第19話「ガーベラ」 願いが叶う花
その少女は夜道を歩きながら、塾のテキストに目を落としていた。
高校受験へ向けた最後の夏休み。
絶対に志望校へ合格する――そう決めてから、毎日のように勉強漬けの日々を送っていた。
気づけば、もうかなり遅い時間になっている。
ふとテキストから顔を上げた少女は、通りの先に明かりのついた店を見つけた。
看板には、『Pantalea』と書かれている。
「こんな時間に、花屋さん……?」
少女は思わず足を止めた。
腕時計で時間を確認する。
こんな深夜まで営業している花屋など、見たことがない。
興味を引かれた少女は、そのまま店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」
眼鏡をかけた女店主が、穏やかに一礼した。
「あの……こんな時間に入っても、大丈夫ですか?」
制服姿の少女は、どこか不安そうに尋ねる。
店によっては、未成年は夜遅くに入店できないこともある。
「えぇ、もちろんです。どんな方でも歓迎いたしますよ」
「ありがとうございます……」
とはいえ、あまり長居をすれば親から連絡が来るかもしれない。
少女は軽く店内を見て、すぐ帰ろうと思った。
並べられた花々へ視線を向ける。
すると、一輪の鮮やかなオレンジ色の花が目に留まった。
「これって、ガーベラですか?」
「えぇ、そうですよ。よくご存じですね」
「やっぱり!こんな時期に咲いてるの、初めて見ました」
「ここでは、どんな花も取り扱っていますから」
女店主は静かに微笑む。
「このガーベラ、ください」
「ありがとうございます。ご用意しますので、少々お待ちください」
女店主はそう言って、店の奥へと入っていった。
少女は待っている間も、店内をゆっくり見回す。
色とりどりの花々が並び、甘い香りが漂っている。
その中には、少女の知る限り、本来この季節に咲くはずのない花も混ざっていた。
(なんだか、不思議なお店……)
そう思った時、奥から女店主が戻ってくる。
「お待たせしました。こちらをどうぞ」
「ありがとうございます。帰ったら、さっそく部屋に飾ります」
「それは楽しみですね」
女店主が柔らかく微笑む。
そして――まるで世間話でもするかのように、こう続けた。
「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」
その神社は、山の奥にありました。
古い石段を登った先。
木々に囲まれた小さな社の裏庭に、その花は咲いているといいます。
鮮やかなガーベラ。
赤、黄、橙、桃。
まるで太陽を閉じ込めたような花々。
そして、その花に願いを告げれば、どんな悩みも消える——そんな噂がありました。
少女は、毎日のようにいじめを受けていました。
教室で笑われる。
机に落書きをされる。
靴を隠される。
先生も見て見ぬふり。
家に帰っても、誰にも相談できませんでした。
だから少女は、一人でその神社へ向かったのです。
薄暗い社の裏。
月明かりの中で、色鮮やかなガーベラだけが不自然なほど鮮明に咲いていました。
少女は花の前に座り、小さく祈ります。
「……いじめを、なくしてください」
その翌日でした。
少女をいじめていた中心の男子生徒が、突然優しくなったのです。
「ごめん」
その男子は、昨日までとは別人のように頭を下げました。
暴言も吐かない。
乱暴もしない。
いつも穏やかに笑っている。
クラスメイト達は気味悪がりましたが、少女だけは安心しました。
本当に、願いが叶ったのだと。
けれど。
それから少しずつ、おかしなことが起こり始めます。
クラスの女子が、ふとしたことで泣かなくなりました。
教師に怒鳴られても、ただ微笑んでいるだけ。
家で怒鳴り声が絶えなかった近所の男も、ある日から静かになりました。
スーパーで怒鳴っていた老人も。
いつも苛立っていた店員も。
みんな、穏やかになっていったのです。
まるで、嫌な感情そのものが消えてしまったように。
そして、少女は気づきます。
変わった人達には、共通点がありました。
全員、同じ笑い方をするのです。
口元だけをゆっくり持ち上げる。
声を出さず。
ただ静かに。
まるで、鏡の中の同じ人間を見ているように。
少女は怖くなりました。
けれど同時に、少し羨ましくもありました。
だって、その人達はもう苦しまないから。
ある日。
少女は、教室でクラスメイト達の陰口を聞いてしまいます。
「最近、あいつ調子乗ってない?」
「被害者ぶってただけじゃん」
胸が苦しくなりました。
せっかく終わったと思っていたのに。
また始まる。
その夜。
少女は再び神社へ向かいました。
石段を登りながら、涙が止まりませんでした。
社の裏では、相変わらずガーベラが咲いています。
少女は花の前にしゃがみ込みました。
「もう嫌……」
声が震える。
「怖いのも、苦しいのも……全部……」
そして。
ほとんど独り言のように、呟いてしまったのです。
「……私も、変われたらいいのに」
その瞬間でした。
「待ってたよ」
すぐ耳元で、声が聞こえました。
少女は顔を上げます。
目の前には、ガーベラ。
風もないのに、花弁だけがゆらゆら揺れていました。
無数の花が、一斉にこちらを向いているように見える。
少女は、そこで意識を失いました。
翌日。
少女は何事もなかったかのように学校へ来ました。
誰に話しかけられても、穏やかに微笑んでいます。
もう泣かない。
もう怒らない。
もう苦しまない。
ただ。
笑い方だけが、みんなと同じでした。
それから数年後。
その地域は、“穏やかな街”として知られるようになります。
大きな事件もない。
喧嘩もない。
誰も怒鳴らない。
誰も泣かない。
けれど、その街を訪れた人は、みな同じことを言いました。
「……なんか、みんな同じ笑い方してない?」
「……その少女は、助かったんでしょうか?」
ぽつりと、少女が呟いた。
女店主は何も言わず、静かに少女へ視線を向ける。
「だって、もう苦しまなくなったんですよね」
少女は続ける。
「いじめも怖くない。悪口を言われても傷つかない。泣かなくても済む」
けれど、と。
少女は言葉を飲み込んだ。
「……なんだか、死んじゃったみたいでした」
女店主は穏やかな表情のまま、小さく頷く。
「そうかもしれませんね」
「だったら……」
少女はガーベラを見つめる。
「あの少女は……間違ってたんですか?」
女店主は、わずかに目を細めた。
「いいえ」
「えっ……」
「少女は、ただ救われたかっただけですから」
その声は、どこか優しかった。
「花もまた、その願いに応えただけなのかもしれません」
「その少女は、本当に救われたんでしょうか?」
「さぁ」
女店主は濁すように微笑む。
「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」
帰り道。
少女は、腕に抱えたガーベラを見つめながら歩いていた。
ふと、クラスの男子の顔が浮かぶ。
夏休みが明けると、もう学校へ来なくなる男子生徒。
理由は知っていた。
ニュースになっていたから。
それほど親しいわけではない。
ただ、いつもどこか暗い顔をしていたことだけは覚えている。
「……あの子も」
小さく呟く。
あの子も、願ったのだろうか。
苦しくない場所へ行きたいと。
誰かに、変えてほしいと。
街灯の下。
ガーベラは、ただ静かに咲いていた。




