような、美しい花。
そんな、あるかどうかも分からない花を求めて店を転々とするうちに、こんな時間になってしまった。
今日はもう諦めよう。そう思った矢先、道の先に灯りを見つけた。
「Pantalea」と書かれた看板の下には、色とりどりの花が置かれている。
「ここなら……」
老婆は店の中へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しに、眼鏡をかけた女店主が声をかける。
「お探しの花などあれば、なんなりと……」
「このお店で、一番綺麗な花をいただけませんか?」
「申し訳ありません。私には、花に優劣をつけることが出来ません。ぜひ、ご自身の目で見たものを、選んであげてください」
女店主が立ち上がり、頭を下げる。
「分かりました……」
老婆は店内に置かれた花をじっくりと見てまわった。
どれも綺麗だが、他の花屋でも見たような花ばかり。ここでも駄目かと諦めかけた瞬間。
老婆の目が止まる。
幾重にも花弁を重ねる、紅い花。
「この花は?」
「ベゴニア、という花です」
「世界一美しい花、と称されることもあるんですよ」
「でしたらこちらの花をください」
「かしこまりました。少々、お待ちください」
女店主がベゴニアを抱えて、店の奥へ入っていった。
老婆は待っている間、他の花にも目線を向ける。だが、ベゴニアを超えるほどの、目を奪われるような花は見つからなかった。
そうしていると、女店主が店の奥から戻ってくる。
手元には、丁寧に包装された花束があった。
「お待たせしました」
女店主が花束を差し出す。
「どうぞ、こちらを」
その花束を、憂いを帯びた目で見る老婆に、女店主は語りかける。
「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」
少女が気がついたときには、その部屋にいました。
自分の名前も、これまで何をしていたのかも思い出せません。
その部屋には窓が一つあるだけで、扉もありません。
そこから照らされる太陽の昇り降りで、一日を判断していました。
窓の先には広い草原が広がっています。
唯一部屋にあるのは、窓際に置かれた花瓶。そこには、ベゴニアの花が幾つも差されていました。
少女は花に問いかけます。
「私は何でここにいるの?」
花は答えません。
「どうすれば外に行けるの?」
花は喋りません。
「私は、何か悪いことしたの?」
花は、ただ静かに咲いているだけです。
そんな日々を過ごしていると、ある事に気がつきます。
花瓶のベゴニアが減っている。
日が沈み、少女の意識が遠のく。
日が昇り目を覚ますと、一輪、ベゴニアの花が減っている。
少女はなぜか思います。
このベゴニアが無くなれば、私はこの部屋から出られる。
誰に教えられたわけでもない。
ただ、そんな確信だけがありました。
次第に減っていくベゴニア。
ついに、あれだけあったベゴニアの花も、残り一輪となっていました。
少女はその日、ベゴニアの花を抱いて眠りにつきました。
目が覚めると、手元にあったベゴニアはありません。
窓を見ると、いつのまにかガラスも無くなっていました。
少女は恐る恐る窓を乗り越え、部屋を出ます。
広がる草原には、ベゴニアが咲き乱れています。
少女は走りました。
遠く、出来るだけ遠くへ。
しかし、どれだけ走っても、景色は変わりません。
少女は疲れてその場に倒れ込みます。
その場に生えていた、ベゴニアの花を一輪摘み、眠りに落ちました。
目を覚ましても、同じ場所にいました。
ただ、手元にあったはずのベゴニアだけが、無くなっています。
そして、あの部屋と同じようにこの花が全て無くなれば、ここを出られる。そう確信しました。
「ここには、何本の花があるんだろう」
少女は涙を流しながら辺りを見渡します。
その視線の先には、幾千、幾万のベゴニアの花が咲いていました。
「どうして、その少女はそんな目に遭わないといけなかったんですか?」
老婆の声は震えていた。
「理由などありません。強いて言えば、運命だったのかもしれませんね」
「運命……」
「えぇ。そう思った方が、楽になれますよ」
「そんなの、理不尽じゃないですか!どうして……あの子達が、あんな目に遭わないと……」
堪えていたものが溢れ出すかのように、老婆の目から涙が落ちる。
女店主は静かにベゴニアへ視線を落とした。
「……永遠に咲く花などありません。どんなに美しい花も、いつかは必ず枯れる」
「咲く時間が長ければ幸せ。短ければ不幸。……本当にそうでしょうか?」
「それでも、あまりに短すぎる」
老婆は首を振る。
「あの子達が生きていれば、もっといい事があったはずです」
老婆は俯き、声を絞り出す。
その声は懇願するかのようだった。
女店主はしばらく何も言わなかった。
やがて、穏やかな口調で答える。
「そうかもしれません」
静かな肯定だった。
「ですが、それを証明する手段はもう、どこにもないのです」
老婆の肩が小さく震える。
「今残された思いを全て、嘆き悲しみ、不幸だったと決めつける事の方が、余程残酷ではないでしょうか?」
女店主は老婆を見つめた。
「少なくとも最後の瞬間は、優しく包まれていたのだと……私は願っていますよ」
老婆が顔を上げる。
涙で滲む視界の向こうで、女店主は微笑んでいた。
「何か、知っているんですか?」
「さぁ」
眼鏡の奥の瞳が細められる。
「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」
老婆は何度か目元をぬぐい、重い足取りで店を出た。
少し歩いた先で立ち止まり、振り返る。
すでに店の灯りは消えており、そこに花屋があった痕跡すら残っていなかった。
手元には、ベゴニアの花束だけが残っている。
その花束を大事に抱え、ゆっくりと歩き始めた。
ベゴニアの花弁は、静かに老婆の涙を受け止めていた。




