エピローグ:刻まれた傷と再生の筆
エピローグ:刻まれた傷と再生の筆
パリへ戻って数週間が過ぎた、ある雨の午後のことだった。
アトリエでは、受肉したゲブが大きすぎる黒銀の上着の袖をまくり上げ、リュシアンの傍らで熱心に修復用キャンバスの裏打ち作業を手伝っていた。
「兄貴、このニカワの濃度、これくらいで合ってる?」
「ああ、ばっちりだ。手際がよくなったな、ゲブ」
「へへっ、だって僕は兄貴の助手で、自慢の弟だからね!」
弾むような兄弟の会話が響くアトリエの隅で、いつもなら無邪気に砂糖菓子をかじっているはずのジョルジュ・ポルページが、ぽつんと静まり返っていた。
彼の手から、ポロリと一本の古い細筆が床へ落ちた。
「……ポルページさん?」
リュシアンが振り返ると、ポルページは自らの震える両手を見つめ、青ざめた顔で窓の外の雨を見つめていた。その瞳には、ウィーンまでの「無垢で抜けのあった老絵描き」の光はなく、底知れぬ困惑と痛切な色の揺らぎが宿っていた。
「……私は……何をしていたんだ……?」
ポルページの口から漏れ出たのは、掠れた、だがどこかかつての品位を取り戻しつつある重い声だった。
「ポルページさん……記憶が……?」
「リュシアン……。私は……完璧な美などという幻影に囚われ、お前の人生を壊し……この街を、あの美しき異世界を……幾何学の冷たい結晶で凍りつかせようとしていたのか……?」
パリの空気、アトリエに漂う油絵の具の匂い、そしてリュシアンとゲブが見せた「傷や不完全さを受け入れる修復の温もり」。それらが引き金となり、失われていた「黒き美の王」としての記憶が、彼の脳裏に津波のように押し寄せていたのだ。
ポルページは両手で顔を覆い、深く、深く肩を震わせた。
「なんという……恐ろしい醜悪さを撒き散らしていたのだ、私は……。傷を拒み、変化を恐れ、美の名のもとに命を殺ぎ落としていた……。クリムージュの過剰な金箔を笑う資格など、私にはどこにもなかった……!」
かつて絶対的な美学を誇り、他者を冷酷に見下していた男が、自らの犯した罪の重さと歪みに打ちのめされ、涙を流して悔いている。
ゲブは驚いて大きすぎる袖を握りしめ、リュシアンの顔を見上げた。
リュシアンは静かに歩み寄り、床に落ちた筆を拾い上げると、震えるポルページの手に優しく握らせた。
「……元師匠。過去に刻んでしまった傷や過ちは、金箔で塗り潰して消すことはできません」
ポルページが涙に濡れた顔を上げる。
「ですが……修復士は、ついた傷を無かったことにはしない。その傷痕すらも作品の歴史として受け止め、これ以上崩れないように支え、未来へ繋ぐんです」
リュシアンはあたたかな眼差しで、失意の師を見つめた。
「あんたが犯した罪も、失った魔力も消えはしない。でも……今のあんたには、あのウィーンの旅で僕たちを助けてくれた、純粋に美を愛でる眼がある。これからはその筆で、やり直せばいい」
「リュシアン……」
「僕も手伝うよ、ポルページさん!」
ゲブが笑顔で駆け寄り、ポケットから大事な「不揃いな石ころ」を取り出してポルページの手に握らせた。
「不揃いでも、傷があっても、ぜんぶ一緒に直していけばいいんだから!」
手のひらに伝わる不揃いな石の温もりと、幼き兄弟のまっすぐな光。
ポルページは溢れ出る涙を拭いもせず、握らされた筆と石ころを強く、強く握りしめた。
「……ありがとう、リュシアン、ゲブ……。私に……もう一度、筆を握る許しをくれるのだね……」
アトリエの窓から雨が上がり、柔らかなパリの木漏れ日がキャンバスを照らし出す。
失われた記憶、刻まれた傷痕、そして上書きされた新たな絆。
過飾の黄金を超えて辿り着いた彼らの物語は、本物の「修復」という未来へ向かって、静かに紡がれ続けていくのだった。




