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花にまつわる怖い話  真夜中の花屋 Pantalea   作者: 東雲大雅


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第16話「紫陽花」 均一な声

 その男は、深夜の帰り道を一人で歩いていた。


 本来なら、もっと早く帰れていたはずだった。


 夜勤の交代員が、来るはずの時間になっても現れなかったのだ。


 連絡もつかず、結局、代わりが来るまで残るしかなかった。


「……勘弁してくれよ。明日も早いのに」


 男は大きく息を吐く。


 真夏の夜は、昼の熱をそのまま閉じ込めたように蒸し暑い。


 シャツが肌に張り付き、不快感だけがまとわりついていた。


 人気のない夜道を歩いていると、不意に小さな灯りが目に入る。


 通りの片隅に、ひっそりと建つ花屋だった。


 看板には、「Pantalea」と書かれている。


「花屋……?」


 こんな時間に開いていることに驚きながら、男は立ち止まった。


 ふと、自分が担当している少女の顔が脳裏に浮かぶ。


 窓の外を見ながら、「紫陽花が好き」と呟いていたことを思い出す。


「……せっかくだし、買っていくか」


 男は小さく呟き、店の扉を開けた。


 店内には、夜とは思えないほど色鮮やかな花々が並んでいる。


 涼しげな香りが漂う中、カウンターの奥で、眼鏡をかけた女店主が小さなメモを片手に花の数を確認していた。


「いらっしゃいませ」


 女店主は男に顔を向け、静かに一礼する。


「どうぞ、ごゆっくり。お探しの花があれば、何なりと……」


「あの……紫陽花ってありますか?さすがに、この時期だと難しいですかね」


 男が尋ねると、女店主は穏やかに微笑んだ。


「えぇ。もちろんございますよ」


 そう言って、店の奥へ視線を向ける。


「ご用意いたしますので、少々お待ちください」


 女店主は静かに店の奥へと姿を消した。


 男は手持ち無沙汰に店内を見回す。


 色とりどりの花々が並ぶ中、どこかこの店だけ時間の流れが違うような感覚があった。


 しばらくして。


 戻ってきた女店主の手には、見事に咲いた紫陽花の花束が抱えられていた。


 青や紫の花弁が、夜の灯りに濡れるように揺れている。


「お待たせいたしました」


 女店主は花束を差し出した。


「ありがとうございます」


 男がそれを受け取った、その時だった。


 女店主が、紫陽花を見つめながら、ふと思い出したように口を開く。


「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」






 その男性は、いつもの帰り道を一人で歩いていました。


 その道沿いには、一軒の古い家があり、庭先には、毎年見事な紫陽花が咲いています。


 青、紫、薄紅。


 雨に濡れるたび色を変えるその花は、道行く人の目を引くほど綺麗でした。


 けれど男性は、あまりその家に近づきたがりません。


 理由は、庭にいる小太りの女性でした。


 その女性は、いつ見ても紫陽花に水を与えながら、何かを話しかけているのです。


 独り言にしては、あまりにも自然に。


 まるで、本当に誰かと会話しているように。


 男性は気味悪がり、いつも少し離れてその家の前を通り過ぎていました。


 ある日のこと。


 ふと家を見ると、いつも庭にいるはずの女性の姿がありません。


「……珍しいな」


 男性は立ち止まります。


 以前から気になっていた紫陽花を、近くで見てみたくなったのです。


 庭先へ近づき、咲き乱れる花へ目を向ける。


 雨上がりで濡れた花弁が、街灯の光を鈍く反射しています。


「綺麗に咲いているでしょう?」


 突然、背後から声がしました。


「うわっ……!」


 振り返ると、いつもの小太りの女性が立っていました。


「えっ、えぇ……そうですね」


 男性はぎこちなく笑い、女性は嬉しそうに紫陽花を見つめます。


「このコたちに言われたんですよ」


「……このコたち?」


「私がいると、あなたが近寄ってこないから、少し離れて見てるようにって」


 男性が辺りを見回す。


 ですが、そこには自分と女性しかいません。


「……誰もいませんよね?」


「聞こえないんですか?」


 女性は不思議そうに首を傾げると。


「今も、ちゃんと喋ってるのに」


 そう言って、紫陽花を指差しました。


 男性の背筋に、冷たいものが走ります。


「まさか……これが喋ってるって言うんですか?」


「あぁ、そう」


 女性は当たり前のように頷き。


「あなたは、まだ余計な音を聞き過ぎてるみたいね」


 男性は引きつった笑みを浮かべます。


「すみません、ちょっと用事を思い出したので」


 逃げるように踵を返した、その背中へ。


「大丈夫」


 女性の声が静かに届きました。


「あなたも、そのうち聞こえるようになるわ」


 


 その日以来、男性は帰り道を変えました。


 あの家の前を通らないようにしたのです。


 けれど。


 しばらくして、男性の身に奇妙なことが起こり始めました。


 人の声が、聞き分けられなくなったのです。


 誰が喋っても、同じ声に聞こえる。


 低い声も、高い声も。


 男性も女性も。


 まるで、一つの機械が喋っているかのように。


 症状は、日に日に酷くなっていきました。


 やがて、感情の抑揚すら分からなくなり、怒っているのか、笑っているのか。


 それすら判別できないほどに。


 街を歩けば、無数の同じ声が耳に流れ込んできます。


 同じ高さ。


 同じ調子。


 同じ音。


 男性は次第に、人と会話することすら恐ろしくなっていきました。


 そんなある日。


 雑音のように重なる無数の声の中に、わずかに違う声が混じっていることに気がつきました。


 柔らかく、湿ったような声。


 男性は夢中で、その声を追いかけます。


 辿り着いた先は——あの紫陽花の咲く家でした。


 庭先では、いつものように小太りの女性が水を与えています。


 女性は振り返り、静かに微笑みました。


「やっと、聞こえるようになったんですね」


 その声もまた、他と同じように、感情のない機械音のように聞こえます。


 女性は足元の鉢植えを持ち上げる。


「これを差し上げますよ」


 男性は、差し出された紫陽花をぼんやりと見つめました。


 その花だけが。


 この世界で唯一、ちゃんと“声”を持っているように感じられたのです。


 


 その日以降。


 男性は、ほとんど部屋から出なくなりました。


 近所の人の話によれば、窓辺に置いた紫陽花へ、毎日静かに話しかけているそうです。


 まるで、誰よりも大切な相手と会話するように。







「……それで、その男性は、花の声しか聞こえなくなったんですか?」


 男は、包まれた紫陽花を見つめながら小さく呟いた。


「どうでしょう」


 女店主は静かに微笑む。


「他の声が聞こえなくなっただけかもしれませんね」


「……え?」


「人は時々、本当に聞かなければいけない声ほど、後回しにしてしまいますから」


 男の指先が、わずかに震える。


「あなたも、そう思ったことはありませんか?」


「……どうして、そんなこと」


「さぁ」


 女店主は眼鏡の位置を直した。


「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」




 その後の帰り道。


 夜風に揺れる紫陽花を抱えながら、男は歩いていた。


 ふと、数日前に見たニュース記事を思い出す。


 一家心中。


 父親、母親、そして2人の子供。


 無理心中だったらしい。


「……あ」


 足が止まる。


 頭の奥に、以前受けた一本の電話が浮かんだ。


 虐待の可能性があるという通報。


 匿名だった。


 緊急性は低いと判断され、後回しになった。


 その後、追加の連絡もなかった。


 だから——忘れていた。


「まさか……」


 記事に書かれていた住所。


 記録に残っていた地域。


 ぼんやりと一致する。


 男は、腕の中の紫陽花を見ることができなかった。


 街灯の下で揺れる花だけが、まるで誰かの声を待っているように見えた。

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