第21話「芍薬」 美しさの果て
その女は、駅からの道を走っていた。
予報にない雨。
傘も持っておらず、全身ずぶ濡れだった。
「最悪……風邪ひいちゃうわ」
一刻も早く帰りたい。
せめて、どこか雨宿りできる場所でもあればいいのだが。
しかし時刻は深夜。
この辺りで開いている店など、ほとんどない。
諦めて歩く速度を緩めかけた時だった。
少し離れた場所に、一軒の店が見える。
暖かな灯りが漏れていた。
「Pantalea……?」
見慣れない店名だった。
「まぁ、なんでもいいか」
女は迷わず店へ駆け込んだ。
ドアを開けると、花の香りがふわりと鼻をくすぐる。
店内には色とりどりの花が並んでいた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」
カウンターの向こうから、眼鏡をかけた女店主が声をかける。
「ここって、花屋さんですか……?」
女は店内を見渡しながら尋ねた。
「えぇ。どんな花でも取り揃えております」
そう答えると、女店主は一枚のタオルを差し出す。
「……よろしければ、こちらをどうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
女は慌てて受け取った。
「急に降られちゃって。本当にびっくりしました」
「それは災難でしたね」
女店主は微笑む。
「ですが、雨はもうすぐ止むと思いますよ」
「だといいんですが……」
女は礼を言いながら髪を拭く。
急な来客にも関わらず、親切にしてもらった。
せめて何か花を買って帰ろう。
そう思いながら店内を見回す。
そして、一輪の花に目を留めた。
淡い桃色の花弁。
「この花って……?」
「そちらは芍薬です」
女店主は花へ視線を向ける。
「時期は少し過ぎていますが、とても綺麗に咲いていますよ」
「そうなんですね……」
女はしばらく花を見つめた後、小さく頷いた。
「じゃあ、この花をください」
「ありがとうございます。ご用意いたしますので、少々お待ちください」
女店主は芍薬を抱え、店の奥へと消えていく。
その間、女はタオルで濡れた髪を拭きながら呟いた。
「芍薬かぁ……どこかで聞いたことあるような……」
少し考えていると、女店主が戻ってくる。
「お待たせいたしました」
包装された芍薬を差し出しながら微笑む。
「それと、タオルをお預かりしますね」
「あ、はい。ありがとうございました」
女はタオルを返し、代わりに芍薬を受け取った。
そしてふと思い出したように口を開く。
「芍薬って、花言葉じゃないんですけど……ことわざみたいなの、ありませんでしたっけ?」
「よくご存知ですね」
女店主は嬉しそうに微笑む。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。昔から女性の美しさを表す言葉として使われてきました」
「あーっ、それだ!」
女は手を叩く。
「だから聞いたことあったんですね」
「えぇ」
女店主は頷き、そして少しだけ意味深な笑みを浮かべた。
「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」
その女性は日々努力していました。
子供の頃に見た舞台。スポットライトを浴びる役者たち。観客の歓声。
いつか自分も、あの場所へ立ちたい。
そう、願い続けていました。
ですが現実は厳しく、オーディションへ行けば落とされる。
演技指導を受ければ、決まって同じことを言われます。
「悪くないんだけどね」
「なんか華がないんだよ」
曖昧なその言葉に、何度も夢を阻まれていました。
容姿が悪いわけではない。
努力もしている。
台本だって誰より読み込んでいる。
それなのに選ばれない。
自分に足りないものが分からなかったのです。
ある夜。
女性はいつもの公園で、一人台本を読んでいました。
人のいない深夜。
街灯だけが辺りを照らしている。
ふと視線を上げると公園の隅に、一輪の芍薬が咲いていました。
夜風に揺れながら。
ただそこに在るだけなのに。
なぜか目を奪われる。
女性はページをめくる手を止めます。
「綺麗……」
それは演技ではなく。
作った表情でもない。
心の底から出た言葉でした。
翌日から、女性は変わり始めます。
歩き方。
視線。
指先の動き。
首の傾け方。
鏡の前で何度も芍薬を真似ました。
花が人間ならどう立つのか。
どう見つめるのか。
どう微笑むのか。
考え続けます。
すると不思議なことが起きました。
初めて演出家に褒められたのです。
「今日、なんか良かったよ」
オーディションでも監督の目を引くようになり、役も貰えました。
夢だった憧れの舞台にも立てました。
ただ、成功するほどに、女性は気づいてしまいます。
違う。
まだ違う。
あの日見た芍薬は、もっと美しかった。
私は芍薬を演じているだけ。
本物じゃない。
いつしか女性は演技の練習をやめてしまいました。
代わりにあの公園へ通うようになります。
何時間も。
何日も。
芍薬を見つめ続けました。
雨の日も。
風の日も。
花は何も言わない。
何も求めない。
それでも美しい。
ある夜、女性はようやく理解しました。
「そうか」
「私は女優になりたかったんじゃない」
「あの芍薬に、なりたかったんだ」
それから、その公園には奇妙な噂が流れるようになりました。
いつ行っても、公園の隅に一人の女性が立っている。
季節が変わっても。
雨が降っても。
雪が積もっても。
同じ場所に。
同じ姿勢で。
微笑みながら。
話しかけても返事はない。
近づいても動かない。
ですが不思議と恐ろしくはない。
誰もが言います。
「綺麗な人だな」
そして誰もが、その直後に思いました。
「まるで花みたいだ」
「き、急にどうしたんですか……?」
「いえ、雨宿りのお供になればと思いまして。特に深い理由はございません」
「そうですか」
女は手元の芍薬に視線を落とす。
「その女性は、ただ美しくありたいと思っただけだったのでしょうか」
「そうかもしれませんね」
女店主が眼鏡を上げる。
「誰かを助けたいと思うことも、とても美しいものですよ」
そして、どこか意味深に続けた。
「ですが、その美しさは、誰のためのものだったのでしょうね」
「……どういう意味ですか?」
「さぁ」
女店主は微笑む。
「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」
女が店を出る頃には、雨はすっかり上がっていた。
濡れたアスファルトに街灯の光が反射している。
水たまりを避けながら歩き、女は先ほどの言葉を思い返していた。
「私は本当に、あの子のためを思っていたのかな……」
隣に住む家族。
以前から、あの家では虐待が行われているのではないかという噂があった。
女自身も、夜遅くに一人で出歩く少女を何度か見かけている。
見て見ぬふりはできない。
そう思い、管理人室へ手紙を投函したこともあった。
けれど。
結局、その問題は解決されることなく。
別の形で、すべて終わってしまった。
――一家心中。
ニュースでその言葉を聞いた時の衝撃を、今でも覚えている。
「私は何がしたかったんだろう……」
少女を助けたかったのか。
それとも、自分は見て見ぬふりをしなかったと安心したかっただけなのか。
答えは分からない。
女は腕の中の芍薬へ視線を落とした。
花は何も答えない。
ただそこに在るだけで。
凛と、美しく咲いていた。




