第15話「アサガオ」 次の走者
女は深夜、管理しているマンションへ呼び出されていた。
電話口の住人は、理由も言わず「すぐ来てください」と繰り返すばかり。
何か大きなトラブルでも起きたのかと思い、慌てて向かったものの——
用件は、エントランスの電球が切れたから交換してほしい、というだけ。
交換作業を終えた帰り道、女は小さくため息をついた。
「こんな時間に呼び出すようなことじゃないでしょうに……あれ?」
ふと通りの先に、ぽつりと灯りが見えた。
看板には、「Pantalea」と書かれている。
その下には、色とりどりの花々が静かに並んでいた。
「……そういえば、花壇に何か植えてほしいって言われてたわね」
マンションの住人から、殺風景だから何か花を植えられないかと言われていたことを思い出す。
女は、そのまま店の中へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」
店内では、眼鏡をかけた女店主が花に水を与えていた。
夜だというのに、店の中にはどこか朝露のような匂いが漂っている。
「花壇に植える花を探しているんですけど、何かおすすめはありますか?」
女が尋ねると、女店主は静かに微笑んだ。
「ここには色々な花がありますから。きっと、あなたの目に留まる花もありますよ」
「そういうものですか……」
女は小さく苦笑しながら、店内を見て回る。
様々な花が並ぶ中、一つの鉢植えに目が留まった。
「……アサガオ?」
青紫の花が、夜の店内で静かに咲いている。
「こんな時間にも咲くんですね」
女店主は、その花へ視線を向けた。
「本来は、朝に咲く花なんですけどね」
そう言って、わずかに微笑む。
「……今夜は、あなたに見つけてほしかったのかもしれません」
女は、なぜかその言葉に引っかかりを覚えた。
けれど視線は、アサガオから離せない。
「なら、その花をください」
「かしこまりました。少々、お待ちください」
女店主はアサガオの鉢を抱え、店の奥へと姿を消した。
ほどなくして戻ってきた彼女の手には、丁寧に包まれたアサガオがあった。
「こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
女がアサガオを受け取る。
青紫の花弁が、夜の灯りの下で静かに揺れていた。
その姿を見つめながら、女店主がふと口を開く。
「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」
その女性の趣味は、深夜ラジオを聴くことでした。
毎週欠かさず聴いているお気に入りの番組もあります。
けれど、それ以上に好きなのは、ダイヤルを合わせながら偶然知らない番組を見つけることです。
その夜も、女性はベッドに腰掛けながら、ラジオのダイヤルを合わせます。
雑音混じりの音声が、ふいにクリアになりました。
『さあ、レースもいよいよ佳境です! ただいま○○駅で、××選手がアサガオを受け取りました!』
女性は小さく首をかしげます。
「○○駅……?」
自宅の最寄駅から、三つほど離れた駅名でした。
こんな時間にマラソン大会でもあるのだろうか。
いや、深夜の放送なのだから、きっと昔の録音を流しているだけだろう。
そう思った、そのとき。
『本日○月○日、時刻は午前零時三十七分になりました』
女性は思わずスマートフォンを手に取ります。
表示された時刻は、まったく同じでした。
喉の奥がひゅっと鳴る。
『××選手、○○駅を通過! 続いて△△駅を目指します!』
△△駅。
女性の最寄駅です。
「……偶然、よね」
自分に言い聞かせるように呟く。
ですが、ラジオの実況は止まりません。
『ただいま△△駅を通過! 駅前のコンビニを右折しました!』
女性の背筋に冷たいものが走りました。
そのコンビニは、自宅へ向かう道の途中にあります。
『住宅街に入りました! ゴールはもうすぐです!』
動悸が激しくなる。
耳の奥で、自分の心臓の音が鳴り響く。
女性は慌ててラジオの電源を切ります。
部屋に静寂が訪れる。
けれど、その静寂は一瞬でした。
『さあ、ついに○×マンションが見えてきました!』
「ひっ……!」
誰もつけていないはずのテレビが、突然映り始めたのです。
画面には、夜の闇に浮かぶ自分のマンションが映っている。
女性は悲鳴を上げ、テレビのコンセントを引き抜きました。
画面が消える。
ですが、すぐに別の声が響きました。
『××選手、エントランスを通過! いよいよ階段へ!』
今度は、パソコンのモニターが勝手に点灯しました。
暗い廊下を映す監視カメラのような映像。
そこを、何かがこちらへ近づいてきます。
「いやああっ!」
女性は手近にあった置時計を投げつけました。
モニターが砕け、火花を散らして沈黙する。
しかし。
『さあ、まもなくゴールです』
今度は、枕元に置いたスマートフォンから実況が流れ始めました。
震える手で掴もうとした、その瞬間。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴りました。
『――ただいま、ゴールしました』
女性は悲鳴を飲み込み、そのまま布団の中へ潜り込みます。
耳を塞ぎ、目を閉じる。
それでも、玄関の向こうに何かが立っている気配だけは、朝まで消えませんでした。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む陽の光に、ようやく女性は布団から出ます。
昨夜のことは、悪い夢だったのかもしれない。
そう思いながら、恐る恐る玄関へ向かいます。
ドアスコープを覗く。
誰もいない。
震える指で鍵を開け、ゆっくりと扉を開きました。
そこには、一輪のアサガオが落ちていました。
夜露に濡れた青紫の花弁が、朝日に照らされて静かに揺れている。
その花の下には、小さな白い紙も添えられていました。
そこにはたった一行だけ、こう書かれています。
【次の走者は、あなたです。】
「……その女性は、その後どうなったんですか?」
女は、包まれたアサガオを抱えながら小さく尋ねた。
「どうでしょう」
女店主が静かに微笑む。
「もしかしたら、どこかを走っているのかもしれませんね」
「走る……? 何のために?」
「理由などありません」
女店主は、アサガオへそっと視線を落とす。
「ただ、順番が回ってきただけですから」
「順番……?」
「人は時々、気がつかないうちに、何かを受け取ってしまうことがあります」
穏やかな声だった。
「あなたの手に届いた手紙も、その一つかもしれません」
女の表情が強張る。
「……どうして、それを知ってるんですか?」
「さぁ」
女店主は小さく首を傾げた。
「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」
女は、それ以上何も言えなかった。
アサガオを抱えたまま、静かに店を後にする。
夜風が吹き抜ける帰り道。
ふと、ある出来事が脳裏をよぎった。
管理人室に、一通の手紙が届いていたのだ。
ある一室の家族の子供が、虐待を受けているかもしれない——そんな内容だった。
「……いや、私はちゃんと届けた」
女は自分に言い聞かせるように呟く。
自分ではどうにもできないと思い、児童相談所へ連絡した。
けれど、女の知る限りでは、特別何かが変わった様子はなかった。
そして、その数日後。
その家族は、突然いなくなった。
「私は……届ける場所を間違えたのかな」
視線を落としかけ、女は途中で止める。
どうしても、腕の中のアサガオを見ることができなかった。
青紫の花弁だけが、夜の街灯の下で静かに揺れていた。




