第18話「月下美人」 消えない残り香
その男は、終電を逃した帰り道、ゆっくりと歩いていた。
「……最悪だ」
吐き捨てるように呟く。
今日も遅くまで仕事を押しつけられていた。
深夜にも拘わらず、契約が取れるまで電話をかけ続けろと言う上司。
怒鳴られないように愛想笑いを見せる同僚たち。
「大体、夜中に電話してくる不動産屋から、部屋なんて借りるわけないだろ……」
このまま家に帰っても、数時間後にはまた仕事だ。
考えるだけで気が滅入る。
そんな時だった。
ふと、通りの先に小さな灯りが見えた。
暗い夜道の中で、そこだけがぼんやりと浮かび上がっている。
近づくにつれ、それが花屋だと分かった。
看板には、「Pantalea」と書かれている。
店先には、色とりどりの花が並んでいた。
「あのムカつく上司の机にでも置いてやろうか」
男は小さく鼻で笑う。
もちろん、本気じゃない。
ただ少し、嫌味の一つでもぶつけたくなっただけだ。
そのまま通り過ぎるつもりだった。
けれど。
気づけば、男の足は店の前で止まっていた。
「……なんで俺、入ろうとしてるんだ」
自分でも分からないまま、男は扉を開ける。
店内には、静かな花の香りが満ちていた。
店の中では、眼鏡をかけた女店主が、花瓶の水を静かに入れ替えている。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」
「あ、あぁ……どうも」
男の声は少し裏返っていた。
上司への嫌がらせなんて、本当にできるわけがない。
だが、このまま何も買わずに出ていけるほど、気も強くなかった。
適当に何か見繕ってもらおう。
そう思った、その時だった。
ふわり、と。
甘い香りが鼻先を掠める。
男は思わず顔を上げた。
視線の先。
白い花が、静かに咲いていた。
「そちらは、月下美人という花です」
いつの間にか隣へ来ていた女店主が、穏やかな声で言う。
「とても香りの良い花なんですよ」
「うわっ……!」
突然声をかけられ、男は肩を震わせた。
「す、すみません……」
「ふふっ」
女店主は小さく笑う。
男は気まずそうに頭を掻きながら、白い花へ視線を戻した。
「……じゃあ、それください」
「かしこまりました」
女店主は月下美人をそっと抱え上げる。
「準備いたしますので、少々お待ちください」
そう言って、店の奥へ姿を消した。
花が見えなくなった後も、不思議と甘い香りだけは残っている。
男はぼんやりと店内を見回した。
外の蒸し暑さが嘘のように、この店の空気はひどく静かだった。
そう時間も経たないうちに、女店主が戻ってくる。
月下美人は、小さな鉢植えへ丁寧に植え替えられ、綺麗に包まれていた。
「お待たせいたしました」
男はそれを受け取り、もう一度香りを嗅ごうと顔を近づける。
その時だった。
女店主が、唐突に口を開いた。
「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」
ある男性は、隣家の庭に咲く月下美人の香りが嫌いでした。
甘く、濃密で、夜になると窓の隙間から部屋に入り込んでくる。
「死んだ花の匂いみたいだ」
そう、吐き捨てるほどに。
隣人の老夫婦は、その花を宝物のように大切にしていました。
「この花は、一夜しか咲かないんですよ」
その嬉しそうに語る姿さえ、男性には癇に障るようでした。
ある日、老夫婦が旅行に出かけました。
その隙に男性は隣家の庭に忍び込み、咲いていた月下美人を根元からすべて切り落とします。
これでもう、あの匂いに悩まされることはない。
そう思って眠りにつきます。
ですが、その夜。
部屋の中に、あの香りが漂ってきました。
窓は閉まっている。
切ったはずの花もない。
それでも、甘ったるい匂いは確かにある。
次の日、男性は部屋中を掃除しました。
カーテンを洗い、寝具を捨て、壁紙まで張り替えます。
しかし夜になると、また香る。
日を追うごとに匂いは強くなっていきます。
玄関。
浴室。
車の中。
職場のロッカー。
ついには、自分の吐く息からさえ月下美人の香りがしました。
男性は病院へ行きます。
でも医師にはこう言われる。
「匂いなんてしませんよ」
誰にも分かってもらえない。
やがて男性は気がつきます。
香りが最も強いのは、自分の胸のあたりだと。
鏡の前で服を脱ぐ。
胸の皮膚に、白い筋のようなものが浮かんでいました。
それは日を追うごとに広がり、まるで花弁の形になっていく。
ある夜。
男性は激痛で目を覚ましました。
胸が裂けるように開き、その内側から白い花がゆっくりと咲いていたのです。
月下美人でした。
花弁が開くたび、濃密な香りが部屋いっぱいに満ちていく。
男性は声にならない悲鳴を上げました。
翌朝。
隣人の老夫婦が家を出ると、男性の家の玄関先に大輪の月下美人が咲いていました。
見たこともないほど大きく、美しく。
その中心には、人の顔のようなものが見えたそうです。
老夫婦はその花を見て笑みを浮かべました。
「やっと咲いたんですね」
「その男性も、もっと別のやり方があったでしょうに」
男は、どこか納得できないように呟いた。
「そうかもしれませんね」
女店主は静かに頷く。
「ですが……本人にとっては、それしかなかったのかもしれません」
「それしか?」
「側から見れば、間違っていることでも」
女店主は月下美人へ視線を落とした。
「当事者にとっては、それだけが救いになることもありますから」
男はわずかに眉をひそめる。
「……一体、何の話です?」
「さぁ」
女店主は濁すように微笑んだ。
「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」
男は曖昧に笑い返し、そのまま店を後にした。
夜道を歩きながら、男は小さく息を吐く。
「……変な店だったな」
腕に抱えた月下美人から、甘い香りが漂っていた。
濃密で、どこか息苦しくなるような香り。
不意に。
男の脳裏に、ある部屋が浮かぶ。
一家心中を起こした家族が、以前住んでいたマンションの一室。
今は空室になっている部屋だった。
次の入居者が決まるまで、管理を任されている。
事故物件ではない。
人が死んだのは別の場所だ。
だから、告知義務もない。
部屋そのものに問題はない。
不動産業界にいれば、珍しくもない話だった。
「……まさかな」
男は自分に言い聞かせるように呟く。
けれど、その瞬間。
鼻を掠める月下美人の香りが、不意に強くなった。
男は足を止める。
まるで。
誰もいないはずのあの部屋で、今も静かに花が咲き続けているかのように。




