第17話「胡蝶蘭」 降りられないエレベーター
その女は、深夜のシフト明けで酷く疲れていた。
深夜帯は時給こそ良いものの、終電を過ぎるまで働く生活が楽なはずもない。
重たい足を引きずるように夜道を歩きながら、女は小さく息を吐く。
「……こんな時間まで働いて、何やってるんだろ」
数時間前。
バイト先の店長から、今度知り合いが店を開くらしいから、お祝いの花を買ってきてほしいと頼まれていた。
「明日のシフトの時に持ってきてくれればいいから」
軽い調子でそう言われたが、これから帰って眠れば、起きるのは昼過ぎになるだろう。
花屋が開いていなかったら。
良い花が見つからなかったら。
そんなことを考えると、妙に落ち着かなかった。
「……朝から店回るしかないか」
ぼんやり呟いた、その時だった。
通りの先に、小さな灯りが見えた。
深夜だというのに、営業中の看板が出ている。
近づくと、そこは花屋だった。
「Pantalea……?」
聞き慣れない名前だった。
ガラス越しに見える店内には、色とりどりの花が並んでいる。
その奥で揺れる淡い明かりを見た瞬間、なぜか女は足を止めた。
けれど、この時間に開いている花屋なんて他にない。
女は自分に言い聞かせるように小さく息を吐き、そのまま扉を開けた。
店内には、静かな花の香りが満ちていた。
カウンターの奥では、眼鏡をかけた女店主が、白い花弁を一枚ずつ整えている。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」
穏やかな声だった。
「あの……開店祝い用の花を探してるんですけど。……その花って?」
女店主が整えていた花を指差す。
「こちらは胡蝶蘭です。お祝い事の際に、よく選ばれる花ですよ」
「あぁ、やっぱり。開店祝いとかで見るやつですよね」
女は少しだけ表情を緩めた。
「ちょうど良かったです。それ、お願いします」
「かしこまりました」
女店主は胡蝶蘭をそっと抱き上げる。
「準備いたしますので、少々お待ちください」
そう言って、店の奥へと入っていく。
待っている間、女は店内を見回す。
静かだった。
時計の音すら聞こえない。
外の蒸し暑さが嘘みたいに、この店の中だけ空気がひんやりとしている。
少しして女店主が戻ってくる。
その手には、丁寧にラッピングされた胡蝶蘭が抱えられていた。
「ご用意できました。どうぞ」
「ありがとうございます……助かりました」
女は胡蝶蘭を受け取り、小さく笑う。
「これで明日、慌てなくて済みそうです」
「それは良かったです」
女店主は眼鏡に手を添え、静かに微笑んだ。
そして、胡蝶蘭へ視線を落としながら、不意に口を開く。
「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」
そのビルのエレベーターには、女の幽霊が出る――そんな噂がありました。
深夜。
人の少ない時間帯に一人で乗ると、いつの間にか後ろに立っているのだそうです。
長い髪を垂らし、俯いたまま泣いている女。
ですが、不思議なことに、その幽霊は何もしません。
ただ、後ろに立っているだけ。
だから次第に、その噂も「よくある怪談話」として扱われるようになっていきました。
ただ、一つだけ。
昔から決まって語られる続きがあります。
――蘭の花を持って、あのエレベーターに乗ってはいけない。
理由を知る者はいません。
けれど、その忠告だけは、なぜか皆が口を揃えて言うのでした。
ある日の深夜。
青年は仕事のため、そのビルを訪れていました。
取引先に開店祝いとして贈るための胡蝶蘭。
白い花を抱えながら、人気のないロビーを歩きます。
時計は、午前一時を回っていました。
「こんな時間に呼び出すとか、ほんと勘弁してほしいよな……」
独り言を漏らしながら、青年はエレベーターのボタンを押します。
ほどなくして、扉が開きました。
中には誰もいません。
青年はそのまま乗り込み、閉まるボタンを押します。
扉が閉まり、エレベーターがゆっくりと上昇を始めました。
そのときでした。
――ぽたり。
何か、水の落ちるような音が聞こえたのです。
青年は眉をひそめます。
エレベーターの中に、水漏れなんてあるはずがない。
ですが。
――ぽたり。
また聞こえました。
しかも今度は、すぐ後ろから。
青年の背筋に、冷たいものが走ります。
恐る恐る、閉じた扉に映る背後へ視線を向ける。
そこに。
女が立っていました。
長い黒髪を顔の前に垂らし、白い服を着た女。
俯いたまま、小さく肩を震わせています。
泣いているのでした。
「っ……!」
青年は息を呑みます。
噂が、脳裏をよぎりました。
このエレベーターに現れる、泣く女の幽霊。
ですが女は、何もしません。
ただ俯き、静かに泣いているだけです。
青年は必死に自分へ言い聞かせました。
見間違いだ。
疲れているだけだ。
そう思った、その瞬間。
「……ください」
女が、呟きました。
青年の全身が凍りつきます。
女はゆっくりと顔を上げる。
青白い顔。
涙で濡れた目。
その視線は、青年ではなく――彼の抱える蘭へ向けられていました。
「その花を……ください」
震える声でした。
ですが、どこか必死で。
青年は混乱します。
渡せばいいのか。
駄目なのか。
頭が真っ白になる。
けれど。
女の涙を見るうちに、奇妙な哀れさが込み上げてきました。
「あ……」
気づけば、青年は蘭を差し出していました。
女の白い手が、ゆっくりと花を受け取る。
その瞬間。
女の表情が、わずかに崩れました。
「……やっと、降りられる」
泣き笑いのような声でした。
次の瞬間。
――チン。
エレベーターが停止します。
扉が開いた先は、薄暗い廊下でした。
何階なのか、青年には分かりません。
女は蘭を抱えたまま、ゆっくりと外へ出ていきます。
長い髪が、暗闇へ溶けていく。
その背中を見送りながら、青年はようやく息を吐きました。
「た、助かった……」
そう呟き、青年も降りようとします。
ですが。
扉が、閉まりました。
「……え?」
青年は慌てて開閉ボタンを押します。
反応はありません。
エレベーターは再び動き始めます。
上へ。
ゆっくりと。
静かに。
階数表示が、一つずつ増えていく。
10階。
11階。
12階。
このビルに、そんな階数はありません。
「お、おい……止まれよ」
青年は非常ボタンを連打しました。
ですが、何の音もしません。
ただ。
ゴウン、ゴウン、と古い機械音だけが響いています。
階数表示は増え続けました。
15。
18。
22。
青年の呼吸が浅くなる。
そのとき。
閉じた扉に映るものがありました。
誰かが、立っている。
青年はゆっくりと振り返ります。
そこには。
涙を流しながら立ち尽くす、自分自身の姿がありました。
それ以来。
そのエレベーターでは、泣く青年の幽霊が現れるようになったそうです。
そして今では、こんな噂が残っています。
――蘭の花を持って、あのエレベーターに乗ってはいけない。
もし乗ってしまったら。
後ろから、“ください”と声がするのだと。
「こっ、これから帰るのに、怖い話、しないでくださいよ」
女は冗談めかして笑った。
けれど、その声は少しだけ引きつっている。
「それは失礼しました」
女店主は静かに微笑む。
そして、胡蝶蘭へそっと視線を落とした。
「でも、どうしてそんな話を?」
女が尋ねる。
女店主は少しだけ考えるように間を置き、
「……覚えておいてほしかったのかもしれません」
そう呟いた。
「覚えておく?」
「えぇ」
女店主は眼鏡の位置を指で直す。
「人は、忘れてしまいますから」
「……何をですか?」
「さぁ」
女店主は小さく笑う。
「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」
店を出ると、夜風が肌にまとわりついた。
胡蝶蘭の白い花弁が、街灯の下でぼんやりと浮かんで見える。
女はそれを抱え直し、帰り道を歩き始めた。
その途中。
ふと、一人の少女のことを思い出す。
最近は、来なくなっていた。
夜中のコンビニに、いつも一人でやって来る少女。
年齢は、小学校高学年くらいだっただろうか。
制服でも私服でもない、いつも同じ薄汚れたパーカー姿。
俯いたまま店内を歩き回り、長い時間をかけて、小さなパンやおにぎりを選ぶ。
「……これください」
レジでそう呟く声は、いつも妙に小さかった。
女は、何度か気になったことがある。
腕に残った痣。
真夏なのに長袖を着ていたこと。
何より。
深夜に、あんな子供が一人で来ていること自体、おかしかった。
けれど。
「……まぁ、家庭の事情とかあるんだろうし」
自分にそう言い聞かせていた。
下手に踏み込むべきではない。
勝手な思い込みかもしれない。
そんなふうに考えて。
結局、何もしなかった。
少女は、ある日を境に来なくなった。
最初は少し気になった。
けれど、忙しさに追われるうちに、次第に考えなくなっていった。
「来なくなったなら、むしろ健全なのかも」
そう思うようにしていた。
そのニュースを見るまでは。
一家心中。
父親、母親、そして子供二人。
無理心中の可能性。
テレビの画面に映ったマンション名を見た瞬間。
女の心臓が、小さく跳ねた。
見覚えのある住所だった。
そして。
映像の端に映った少女の顔を見て。
女は、すぐにテレビを消した。
あれ以来。
なるべく、そのニュースは見ないようにしている。
けれど。
深夜のレジに立つ度。
「……これください」
あの小さな声だけが、耳の奥によみがえるのだった。
腕の中の胡蝶蘭が、かすかに揺れる。
白い花弁は。
どこか、寂しそうに咲いているように見えた。




