第20話「桔梗」 トンネル前の地蔵
その男は、夜道をただ歩いていた。
特に目的があるわけではない。
強いて言うなら、少し一人になりたかっただけだった。
歩き慣れたはずの道を進んでいると、不意に一軒の店が目に入る。
街灯の光に照らされたその店には、「Pantalea」と書かれた看板が掲げられていた。
「……こんな店、前からあったかな」
男は足を止める。
見覚えがない。
気になった男は、そのまま店内へ足を踏み入れた。
中には様々な花が並べられている。
どうやら花屋らしい。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」
店の奥では、眼鏡をかけた女店主が掃除をしていた。
「ここって前から営業していましたか? この道はよく通るんですけど、初めて見た気がして」
男が尋ねる。
女店主は穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、まあ……そんなところです」
どこか曖昧な返事だった。
「そうですか……」
男はそれ以上追及せず、店内を見て回る。
色とりどりの花々が並ぶ中、一つの鉢植えの前で足を止めた。
紫色の花。
凛と咲くその姿に、自然と目を奪われる。
「そちらは桔梗です。今の時期は特に綺麗に咲いてくれるんですよ」
「ああ、桔梗ですか」
男は小さく笑った。
「妻が好きな花なんです。こちらをいただけますか?」
「かしこまりました。お包みしますので、少々お待ちください」
女店主は桔梗の鉢植えを抱えると、店の奥へと姿を消した。
しばらくして、丁寧に包装された鉢植えを手に戻ってくる。
「お待たせしました。こちらになります」
「ありがとうございます」
男は桔梗を受け取った。
「これで、こんな時間に帰っても怒られずに済みそうです」
「それはよかったですね」
女店主が眼鏡を軽く押し上げながら微笑む。
そして、男の手に渡った桔梗へ視線を落とした。
「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」
そのトンネル前には、地蔵が置かれていました。
山道の途中。
街灯も少ない古い道路の脇に、ひっそりと。
そこでは昔、大きな事故があったといいます。
雨の日にトンネル前でスリップした車が、対向車のバスと正面衝突した。
何人もの死者が出て、その慰霊のために建てられたのが、その地蔵でした。
地蔵の横には石碑があり、亡くなった人たちの名前が刻まれています。
そして、誰が置くのか、いつも桔梗の花が供えられていました。
紫色の、静かな花。
その花や地蔵を粗末に扱えば幽霊が出る。そんな噂もありました。
ある青年が肝試しで、友人達とそのトンネルに訪れます。
「あれ、ウワサの地蔵じゃない?」
「ビビってんの?足が震えてるぞ」
「いや、ここ結構出るって有名だし」
「だから何だよ」
青年は鼻で笑い、そのままトンネル脇の地蔵へ近づいていきました。
月明かりに照らされた地蔵は、妙に古びて見えました。
顔の輪郭は削れ、目元も曖昧になっている。
その前には、今日も桔梗が供えられていました。
「うわ、マジで花あるじゃん」
青年はしゃがみ込み、供えられた花へ指を伸ばします。
「やめろって」
友人が止めます。
けれど青年は笑ったまま、桔梗の花弁をぐしゃりと握り潰しました。
紫色の花弁が、地面へ落ちる。
「バチ当たるぞ」
「こんなんで当たるなら、苦労しねぇよ」
そう言って、青年はスマホを取り出しました。
「せっかくだし、記念撮影しようぜ」
地蔵の隣へ立ち、笑いながらピースを作る。
友人は嫌そうな顔をしていましたが、結局シャッターを押しました。
撮れた写真を、その場で確認する。
「ほら、何も——」
そこまで言って、青年の声が止まりました。
画面の中。
隣に写る地蔵の顔が、変わっていたのです。
削れていたはずの目元。
そこだけが、妙にはっきり映っている。
まるで、睨みつけるように。
「……は?」
青年は写真を拡大します。
見間違いじゃない。
口元が歪んでいる。
怒っているように。
「お、おい……」
友人たちも顔を青ざめさせました。
「帰ろうぜ」
「たまたまだろ、こんなの……」
強がってみせたものの、青年の声は震えていました。
翌日。
青年は、一人であのトンネルへ向かいました。
昨夜のことが、どうしても気になったのです。
「……別に、謝りに来たわけじゃねぇし」
誰に言うでもなく呟く。
昼間のトンネルは、拍子抜けするほど普通でした。
地蔵も、ただそこに立っているだけ。
ですが。
青年の足が、止まります。
地蔵の前。
新しい花が供えられていました。
紫色の桔梗。
そして、その横。
事故死者の名前が刻まれているはずの石碑。
そこには。
青年自身の名前が、刻まれていました。
「……え?」
心臓が、嫌な音を立てる。
何度見ても、自分の名前でした。
青年は逃げるように、その場を後にします。
それから数日後。
あのトンネルで、轢き逃げ事故が起きました。
被害者は、男子高校生。
事故現場には、なぜか紫色の花弁が散っていたそうです。
「……あまり、気持ちのいい話じゃありませんね」
男は受け取った桔梗を見つめながら呟いた。
「それは失礼しました」
女店主は穏やかに微笑む。
「ですが、もしかしたら貴方には必要なお話かもしれないと思ったものですから」
「必要……?」
男は眉をひそめる。
「あの話がですか?」
「えぇ」
女店主は静かに頷いた。
「どのような最期であれ、死者には敬意を払うべきです」
そして、ゆっくりと言葉を続ける。
「見られていないと思っていても、必ず誰かが見ていますから……」
男はわずかに目を細めた。
「それは……あなたのことですか?」
「さぁ」
女店主は眼鏡の位置を直し、意味ありげに微笑む。
「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」
男は釈然としないものを抱えたまま、店を後にした。
夜風が頬を撫でる。
腕の中には、妻へ渡すつもりだった桔梗の花。
不意に、少し前の出来事が脳裏をよぎる。
海辺で起きた一家心中事件。
男は報道記者として、その現場に立っていた。
カメラの前で状況を説明し、遺族への取材を試み、視聴者へ事件を伝える。
それが仕事だった。
他局の人間もいた。
野次馬も大勢いた。
誰もがカメラやスマートフォンを向けていた。
だからこそ、男は思わず呟く。
「……俺が悪いわけじゃないだろ」
その言葉が、誰に向けたものなのか、自分でも分からなかった。
男は立ち止まり、手元の桔梗へ目を落とす。
紫色の花弁が、夜風に小さく揺れていた。
しばらくして。
男は自宅とは反対の道へ歩き出す。
その足取りは、どこか迷うようで。
それでいて、何かを確かめるようでもあった。
腕の中の桔梗だけが、静かに揺れていた。




