第14話「ロベリア」 想いのない言葉
男は、会社からの帰り道を一人で歩いていた。
終電は、とうに過ぎている。
数日前、同じ部署の男が突然いなくなった。
今日はその後始末に追われていたのだ。
机の中に残された私物。
処理されていない書類。
取引先への謝罪。
最後まで、あの男の尻拭いだった。
「……まったく、最後まで変わらない奴だ」
ため息とともに、自然と愚痴がこぼれる。
早く家に帰りたいはずなのに、足取りは重かった。
ふと顔を上げると、通りの先にぽつりと灯りが見えた。
看板には、「Pantalea」と書かれている。
「こんな時間までやってる店なんてあったか……?」
半ば興味本位で、男は店の中へ足を踏み入れた。
店内には、色とりどりの花々が静かに並んでいる。
甘い香りが漂う中、カウンターの向こうから声がした。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」
眼鏡をかけた女店主が、事務作業の手を止めて微笑んでいた。
「いつも、この時間まで営業しているんですか?」
「えぇ。色々な方がいらっしゃいますので……」
「そうですか」
男は軽く相槌を打ち、店内を見渡す。
そのとき、ひとつの鉢植えに目が留まった。
小さな青紫の花が、こぼれるように咲いている。
「この花……田舎でよく見かけました」
女店主は、その花へ視線を向ける。
「そちらはロベリアです」
小さく微笑みながら、静かに続けた。
「控えめな花ですが、一度根づくと、思っている以上に長く咲き続けるんですよ」
その言葉に、男はわずかに目を細めた。
そういえば、いなくなった同僚も、田舎は同じだと話していたことがある。
もしかすると、この花をどこかで見ていたのかもしれない。
「……じゃあ、この花をください。もう少し小さい鉢に入れてもらえますか?」
「かしこまりました。ご用意いたしますので、少々お待ちください」
女店主はロベリアの鉢を抱え、店の奥へと姿を消した。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、小さな鉢植えに植え替えられ、丁寧に包まれたロベリアがあった。
「こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
男がロベリアを受け取る。
青紫の小さな花々を見つめていると、女店主がふと口を開いた。
「そうそう。この花には、こんなお話があるんですよ」
あるところに、いたずら好きの少年がいました。
田舎の山で、虫を踏みつぶし、花をむしり取って遊ぶのが好きでした。
両親は、そんな少年を見て言いました。
「そんなことをしていると、罰が当たるよ」
少年はしおらしく頭を下げました。
「ごめんなさい」
両親は安心し、優しく許しました。
けれど少年は、こう思ったのです。
――謝れば、何をしても許される。
それから少年は、「ごめんなさい」と笑いながら、虫や花を傷つけるようになりました。
中でも、山に咲くロベリアの花を踏みつけるのが大好きでした。
「ごめんね。ごめんね」
そう言いながら、泥だらけの靴で何度も何度も踏みつけます。
ある日。
山の奥で、一輪のロベリアを見つけました。
踏みつけると、その先にまた一輪。
さらにその先にも、また一輪。
少年は夢中になって、その花を追いかけました。
一輪、また一輪。
踏みつぶしながら、どんどん山の奥へと進んでいきます。
やがて、最後の一輪が見えました。
少年は嬉しそうに飛び上がり、両足で踏みつけようとしました。
その瞬間。
足元から、花が消えました。
少年の身体は宙へ投げ出され、そのまま崖下へと落ちていきます。
転がり落ちる間。
少年の耳には、あちこちから無数の声が聞こえました。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
その声は、泣いているようでもあり、笑っているようでもあったそうです。
「……因果応報、ってことですか」
男は、手の中のロベリアを見つめたまま、小さく鼻を鳴らす。
「どう受け取るかは、あなた次第です」
女店主は、眼鏡の奥で静かに微笑んだ。
男は肩をすくめる。
「さすがに、そんな都合よく罰なんて当たりませんよ」
そう言いながらも、指先に込める力がわずかに強くなる。
「……どうして、こんな話を?」
男が尋ねると、女店主はロベリアに目を落とした。
「言葉そのものに、特別な意味はありません」
女店主が眼鏡の縁をなぞる。
「大切なのは、その言葉にどんな想いが込められていたのか——それだけです」
男は息を呑む。
同僚の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
口先だけの謝罪と感謝。
最後まで、あの男は何ひとつ本気で向き合おうとはしなかった。結局、無責任なところも変わらないまま、いなくなってしまった。
「謝罪にも、花にも、想いがなければ根づきませんから」
「いったい、どこでそれを……?」
「さぁ」
女店主が顔を上げ、微笑む。
「お気になさらないでください。ただの、どこにでもあるお話ですから……」
男は気まずそうに視線を逸らし、店を出て、夜道を歩き始めた。
ロベリアの入った袋が、手の中で小さく揺れる。
その姿は、まるで。
一度も本当の想いを伝えられないまま、静かに咲き続けているようにも見えた。




