第23話「コスモス」 踏切音と揺れる花
その女は今日も遅くまで生徒の勉強を見ていた。
受験のため。
定期テストで良い点を取るため。
親の期待に応えるため。
塾に来る理由は生徒によって様々だった。
そんな彼、彼女らの力になれる仕事に女はやりがいを持っている。
それでも疲労は溜まってしまう。早く帰ってゆっくり寝よう。そう思い帰路を急ぐと、道の先に灯りのついた看板を見つける。
「Pantalea」と書かれた看板の下には色とりどりの花が置かれていた。
「あれって、もしかして……」
女は眉をひそめる。
先日、担当する女生徒から奇妙な話を聞いた。
深夜にも拘わらず営業している、不思議な花屋があると。
その女生徒は来店した次の日、同じ道を通るも、その店を見つけられなかったらしい。もしまた入れたら、もう一度、店主と話がしたいと言っていた。
女は恐る恐る、店の中へ入る。
店内では、眼鏡をかけた女店主が鉢植えを動かしているところだった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」
女店主が軽く一礼する。
「あの、数日前に中学生くらいの女の子が来ませんでしたか?確か……そう、ガーベラを買ったと言っていました」
「えぇ、来られましたよ。可愛らしいお嬢さんでしたね」
女店主が眼鏡を軽く上げる。
「やっぱりそうですか。あの子が、またこのお店に来たいのに中々見つけられないと言っていたので」
「ふふっ、嬉しいですね」
女店主は微笑む。
「またご縁があれば、お会いできるでしょう」
「分かりました。私も少しお店の中見せてもらいます」
「ぜひ。お探しの花があればなんなりと……」
女は店内を見渡す。それほど花に詳しいわけではなかったが、見たことのある花も多くどれがいいか迷っていた。
その中で、小さな鉢植えにひっそりと咲く白い花弁の花を見つける。
「コスモス……」
自然と口から漏れていた。
「時期としては少し早いですが、綺麗に咲いてますよ」
女店主が後ろから声をかける。
「でしたら、こちらのコスモスをいただけますか?」
「もちろんです。お包みしますので、少々お待ちください」
女店主はコスモスの鉢植えを持ち、店の奥へ入っていく。
店内に音はなく、かすかな花の香りだけが漂っていた。
少しして戻ってきた女店主が、鉢植えの入った袋を静かに差し出した。
「ご用意できました。どうぞ……」
「ありがとうございます」
そう言って女が袋を受け取った時、女店主は何か思い出したかのように口を開いた。
「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」
その男性の家は、踏切のすぐ近くにありました。
カン、カン、カン――
昼も夜も関係なく鳴る警報音。
窓を閉めていても聞こえてくるその音を、鬱陶しいと思うことはあっても、特別気にしたことはありませんでした。
それは日常の一部だったのです。
朝になれば鳴り。
夕方になれば鳴り。
夜になれば鳴る。
ただそれだけのことでした。
ある日の帰り道。
男性は踏切の脇に咲くコスモスを見つけます。
風も吹いていないのに、その花は揺れていました。
カン、カン、カン――
踏切の音に合わせるように。
左右へ。
ゆっくりと。
男性は足を止めます。
なぜだかは分かりませんでした。
ですが、その光景を見た瞬間、胸の奥から言いようのない嫌悪感が湧き上がったのです。
見てはいけないものを見た。
そんな感覚でした。
男性は慌てて視線を逸らし、その場を離れます。
ですが、その日からでした。
踏切の音が聞こえるたびに、あのコスモスが脳裏に浮かぶようになったのです。
カン、カン、カン――
音が鳴る。
花が揺れる。
頭の中で。
何度も。
何度も。
男性は眠れなくなりました。
窓を閉める。
耳栓をする。
テレビの音を大きくする。
それでも聞こえる気がするのです。
あの踏切の音が。
そしてそれに合わせて揺れるコスモスが。
耐えきれなくなった男性は引っ越しました。
踏切から遠く離れた街へ。
これで終わると思ったのです。
ですが、新しい部屋でも聞こえました。
カン、カン、カン――
どこからともなく。
耳を塞いでも。
布団を被っても。
音は消えません。
目を閉じれば、花が揺れる。
音に合わせて、規則正しく。
男性は次第に外へ出なくなりました。
ただ部屋の隅で耳を塞ぎ続けます。
そしてある夜。
男性はふと気づきました。
カン。
胸が鳴る。
カン。
鼓動が打つ。
カン。
また一つ。
そこでようやく理解したのです。
踏切の音ではありませんでした。
最初から。
ずっと。
あの音は。
自分の心臓の音だったのです。
コスモスは踏切に合わせて揺れていたのではありません。
自分の鼓動に合わせて揺れていたのでした。
男性は静かに立ち上がります。
迷いはありませんでした。
台所の引き出しから包丁を取り出します。
そして胸へ向けました。
カン。
カン。
カン。
音が聞こえる。
花が揺れる。
包丁の切っ先が胸に触れる。
そして、深く突き立てました。
激痛。
床へ崩れ落ちます。
ですが、男性は笑っていました。
カン。
音が小さくなる。
カン。
さらに遠くなる。
カン。
コスモスの揺れもゆっくりになる。
まるで長い夢が終わるように。
世界が静かになっていく。
男性は薄れていく意識の中で、最後にあの花を見ました。
夕暮れの踏切。
赤く染まる空。
その傍らで揺れる一輪のコスモス。
もう恐ろしくありませんでした。
ただ。
ただ、美しいと思ったのです。
「……あぁ、綺麗だな」
そう呟き。
男性は静かに目を閉じました。
「……その男性も、かわいそうですね」
女は受け取った袋をぎゅっと握り込んだ。
「そうかもしれませんね」
「ただ花と踏切の音が重なっただけで、そこまで追い詰められるなんて……」
女店主が、コスモスに視線を落とす。
「ほんの些細なきっかけが、人生を大きく変えてしまうのは、よくある事です」
「それはどういう意味ですか?」
「さぁ」
女店主は微笑む。
「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」
店を出た後、女の足取りはどこか重たかった。
女は手元のコスモスを見る。
少し前まで受け持っていた男子生徒のカバンについていたワッペン。
小さなコスモス。
「……妹が、作ってくれたものなんです」
少し照れくさそうに、でもどこか嬉しそうに語る彼の表情が浮かぶ。
思えばそれが、女の見た彼の唯一の笑顔だったかもしれない。
その男子生徒は来なくなった。いや、二度と来れなくなってしまった。
あまり踏み込んだ話をした事はないが、親からの期待が大きかったらしい。
もしあのまま勉強を続けていても、数年後には自由になれていただろう。
一生受験が続くわけではない。
親の言いなりになる必要もない。
でもそれは、大人の自分だから分かる事だ。
いくらそんな事を子供に説いたところで、伝わるはずがない。
それでも少しは、あの子の力になれたかもしれない。
手元のコスモスは小さく、儚げに咲いていた。




