第六章:過飾の解体とキャンバスの明日
第六章:過飾の解体とキャンバスの明日
夜の帳が下りたウィーンの街。
三人が向かったのは、旧市街の古い宮殿の地下深くに存在する「秘密の錬金術サロン」の入口だった。
「兄貴……ポルページさんを連れてきちゃって、本当に大丈夫だったのかな?」
人間の姿となったゲブが、ダボダボの上着の袖をギュッと握りしめながら尋ねる。
「ああ。多少不安はあるがアトリエや画廊に残すより、僕たちの目の届く場所にいてもらう方が安全だ。それに……ポルページさんの言葉には、いつだって僕たちの予想を超える真実が隠れているからね」
リュシアンはハインリヒに教わった隠し扉のノックの暗号を打ち込んだ。
——ゴゴゴ……!
重厚な石組みの扉が地鳴りのような音を立ててゆっくりと開き、目の前に現れたのは、パリのオペラ座地下を遥かに凌駕する、過剰な金箔と絢爛豪華な装飾で埋め尽くされた巨大な密室サロンだった。
サロンの壁という壁、頭上を覆うドーム状の天井、そして空間を支える幾本もの巨大な石柱に至るまで、厚い金箔と魔術的な結晶絵の具によって容赦なく塗り潰されている。室内には怪しく冷たい金の光が満ち、セーヌ川の湿気とは異質の、甘く重い金属の匂いと古書の匂いが不気味に充満していた。
奥に鎮座する眩い黄金の玉座。そこには金糸のタキシードを纏い、狂気じみた高笑いを浮かべる男——ギュスターヴ・クリムージュがいた。
「クハハハ! よくぞここまで辿り着いたな、パリの泥臭い修復士め! ようこそ、我が『黄金の絶対至高領域』へ!」
クリムージュの周囲には、無数の「人影」が立ち並んでいた。かつてウィーンの芸術界を牛耳っていた富裕層のパトロンや、彼の過飾の美学に心酔したコレクターたちだ。だが彼らの皮膚やドレスはすでに冷たい金の絵の具によって硬化させられ、瞬きひとつ、呼吸ひとつ許されない「生きる彫像」として、歪んだ美学の犠牲者となり果てていた。
「……ポルページさん、僕の後ろに!」
ゲブがダボダボの上着の袖を大きく広げ、ポルページを庇うように前に出る。だが、記憶を失った元師匠は恐れる様子もなく、無邪気な瞳で空間全体をじっと見つめていた。
ポルページは抱えた古いスケッチブックにするすると筆を走らせながら、小さく首を傾げた。
「……不思議だねぇ。この金ピカのお部屋、ぜんぶ『嘘の線』で描かれてるよぉ」
「嘘の線……? ポルページさん、どういうことですか?」
リュシアンが問いかけると、ポルページはスケッチブックのページをクリムージュの方へと向け、無邪気な笑顔で指差した。
「ほら、見てごらんリュシアン。あの大きな柱の金ピカ、表面はまっすぐに見えるけど、一番下の部分だけ絵の具がぶくぶくって泡を吹いて膨らんでるだろう? あそこの石ころ、昔からずっと冷たいお水を飲んで、外に出たがって『苦しいよぉ』って泣いてるんだぁ!」
「……! なんだと……!?」
クリムージュの高笑いがピタリと止まり、紫のシルクハットの下の瞳が驚愕に揺れた。
ポルページが指さした柱の基部——そこはクリムージュが完璧に装飾したと信じ込んでいた、サロンの最大荷重を支える『隠された構造の亀裂』だった。かつて「黒き美の王」として君臨した男の、失われてなお冴え渡る芸術の直感(本質を見抜く眼)が、過飾の奥に潜む致命的な欠陥を一瞬で見破ったのだ。
「流石は僕の師匠だ……! ポルページさん、ありがとう!」
リュシアンの「修復士の目」とポルページの「天才の直感」が一つに噛み合う。
「そこまでだ、クリムージュ! お前が創り上げたこの黄金のサロンも、塗り潰されたウィーンの建造物も……すべて表面だけのハリボテだ!」
「戯れ言を! 傷や老い、不完全さなど醜悪な負債に過ぎん! 時間の経過とともに朽ちていく肉体も建造物も、私の圧倒的な黄金の被膜で覆い隠せば、永遠に色褪せることのない絶対の芸術へと昇華するのだ!」
「たとえどれほど美しく見えようと、中に生きる者の息の根を止めてしまえば、それは芸術ではなくただの『死の標本』だ! 時間がもたらす傷や風化こそが、作品が紡いできた歴史そのものなんだよ!」
「いいや、違うね!」
ゲブが前に躍り出ると、ダボダボの袖を巻き上げて叫んだ。
「傷があるから、不揃いだから愛おしいんだ! お前が塗ってる金ピカのやつなんて、中身が息できなくなったら全部ペロンって剥がれちゃうんだぞ!」
「黙れ……黙れええっ!! 私の美学は完璧だ! 傷も老いも、金で隠せば永遠になるのだ!!」
「目を醒ませ、クリムージュ! 完璧という名の檻で美を殺すお前の傲慢さを、僕たち修復士が今ここで解体してみせる!」
激昂したクリムージュが手に持った重厚な金の杖を振り上げ、幾何学の鋭い黄金の結晶線をリュシアンたちへ向けて解き放つ。
「兄貴、ポルページさんの言った通りだ! あの柱の根元から、水と膨張の匂いが破裂しそうに漏れ出してる!」
ゲブの鋭い鼻がその場所を特定し、リュシアンは定着油を塗った修復ナイフを構えて全速力で踏み込んだ。
「ポルページさんが見抜いてくれた! お前の『完璧』の破綻は、そこだ!!」
リュシアンのナイフが、ポルページの指し示した柱の根元の「絵の具の気泡(歪みの起点)」へと一直線に突きたてられた。
——ミシ……ミシシシ……!
「な……なに!? 黄金の結晶が……割れていく……!?」
解体された歪みから、封じ込められていた石造りの湿気と空気が爆発的に膨張を開始する。
「ゲブ、今だ!」
「うんっ! ポルページさんと兄貴が繋いでくれたチャンス、僕が決める!」
ゲブはポケットからパリのアトリエから持ち続けていた「不揃いな石ころ」を取り出し、驚異的な跳躍で空間を駆け抜けると、ポルページが指さしたまさにそのクラック(裂け目)へ向けて、全身の力を込めて石を叩き込んだ!
——パキィィィンッ!!!!
幾重にも重なるガラスの砕裂音が密室サロン全体に激しく轟いた。
一箇所のクラックに撃ち込まれた不揃いな衝撃が引き金となり、内部に溜まっていた巨大な圧力が炸裂。サロン全体を覆っていた凶暴で冷たい金箔が、ペリペリと音を立てて爆発的に剥がれ落ちていく!
「あああ……私の金が! 私の完璧な美がぁぁぁ!!」
金箔に覆われていたパトロンたちも被膜が砕け散ると同時に息を吹き返し、人々の手に温もりが戻っていく。剥がれ落ちた黄金の粉塵の向こうから現れたのは、何百年もの歴史を刻んできた、ありのままの素朴で美しい生の石組みの壁だった。
「そんな……あんな無邪気な老人の一言と、歪んだ石ころが……私の黄金を打ち砕いたというのか……」
「そうだ。完璧な金箔よりも、風化した傷痕や小さな石ころの方がずっと力強い。——命を宿し、時間を生きてきた『本物』だからだ」
リュシアンは修復ナイフを鞘へ静かに収めると、膝をつくクリムージュをまっすぐに見おろし、毅然とした声で言った。
クリムージュは膝から崩れ落ち、崩落した金箔の破片の中で絶望に打ちひしがれた。
リュシアンは静かにナイフを納め、ポルページの手を優しく取った。
「ポルページさん、あなたの目が僕たちを救ってくれました」
「おやぁ? 僕はね、ただ絵の具たちが『風に当たりたいよぁ』って言ってるのを通訳しただけだよぉ!」
ポルページは無邪気に笑いながら、スケッチブックに生の石壁と三人で微笑み合う温かい絵を、楽しそうに描き足すのだった。
事件が解決し、幾何学の金箔が完全に剥がれ去ったウィーンの街角頭には、澄み切った秋の風が吹き抜けていた。
ハインリヒ画廊の小さなカフェスペース。
テーブルの上には、旅の無事を祝う熱い珈琲と焼き立てのクッキーが並べられている。
「ふむ……まさかあのクリムージュの過飾の密室を、絵の具の膨張率と一粒の石ころだけで打ち砕いてしまうとはな。リュシアン、君の父親も天国で誇りに思っているよ」
ハインリヒ老人が丸眼鏡の位置を直しながら、感心したように微笑んだ。
「いいえ、ハインリヒさん。僕ひとりの力じゃありません。僕の隣に、最高に頼もしい相棒と、偉大な師匠がいてくれたからです」
リュシアンが視線を向けると、ポルページは口元にクッキーの粉をつけながら、嬉しそうに新しいスケッチブックを広げていた。
「見て見て、リュシアン! ウィーンの街の絵が描けたよぁ! 金ピカの鎧が脱げちゃって、中の古い石ころたちが『ふう、気持ちいい風だねぇ』って笑ってる絵なんだよ!」
そのスケッチには、傷や亀裂をありのままに抱えながらも、生き生きと光を反射させるウィーンの美しき街並みが描かれていた。
「へへっ、いい絵だねポルページさん! でも、僕の顔はもっとかっこよく描いてよ!」
ゲブがダボダボの上着の袖を巻き上げ、ポルページの肩を覗き込んで笑う。
緑色の皮膚や尖った耳を失い、人間の少年の体となっても、その無垢で温かい魂は何も変わっていない。
「さあ、二人とも。そろそろパリのアトリエへ帰ろう」
リュシアンは修復ナイフをしっかりと鞄に収め、愛おしい家族のような二人を見つめた。
不完全だからこそ美しく、傷があるからこそ愛おしい。
偽りの黄金を剥ぎ取った先に広がる本物の世界を抱きしめながら、リュシアン、ゲブ、そしてポルページの三人は、再びセーヌの川辺に佇むモンマルトルのアトリエへと帰路に就くのだった。




