残照
離れてから数年経つというのに、ブレンダの目にはまるで様子が変わらないように見えた。
「息災だったか?」
低く柔らかな口調もその中に含まれるいたわりも。道が分かたれてから、距離はどうしようもなく離れているのに。
即座にあの頃の感情が押し寄せる。ブレンダは刺すような痛みを感じた。
修道院に身を置くようになってから、ブレンダの生活は一変した。
それまで何もしなくてもかまわなかった身の上から、全てを自身でこなす毎日に。父が罪を問われ家も潰され、城から追われた。事態がよく飲み込めないまま、気付けば粗末な修道院の部屋にいた。
着るものも肌触りの悪い下着に装飾の全くない修道服で、誰も着替えに手を貸してくれない。どうやって着ればよいのか分からない様子のブレンダを見かねて、修道女が手伝ってくれたもののそれも最初だけで、あとは自分で脱ぎ着するしかなかった。
掃除も洗濯も、食事の支度も後片付けも、寝具を整えるのすら自分でやらないと誰もやってくれない。
修道女達はある意味容赦がなかった。寝台に身を投げかけて泣き崩れるブレンダをせかして、日々のつとめを行わせた。
水を汲み、掃除をして、朝の礼拝をする。交代で食事の支度と片付けをして洗濯、神への奉仕と称した活動や他の人の世話。修道院の裏手の畑で作っている作物の世話もしなければならない。
ブレンダは出してはもらえなかったが買い物などもあり、昼食、午後の作業、礼拝、夕食と規則正しく行われる。
侯爵令嬢として、側妃として、王妃も目前だったブレンダにとっては、急転直下ともいえる過酷な境遇だった。
狭く粗末な部屋に顔をしかめ、身につけるのはかつて想像もしなかった修道服。誰も世話をしてくれずに、追い立てられるように作業ばかりはきりがない。
ブレンダは己の境遇を嘆いた。
「なぜ私がこんな目に」
ただ泣いてもわめいても待遇が変わるわけではない。悟ってからは諦めが少しずつ嘆きに取って代わり、ブレンダも見よう見まねながら自分の手を使って日々を過ごすことになっていく。
美しかった手は荒れて、一層の物悲しさを伝えてくる。かつては国内で女性としては第二の地位にいたのに、なんという転落ぶりかとひたすらに悲しかった。暑さ寒さも容赦がなく、避寒などもってのほかでブレンダはひたすら修道院での毎日を送らざるをえなかった。
そんな中でも国内の話題というのは耳に入ってくるもので、世継ぎが生まれたことを聞かされた。目の前が真っ暗になる。どう過ごしたか気付かないうちに、ブレンダは寝台の中で体を丸めていた。
世継ぎの御子。ブレンダ自身も切望し、一時は実現したかに見えた懐妊を王妃が果たし、無事に出産までこぎつけたのだ。
なんという違い。
きっとあの豪奢な城内で気持ちのよい寝台に横たわって、王妃はあまたの祝福を受けているに違いない。何人でも寝られそうな広い寝台、なめらかに肌に馴染む寝具。細心の注意を払われて供される食べ物や飲み物。
なにより国王陛下の関心と愛情を独り占めにしているに違いない、女性として最高に幸せな状況にいるだろう王妃。
まざまざと思い浮かべることができる。それに比べて自分の惨めさはどうだろう。
処刑こそされなかったが罪人の身内ということで、こんな場所に閉じ込められている。幾度季節がめぐろうと、決して解放はされず元には戻れない。
ブレンダはその夜、久しぶりに泣いた。嗚咽は朝までとめることができなかった。
泣き明かしてぼうっとした頭と腫れた目で、それでもいつもと同じ朝がきた。
「この世の終わりと思っても、朝は来るのね」
ブレンダはのろのろと起き上がって修道服に袖を通した。
また同じような毎日が始まる。淡々と過ぎ行くようなそんな日々の中で、ブレンダはまごつかずに作業を行うことができるようになっていた。
二人目の御子が生まれた話を聞いても、あまり心が波立たなかった。
そんな中で、修道院は国王のお忍びの訪問を受けたのだ。
院長から内密に呼ばれて入った部屋で、窓から外を眺めている後姿を目にしただけで、心臓が苦しいほどに早く鼓動を刻みだす。どれほど経とうと忘れられるはずもない。ブレンダの唯一にして絶対の相手だった。
人の気配に振り返ったその顔も、年月を感じさせなかった。
ランドルフの抑えてはいても上質な服の前に、自分の粗末な修道服がたまらなく恥ずかしく、ブレンダは無意識に袖を引っ張っていた。
なぜここに現れたのだろう。ランドルフの意図をはかりかねて、ブレンダは落ち着かなかった。
「息災か?」
「……はい」
質問に喉になにかが絡んだような声でどうにかこたえて、ブレンダはすすめられるままにランドルフの向かいに腰を下ろした。
「視察のためにこちらに来る用があったので、足をのばしたのだ」
「そうでしたか。陛下にはお変わりなく?」
「ああ」
それきり沈黙が落ちる。ブレンダからは何をどう言っても空々しくなりそうで、口をつぐんだ。変わりはあるに決まっている。王妃とは仲睦まじく、御子にも恵まれて国は安定し政を行っている。
惨めな姿を笑いに来たのだろうか。自虐のあまりそんな考えすら浮かんでいた。
「ここで、不自由はないか?」
「不自由? ここに、私に自由なぞありはしません」
ブレンダはあまりの陳腐さに笑いそうになった。自由などありはしない。押し込められ、監視もされて過ごす日々のどこに自由があるというのか。
辛く苦しく粗末な毎日は、不自由だらけだというのに。
ブレンダの刺すような眼差しを、ランドルフは静かに受け止めた。
「そなたは、まだ分かっておらぬのか」
「何をです」
「生きているだけでそなたは自由なのだ。ここにいるからこそ命の危険もなく、身体的な刑罰も精神的な懲罰もないのだ」
父の犯した罪を思うとその通りなので、ブレンダは唇を噛む。処刑されなかっただけでもありがたいのだろう。特に側妃だった自分は生かしておくほうがなにかと厄介なことも、本当は分かっている。
修道院に預けられたのは国王陛下、ランドルフの温情によるものだということも。
それでもあまりにも境遇が変わりすぎて、ブレンダには受け入れられない。ランドルフによって、かつての日々を思い出してしまえばなおさらだ。
自己憐憫にひたっていたブレンダは、ランドルフの問いかけに顔を上げた。
「そなたの望みは王妃になることだったか。王妃になってどうしたかった?」
「陛下のお側で、子供を産んで……」
「それから?」
それから? 城内で絶対の地位を手に入れて国母になって、いつまでも陛下の隣にいたかった。
ランドルフはブレンダの考えていることが分かったのだろう。じっと見つめたまま言葉を紡ぐ。
「王妃になることは最終ではない。むしろそこから始まるのだ。王妃は、クリスティーナは承知していて王妃の務めを果たした。あの頃は氷の王妃と呼ばれて、けして歓迎されていなかった時期だ。それでも義務を自覚していた。
王妃はただ側にあるだけではない。私になにかあれば国を支える。そのために己を殺すことも曲げることも厭わない。――そなたはそれをできただろうか」
取り巻きに囲まれて王妃の悪口を笑顔でたしなめながら、ランドルフの歓心を買うことだけに腐心していた日々を思う。
「クリスティーナは流産の後に王妃をおりることを想定して、公務の傍らで慈善事業と称した行動をおこした。そなたの父の罪が露見しなければ、修道女になっていたのは王妃の方だ。
一度、孤児院にいる王妃を見たが、王妃でありながら食事の支度をして片付けを手伝っていた。自分で何でもやろうとしていたのだ」
ブレンダは当時を思い出して、ぎゅっと膝の上で手を握り締めた。王妃が、王妃の地位にあって下女のような振る舞いをする。取り巻きの間では嘲笑の種にしかならなかった。
それが父の犯した罪のために苦しんでいた中での決断と行動であったのなら、どんなに悲壮な覚悟だったのだろう。
「そなたは王妃になるまでが目標だった。王妃は、その後も見据えていた。その違いをよく考えて欲しい。私はそなたを死なせるのはしのびなかった。
生きていればこそ得るものがあることを、分かってほしいのだ」
ブレンダが何もいえないうちに、ランドルフは時間だからと修道院から去っていった。
静かに扉が開いて院長が入ってきた。ブレンダの隣に座って、そっと肩を抱く。
「院長、様。私は、どうすれば、いいのでしょう」
「日々を誠実に過ごすのです。神に祈るのです」
「でも苦しいのです。どろどろとした思いが消えないのです」
「いいのですよ。悩んで苦しんで、そしてつかんだものがあなたの大切な思いになるのです」
院長の胸で涙をこぼしながら、ブレンダはいつかこの思いが昇華されるのだろうか、いつか静かな気持ちでランドルフとクリスティーナの幸せを祈るようなそんな日が来るのだろうかと、ただただ疑問に思った。
胸に疼く、この想いが消え去る日が来るのだろうか。
ランドルフは城に戻り、まっすぐに王妃の間へと向かった。クリスティーナは久しぶりの夫の姿に微笑んで、柔らかな抱擁に目を閉じる。
「具合はどうだ」
「元気な子のようで、たくさん蹴られます」
ランドルフはクリスティーナの腹部に手を当てて、ゆっくりと撫でる。
クリスティーナを促して長椅子に座った。
「視察のついでに修道院のブレンダに会ってきた。元気そうだった」
「……そうでしたか」
言葉少なに語るランドルフに、クリスティーナもそれ以上は聞かなかった。ランドルフがブレンダの様子を密かに報告させているのは気付いていた。クリスティーナは慈善事業に力を入れているので、ブレンダのいる修道院にも密かに援助をしている。
ランドルフなりのけじめなのか。それ以外の意図があるのか。
ただ、クリスティーナに追求するつもりはない。
ふと窓の外に目をやると、日は沈んでいたが夕映えは残っていた。その色は燠火のようにくすぶる、ランドルフのブレンダへの想いのようでもあった。
美しく快活で素直で優しくのびやかな、確かにあの頃のランドルフの心を捉えていたブレンダを、クリスティーナは思う。ランドルフを挟んで合わせ鏡のような彼女は、もう一人の自分であり、たどったかもしれない未来の姿なのだ。
今の幸せは、誰かの様々な思いの上で成り立っていることを忘れてはならない。驕れば、その瞬間にひび割れて崩れてしまうのだ。
クリスティーナは、ランドルフの手にそっと自分の手を重ねた。
残照は夕闇にその色を失いつつある。ただ、物悲しい色合いはひどく美しいものとして、クリスティーナの目に映った。
『氷の王妃』は完結です。ありがとうございました。